騎士王の影武者   作:sabu

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 3歩進んで3歩下がってを繰り返して、ふとした時に4歩進む。
 そんな絶妙な関係性が好き。
 そして、そんな関係性が文章に滲み出てる様な心理描写を書いていきたいんだぜ。
 


第25話 錆色の黄金

 

 

 

 ———ケイ兄さんっ!

 

 

 

 

 

 幼い少女が親愛を込めながら、自分の名前を呼んでいた。

 鄙びた地での生活でも、一切輝きを失わなかった黄金の髪を揺らし、胸を張りながら満開の花の様な笑みを浮かべて。

 

 

 一瞬で分かる——これは夢だ。

 

 

 何故なら、彼女はもう、そんな笑みを見せないから。

 彼女はもう、少女ではなく、王になってしまったから。

 

 彼女は笑わない。

 そのような事は自分には許されないのだと、己を罰して縛りつける様に。

 彼女が笑うのは、ほんの一瞬、ほんのひとときだけ。

 彼女は人々が幸福である事を見て、嬉しそうに、静かに微笑むのだ。

 ……そう、なってしまった。

 

 

 

 

 

 ———ケイ兄さん

 

 

 

 

 

 少しだけ成長した彼女が、信頼する人物の名を告げる様にその名前を口にする。

 兄として弟の教訓になれ。

 その言葉は、初めて黄金を見たあの日の出来事と一緒になって、明確に覚えている。

 ……果たして、自分は何かの教訓になったのだろうか。

 もしかしたら、自分など居なくても、妹は妹らしくあったかもしれない。

 

 

 

 

 

 ———ケイ卿

 

 

 

 

 

 人の心を持っていては、人々を救えない。

 本当に"人間ではないモノ"になってしまったかの様に、いつもの少女らしい甘さを捨て去り、黄金の宝剣を引き抜いて王という立場になった彼女が、自らの騎士に告げる様にその名を口にする。

 いや……その呼び方は本当にこの日からだったか……?

 

 分からない。思い出せない。

 妹が、兄さんと呼ばなくなり始めたのはいつからだ……?

 

 

 

 

 

 ———ケイ卿

 

 

 

 

 

 うるさい。うるさい。うるさい。

 今、思い出そうとしているんだ。話かけるな。

 

 

 

 

 

 ———ケイ卿

 

 

 

 

 

 やめろ。

 その名前で呼ぶのをやめろ。

 その冷たい呼び方をやめろ。

 

 

 

 

 

 ———ケイ卿

 

 

 

 

 

 黙れ。黙れ。黙れ。

 その響きを聞きたくない。

 

 

 

 

 

 ———ケイ卿

 

 

 

 

 

 ………………………………

 

 

 

 

 

 

 ———ケイ卿

 

 

 

 

 

 ……うるせぇッッ!! その名前で俺を呼ぶなッッ!! 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ———はぁ?

 

 

 

 黒いバイザーで顔を隠した、薄い金髪の子供が目の前にいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………」

 

「……………………」

 

 

 

 夢現でぼやけていた思考が一瞬で覚醒する。

 少女は呆れて硬直したまま、寝台に横になっているケイを見下ろしていた。

 もしかしたら、彼女はバイザーの裏で冷ややかな目をしていたかもしれない。

 そう思えるくらいに、彼女の佇まいは凍える程冷たかった。

 

 

 

「——あぁ申し訳ありません。

 さっぱり起きない貴方に声をかけて起こすのは非常に迷惑だった様ですね。

 次からは、うるさくならないように起こします」

 

「…………………」

 

「ですがどうしましょう……? 貴方の名前を呼ばずに貴方を一瞬で起こす……?

 あぁ。良い方法を思い付きました。次からは思いっきり蹴り飛ばして起こしましょうか」

 

 

 

 星の光を束ねたが如く煌めく黄金の輝きはそこにはなかった。

 代わりに宵闇に淡く輝く月光の様な輝きが、揺れている。

 その淡い黄金を、寝台の真横にある窓から差し込む暖かな日差しが、きめ細やかな髪の毛一本一本が分かる様に、金砂に照らしていた。

 

 少女は嫌味らしい表情を隠すことなく、唯一見える口元に見下す様な冷笑を浮かべる。

 そのまま、嘲るように芝居がかった口調で少女は続けた。

 

 

 

「いや、それは不味いかもしれませんね。

 あまりにも貧弱な貴方の身体を蹴り飛ばしてしまっては、もう二度と目を覚さなくなってしまうかもしれない。顔に水をかけた方が良いのでしょうか……あぁ、でも。貴方相手にいちいち水を消費するのも勿体無い。

 はぁ……一体どうすればいいのか……」

 

「悪かった……俺が悪かったから」

 

 

 

 ここまで来ると、その慇懃無礼はいっそ清々しい。

 誰でも分かるくらいに少女は不機嫌だった。

 

 

 

「…………フン」

 

「………………」

 

 

 

 口煩いケイ卿が誤魔化す事などせず、素直に謝罪の言葉を口にしたという事に多少は溜飲を下げたのか、吐き捨てる様に鼻を鳴らして視線を切る。

 

 ケイ卿が睡眠から目を覚ましたので自分のやる事はなくなった、と判断して、少女はその一室に備えられていた長椅子にボスッと荒々しく腰掛ける。

 まだ、彼女は不機嫌だった。

 

 

 

「なぁ……そういえばオレ、床で寝ていたと思うんだが。なんでベッドで寝てんだ……」

 

 

 

 古城での一件が一応は一段落した後に、すぐさまキャメロットに帰還しようとした彼らだったが、気を利かせた復興側の衛兵と騎士達は、彼らにこの町に滞在するよう進め、宿の手配も進めた。

 

 キャメロットに戻って、本格的な調査をする為に粛正騎士隊に依頼をして、当事者である彼らは、またこの町に戻ってこなくてはならない。

 往復で約二週間。

 ゴール国の騎士達は、旧国の不正を止めた彼らにまた手間をかけさせたくはないと、改めて歓迎の意思を示した。

 

 この国そのものに、あまり良い感情を抱いていなかった二人だが、謝罪と最大級の感謝を見せたその人物に、不審な点や佇まいが一切なかった事に気付いた二人は、騎士達の誠意に甘える事にした。

 念には念を入れて、二週間で効果が切れるようにしたケイ卿の書状を手渡して、この国の騎士をキャメロットまで飛ばしたのが先日の事だ。

 

 肉体的にも精神的にも疲労していた二人は、手配されていた宿でさっさと休息を取る事にした。勿論寝台は二つ有ったが——ケイ卿は従者である子供の隣で寝る事を拒否した。

 

 自分は大して動いてもいないし戦闘をしたのはお前の方だからと子供に一方的に告げて、長椅子に寝そべった。

 二つ分の寝台を使って好きに眠れば良いとも言って。

 子供——少女の方も、自分は従者という立場なのだから自分だけ寝台に眠るのはおかしいと、ケイの言い分に返す事はなく、自分の身体は小さいから二つ分の寝台は要らないと告げる事も、隠している性別故に——当たり前の事だがしなかった。

 

 つまりは、ケイは寝台ではなく長椅子で目覚めなければならない。彼も、少女は頭に毛布をかぶって、頭の部分を隠す様に丸まって寝ていたという記憶がある。

 しかし、目覚めた時には彼は寝台にいた。しかもご丁寧に毛布までかけられている。

 

 

 

「あぁそれは、私がケイ卿を運びました。

 四時間程前に起きて、もうベッドを使わないので、ケイ卿を長椅子に寝かしたままにするのはなぁ、と。ここの長椅子で寝るよりは、ちゃんとした寝台で睡眠を取った方がいいでしょうし」

 

「…………運んだって、どうやってだ……」

 

「いやどう運んだって言われましても、こう……膝と肩を」

 

 

 

 少女は両腕で掬う様な動作を、胸の辺りで行った。

 そして、ケイは少女の言葉とその動作を見て、自分がどのような運ばれ方をしたのか寸分の狂いなく正確に理解する。

 

 

 

「……………」

 

 

 

 俗に言う、お姫様抱っこ。それで運ばれたのだと。

 ケイの顔が、苦虫を噛み潰したような表情で凝固する。

 その表情を見た少女は、彼の心情を正確に理解したのか、ニヤニヤと勝ち誇る様な冷笑を浮かべて、ケイ卿を揶揄する。

 

 

 

「——あぁ、いい歳をした大の大人が、十歳にもならない幼子に抱き抱えられて運ばれるなどとは、大層お笑い事でしたね。もしもその場に他の円卓の騎士達がいたら、きっとさらに面白くなっていた事でしょう」

 

「いつか、テメェぶん殴ってやる」

 

「どうぞ? 出来るものなら。

 貴方が私に殴りかかろうと手を振り上げたその瞬間には、私は貴方をぶん殴れるので」

 

「テメェ……」

 

 

 

 気分を良くしたのか、口元を手で覆い隠しながら嫌味ったらしく、少女はクスクスと笑う。

 十にもならない子供の癖に、魔女がやる様な嘲笑い方が良く似合っていた。

 

 自分のペースを完全に握る事に成功した彼女は、もう手に負えないと、これまでの言い合いでケイは嫌になるほど知っている。

 それ以上言い合っても、自分が一方的に負けるだけだと悟り、ケイは追求をやめて話を変える事にした。

 

 

 

「というか、四時間前に起きた? そんなに早く起きて何してんだお前は」

 

「探ってました。色々」

 

 

 

 昨夜強引に使い込んで、まともに磨いていなかった宝剣の事を思い出した少女は、懐から二つの宝剣を取り出して丁寧に磨き始める。

 その傍らに、まるでなんでもない事の様に少女は語り始めた。

 

 

 

「とりあえず端的に言うと、思わずこの国に滞在する事になってしまったこの二週間は充分に安全が保障されていますよ。多分ですが」

 

「どういう事だ」

 

「それなりの人数に聞き込んだのですが、まずは町全体から見て私達は歓迎されていました。知らない所で進んでいた町の不正を止めてくれてありがとう、と。

 再建派の騎士達も同様。結構な感謝を貰いました。嘘をついてる感じもしません。

 そして意外な事に、旧ゴール国の騎士達もそれなりに感謝しているらしいですね。

 アーサー王に対して弓を引いたのは一部なだけであって、旧ゴール国の騎士全てが叛逆を企ていた訳ではないのだと。このまま暴走を続けていたら、きっと自分達まで要らぬ戦争に巻き込まれていただろうから、止めてくれてありがとうと。

 まぁ間違いなく、しばらくは旧ゴール国の騎士は肩身の狭い思いをし、要らぬ疑いの目をかけられる事でしょうね。さらには後々来る粛正騎士隊にかなり絞られる事になると思いますが、流石にそこまではどうにも出来ませんし、しょうがない事でしょう」

 

 

 

 少女は剣を磨きながら淡々と語るが、簡単に分かる様な事ではない事は明らかだった。

 本当にこの四時間、ずっと聞き込みをしていたのだろう。

 しかも、起きている人の方が少ないだろう早朝真っ只中から。

 

 

 

「お前……本当に疲れ取れてんのか……?」

 

「三、四時間眠れば、疲れは取れるタイプなので。若者の特権ですね」

 

「早速疲れを溜め込んでたら意味がないだろうが」

 

「別にそうでもありません。

 特に頭を回す必要もありませんでしたし、質問して答えて貰ってそれで終わりですから。

 良い感じに目が覚めました」

 

「………………」

 

 

 

 何でもない事の様に語る通り、少女に取っては大して苦でもない事だったのだろう。

 だからと言って、はいそうですかと流せるような事はケイには出来なかった。

 

 しかし、そんな簡単に少女を説得出来るとも思えなかった。悪い事をしている訳でもなく、むしろ得をしている。だからこそ、手が負えない。

 嫌悪感を正しく消化出来ず、余計にイライラしてくる。

 

 

 

「……疲れを残して本末転倒な事になったら容赦しねぇからな」

 

「そうなったら是非ともそうして下さい。私の無能が晒されるだけです。無論ならないようにはしますが」

 

 

 

 結局、そう言って遠回しに言葉を濁す事しか出来なかった。

 そしてそれは勿論の事、少女にはちゃんと届いてはいなかった。

 

 

 

「チ……あぁ。はぁ……クソ、飯の準備でもするか」

 

「どうぞ」

 

 

 

 悶々とする感情が心を覆ったまま、言葉にならない単語を吐く。

 さっさと切り替えて朝の習慣を行おうとすれば、少女は足元に置いてあった小さな籠を取り出し、机の上に置いた。

 

 

 

「この町を救ってくれてありがとう、と言われて貰いました。

 一つ私も食べたのですが、毒は入ってません。安心していいかと」

 

「……………」

 

 

 

 籠にはいくつかの果物が入っていた。

 少女の言う通り、これはただの善意で渡された物なのだろう。

 少女に抜け目は一切なかったが。

 

 

 

「私はもう朝食は済ませたので、それ全部食べていいですよ」

 

「………………」

 

 

 

 剣を磨きながら、僅かに視線だけを此方によこしてそう告げる。

 慇懃無礼さが剥がれて来て、今度は対応が雑になって来ていた。しかし、悪意に満ちている訳でもなければ、何か都合の悪い事をしている訳でもない。

 むしろ有能だ。そして最悪な事に、彼女のその有能さは彼女の歪みによって裏打ちされている為、非常に尖っている。

 

 嫌悪感を抱いて悶々とするくらいには。

 

 

 

「あぁ……」

 

 

 

 しかし、ケイは何かを言い返すような事をしなかった。

 それをする体力はあるが、きっと平行線を辿って、ただ無意味に疲れる不毛なだけな事だと悟る。

 

 考えれば考える程、彼女の様子の全てが、彼女の歪みの延長線上にあるのだとしか思えなくなって来る。

 それを事細かに追及しても、大した変化は起こらないだろう。

 その事だけに関しては、多分この世界で誰よりも理解している。

 そういう人間が——隣に居たから。

 

 

 結局、不機嫌そうな顔で、ケイ卿は果物を口に運んだ。

 

 

 剣を磨く音と、果物を頬張る音だけが部屋に響く。

 気安い空気ではない。

 気不味い空気という訳でもない。

 互いに信頼し合っているが故の静寂でもない。

 

 互いを遮る壁や互いに刻まれた深い溝が、今は表面化していないだけの、そんな微妙で独特な空気であり、そんな関係だった。

 その空気に、居ても立っても居られなくなったのか、ケイは言葉を口にする。

 

 

 

「その……昨日は助かった。

 多分、オレ一人だったら、あそこで死んでた」

 

「………………」

 

 

 

 何かで覆い隠す事も、誤魔化す事もせず、ケイは先日の動乱で伝え忘れていた感謝を素直に告げた。捻くれた言葉でもない、本当に純粋な感謝を伝えられた事に、少女は何か感じ取ったのか、剣を磨く手を止め、視線をケイに向ける。

 

 静寂が互いに走った。

 黒いバイザーの裏で、少女がどの様な目を向けているかはケイには分からない。

 敵対した者へ向ける冷たさはなかったが、感情を簡単に受け流す、涼やかな雰囲気が彼女を覆っている。硬く結ばれた口元からは、何も読み取れなかった。

 

 

 

「……はぁ、貴方らしくない言葉ですね。素直な言葉を口にするケイ卿なんて、正直不気味なんですけど。実は、昨日の間に入れ替わった別の誰かだったりします?」

 

 

 

 ケイの神妙な様子に何かを納得したのか、もしくは出来なかったのか、少女は嘆息を洩らしながら、いつもの様な呆れた口調でケイに返す。

 

 

 

「誤魔化せるなら誤魔化したいが、昨日のアレはどうやっても誤魔化せない。事実、オレ一人ならあそこで槍に貫かれて死んでる」

 

「………………」

 

 

 

 いつもの揶揄する様な発言に反応する事なく、深く確信するように告げたケイに、本当に何の誤魔化しも悪意もない事を悟った少女は、最後の警戒を解いて、再び嘆息を洩らした。

 

 

 

「ですが、私が居なくても貴方は何とかしたと思いますよ?」

 

「何……?」

 

「まぁ死にはしないだけで、瀕死の重症を負うでしょうね。

 その後事態を把握したか、もしくは冒険の合間に偶然この町を訪れたランスロット卿に助けられるかして、取るに足らない話として流されるでしょうが」

 

 

 

 感情を挟まず、事実を告げる様な未来予測を少女は語る。

 ケイも、多分そうなるだろうという予感があった。そもそも少女がいなければ、この町の問題に巻き込まれていなかったかもしれないが、しかし——この少女に命を助けられたのは事実なのだ。

 

 

 

「それでも、オレが命を助けられたのは事実なんだ。

 ……ありがとうな」

 

「……どうも、感謝は素直に受け取っておきます」

 

 

 

 少女は上官に向けて言う様には思えない程に、捻くれた口調で返しながらも、素直にその感謝を受け取った。

 少女はケイから視線を外して、再び剣を磨く作業に戻る。

 容易く命を刈り取った、二つの凶器。

 

 

 

「なぁ、お前は。

 その……手から何かが離れない、とか。そんな感触は……ないのか」

 

「離れない……?」

 

 

 

 何げなく聞こうとして、失敗する。

 その不自然に途切らせた言葉の異質に気付いたのか、少女は再びケイに顔を向けた。

 

 

 

「あぁ、例えば……」

 

 

 

 ——人を剣で貫いた感覚とか——

 その言葉を口にする事が出来ず、ケイは黙り込んでしまった。

 

 彼は未だに覚えている。

 他者の命を奪い取ったという感覚。筋肉質な肉をこの手で切り裂いたという、生々しい感触。

 鳥や羊といった家畜とは違う、人間を切り裂いたという、不快感。

 勿論、彼はその事を引き摺っている訳でもないし、一介の騎士として割り切れている。

 

 だが、割り切っているのとそもそも感じないとでは、あまりにも大きい差がある。

 

 

 

「あー……」

 

 

 

 ケイ卿の神妙な様子から、少女は言わんとしている事を察したのか、答えを言い淀んだ。

 幾度か、少女は自らの拳を握っては閉じてを繰り返す。

 

 

 

「多分、ケイ卿が望んでいるような答えではないと思いますよ」

 

「いいから言え」

 

「…………確かに感覚は覚えていますが、引き摺っているかと言われれば別に。

 キャメロットに来る前に、ピクト人を数体だけ相手にしましたが、普通の人間は相手していませんでした。まぁ必要となれば躊躇いなく殺傷する覚悟は出来ていましたし、実際に手にかけてみても、吐きそうになるとかはありませんでしたね。

 あぁ、こういう感覚なのか。別に問題なかったな。くらいしか」

 

 

 

 嘘を言っている様には見えなかった。

 本当にその通りなのだろう。

 

 その事に対して、ケイは何かを言い返す事をせず、噛み締めて理解する様に顔を俯かせる。

 少女は、その動作に思う事があったのか、もしくはなかったのか、あえて少女は追及せず受け流した。

 

 ——だが結局、居心地の悪さを感じたのか、少女は剣を磨くの止めて立ち上がり、この微妙な空気を変える意味も込めて棚から何かを取り出した。

 黒い豆の入った、ビン。

 

 

 

「……は?」

 

 

 

 ケイはそれを目敏く認識した。

 それを良く見た事がある。忘れようにも、それは難しい。

 ローマの製法を基にして作られただろうビンに入った、黒に近い茶色の豆。

 

 少女はその豆を丁寧に挽いていく。

 その動作に淀みはない。どう考えても、初見の動作ではない。日常的にその動作を行なっている者の証であり、つまりは——それを日常的に飲んでいるだろう事の証だった。

 しかも、この町では売られてはいないそれを、いちいちこの町まで運んで来ているという事は、習慣的に飲むに飽き足らず、好んで口にしているだろう証拠でもあった。

 

 

 

「お前、それ……コーヒーか……?」

 

「え……知ってるんですか?

 あぁ、まぁそうか。キャメロットで売ってるんだしな……良いですよねコレ。香りも良いですし」

 

「香り"も"……」

 

 

 

 ケイの問いに、少女は一瞬手を止めて、顔を上げる。

 思わず呟かれた声には、驚いた様子が見て取れたが、それ以上に歓喜が見て取れた。

 

 

 

「ソレ、飲むのか……?」

 

「はい。それはそうでしょう」

 

 

 

 震える声で問えば、少女は当然の事の様に返した。

 しかし当たり前の事だが、彼にとってそれは当然の事ではない。少女は挽いた豆を通してお湯を注ぎ、心地良い香りが部屋に広がる。

 

 土みたいな色の飲料。

 匂いは良いという事は彼にも同意は出来る。

 口をつけたいとは思わない。

 

 そして、少女は躊躇いなくそれを口につけた。

 バイザーで見えないが、眉毛を顰めるといった動作などしていないのだろう。完璧な程に少女は平然としていた。味覚が狂っている訳でもないのにだ。

 

 

 

「お前おかしい……」

 

「はぁ」

 

 

 

 ケイ卿は畏怖するような、驚愕するような表情を少女に向ける。

 思っていた反応と少し違った為か、少女は若干気分を悪くしつつも、それを受け流した。

 

 

 

「そんな苦いだけの飲料を飲む奴の気がしれない……」

 

「——はぁ?」

 

 

 

 しかし二回目は許されなかった。

 何かの琴線に触れたのか、少女は地の底から響くような冷たい声を出す。

 不快感を隠す事もせず、彼女から冷え冷えとする憤怒が周囲に撒き散らされ始める。

 

 

 

「今、なんと……? ただの、苦いだけの飲料だと……はぁ? もしかして喧嘩でも売ってます?」

 

「いや……だってソレ。

 香りを楽しむもんで、飲むのに適してる訳ではないだろ」

 

「………………」

 

 

 

 いらない地雷を踏んだと瞬間的に理解したケイが、苦し紛れに反論するが、少女はより機嫌を悪くするだけだった。

 水面に泥水を垂らして、それが広がっていくように、静かに少女の圧力が増していき、部屋を圧迫していく。

 対応を間違えたとケイは悟ったが、既に遅く少女は捲し立て始めた。

 

 

 

「なんですか……? もしかして、豆の色が同じなら味も変わらないだろうとでも? 豆を挽く時、適当に細かくすればいいだろうとでも? お湯の温度を気にせず、沸騰させた水ならなんでもいいだろうとでも?」

 

 

 

 今までにないくらい不機嫌だ。

 相手の心の底を凍て付かせるような憎悪の類ではない事だけは、まだマシだが、端的に言ってブチギレている。

 

 

 

「……………」

 

「えぇ、ええ、分からない事もないですよ。

 この時代の豆は、そもそも土が悪い影響で上手く育ってないし、加工も焙煎も甘い。保存も向かない。苦味だって強いでしょう。

 でも、苦いだけの飲み物……だと?

 どうせ、豆の挽き過ぎかお湯の温度の高過ぎでえぐみばっかりのコーヒーになってるだけでは?」

 

「……そんなに言うなら、もう一杯オレの為に入れてくれよ」

 

「また一から豆を挽けと………難癖をつけてる事が目に見えている貴方に、いちいち手間暇をかけて作る気がさっぱり起きないのですが。

 どうせ片手で数える程度しか作った事ないのでしょう? 見様見真似でやってみては如何です?」

 

「あのなぁ……」

 

 

 

 思わず言葉を漏らすが、少女のあまりの圧力にたじろぐ。

 それを見た少女は、呆れる様にケイ卿から視線を外し、深い溜息を吐いた。

 

 

 

「はぁ……あぁもう、色々気分が悪いです。

 なんでこんな朝から、いきなり貴方に怒鳴られて、しかも私だけが一方的に気を揉まなければならないのか。

 正直言って、そこのリンゴ、貴方の顔面に思いっきり叩きつけたいんですけど」

 

「なっ……は!? それはただの暴力だろうが! お前、オレが寛容だからって流石に許容範囲超えてるからな!」

 

「…………ハッ」

 

「鼻で笑いやがったなテメェッッ!!」

 

 

 

 憤怒の表情で睨みつけるケイ卿を、少女は嘲る様な冷笑で受け流す。

 互いにどちらも本気ではないが、それでも相手に負けるのだけは心底嫌で、口論の熱が上がっていく。

 

 これからの二週間よく見られる事になる光景だった。

 

 

 

 

 

 




 
 貯めていたストックが無くなったので、この話で毎日更新が停止します。
 ……25万文字強で序盤が終わったから、生前編は75〜80万文字くらいで終わるのかなぁ……どうなるのかなぁ……
 

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