ワクワクする内容になってます。
なんだかこのまま決着編に行きそうな感じですが……すまない、また前編と後編で分かれるんだ。
ちなみに、今回のイベントが長くなった理由その2です。理由は…………登場人物のセリフ…………この話は布石回収と新たな布石を張るのと色んな対比が交じってるから何回も読もう!
雪が溶け、森のきわの木々が膨らみ始める。
積もる雪を日輪が溶かし、雪の水を乾かす。春の訪れを示す風が吹くまでもう少し。今年の冬は一段と厳しかった。きっと……ひもじさに命を落とす人は少なくはなかっただろう。
そんな時代に、太陽の騎士サー・ガウェインがキャメロットに居ないというのは、きっと大きい意味を持った。
王と同じく、もう一振りの星の聖剣を持つ騎士にして、王の右手。
たとえ本人がその地位に頓着していなくとも、周囲がその地位と力を求める。
「——いいや、今は緑の騎士の事だ。
幸い、国が揺れないよう要役となったサー・ルークが後ろにいるのです。ならば、今はまず私が前を向かなければ」
影武者となった少年。
己と違って、王の威光を示す尊い方の影武者ではなく、国に仇なす者達への牽制と粛正を主とした、暗躍する方の影武者。
彼は王の代理役ではない。彼は王がやらない事を率先する——汚れ役だ。
しかし、彼のおかげでアーサー王以外にも円卓周りの騎士達にも、行動の自由性が大きくなったのは事実。
影武者であるが、明らかにただの影武者ではない。何しろ、その影響力が大きく、また彼自身が強大なのだ。
影武者でありながら、国中の人物が彼の事を知っているという狂った知名度。
その知名度で影武者をやるなど明らかに弱点になるだろうというのに、誰もその変装と擬装を見抜けない。
彼自身が、自らの正体を現すまでは、円卓の騎士であろうと——絶対に。
そして、アーサー王でないとバレない限り、周囲は彼をアーサー王だと認識しアーサー王としての行為を求め、彼自身もアーサー王としての行動と立ち振る舞いをするのだ。
それは、もはやアーサー王本人がそこにいるのと差があるのだろうか。
王は一瞬の隙も見せず、常にキャメロットに君臨し続ける。
しかし、王が二人いるとは言われない。
常に"アーサー王"が一人、キャメロットにいるだけだからだ。王が二人いる訳ではない。
故にその威光の形を、人々は畏怖を以ってこう囁き始めた。
——ブリテン島に竜は二体居ると。
そう囁かれ始めたのは一体いつからだったか。
そしてそう謳われ始めてから、キャメロットには隙らしい隙が消えていった。キャメロットは常に竜の加護を受けている。竜がキャメロットから離れる事は片時もない。
故にそこに死角はなく、今までその死角に居ただろう叛意の芽は摘み取られ続けている。
「少しだけ、貴方の事が恐ろしいですよ」
そう呟いて、ガウェインは山の頂点から見下ろすように、周囲の大地に視線を向けた。
山を抜けた先に広がる、清々しい程に広がる平原。なだらかな平野。
そんな平原には幾つかの樹々がしなやかに生えていて、平原の柳にふちどられた小川の先に、冬の一日最後の光に照らされた城が聳えていた。
「あの先に……ウィレムの森が」
城の先に鬱蒼と広がる広大な森。
アレが、緑の騎士が示した約束の場所なのだろう。しかし、あまりにも広い。
まるで、他者を拒絶している様だ。往々と木々が密生している緑の海。人工物など存在せず、町の灯りもなければ人々の活気も存在しない。
長旅には慣れているが、森の知識には疎い自らでは迷いそうだとガウェインは悟った。
抜けるだけなら何とかなりそうだが、ここから緑の騎士を探すのは厳しいモノがある。
「ベディヴィエール卿。まずはあの館の主を訪れましょう。
長旅の疲れもありますが、緑の騎士についても何か詳しいかもしれません」
「……………………」
「ベディヴィエール卿?」
「いえ。少しこの光景を見渡していただけです。
以前、ここに訪れた事があるモノで」
ベディヴィエール卿の言葉を受けて、改めてガウェインは見渡す。
季節は1月。
冬がもたらした寒冷による爪痕は、未だ溶け切ってない雪が証明している。
雲が晴れていて、日差しは大地に降り注いでいるが、日差しにある筈の暖かさは薄い。
体を包みこんでくれるような柔らかな温もりはなく、鮮やかな花が咲き乱れるには、まだ星の光が足りない冬の終わり。
そういえば、以前この周辺に軍を集結させた事がある。
アレは確か…………卑王ヴォーティガーンを倒す以前の話だ。ベドグレイン城を奪還する為の——第四の会戦。
当時は戦と戦が重なっていたのもあって記憶が朧げだった。それに、己自身はこの平野に直接訪れた訳ではない。
だから、記憶に自信がないが、確かそうだったような気がするとガウェインは考えていた。
「卿、行きましょう」
「えぇ、そうですね」
急かす様に告げたベディヴィエールに一瞬だけ思案をした後、結局何も合点が行かずに、ガウェインはその後ろに続いて山を下り始める。
この旅も長かった。
コーンウォールの国境地帯にある谷と谷の古道を越え、谷に居座る魔獣を倒した。
コーンウォール南西の荒れた山国を救援した。
二つの山を越え、轟々たる渓流を遡った。山の斜面を這い登る鬱蒼たる森を越えた。
その旅の途中出会った人々には、必ず緑の騎士の消息の事を尋ねたが、状況は芳しくない。何も分からないと言っても良いだろう。
「こんな場所に城があったのですね……」
ベディヴィエール卿の言葉にガウェインも同調する。
平野を越えて、城の門にまで達してから気付いた。この城は目立たない場所に建てられていた。山の頂点から見たからこそ、この城に気付けたのだろう。
小川を越えたあたりから、平野の大地は緩やかに傾斜していて、丘のようになっている。
それだけじゃない。鬱蒼と広がる森もあってか、自然と視線は城に行かないのだ。
以前この辺り一帯を訪れた際の事をしっかりと記憶しているベディヴィエール卿にとって、以前は分からなかったこの城の事が驚きなのだろう。
そんな思案をしながら、ベディヴィエール卿を横目に見つつガウェインは城の門を叩く。
そして、待ち構えていたかのように門が開き、入り口には金髪の青年が門番として一人立っていた。
「名のある騎士とお見受けしましたが、この城に一体何か」
「頼みがあります。
アーサー王の騎士、サー・ガウェインとサー・ベディヴィエールが旅の途中で此方に参りました。私達をこの城に滞在させて欲しいとここの主人に伝えて欲しい」
ガウェインがそう告げると、門番は驚いたように目を見開いて言葉を返した。
先程はどこか無愛想だった表情が崩れ、門番の青年の碧眼には驚愕の意識が浮かんでいる。
僅かに俯かせていた顔を戻した為か、青年の頭髪が揺れる。
柔らかな朝日に——"金砂のような髪が揺れていた"。
「この城の御主人は、この城の訪れる方は何方でも歓迎するとしています。一応はですが。
ですがまぁ、円卓の騎士なら特に問題があるとは思わない。今年の冬は厳しかったのもあります。どうぞ此方へ。長旅の疲れもあるでしょう」
門番はそう告げ、脇に逸れて道を譲る。
やや慇懃無礼で、そして無愛想だった門番だが、門番の青年の反応に含むモノが無い事を確認したガウェインは、城の門を抜けて歩を進める。
ベディヴィエールも——その青年の事を一瞬だけ、何かの合点が上手くいかないような、そんな形容し難い表情を浮かべた後、ガウェインに付いて行った。
キャメロットとは違う形状の城。
城下町と城の本体を別にしているキャメロットとは違い、城の中に人々の住まう建物が並んでいる。
小さな集落を城の型にしたというような城塞だった。
二人が城の中庭にまで歩を進めた時、城の従者が出て来て、二人の馬を厩にまで引いていく。
それと平行して、また別の従者達がガウェイン達を城の広間までの案内をして導いた。
従者の教育は行き届いている。この城の従者や侍女の様子を見て、ガウェインは素直にそう思っていた。
「ようこそ、騎士どの。かの円卓の騎士が、この辺境の地を訪れるとは珍しい」
広間の中、その奥にはこの城の主人が居た。
轟々と燃え盛る暖炉の前に、一目で豪華だと分かる椅子に腰掛けている。
そして足元には、主人を囲うようにして、猟犬と思わしき重厚な犬が三匹寝そべっていた。
「申し訳ありません。私はあまり身体が良くなく、椅子に腰を下ろしながらの対談で。貴方達の用事が済むまで、ここを自らの家と考えて構いませんので」
主人は老衰した人物だった。
恐らく四十か五十程の人物なのだろうが、顔に刻まれた皺は深く、生気の薄い表情が彼は老衰した人物であるという印象を先行させる。
足が悪いのか、椅子に座ったままの姿勢でありながら杖をついており、目が悪いのか、どこか視線に力がない。
ただ、主人の髪の毛だけは、その生き様を証明するかのような出立ちをしている。
燃える炎のような赤色。その濃さは、同じく紅色の頭髪を持つトリスタン卿の赤色よりも濃い。主人が動く度に揺れる赤色の髪は、まるで焔が揺らめいている様だった。
それに、良く見れば古傷も多い。
きっと昔は幾度も戦い抜いた騎士なのだろう。良く見れば、その主人は古ぼけた騎士剣を緑色のベルトで腰に装備していた。
赤錆がやや目立ち、滑り止めの為だろうと思われる、騎士剣の柄に巻き付けられた麻布は一部が剥がれている。
何十年も使い込まれたと察せられる剣だった。
「感謝致します。
しかし、旅の途中の宿として此処を訪れた訳ではないのです」
「と、言いますと?」
「私達はこのウィレムの森に潜んでいると思わしき緑の騎士を追っているのです。緑の騎士が告げた約束の日時まで後三ヶ月と少し。しかし、私達は緑の騎士について何も知らないのです」
そう告げると、主人は驚いた表情をした後に、思い詰めるような表情して呟く。
「そうですか……緑の騎士を」
「何か知っているのですか……!」
「七年程前の事です。全身が緑色をした怪物が突如、ウィレムの森を住処としました。目的は分からず、正確な居場所も分かりませんが。
ただ必ず、毎年の五月一日になるとどこからか姿を現し、この城に訪れ、そして、一人を生贄として連れ去っていくのです」
「何と…………」
拳を握りしめ、ガウェインは心の奥底で憤慨する。
緑の騎士の実力はあの日確かに感じ取った。太陽の力を得た、まさしく化け物の中の化け物。きっと、円卓の騎士ですら難儀するだろう程の手練れだ。
常人ではまともに相対するのすら不可能だろう。
生贄として人を連れ去っていく緑の騎士に対して、何か対応はしなかったのか、とは問えなかった。
「ですが、まさか緑の騎士がキャメロットまで足を運んでいたとは…………つまり、緑の騎士が今年標的にしたのは……」
「私です。
それと、今はまだこの地に訪れていませんが、サー・ルークという騎士が」
「……成る程」
主人は俯いて、悄然と呟いた。
その思い詰めた様子を見て、ガウェインは主人に告げる。
「お願いがあります。どうか私達を、約束の日時までこの城に滞在する許可をくれないでしょうか。私達が狙われたのもありますが、緑の騎士の行為は見過ごせない」
「……感謝を」
「いえ、騎士として当然の行為です。
その日が来るまで、どうか宜しくお願いします」
ガウェインは身体の良くない主人の事を慮って、忠義を捧げる騎士がやる様に跪いて告げた。
ベディヴィエールは、従者としての立場を弁えながら、部屋の扉の前に佇んで僅かに頭を下げる。
その様子を見て、主人は表情を和らげながら告げた。
「…………あなた方の忠節が骨身に染み入ります。
ですが、私は円卓の騎士の忠節を受け取る器でも無ければ、その忠誠は騎士王に捧げる物。ですから、私とあなた方の関係はこうしましょう」
すると、主人は杖をついて立ち上がり、ガウェインに向かって手を差し出した。
主人の意図を察してガウェインは、跪くのを止めて、差し出された手を受け取って握手をする。
「緑の騎士が示したその日が来るまでの三ヶ月間、あなた方を歓迎すると約束しましょう」
「感謝します。ここに、私達の同盟が交わされました。
しかし勘違い無き様。たとえ貴方に忠義を授けようと、騎士王への忠節は揺らぎません。ですからご安心ください。
私は、貴方の名誉と、騎士王の名誉。そのどちらも傷付ける事はしません」
「…………これはこれは、私のような老人にそう仰ってくれるとは」
ガウェインの言葉に対して非常に安心したのか、もしくはアーサー王の元を離れようとサー・ガウェインは一切揺らがないと気付いたからか、好々爺のような雰囲気を浮かべて主人は笑った。
「そう言えば、貴方の名前は何と言うのでしょう」
「私ですか、私は———」
握手を終えた後、ガウェインは主人の名前を問う。
「ベルシラック。ベルシラック・デ・ハウトデザート。
元々は騎士ですが……サー・の称号は付けないでください。最愛の人達を緑の騎士によって取りこぼした私は………もはや騎士ではないので」
何かを悲しむような表情で主人——ベルシラックはそう告げた。
それから、ガウェインとベディヴィエールは、ベルシラックの館で約束の日時まで待つ事を決めた。
しかし、緑の騎士が告げた約束の日までは三ヶ月とまだまだ時間がある。此方から迎え打とうにも、正確な居場所は分からない。
その為、二人はその日時までの間はただ世話になるのではなく、ベルシラックの為に働くと決めた。
ベディヴィエールは城の従者達に交じり、ガウェインは森に狩猟に出かける。時には、ベルシラックの館から少し離れ、付近の集落を訪れる事もあったが、基本的には館を離れる事はしなかった。
また森に入るのも、あの森はブリテン島の中でも特に広大な森故に、並大抵の者では簡単に迷ってしまうだろうとベルシラック卿に警告されたのもあって、深く入る事はしなかった。
総じて、特に変哲のない日々が流れる。
それから、ガウェインとベディヴィエールがベルシラックの館に訪れて、大体一月程の月日が流れた日の事だった。
「本日付けで、ガウェイン卿のお世話させて頂く侍女になります」
ガウェイン卿に割り振られた私室に訪れた女性はそう告げる。
侍女用に整えられた衣服を身に纏った。見目麗しい貴婦人だった。
その侍女の髪は鮮やかな金色。
従者であるからか、自らの頭髪を短く後ろに揃えられていながら、しかし軽さと柔らかさが感じられる程にきめ細やかな黄金の髪。
浮かべる翡翠の瞳には穢れはなく、透き通る翡翠の瞳は木々の緑よりも尚深い。
一目見ただけで、誰もが美人だと讃えるだろう。
事実、ガウェインはその女性程の美人が、即座には思い浮かばなかった。その美しさは、もしかしたらギネヴィア王妃にすら比肩出来るかもしれない。
「どうしましたか………?」
「い、いえ。その、貴方の姿があまりにも美しかったので」
コテンと、成人を迎えた女性には相応しくない幼さを感じられるだろう僅かに首を傾けるその動作すら、その女性の雰囲気を何一つ損なっていない。
侍女の立ち振る舞いに動揺したガウェインは、思わずそう言葉を溢していた。
その言葉に侍女は、まぁと小さく言葉を溢してからガウェインに言葉を返す。
「ありがとうございます。まさか円卓の騎士にそう仰って貰えるとは。
少し、照れてしまいますね」
少しだけ赤くなった頬を隠すように両の頬に手を当て、侍女はガウェイン卿から視線をそらして告げる。
儚げな女性らしさと、少女のような甘い可愛らしい反応。その二つを矛盾なく合わせていた。
「では、私を美しいと褒めて下さったのにも応えるよう、頑張らさせて頂きます」
「その言葉ですが………申し訳ありません。私に侍女は不要です。私には連れて来た従者がおりますので」
そう言って、ガウェインは侍女の申し出を辞退した。
ベディヴィエール卿が居るからというのが理由の一つではあるが、ベルシラック卿からの助けを必要以上に受け取るのもどうだろうと考えたが故の事だった。
「…………そう仰られると、私は困ります。
私は、貴方の従者役を任されている為、役割がなくなってしまいますので」
「ですが………あぁ、ではこうしましょう。貴方には朝。夜はベディヴィエール卿に任せます。これなら貴方に必要以上に頼る事もなく、また貴方の役割も奪わない」
そうガウェインが告げると、まるで花が咲くようなパッと表情を変えて侍女の女性は頷いた。
「えぇ、是非そうして下さい。
では、明日からはお願いしますね」
そう言って、微笑みながら侍女は部屋から出て行った。
その日から、ガウェインは侍女の女性を従者役として受け入れる日々を迎えた。
そして、さらに一月が流れた。
「ここ一月の間、貴方の事を見てきましたが、貴方は本当に強くて勇気もあって操も正しい。
でも、確かにサー・ガウェインの様だとは思いますが、本当に貴方はあのサー・ガウェインなのですか?」
「とは……どのような」
一月前と同じく、ガウェインの部屋を訪れた侍女がそう言葉を発する。
何かを残念がるような表情をしながら語る侍女の様子に、ガウェインは合点が行かなかった。
そもそもガウェインは何かを演じるような事もしていなければ、不必要に肩肘を張っている訳でもない。緑の騎士との戦いの為に、自然体で居るようにしていたのだ。
だからこそ、侍女が言わんとしている事が分からなかった。
「だって、あのサー・ガウェインともあろう方が私の事を褒め称えてくれたのに、あれから私に何も言ってくれないではないですか。
まさか、あの言葉は嘘でしたか? それともまさか出会って来た全ての婦人にそんな言葉を残しているのでは」
「あぁ……」
合点が行ってガウェインは考えを改める。
決して、侍女の女性を口説いていた訳ではないが、しかし以前の発言は嘘ではない。
「そんな事ありません。ましてや嘘でもありません。
貴方は私が見て来た女性の中でも飛び切りに美しい」
「へぇ………でも、飛び切り? 一番美しい、ではないと? それとも、ただ単にそう言う表現なのでしょうか。私は一体何番目なのですか?」
「それは………申し訳ありませんが三番目です。二番目は我が王の姫君、ギネヴィア王妃。そして一番目は——私が心の底から愛すると決めた女性です」
「まぁ。フラれるどころか惚気られてしまいました。
では——どうしたら私を一番にしてくれますか?」
そう言って、揶揄うような微笑みを浮かべて侍女はガウェインに近付く。
子供が意地悪を考えついたような表情と、女性の儚さを合わせた表情で、上目遣いでガウェイン卿を覗く。
並の男なら容易く落とせるだろう。少なくとも、動揺でまともに思考は働かない。
しかし、ガウェインは侍女の行動に対し、一瞬だけ硬直しただけで、穏やかに目を閉じた後、静かに首を振った。
経緯が経緯だけにあまりに有名ではないが、そもそもガウェインにはもう既に妻がいる。
元々は醜い姿だった、ラグネルと言う名の老婆。しかし、それは呪いによって貶められた仮の姿で、真の姿は美しい歳下の女性だった。
心奪われた女性は既にいる。複数の妻を持つ度量があるかは自分でも分からないが、少なくとも、さらに他の女性を求めたいと思った事はない。
ラグネルと交わした誓いの事もあるが、ガウェインは誰かと浮気をする気は毛頭なかった。
「申し訳ありませんが、私には既に愛する妻が居るのです。貴方の願いは聞けない」
「なら二番目にはしてくれないのですか?
サー・ガウェインともあろう方ですから、それくらいの度量はある筈です」
「ありません。仮にあったとしても、その度量は私の妻ただ一人に向けます。
どうか御容赦ください、レディ」
厳格に、しかし静かにガウェインは告げる。
今は緑の騎士との相手に集中する時期である事も理由の一つだが、ここだけはガウェインでも譲れなかった。
「そうですか…………私は残念です」
「………………」
憂いを帯びた表情で、侍女は視線を逸らす。
傷付けてしまったかもしれない。譲れないモノは譲れないが、しかし以前の発言は軽率だったのだろう。
女性の心を弄んだと言われても甘んじて受け入れるしかない。きっと、彼女にとってはそれ程だ。
「失礼、レディ」
「はい……?」
ガウェインは跪きながら侍女の手を受け取り、手の甲に小さく口付けをする。
自らを貶めず、また妻のラグネルを裏切らず、しかし侍女を傷付けない範囲で、自分が譲れる最大限のモノ。
「申し訳ありませんが、貴方の想いを私は受け取れない。また、私は貴方に何かを捧げる事は出来ない。ですから貴方に譲ります。
ベルシラック卿には渡せなかった、仕える者としての忠誠。短い期間ですが受け取って貰えるでしょうか」
「……………」
ガウェインがそう告げると、侍女は一瞬だけ口を開いて硬直した後、優しく微笑んで言葉を返した。
「ありがとう……貴方の優しさが私には嬉しい。
ですが残念ですね。貴方のその言葉で、私はより本気になりました。覚悟していて下さい。貴方が本気でなくとも私は本気なので」
勝ち誇るようでいて、同時に強気な笑みで侍女は返す。
今までに見なかった表情だ。いや、きっとこの表情と感情も、彼女の素のモノなのだろう。
思っていた以上に感情豊かなのだなとガウェインが思わず思案していた時、彼女は告げる。
「では、また明日」
扉を開き、ガウェイン卿の一室から出ようというその瞬間、侍女は振り返りながら小さく微笑んでそう告げる。
その微笑みが、遠くの何かと重なるよりも早く、侍女は去っていった。
そして再び、また一月の時間が流れた。
「ガウェイン卿……どうか、どうか緑の騎士の元に行かないで下さい。
どうか、逃げて下さい」
ガウェインとベディヴィエールがベルシラックの館に訪れて約三ヶ月。緑の騎士が示した運命の日の五月一日まで、後たった一日と迫った日の事だった。
いきなり部屋を訪れた侍女が、ガウェイン卿に抱き付きながら引き止める。突然の事に驚きながらも、ガウェインは平静になって侍女に言葉を返した。
「……どうしたのですかレディ。
元より、私は緑の騎士との決闘の為この地に訪れたのです。今更になって引き返すなど、私には出来ない」
「だからです。貴方は、明日で緑の騎士と対決してしまう。
……もしかしたら、そのまま死んでしまうかもしれない。それだけは絶対に嫌だ。貴方程の人物はこんな場所で無価値に死ぬべきじゃない。
私は貴方に死んで欲しくないのです。貴方が逃げれば、今年の標的は私になるだけ」
「それは…………」
「良いんです、良いんです私は。だって私は貴方の事が好きだから。一番目になれなくても、私は貴方の事が好きだったから。
だから私は何も怖くない。貴方が死ぬくらいなら、私は自分が死ぬ事を選べる」
「…………………」
侍女の言葉に、ガウェインは黙り込んでしまった。
彼女の本気具合もあるが、彼女の願いに約束出来ないのが理解出来るからこそ、次の言葉が出てこない。
緑の騎士との対決を辞退するという選択肢は端からない。
しかし、緑の騎士との対決から無事生きて帰るとも約束出来なかった。緑の騎士の実力は知っている。凄まじい死闘になるだろう。自分が生きて帰れるかは分からない。
しかし、無論死ぬ気などはないが、だからと言って無責任に約束も出来なかった。
「…………一つ訂正を。緑の騎士と決闘をするのは私一人ではありません。
未だ、この土地には到着して居ませんが、サー・ルークという騎士も緑の騎士からの挑戦を受ける。私以上に油断の無い人物です。その人物が私の味方にいるのです。そう簡単に負けたりなどは」
「そんな事私には関係がない。私はそんな人物知らない。あった事もない。だから信用出来ません」
「なら………」
ガウェインは侍女を引き離す。ガウェインは侍女を抱き返さなかった。
彼女に甘える事もなく、彼女に僅かにも同調する事なく、騎士としての一線を完全に守り切ったまま、しかし彼女の事を第一に考えて。
「なら私を信用して下さい、レディ」
「……………」
「無責任に約束する事は出来ない。それは残される貴方の事を何も考えてない証になるのですから。しかし、私が逃げる訳にはいかない。
だから、私の事を信用しては頂けないでしょうか。騎士が忠誠を誓った主君に己を捧げるように、乙女からの信頼を受ける事で、騎士は何よりも強くなれるのです」
跪いて、ガウェインは侍女に告げる。
以前、彼女にやったように。しかし以前とは違って、安らかに微笑みながら。
「ずるい…………貴方は本当にずるい。いっそ、冷たく突き放された方が楽だった。簡単に諦めさせてくれたのなら良かった。無機質な関係なら楽だった。
なのに、そんな事を言われてしまったら、私は貴方の事を嫌えなくなるじゃないですか」
「…………………」
「ごめんなさい。これは私の我儘です。貴方の立場と想いも分かっている。でも止められないんです。
………私は子供のように女々しいんですね」
小さく涙を浮かべて、跪いて自らの手を受け取っていたガウェイン卿の手を侍女は払う。
拒絶にも等しいその行為。しかし、ガウェインは拒絶されたその手を改めて受け取る事は出来ない。
「ごめんなさい、ガウェイン卿。
軽率な発言をあの日してしまったと、自らを責めないで下さい。貴方は悪くない。悪いのは私、私のせいです」
「………………」
「これから緑の騎士との決闘を控えている貴方に憂いがあってはいけない。どうか私の事はお忘れ下さい」
そう言って、侍女は泣きながら、しかし無理をして笑った。表情が崩れながらも、彼女は微笑んで笑う。
そして、侍女は逃げるように部屋を去っていった。走り去る侍女の頭髪を、窓から差し込む夕陽が照らす。
———"金砂のような髪が揺れていた"。
その後ろ姿を見ながら、しかしガウェインは追わなかった。
結局、侍女の願いはただ一つ。死んではならない、ただそれだけなのだから。故に、ガウェインは侍女の後ろ姿を見て浮かべた憂いを即座に消して、緑の騎士への闘志へと変えていく。
それから数時間後。
太陽の代わりに、月の光が大地を照らし始めた夜。緑の騎士が示した運命の日まで、一日を切り始めた時間に迫った時、遂にサー・ルークが到着した。
腰に二つの宝剣を携え、更に刃のない十字架の柄を足や太腿、空いた腰の部分に巻き付けるように装備し、そして———
「—————————」
「ルーク………?」
今までにない程に己のナニかを冷たくし、そして堪えるように俯いていた、サー・ルークが。
「あの………どうしました?」
「…………………」
ようやく到着しましたかと言う言葉が吹き飛んで、そんな言葉しかガウェインは浮かばなかった。それ程に、彼の佇まいはおかしい。魂の芯の底から冷え切っていると称して良いだろう。
普段からも、サー・ルークは冷徹な程に平静だと言う事は理解しているが、今日のは度が過ぎている。
キャメロットの宮廷で緑の騎士に対して見せたモノですら比べモノにならないのではないかと言う程のモノだった。
「あの………」
「ガウェイン卿はこの館を訪れる際、門番の青年と出会いましたか」
「……………はい?」
「出会いましたか、と聞いているのですが」
ガウェインの一室に向かって二人が歩く中、返事のなかった少年に思わず言葉を返して、しかしそれを遮るように少年が言葉を発する。
その言葉すらアグラヴェイン卿のモノより冷たく、またどこかが不安定で怪しい。
少年のありとあらゆる反応に、有無を許さないナニかが含まれている。
「…………えぇ。ここを訪れた際、私達は門番の青年と出会いましたよ」
「名前は聞きましたか」
「いえ。そういえば名前は聞いていませんでした」
「そうですか。
今さっき、あの青年の名前を聞いて来たのですが——ルークと言うそうですよ。
面白いですね。まさか私と同じ名前なんて。もしかしたら運命という奴でしょうか」
小さく笑って少年は告げたが、その笑みが正しいモノには思えなかった。
アグラヴェイン卿のような一部の者がやるような笑み。バイザーで少年の瞳は見えないが、きっと少年の目は一切笑っていないのだろう。
少年の笑みとその言葉は、聞くモノを震え上がらせるナニかが含まれていた。
「あ…………ガウェイン卿」
「む……どうしましたかレディ」
「その、すみません。少し気になってしまいまして」
ガウェイン卿に割り振られた一室の扉の前に、表情を曇らせた侍女が居心地悪そうに佇んでいた。彼は侍女に言葉をかけて、彼女は此方の方に振り返って、その姿を二人は見る。
そして——隣の少年が、急に立ち止まった音をガウェインは聞いた。
「————ぇ」
小さく零された少年の言葉。
その言葉を吐き出して、少年は停止してしまっていた。口は開いたままで、バイザーで表情が見えなくとも、少年の精神が驚愕のまま止まってしまった事は簡単に分かる。
「うそ……だ———————」
少年は、言葉を零して半ば開いた口のまま歩き出した。
その様子は、いつもの油断のない佇まいと違って、どこか不安定で危うげだった。迷子の子供がやるような不安定さ。
そして同じく迷子の子供がやるように、少年は自らの手を侍女の方へ彷徨わせる。
「おかあさ———」
「どうしたの? 坊や?」
少年が発した何らかの言葉は、侍女の発した言葉に遮られてガウェインには聞こえなかった。
侍女の言葉が届いた瞬間、少年は再びその歩みを止めてしまう。
少年の呼吸が乱れる。
そして、乱れた呼吸がなにかの言葉になるようで、しかし何の言葉にもならず、ただ嗚咽のように何かが口から漏れただけだった。
「だっ、大丈夫……?」
「…………………」
「え、あ………えっと。何か怖がらせちゃったかしら?」
唇を噛み締めて、何かを堪えるように彷徨わせていた手を引き戻した少年の反応が気になるのだろう。
侍女の対応は、明らかに騎士に対するモノではない。子供に対するモノだった。
「あー………あの、わ………私はどうすれば」
「…………——申し訳ありません、レディ。少し知り合いに似ていたので、思わず動揺してしまいました」
「え、あ………え?」
「失礼な反応をお許し下さい。私はルーク。影武者のサー・ルークです」
「まぁ……! 貴方が!
ごめんなさい。そうとは知らず、私も失礼な反応をして」
「いえ、慣れていますので。ご配慮は不要です」
「まぁまぁ……! 可愛いらしい坊やなのに、もうこんなに礼儀が出来ているなんて! ………あ、ごめんなさい。私ったらまた失礼を」
「謝らなくて結構ですよ。貴方に失礼をした私が悪いので」
いつものように、平静さを纏った声で少年は返す。
先程の様子はもうない。バイザーの裏で一体どんな表情をしているのか、そして一体何を思っているのかはもう分からない。
少なくとも、侍女にはもう絶対に悟られない程に、少年は自らを完全に騙し切っていた。
「レディに対する失礼ではあると理解しているのですが、一つ質問を。貴方に……ご家族や、実の子供はいますか」
「………? いいえ、私に家族は居ません。子供もいませんよ?」
「——成る程、感謝します。
申し訳ありません。門番の青年が、貴方に似た容姿をしているなと感じたので」
「……あー、確かにそう言われれば……」
何かを思案するように顔を傾けた侍女の姿を、少年は小さく静かに見つめていた。
一瞬だけ、血が滲み出る程に拳を握った後、その圧力を侍女にだけは絶対悟られないよう即座に霧散させ、少年は侍女に話しかける。
「ご安心下さいレディ。
貴方が恐れる未来は絶対に訪れない」
「え……?」
「貴方が緑の騎士に襲われる事もなければ、貴方の周りの人が無惨に殺される事もない。絶対にない。それだけは、絶対に私がさせない。
ですから、どうか憂いで表情を曇らせる事はやめて下さい。そんな表情、貴方には似合わないのですから」
「…………フフフ。そんなに可愛らしい姿なのに、すっごい勇ましい事を私に言ってくれるのね」
「えぇ。私はもう子供ではありませんから。私は貴方の事を守れる騎士です。貴方が私を信頼してくれれば、私は如何なる邪悪ですら断ち切ってみせるでしょう。
だから、どうか安らかに。もう安心して。貴方はもう、後は穏やかに眠って良いのです」
「ありがとう…………私は嬉しいわ。
じゃあ後はお願いします。どうか、私に安らかな夜を過ごさせて、サー・ルーク」
そう言って、侍女はガウェイン卿の一室の前から離れていった。
「えぇ。どうか———せめて安らかに」
歩き去っていく侍女の事を、少年は小さく微笑んで見送る。
本当に、穏やかで小さな微笑み。ガウェインが今まで見た事もなければ、想像も出来ない程に小さく、儚い微笑みだった。
「……………………」
しかしその微笑みは、侍女が廊下の曲がり角へと歩き去ってその姿が見えなくなった瞬間、跡形もなく消え失せる。
まるで、本当は何も無かったかのように。もしくは、先程の微笑みを瞬間的に奪い取るだけの何かが、少年に浮かび上がったかのように。
「……………」
「私の知り合いに似ていただけです。ですが情が湧きました。彼女の為にも緑の騎士は必ず殺しましょう。さっさと、そして無価値に、一切の慈悲も容赦もなく。あの侍女の女性から僅かな安らぎすらをも奪い取った、その報いとして」
「ルーク。貴方は恐らく休んだ方が良い。今の今まで来なかったのも、影武者の任務をこなしながら調べモノをしていたからでしょう」
「そうですね。私も少しそう思います。ですが、知っていますかガウェイン卿。私は、死者が報われない事が心の底から許せないんですよ」
「はい……?」
「私にはまずはやらなければならない事がある。ガウェイン卿。サー・ベルシラックの私室はどこですか」
「それは………ここの廊下を抜けた先に」
「そうですか。どうも」
そう冷たく告げて——少年は瞬間的に黒鍵を引き抜いてから歩き出した。
即座に刃を作りだし、十字架の柄が込められた魔力によって悲鳴を上げる。
今にも刀身の刃が砕けんばかりに軋む音と、バチバチと溢れでる魔力の残滓が廊下を焼き焦がす。
意識しているのかいないのか、黒い霧の様な、もしくは禍々しい泥のような魔力が少年を覆っていた。
その黒い霧に触れた廊下は、まるで花が枯れていくように崩れ、灰のような残滓となって壊れていく。
「—————————……………………」
その後ろ姿を見て、思わず生唾を飲み込んだ。
一歩、一歩と少年が歩を進める度に、床が溶けて歪んでいるような錯覚が止まらない。
周囲の空間が、少年を起点に歪んでいるような感覚が消えない。
"貴方の場合は騎士王と違って、終始どこまでも冷え冷えとしていたので、魂の底から冷え切る思いでしたとも。竜の逆鱗に触れたとそう称するに相応しい"
緑の騎士がキャメロットの大広間に訪れた時の事を、ガウェインは思い出した。
少年が初めて見せたその冷たい怒り。それは竜の逆鱗に触れたのにも同義だと。しかし……では——今、目の前にあるのは一体ナニか。
どこまでも冷え切りながら、しかし大地の熱量にも等しい滾りが少年から溢れ出ている。
そこにあるのは怒りだけだ。純粋さの欠けらもなく、この世の全ての悪性を煮詰めた釜の中ですら、己の個というモノを確立出来るだろう程に荒狂う憤怒。
振り切れた怒りとは、ここまでの熱量を持ちながら、ただ冷たいだけなのか。
復讐は何も生まないという、個人の激情を無視して放つその言葉すら、今ばかりは理解出来てしまったような気がした。
これは何も生まない。ただ周囲に災厄を振り撒き、沈黙するまであらゆるモノを廃滅する嵐そのモノ。
少年の佇まいからは、ただ鳥肌しか感じられなかった。
「ルーク、一旦止まりなさい」
思わずガウェインは少年の肩に手をかけた。
怒りは長くは続かない。復讐の炎となる憎悪も爆発力があるが長くは続かず、忘れないように何かで刻み込まなければ、次第に別の何かが沁み渡るように心を修復していく。
炎は必ず薄れる。糧になるモノが無限には存在しないからだ。だから、永遠に燃える炎は存在しない。それを、ガウェインは知っていた。
「ガウェイン卿———」
立ち止まり、ガウェインの方へ振り返りながら、少年は肩に置かれた甲冑籠手に左手を乗せる。
「———やめろ」
「……………ッ」
思わず手を離し、ガウェインは一歩後退りをした。
肩に手を置いていたままにしたら、そのまま握り潰されそうな錯覚がした。それもある。
振り返った少年には、鎧やバイザー、肉体の至るところに竜の鱗のような赤い線が浮かび上がっていて、魔力の残滓が己にまで到達しそうだった。それもある。
鋼鉄にも等しい普段の佇まいが、内側から溢れ出す溶鉄にも等しい怒りで溶け落ち、その言葉が最後の警告の様に聞こえた。それもある。
その言葉が——絶対厳守の王命であるかのようにすら聞こえてしまった。それもある。
しかし、それ以上に——あの卑王ヴォーティガーンがそこにいるような感覚がした。
途端に足場が消え去り、暗闇に落ちていくのではないかという感覚が、また更にガウェイン卿を後退りさせる。
これは錯覚なのか。バクバクと鼓動を続ける自分の心臓の音を塗り替える程の——不気味なナニかの脈動が少年の内側から聞こえて仕方がない。
あぁ、今なら分かる。あの日、緑の騎士が少年に向けて発した戯言。
これは世界に具現化してはならない。
そして、その具現化してはならない竜の息吹が今、少年の内側から黒い霧となって溢れ出しているのだ。
「……………………」
一歩引いて冷や汗を流しているガウェイン卿に数秒視線を向けた後、少年は無言のまま再び歩き出した。
今までずっと己の中で封印させて停止させていた激情が——動かしてはならない炉心のトリガーと共に引き抜かれる。
その激情に呼応する様に、今まではただ魔力放出と魔術を補佐として、魔力を生み出すだけだった筈の炉心が起動を開始する。
あらゆるモノを呑み込み、貪欲に喰らい、自らの生み出す魔力すら新たな燃料へと変換して、竜の炉心としても機能する権能の成れの果てが超高速で回転を始める、いずれ薄れる筈の炎を、永遠に消えない炎へと変質させていく。
——島の王にのみ許された超常の力が、新たな主を祝福する。
滾りが消えない。肉体が熱い。心臓の鼓動が早い。
もはや人の形に収めていられなくなった魔力が、少年の身体から染み出し始めた。緑の騎士が内側から放出する炎の灼熱にも似た様子で、炉心の呪詛が溢れ始める。
早く何かで形を表し、そして具現化させなければ、その滾りは少年自身を呑み込み——そして"反転"させるだろう。
だが無情にも、少年が握る武器では世界に空いた穴にも等しい炉心の力を、正しく消費し、そして具現化するには至らない。
その代わりか、黒鍵の刀身には凄まじい数のヒビが刻まれていた。
しかし、今も尚刻まれ続けるガラスを割った様なヒビは、次の瞬間には赤い線となって刀身を新たに作り上げる。
少年の内側から放出される魔力で壊れ、砕け、ヒビが入り、しかし砂の様に崩れるよりも早く、新たに刻まれるナニかが黒鍵を変質させていく。
その武器には"反転"する余地がない為、ただ炉心の魔力が新たに塗り替えていく。
気付けばもはや、ヒビすら消えた。刀身の全てを塗り変え終わったからだ。
それが黒鍵だったと分かる者はもういない
骨子が変革を遂げる事なく、ただ崩れて歪み、その果てにあるのは、ただ本来の機能を残したまま、暴威を撒き散らす事だけに特化した刃だけ。
少年の握る黒鍵は全て、不気味に赤く輝く、血に濡れたように赤い刀身へと変わり果てていた。
「ルーク………! 来ていたのですか……! ですが、その……どうしたの、ですか」
「こんばんはベディヴィエール卿。先程到着しました。門番の青年には会いましたか?」
「————…………」
「成る程どうも。把握しました。従者として交じりながら、貴方は貴方なりに色々と確かめて下さっていたのでしょう。ですが、その把握は今はどうでもいいし大して関係がない。そこをどいて下さいベディヴィエール卿。邪魔です」
「…………………」
「ベディヴィエール卿。私は、今、邪魔だと貴方に言っているのですが」
「ルーク、その………まだ不確定な要素が多く…………突発的な行動は」
「えぇ、知っていますよそんな事。だから、今からその不確定な要素を確かめに行く。それに私は落ち着いています。えぇ本当に、自分でも驚く程。あぁ初めての感覚だ。ここまで頭が冴え切っているのは初めてかもしれない。
だから、早くそこをどいて下さい」
不気味な佇まいの少年が、冷たくベディヴィエールを圧迫する。
有無を言わさぬその圧力から、今すぐに道を引かなければ、次の瞬間には指と指の間に挟み込んだ、ただ赤いだけの三本の刃で斬殺されているのではないかと言う程の殺意が滲み出ていた。
「……………」
「どうも。感謝します」
本当に感謝しているのか。
ただ最適な言葉の羅列をそのまま出力しているだけなのではないかと言う程、淡々と少年は語る。
そのまま、道を譲ったベディヴィエール卿に視線を向けないまま、サー・ベルシラックの一室の扉を、殆ど蹴り放つ勢いで開け放った。
「…………………」
「こんばんはサー・ベルシラック。先程この館に到着したサー・ルークと言います。以後お見知り置きを。
それと一つ、あぁいや複数の質問があるのですが、それに今すぐ答えて下さい。
城の門番を務める青年と、恐らく侍女長を務めていると思わしき女性はいつから雇いましたか。それと二人の関係性と、貴方の関係性は。
後この館、というかこの城にいる何故か年老いたご老人の方が多い人々は、何年前からこの地にいるのですか」
突如やって来たサー・ルークの対応にベルシラックは驚いた表情をしていたが、少年は一切の言葉も反応も許す事なく畳みかける。
言葉を発しながら、彼が秘めている激情を表すように、周囲に圧力を放つ程の不気味な魔力が彼を中心に立ち登って、彼の頭髪を揺らしていた。
その立ち昇る魔力は、次第に不協和音を聞いているような感覚を伴う程に高まる。
そして、圧力を増していく魔力の猛りに何の加護もない空間が耐えられる訳がなく、周囲の窓にヒビが入って、次の瞬間には粉々に砕け散っていった。
砕けた窓から差し込む月明かりが、彼の事を照らし始める。
月光の淡い光を彼の頭髪が受け止め、掠れた錆色の髪が光を取り戻していくような感覚がした。頭髪を短く後ろに揃えられていながら、しかし軽さと柔らかさが感じられる程にきめ細やかな黄金の髪。
たとえ、本来の輝きが疾うに失われていようと、それでも星の光をその身に宿した、薄い黄金の頭髪。
淡く輝く——"金砂のような髪が揺れていた"。
「起動を開始」
「対象との接続を開始」
「宝具解放」
ランク C
種別 対人宝具
詳細【現在一部解放】
彼女だけが持ち得る、もう一種類の鞘。
尚この宝具は、彼女が彼女であるが故に使用出来るモノであり、たとえ反転した騎士王でも、内側に宿す炉心の違い故にこの宝具は持ち得ない。
反転した騎士王の場合、魔力放出によって、この宝具の表面的な効果を再現しているだけである。
尚、この宝具のランクが意図せず低いのは、彼女が無意識化でこの宝具をセーブしているからである。
またこの宝具は、彼女自身すらも対象にする事が出来る。