騎士王の影武者   作:sabu

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 ただの一度も敗走はなく——
 
  


第78話 剣に盾は要らず 後編

 

 

 

 今でも、あの老人の最期が頭を過ぎる。

 幸せに生きて幸せに死ぬ人がいるなら、当然その逆もあり得るという話。それを知っている筈なのに。

 それは、今から凡そ三年前の話だ。

 ただの騎士だったギャラハッドが、聖騎士となるのを静かに志した日の事。その日ギャラハッドは、死を待つだけの老人に出会った。

 

 

 

「申し訳ありません………貴方の旅路の邪魔をして」

 

 

 

 死に際に瀕している老人の言葉に、ギャラハッドは無言で首を振って、気にしていないと表しながら老人の隣に座った。

 寂しい家だった。ひと一人が最低限生きていければそれで良いだろうという、何もない家。

 その家に横になっている老人の顔色を覗き込む。顔色は酷く悪く、薄い。もう後数週間も持たない命だろう。

 

 

 

「それで、私がどうしたのですか」

 

「いえ………一つ懺悔を聞いて欲しいのです」

 

「何故私に。私よりも教会の神父に話す方が良いと思えるのですが」

 

「いいえ、貴方にだからこそ言いたいのです。

 いや………失礼しました。正直に言いますと、貴方だから私は一体何なのかを聞いて貰いたいのです。この村を救ってくれた、貴方だからこそ。無辜の他人の為に戦った、貴方だからこそ」

 

「…………分かりました」

 

 

 

 ギャラハッドは老人の言葉に頷いた。

 彼がやった事は別に何でもない。その村を騎士崩れの盗賊が襲っていて、それを撃退し、領主に突き出しただけ。その騎士の実力なども語るに及ばない。数瞬でギャラハッドが勝利した。

 ただただ普遍的な、ギャラハッドの英雄譚の一つになっただけの話だ。

 

 

 

「私は、他人を愛せなかったのです」

 

 

 

 ポツポツと老人は語り出した。

 老人の懺悔に何か口を挟まず、まずは黙って聞こうとギャラハッドは耳を傾ける。

 

 

 

「きっと、生まれた時からそうでした。

 子供の時、誰かを好きになれなかった。他人を大切に思えなかった。泣く人、悲しむ人、笑う人、喜ぶ人。それに私は共感出来なかった。

 ただ彼らは彼らなりの立場の感情があるのだと俯瞰的に実感しているだけで、私は同じ感情を持つ事が出来なかった」

 

 

 

 ギャラハッドも似たような経験があった。

 生まれて物心ついた時から、自分は親に愛されていなかったのだと悟った日からだろう。

 父親を錯乱させた母親。魔女。消えた父親。アーサー王に仕えた騎士。親ですらこうなのだ。何の関係もない他人など信じられない。特に共感する事もなかった。勿論自分がこう言うだけで、関係の無い人間は関係ない。故にギャラハッドは、他人に深入りする事はなかった。

 

 

 

「ここまでなら、ただ子供だから、まだ心が育っていなかったからと言い訳出来たでしょう。

 生まれが悲惨だったなら、そう言う理由付けも出来る」

 

「………………」

 

「ですが、私が破綻していると気付いたのは——家族が死んだ時です」

 

 

 

 諦めているような、憂いを秘めた表情で老人は続ける。

 

 

 

「病気です。突然亡くなりました。父親と、母親両方が。

 ここでもし、普通の人間なら悲しむのでしょう。愛を注いでくれた肉親が消えた事に目に涙を浮かべ、今までの思い出を噛み締め、その温もりが永遠に失われてしまった事を慟哭するのでしょう。

 ですが………——私は何も思わなかった。そんな当たり前の感情を抱けなかった。

 私が思ったのはただ——これから一人で生きて行くのが大変、と言う、不安だけだったのです」

 

「それは別に、何もおかしくは………」

 

「きっと分からないでしょう。

 違うのです。愛を失ってしまったが故の、未来へと恐怖に途方に暮れるのではなく、私は…………——親が消えて生活が大変になる。これからどうしよう。あぁ、面倒だな、という…………諦念だけだったのです」

 

 

 

 ギャラハッドは理解した。彼の言う事が。

 突然家族を失って現実を把握出来ないという訳ではなく、失っても尚彼は現実を把握したまま、悲しみを抱かず、親という役割の人間が消えた事を残念がっただけなのだ。

 彼は、親の役割をしてくれるなら、きっとその両親じゃなくても良かったのだ。

 

 

 

「私は、恐怖したのです。自分に。

 私の精神は破綻している。全うな愛を受け、私は愛に価値を抱けていない。共感も出来ない。私は一人だった。私は孤独だった。私は私以外の人間全てが、自分とは違うモノに見えた。

 だから、幼子の身で私は漠然と思ったのです。

 大人になる自分が想像出来ないと。正しい幸せを享受する自分が分からない、と」

 

「……………………」

 

「分かりませんでした。

 幸せな家庭を築く自分が。隣人を愛せよという教えを守れる自分が。だから、生きていけるのか不安でした。破綻者の私が、人間のまま生きていけるのか。

 十年後、二十年後、自分は何をしているのか。立派な大人になって生きていけるのか」

 

「でも、貴方は確かに生きたでしょう?」

 

 

 

 そう告げると、老人は悲しそうに、苦しそうに再び語り出した。

 

 

 

「………そうです。私は生きていけました。生きてしまったのです。

 十年、二十年と経って、立派な大人になった自分の姿をイメージ出来ないまま、人の殻を被った破綻者として生きて来れたんです」

 

「………………」

 

「何も出来ないまま、何も分からないまま、ただ己だけが皆とは違うんだという孤独の中、もう死にたいと、もう終わらせたいと絶望して苦しんで、今ここにいる。

 そして、今、こうして床に臥して、もう後は死ぬだけだと悟ったのに——どうして私は親の死を悲しめなかったのだと、後悔しているのです」

 

 

 

 老人は身を震わせ、瞳に涙を浮かべ始めていた。

 自分だけが世界から切り離されたような世界の中、死にたいと願いながら、こうして体が動かなくなってしまって、後はもう死を待つだけの時に死にたくないと願う、後悔した人間がいた。

 

 

 

「思うんです………っ…………こうやってどうしようもなくなった瞬間、私は何てつまらない人生を送って来たのかと。どうして、どうして私は、家族の死を悲しめなかったのだと。

 まだ私は何もしていないのに。まだ私は誰かを大切に思えていないのに」

 

「…………………」

 

「私は人を愛したかった。私は誰かに愛されたかった。

 そうして、誰かを愛して、私は………私は死にたかった——」

 

 

 

 その後も慟哭を続ける老人の隣で、ギャラハッドは静かにその言葉を受け止め続けた。

 ギャラハッドが、その老人に返せる言葉はなかった。

 

 それから数日後、その老人は亡くなった。

 家族はなく、子供もなく、葬儀には誰も来なかった。神父と村の数人が集まっただけの葬儀。侘しい葬儀に、ギャラハッドも参加した。特に、返せる言葉も想いもないまま。

 

 

 今でも、あの老人の最期が頭を過ぎる。

 

 

 どうしてだろう。あの悲しい、報われない最期が他人事のようには思えなかった。

 もしかしたらきっと。そう言う風に死んでしまうんじゃないか。あぁ言うように——彼女は死んでしまうんじゃないか。

 

 

 イメージが出来なかった。

 

 

 あの少女が幸せそうに笑って、当たり前の幸せを当たり前に享受して、少しずつ大人になっていく姿が。あの日見た、小さい小さい少女の姿のまま戦い続けて、そうして死んでしまう姿は鮮明にイメージ出来るのに。

 

 

 だから、彼女の最期はもしかしたら——

 

 

 たった一人で、世界に誰も共感出来る人が居ないまま、最期の最期まで脳裏に焼き尽くイメージを振り払うように戦い続けて、戦って生きて、死なない為に死地に飛び込んで、そうして最期のその瞬間——死にたくないと、当たり前の幸せを享受したかったと、そう泣きそうな程に喚いて、叫んで、置き去りにした少女が最期の最期に現れて、そうして、死んでしまうんじゃないかと。

 誰か助けてと言えないまま、後悔しないように生きて来たのに、最期に後悔して、彼女は死んでしまうじゃないかと。

 

 

 

 そう、ギャラハッドは思わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 決着は完璧に決まっていた。

 地面に倒れて動かないルーナ。しっかりとした意識を持って両足で立つギャラハッド。誰が見ても一目瞭然で、しかし戦いの結果に誰もが驚愕する。

 勝利したのはギャラハッドだからと言う理由よりも——かの騎士が、少女だという事に。

 ほとんど誰もが初めて見た、サー・ルークの姿。

 顔無しの騎士の素顔を見て、本当に同じ人間だったと実感する騎士も多かった。何より、改めてルークという騎士があまりにも歳若い人物なのだと気付いた。

 

 

 十五歳の、少女。

 

 

 ドレスでも着飾っている方が間違いなく相応しいだろう少女が、鋼鉄の鎧で身を覆っている。

 彼女よりも歳上の娘を持つという騎士達も少なくなかった。何より手足は細く、肩は華奢で、体は小さい。

 中性的とはいえ横顔は飛びっきり整っており、後数年も経てば国の中で上から数えてすぐの美人になるに違いない。もしかしたらそれは、ギネヴィア王妃にすら比肩する程の。

 

 

 いや、もうその片鱗は出ていた。

 

 

 薄い金髪の頭髪は、鄙びた地や凄惨な戦いの場を駆け抜けていながら一つも穢れはなく、あまりにも薄い肌は不気味さが先に来る程に白く、しかし彼女の一切を削ぐわない美しさを放っている。

 人形のような美しさとは、こう呼ぶのかもしれない。

 そう騎士達は思わず思案した。それ程までに、ルークと呼ばれている騎士の美貌は完成されていた。十五歳という年齢で、可憐でありながら魔女のように妖美で、騎士として凛烈という、人類からかけ離れた超常的な美しさを見せていた。

 例えるなら、それはモルガンのよう。アーサー王の影武者を務められるのも分かる。もしも"アーサー王を女性にしたら"、彼女のような容姿になるだろう。

 

 

 

「………………二度目、か」

 

 

 

 勿論その姿をギャラハッドも見ている。

 再び彼女の素顔を見たのは三年ぶり。十二歳の時から出ていた性別の特徴はより顕著になり、美貌とその片鱗は完成へと向かい始めた。

 街中を歩けば多くの視線を集めるだろう。その気になれば、誰も彼をも振り向かせるに違いない。何処をどう見ても、彼女は少女で、小さい女の子だった。

 

 

 

「アーサー王。これで終わりです。決着はつきました。

 どうか、私を十三番目の円卓の騎士に。そして彼を、いや、彼女を騎士ではなく、一人の民として戦いの場から退かせては貰えませんか」

 

「………………」

 

 

 

 先程の攻防で、剣を握った片腕の骨が折れている事など気にせずギャラハッドは騎士王へと問いかける。騎士王は険しい表情をしたまま、言葉に悩むように沈黙していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なぜ争う。なぜ認めぬ。なぜ人であろうとする」

 

 

 

 それは死にたくないと願うから。

 誰かに無念を残して果てるような、自分の生涯を自分自身で呪うような、あんな死に方だけは絶対にしたくないと心の底から思うから。

 

 ——本当にそうか?

 

 人かと言われたら人ではないし、人の生き方と言われたら人ではない。

 戦うのは、ずっと最初から認められない故。争うのは、未だに許せない故に。

 

 ——いつ許せる?

 

 分からない。多分許せないままだろう。

 許した瞬間、それは私ではなくなるから。

 

 

 

 「ブリテンは滅びねばならぬ。お前達は死に絶えねばならぬ」

 

 

 

 イヤだ。絶対に死にたくない。本当にそれだけはイヤだ。

 でも、誰かから言われた気がする。

 私はまるで、破滅に向かって戦っているようだと。私の戦い方は、死に急いでいるようだと。

 なら、私はきっと——本当は死にたくないなんて思ってない。

 

 

 

 「いずれ人間どもの手で島が穢されるのならば、我が手で原始に還す」

 

 

 

 自殺願望はない。そう言う訳じゃない。どれだけ追い詰められようと、私は自死などは選ばない。だが漠然とした希死念慮がある事を、私は否定出来ない。

 無様に死ぬなら、もう満足して終わらせたいという感覚。

 もうここでやめようよ。もうこれで終わらせようよ、何ていう願望がどこにある。

 

 

 

 「——大いなるブリテンを地獄に」

 

 

 

 だから思う。自分は何をしているんだろう。なんて、事を。

 私の行いで、私の故郷が救われたという事はない。

 振り撒いているのは災害。押し付けているのは理不尽。

 誰かを救って生き長らえさせた事などはない。それだけは言える。

 誰かを殺して全てを終わらせた事だけはある。それだけは確定している。

 自分が死ぬよりも早く、他の何かを殺す事で生き長らえて来た。私はブリテンが滅びるよりも早く、自分が死ぬよりも早く、他の何かを滅ぼしているだけだ。

 

 だって、私だけ知っているから。

 この世界の中で唯一私だけが、この島は救えないと知っているから。

 この世界で当たり前のように生きていて、突然弾き出されたから。

 

 

 

 「未来永劫人間の住めぬ、暗黒の楽土に変えねばならん」

 

 

 

 何もかもを新しいもので蹂躙していくモノに拒否反応を示し始めたのはいつか。過去を置き去りにして未来へと進む存在が嫌いだと感じたのは何故か。

 ならもう、未来に繋がる全てを消してやる。

 きっと、脳裏の片隅にそれが()ぎった事はある。

 でも…………——

 

 

 

 

「……愚かな者共め。暴君を討つために更なる滅びを引き寄せるとは」

 

 

 

 うるさい黙れ。

 それは、無様に生き恥を晒して死ぬなら、さっさと死んで終われという希死念慮か何かか。死に損ないを嘲笑う何かか?

 あぁでも、分かる。分かるよ。時々私もそう思う。何なら一度、魔竜と単身で打ち合う騎士の王の姿を見て、さっさと死にたくなった事があったのだから。

 

 

 でも——

 

 

 でもその点に関してだけは、絶対に同意出来ない。

 それだけは絶対に許さない。

 

 

 

「呪うがいい。旧きブリテンは、とうの昔に滅んでいる」

 

 

 

 どうしてもその一点だけが、私は頷けないんだ。

 まだ滅んでない。相応しい終わりが欲しい。

 だからこそ終わるその瞬間までは、何が何でも終わりたくない。

 中途半端な終わりが嫌だ。負けたくない。吐き気がするほど勝ちたい。今ここで背負っているモノを投げ出すなど許せない。

 もう終わりにしたい……? うるさい私はそれ以上に許せないんだ。

 無様に死にたくない。でも無様でも生きて、生きて生きて、生きて苦しんで、苦しんでも生きて…………そうして、だからこそ、相応しい最期を迎えたい。

 

 渇望する。酷く渇望する。

 心が渇いて仕方ない。飢餓感がする。同時に、今なら何でも出来るような気がして来る。

 ならば出来る。

 叫ぶ。胸が張り叫ぶように、喉が絶叫するように、魂の底から勝利を求める。地の底から、天を撃ち落としてやる程の跳躍をみせる。

 まだ、私は戦える。

 

 

 知っている。知っているんだ、私は。

 

 

 私は清き者なんかじゃない。

 私が剣を取った理由は後ろ向きだ。戦う理由は前を向いてない。

 似ている。いいや違う。私は似ているだけだ。

 

 自分一人だけ生き残ったから。

 そして、自分一人を、一人だけだけど地獄の底から救い上げてくれた人に救われて、その人に憧れたから。だから剣を取った。

 

 違う、そうじゃない。

 

 人として生を受けず、人として育てられず、でも人の営みが尊いモノに見えたから。育て親の花の魔術師のように、人が綺麗に見えたから。だから剣を取った。

 

 違う、これも違う。

 私は——

 

 

 

 "貴方には私の復讐に協力して貰います"

 "私の子供となる貴方には、王位を継承する資格があります"

 

 

 

 ——そう。私は怒りから始まった。彼女と同じように憎悪から始まった。

 それはこの世全てへの怒り。不条理。理不尽。報われないモノへの慟哭。

 何故。何故だ。私の何がいけなかった。許せない。絶対に許せない。どうして私達は、あんな風に死ななければならないのか。体が、心が、魂が。全てを燃やし尽くす程の怒りが、未だに私を動かしてくれている。

 

 許せなかった。悪が。それを許す世界が。それを清き人に押し付ける世界が。人が報われないのが、許せなかった。

 だから——悪は私一人だけで良い。

 絶対的な指針。唯一にして絶対の悪。己を最も強大な悪とし、有象無象の悪を打ち消す。

 それが私の戦う理由なんだ。だからここで倒れてはいけない。まだ、倒れる訳にはいかない。辛くはある。心が折れそうにもなる。でもそれ以上に——私は許せないんだ。

 だから——

 

 

 ———ギャラハッド。

 

 

 私は負けられない。お前にだけは負けられない。

 日向を歩む騎士よ。お前は私の方に来るな。怒りなどではなく、正しい憤然で戦える聖騎士よ。私を日向の下に連れ出すな。私は陽の下に居るのが嫌なんだ。

 

 だから頼む。

 私に向けて盾を構えろ。

 すぐに剣を納めてくれ。

 全力で私に抗ってくれ。

 

 でないと。

 私はきっと。

 

 

 

 ——お前を殺すぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………凍結、解除」

 

 

 

 静まり返った広間にて、声がした。

 その声に、アーサー王とギャラハッドを含めた広間にいる人達全てが我に返って、声の方向へと向く。

 そこには、死人の如き惨状を晒していたルーナがゆっくりと立ち上がっている姿があった。

 

 

 

「検索……選出……解析……」

 

 

 

 雰囲気が変わった事に彼らは気付いた。

 立ち上がった事で、床に血が新たに広がっている。

 動作は重く、次の瞬間には再び転倒してもおかしくない。明らかに身体に異常をきたしている。もはや戦える身ではない事は一目瞭然だった。

 

 

 

「……………主は我が魂を蘇らせ」

 

 

 

 なのに、彼女は立ち上がりきった。

 足元は覚束(おぼつか)なく、未だ体は幽鬼のようにフラフラしている。俯いた姿勢で表情が見えない。ポタポタと流れる血が薄い金の頭髪を伝って地面を汚す。

 流れる血液を煩わしそうに拭い、彼女は髪を掻き上げる。それで彼女の頭髪が更に血に染まる。

 しかしその姿と動作すら、退廃的に美しくまた妖艶だった。

 

 

 

 

「…………御名(みな)の為に我が正道へと導かん」

 

 

 

 その声は、教会で聖句を唄う子供のような声だった。

 だと言うのに、無機質な声色は彼女に何よりも似合う。聖句の言葉は意味を成さない。彼女がその言葉に乗せているのは何か——それは、少なくともこの国の人間には分からない。彼女はその言葉に何も乗せていない。ただ彼女は、その言葉の主をイメージしているだけだ。

 

 

 

「…………何を」

 

「…………たとえ死の谷の影を歩むとも、(わざわい)を恐るるまじ………主が我と共にあるが故に」

 

 

 

 その体で一体、何が出来ると言うのか。

 しかしルーナはギャラハッドの言葉に反応しない。

 俯き髪を掻き上げた姿勢のまま、駆り立てるように彼女は口を動かす。

 彼女はイメージする。イメージ出来るだけだ。この島、否、この時代にはイメージを現実にする鏡像がない。

 なら——全て偽物で良い。

 

 

 

「…………貴方の(むち)と貴方の杖が私を慰める」

 

 

 

 フラフラとしながら、凄然と言祝がれていく、何かの詠唱。

 彼女の容態と様子も相まって不気味で仕方がなかった。だと言うのに、彼女のその声は人を否応にも惹き付けるナニかがあった。穏やかなモノではない。

 魔性。呪い。そう言う類いのモノ。教義の言葉、祝福の聖句は堕天している。

 その言葉の主も、もしかしたらそうだったのかもしれない。

 

 

 

「……………貴方が我が敵の前で宴を(もう)け、我が(こうべ)に油を注がれる」

 

 

 

 肉体に刻まれていく線。

 赤い回路。それが心臓から伸びるように両手に刻まれていく。身体中に浮かんで来る。同時に両腕から滲み出る黒い霧。その黒い霧に纏われながら、しかし赤い線だけは輝き光を放つ。

 それはまるで、両腕が血に濡れているようだった。

 

 

 

「…………(さかづき)は溢れ、我が恵みと慈しみを(もたら)すだろう——」

 

「…………………………」

 

 

 

 不意に背中に冷たいモノが走ったように、ギャラハッドは体を震わせた。

 この鳥肌は何か。明らかに彼女は戦える身ではない。誰がどう見ても自分の勝利は揺らがない。だと言うのに、この不穏な空気は何だ。

 分からない。ギャラハッドには分からなかった。

 冷たい威圧。空気が途端に冷え込む。感じるのは不明瞭にして——絶対的な死の予感。

 ざわついている。辺りの騎士達も同じなのだろう。彼女の様子を見て、広間は段々と騒がしくなって来ていた。

 

 

 

「…………擬似投影、装填(トリガー・オフ)

 

 

 

 聖句が終わった。

 頭髪を掻き上げていた右手が、糸の切れた人形のようにダランと落ちる。

 額から流れる血で汚れた右手。正にその姿は、幽鬼にしか見えない。

 

 

 

「…………全工程投影完了(セット)

 

「———ッ」

 

 

 

 ギャラハッドは即座に盾を少女に向けた。

 彼女が告げた言葉は、魔術の詠唱。時に詠唱は派生するが、根本は変わらないそれ。

 幾度と告げたその言葉。その魔術の行方は、彼女を見た者なら誰もが知る。しかしその本質は理解出来ない。彼女以外には理解出来ていない異端の魔術が現実を侵食する。

 

 

 

「……………憑依経験………」

 

 

 

 本当に魔術なのかどうかも分からない、変革の言葉。

 彼女だけがその魔術の名前を呼ぶ。即ち——投影魔術と。

 

 

 

「……………投影——」

 

 

 

 金属が擦れる甲高い音を撒き散らし、刃が彼女から滑り落ちる。

 スカート状の草摺の裏に仕込んでいる、無数の十字架。

 両手に握るは、八つの十字剣。片手に四本ずつ。指で挟み込める最大本数。

 十字架より伸びるは淡く輝く不透明な刀身。柄と呼べるものは殆どなく、指で挟み込んだそれは、暗殺者や執行者としてある彼女が愛用する武器。

 ブリテンの騎士達に愛用者は一人も存在せず、ただ彼女だけが扱い、彼女が口にするその武器の名は——黒鍵。

 

 その奇妙にして、少女以外にまともな使い手のいない刀身を知る者は多い。彼女が稀に使用するからだ。

 勿論ギャラハッドもその一人だ。だが、今の彼女が手に持つ——赤い線が刻まれ始めている黒鍵は、見た事がなかった。

 

 

 

「———開始……」

 

 

 

 音がした。

 何かの金属を叩いたような、燃える金床に鉄を打ち付けているような、カン、と言う甲高い音。

 カン、カンと音が響く。音と共に大気が震える。気配が変わる。

 その度に、彼女の肉体の規則的な回路は、ガラスのヒビのように変質していき、更に複雑な形になっていく。白磁に刻むヒビは赤。指先へと伸びる赤い回路。それが黒鍵の柄にまで伸びると、黒鍵の刃もガラスを割ったような線が刻まれていく。

 音が響く。絶えず、その音がナニかを砕き、(なら)していく。気付けば黒鍵の刃は全て砂のように崩れ、切り替わり、ただの赤い刀身に成り果てた。

 

 

 

「————————」

 

 

 

 深い、深い、深呼吸。

 それを少女は数回繰り返す。響く音は規則的に響く鉄を均す音ではなく、ドクンドクンという規則的な脈動に、いつの間にか変わっていた。

 肉体から噴出する黒い霧。

 人の形に納められず、可視化出来る程に垂れ流され始めた彼女の魔力の波動は禍々しく、黒鍵の赤い刀身は、ナニか致命的なモノが歪んだ気がしてならない。

 

 

 ギャラハッドは気付かない内に冷や汗をかきながら、ルーナの動きを待っていた。

 

 

 彼女は何をするつもりなのか。

 未だ俯き、表情は見えない。構えを取らず、だらんと垂らした両腕に黒鍵を握っている。ガリガリと刃が地面を擦れる音を響かせて、ゆっくりゆっくりと此方に歩み寄る姿には恐怖しかない。

 不意に、彼女は表情を上げて、此方を真っ直ぐに見据えて来た。

 瞳は虚ろ。額から血を流す姿は明らかに重症。流れ出る血のせいか左眼が動いてない。しかし、だと言うのに——ギャラハッドを襲うのはあまりにも濃厚な死の気配。油断すれば次の瞬間には負けている。いや——死んでいる予感が体中を支配する。

 

 

 

「ハ———ァ」

 

 

 

 ゆっくりと歩み寄りながら、規則的に繰り返される深呼吸。

 そして、彼女が大きく息を吸い込んだその瞬間——ルーナの右腕が消えた。

 

 

 

「———ッ!」

 

 

 

 いいや、正確には違う。

 ただギャラハッドでは視認出来ない程の速度で刃が振り抜かれただけ。

 彼女の殺意と行動から、ギャラハッドは即座に構えた盾を動かした。彼女の投擲の狙いは、全て頭。彼女の動作は見えていない。しかしギャラハッドは経験と反応速度を以って、音速の投擲を防ぐ。

 

 放たれた四本の黒鍵の衝撃は凄まじく、大岩に四つの穴を穿つのではという威力を秘め、盾から轟音を鳴り響かせた。その直後、赤い光の残滓となって黒鍵が全て砕け散る。

 

 防いだ彼女の初手。

 次に来るべき少女の攻撃を見据える為、盾越しに彼女の姿を確認しようとして、ギャラハッドは思わず目を奪われた。

 

 

 ——彼女がいない。

 

 

 ギャラハッドの視界に映るのはブーメランのように回転し、放物線を描いて飛んでくる四本の黒鍵だけだった。だが狙いは外れている。真上に二本。左右に二本。今、自分を通り過ぎて後ろへと飛んでいった。

 まさか、次の投擲は外れたのか。分からない。すぐさま頭を回して、しかし意図を察する暇はギャラハッドには与えられない。

 

 自分のすぐ目の前。

 盾の下。

 自分のすぐ下の視界の陰となる部分から、旋風がした。

 

 

 

「————ッッッ!!」

 

 

 

 頭よりも先に動いた脊髄反射が先じて、ギャラハッドは地を蹴ってその場から一歩真後ろへと引く。その場には、視界の陰となるように身を低くし、後ろ回し蹴りを放つ体勢にいた彼女がいたのだ。

 

 あまりにも速すぎる。既にあらゆる行動、予備動作すら終わっている。

 彼女の瞬間的な加速は理解しているが、それを含めても今までの比ではない。

 軸足の右脚の地面が陥没している。左脚が魔力の渦を巻いている。

 

 

 ——まともに受ければ、死。

 

 

 しかし反射的に動いた肉体に先じて、ギャラハッドは少女の必殺となる間合いから一歩分離脱していた。

 蹴りの一撃は有効射程から逃れた瞬間、必殺となる威力が途端に消える。この一撃は空振る筈だ。が、ギャラハッドは驚愕を味わう事になった。

 

 ギャラハッドが一歩分引く事を想定していたのか、動いたのは左脚ではなく——右脚だった。

 指足すら跳ねて、距離が詰められる。空いた一歩分が消える。限界まで左脚を振り絞ったその体勢のまま、その一歩を。

 そして、ギャラハッドは彼女の必殺の間合いに完全に入り込んでしまった。

 

 未来予知、天性の直感。

 幾度の可能性がギャラハッドの頭を過ぎる。

 ギャラハッドは知る由もない。

 ただ単純に、彼女はギャラハッドの行動を見てから選択しただけ。分かり易く言えば、彼女は後出しで最適解を選んでいるだけ。しかし、傍から見ればギャラハッドが一歩退くのと、ルーナが一歩詰めたのは、同時に動いたように見えていただろう。

 それ程までに、今の彼女は異次元の領域にいた。

 

 不味い、受けられない。

 ギャラハッドは後退しながら盾を体に手繰りよせる。魔力防御を展開すれば、その一撃に耐え切れるだろう。今までの経験から、全力の防御姿勢でなくとも、魔力を展開すれば少女の一撃は耐えられると想定した。

 が——ギャラハッドは立ちどころに、二度目の驚愕を味わう事になった。

 

 旋風の如き魔力を帯びた左脚が跳ねた。

 槍の如き、鋭い後ろ回し蹴り。それがギャラハッドの盾の中心へと轟然と放たれ——城壁にも等しいギャラハッドの魔力防御を真正面から砕いた。

 

 

 

「———なッ!?」

 

 

 

 雪花の盾の淡い輝きが、ガラス片のような残滓となり砕け散る。

 盾の表面を覆うように顕現させていた魔力放出と同系統の魔力防御が、壊れた。今まで誰にも敗れなかったギャラハッドの守りを、真正面からルーナは砕いた。

 その絶技、ギャラハッドはすぐに思い至り、しかし………——自身が知るモノとは明らかな差がある事を思い知る。

 

 一歩分空いた距離を、都合の良い助走距離にしてみせた軸足による跳躍。

 肉体の体重移動。腰の回転。肩の捻り。文字通り——肉体全身を凶器とし、同時に肉体全てを一つの機構に変えた一撃。

 それは、ローマ皇帝ルキウスとの戦いで嫌になるほど受けたそれ。

 だがそれは本質ではない。その肉体の動きを、ナニかに重ね合わせている。

 

 ギャラハッドは分からない。知る由がない。

 ルーナが放った打撃は、ただ太腿から足先にかけた運動などに非ず。肉体の動き全てを活用した拳法、拳士の動き。

 寸頸。もしくは発勁とも呼ばれる武の一部。

 それをそのまま、全身の魔力放出によって加速させ、二重の瞬発力を脚先一点へと集積させた一撃は、攻城兵器の破砕槌にも等しき威力を秘めていた。

 

 

 訳も分からない驚愕を味わう刹那、ギャラハッドは音速にも近い速度で後方に吹き飛ばされる。

 

 

 当然だ。城塞にも等しい防御を放っていた盾の力が砕けた以上、雪花の盾を握るギャラハッドは人間の範疇に居る。竜の体当たりにも等しい一撃を精々100〜200kg程の盾の質量で抑えられる訳はなかった。

 

 

 制動を何とかすることも出来ず、そのままギャラハッドは壁に叩き付けられる。

 

 

 口から吐き出す血。衝撃で眩む視界。

 しかしその眩む視界に嫌になるほど映るのは——旋回しながら、今まさにギャラハッドを囲うように飛んで来る四本の赤い刃。黒鍵。

 

 その回転する刃を見て、自分の後方へと外れていった四本の刃の意図を察する。

 彼女は投げ放った黒鍵の刃が後方の壁に突き刺さるよりも早く、自分を後方の壁に叩きつけたのだ。

 

 

 動きを縫われている。

 

 

 真上に二本。左右に一本ずつ。

 その場から避けようとすれば、鳥籠の様に囲っている黒鍵の刃が迫っており、しかも真上の二本は自分に向かって一直線に落下して来ていた。

 対処するしかない。

 あの——赤い黒鍵の刀身に触れてはならない。

 壁に叩き付けられた反動で壁から1m跳ねて蹈鞴を踏みながらも、盾を突き出し黒鍵の刃を防ごうとして——再びギャラハッドの全身に悪寒が走った。

 

 

 ——彼女が居ない。

 

 

 まただ。視界内に、血だらけの少女が居ない。見当たらない。

 だがここは壁を背後にした場所。今回ばかりは真下に死角はない。ならば——

 

 

 

「———……………ッ」

 

 

 

 迫る黒鍵の刀身を無視し、ギャラハッドは上を向くと同時に盾を真上へと向ける。

 真上には——彼女がいた。

 上下逆さまに反転し、天井を跳躍する為の地面と見たてて、右脚を振り切り此方に飛び込んで来ようとしている。

 両手に握るは、合計六本の黒鍵。構える姿はまるで翼を操っているように鮮やかで、しかし不気味な赤い刀身が、彼女の翼は血に濡れていると断定させている。

 

 

 今の一瞬でもう二回目の跳躍をしている。彼女が真上から降り落ちてくる。

 

 

 そして、その予想は当たっていた。

 体を跳ねさせてくれた危機予想で、黒鍵を無視して真上に盾を向けなければギャラハッドはここで数ヶ月は目を覚さない重体を負っていただろう。

 天井を蹴り砕き、縦に回転しながらルーナは六本の黒鍵をギャラハッドがいる所目掛けて投擲した。

 同時に、その回転を活かしたまま落下し踵落としを放つ。

 落雷が落ちたと錯覚する程の音。放った震脚の衝撃波が、大広間全体の壁面を叩き、ギャラハッドを大地に沈み込ませる。

 

 

 

「———ぐ……ぅ、ぅあ……」

 

 

 

 ギャラハッドの苦悶の声には、完全に本気となったルーナの一撃を盾で防いだ事よりも、痛みに悶える意味合いが強かった。

 盾を真上に向けた。そうしなければ敗北が確定していた。

 だから、真横から飛んで来た初手の黒鍵の刃を防げなかった。敢えて防ぐ事を放棄したとも言うが、それが彼女の策でもある。

 

 踵落としの前に真上から放たれた六本の黒鍵の内の四本が、初手で投げられた四本の黒鍵に当たり、回転し、跳ね返り、まるで跳弾するかのように機動を変え、盾を掻い潜りギャラハッドを貫いていた。

 命中した場所は、全て足。

 脹脛(ふくらはぎ)太腿(ふともも)の筋肉と腱を斬り、貫き、削ぎ落とすかの一撃がギャラハッドを抉る。

 更に、地面に突き刺さった残りの二本の黒鍵が急速に光り輝き、他の黒鍵と反応して全ての黒鍵の赤い刀身が粉々に壊れた。

 崩れた刀身の残滓が更にギャラハッドの傷口を広げ、足を血塗れにしていく。

 

 痛みはまだどうとでもなろうと、単純な肉体としての機能が低下された。

 それだけじゃない。赤い刀身が貫いた箇所から急速に力が抜けていく。更には壊れた赤い刀身の残滓が傷口から肉体に広がり、痛みと共に体全身が麻痺していく。呪いか、毒か。それに近いナニかが体を侵食していた。

 

 

 明確に動きが鈍るギャラハッド。

 

 

 盾はおろか、肉体を支え切れないと言わんばかりに沈んでいくギャラハッド目掛けてルーナが再び動く。

 放った踵落としの慣性など働いてないとばかりの制動。

 倒立背転で身を翻し、宙を舞って地面に着地し、真上に振り上げられた盾を掻い潜った。

 一挙手一投足で行われた制動がギャラハッドに迫り、その場に拳が放たれる。ギャラハッドがなんとか避けた瞬間、背後の壁が陥没した。

 

 倒れ込むように逃げて、その場から離脱しようとするギャラハッドをルーナは逃がさない。

 彼女は黒鍵を引き抜いた。再び片手で四本。引き抜く動作からのそのまま投擲。ギャラハッドは盾で受けるしかない。更に体勢が崩れる。幾度の攻撃を受け止めて来た疲労が限界に達し、盾が正面から外れた。

 ガラ空きになったその視界。

 ギャラハッドに向けて、顎下からの突き上げを狙う拳が必殺の威を以って放たれる。

 

 

 

「ぐ————………そこだッ!」

 

 

 

 痛みを無視し、ギャラハッドは再び地を蹴り後退する。

 同時に僅か一瞬ながら魔力防御の力を復元し、盾を突き出して、収束させた壁を前方へと顕現させる。

 ルーナとギャラハッドの間に現れる白い壁。それは遠き未来、とある雪花の少女が使う【時に煙る白亜の盾】と呼ばれる事になるモノの原型。

 刹那の時間だが、とある宝具と同じ強度を誇る白亜の城壁を任意の場所に展開する(スキル)

 

 間一髪間に合った白亜の城壁により、首を落とすが如きルーナの黒い呪詛を纏った拳が半透明な壁に防がれ、その壁の後ろのギャラハッドの鼻先を掠めていく。

 呪いも災いも、その全てを弾く白亜の城壁が、彼女の禍々しい一撃を完璧に防ぎきったのだ。そして刹那のみ顕現出来た白亜の城壁が消えた瞬間——続けて飛んで来たルーナの右踹脚による蹴りがギャラハッドを貫いた。

 

 槍による刺突の如き一撃が盾の裏側からギャラハッドの両腕へ致命的なダメージを与える。盾を突き出していた都合上、衝撃が全て肘へと集まりヒビが入る。

 ギャラハッドは地面を転がりながら跳ね飛んでいた。

 

 その連撃。

 空振った攻撃の回転を活かした、逆脚による後ろ回し蹴り。両方が必殺。最初の一撃が当たればそのまま必殺となり、逆に外れれば、最初の一撃をフェイントとして二撃目が来る脚技は、飽きる程に見たルキウスの剣闘術の一つ。

 

 

 為す(すべ)がない。

 

 

 どんな攻防をしようと、後出しで最適解を決めて来る。

 しかし此方から手を打たなければ、彼女にそのまま負ける。刻まれるダメージ。最悪を逃れる着手は、悉く全てが最悪ではないだけの悪手へと成り果てている。

 

 地面を転がりながら、しかしその思いに闘志だけは決して呑まれず、ギャラハッドは体を立て直した。

 疾うに体は傷だらけ。地面や壁に叩き付けられた衝撃が全身にダメージを刻んでいる。肺への一撃で呼吸が霞む。

 彼女と同じく額から血を流しながら、鋭くルーナの姿をギャラハッドは睨み、勝利への活路を探した。

 

 ギャラハッドに猛然と突進してくるルーナ。

 黒鍵は左手に三本。右は無手。しかし、赤い回路から魔力の残滓として火花を散らしている右腕の威力は禍々しい。小柄な肉体を屈めて疾走して来る姿は、さながら蛇が地面を這うが如く。

 

 

 

「——うぉぉぉぉああああッッ!!」

 

 

 

 しかしそれに応えるように、ギャラハッドはルーナと同じく突進する。

 先程から、終始防戦に回り続けてばかりなのだ。このままでは岩を少しずつ削るように負ける事は見えている。

 それに、彼女の一撃を受け止める為の肘が壊されたのだ。攻撃を受け止める肘は痙攣したまま。精細さにかけたのなら、もう竜の一撃を耐えられない。ならば前へと詰め寄り、彼女へ渾身の一撃を頭に叩き込む——

 

 

 

「————————」

 

 

 

 そのギャラハッドの動きを、ルーナは冷たく見据えた。

 浮かぶ感情はない。剣戟による鋭い一撃ではなく、拳撃による鈍い衝撃を叩き込み続けた以上、こうなる事は見えていた。

 だからギャラハッドのいきなりの動きに対しても、彼女は次の行動を自らの肉体に、寸分の狂いもなく実行(コマンド)する。

 正に空虚な殺人機械。それを成し得る為の武練の技だけが、空想の産物として、彼女の脳裏から肉体に装填されている。

 今の彼女はただの鏡。いずれは霧散する鏡像。ただ肉体に投影しているだけの出力機。

 

 反転し突進して来るギャラハッドをルーナは見据えた。

 その姿を脳裏に変換する。かの盾の騎士の姿をイメージする。ギャラハッドが出来る行動の全てを脳裏に浮かべる。

 

 黒鍵投擲からの拘束は間に合わない。/ ならば別の攻撃を放て。

 動作速度がずれる。/ ならば補正しろ。

 必殺の間合いが伸びる。/ ならばここから飛べ。

 

 左手に握る黒鍵をルーナは捨てる。

 落とした瞬間、拳を握る。

 距離は本来測らなくてならない二倍。ならばその二倍早く——拳を振り被る。

 

 

 

「————-ッ!?」

 

 

 

 ギャラハッドは戦慄する。

 既にルーナは盾の真下に居た。

 何の足捌きも見せず、魔力放出の予備動作を誤魔化し、地面と平行に滑走するかのように一足でルーナは距離を詰めて来ている。

 それは、縮地、活歩と呼ばれる歩法の極み。

 だが所詮は形だけが同じモノ。本物とは程遠い偽物の技術。魔力放出による人間の武練の埒外にある加速法を中身とし、無理矢理再現しただけのものだ。

 当然、その代償はある。着地した瞬間に右脚は衝撃で砕けるだろう。

 関係ない。全て無視する。痛みも無視する。まだ動く。どうせ後で治る。

 

 

 自らの身体の負荷と脳へのダメージを天秤に入れ、彼女は躊躇いもなく渾身の一撃を振りかぶった。

 

 

 その一撃は、小指側を打撃面とした鉄槌打ちと呼ばれる技法。

 裏拳に近い形で放てるそれは、人体の構造上最も速く力を込めて打てる打撃技。それを下から上へと、居合い斬りを放つように打つ。

 

 ギャラハッドの懐に滑り込む刹那に身を屈め、足とバネ、腰の捻り、体重移動、肩の制動を一点へと張り、力の流動を腕の先へと全て乗せる。

 文字通り全身が凶器。肉体全てが一つの機構。

 

 

 拳が大気を抉り抜き、旋風を撒き散らしながら振り上げられた。

 

 

 それはギャラハッドの盾の端を捉え、抉るように力を流転させ——ギャラハッド本人をその場に残したまま盾だけを回転させて弾き飛す。

 拳の風圧の残滓が、天井に穴を穿ち、周囲にヒビを刻む。

 

 その代償としてルーナの左手が砕けた。指先が動かない。拳が握れない。手首から先に感覚がない。

 ——だからなんだ。

 関係ない。痛みは無視出来る。まだ治る傷の範疇。ならば無視しろ。それに盾を失ったギャラハッドを倒すのに左手の拳は要らない。次で全てが終わる。

 

 

 そう冷たく判断する中ルーナが認識したのは——片手で剣を突き出してきたギャラハッドの姿だった。

 

 

 普段は両手で持つ盾を片手だけで握り、彼は盾を容易く弾かれ易くしていた。その盾の陰で、片手で剣を握り、ギャラハッドはルーナへと突き出したのだ。

 迫る剣。鞘に入れたままの剣は棒術として打撃技となり、再び当たればルーナは今度こそ昏倒するだろう。

 

 これを最後の攻防に、戦いが終わる。

 勝利を確信する。

 ——ただ、ルーナ一人だけが。

 

 

 

「———————は」

 

 

 

 ルーナの額へと突き出した剣。

 それに先じてルーナは右腕を振り翳した。右手の手首が、刺突される剣の切先に触れた瞬間、肘先が螺旋を描き、竜巻を生まんばかりの勢いで捻り上げる。

 そのまま、敵の拳を巻き取って受け流すかのようにルーナの右手は剣の刺突を掻い潜り、ギャラハッドの右手首を掴んだ。

 

 ギャラハッドは抗えない。

 万力のような力が働き、そのまま手首を握り潰す程の力で、ルーナの指が絡まる。

 身を引き寄せるように腕を引っ張るルーナの膂力にギャラハッドは上半身と下半身のバランスと中心線を崩した。

 その懐に、低く身を屈めたルーナが死神の如く滑り込んで来た。ギャラハッドの右腕の下をルーナは潜る。

 次の瞬間、まるで怪我人に肩を貸すかのような姿勢で、ルーナはギャラハッドの右腕を肩の後ろに背負い込んでいた。

 

 

 

「フ——ッ!!」

 

 

 

 その瞬間、開戦する前に行われていた、彼女の深い、深い、深呼吸の吐気が遂に解放される。

 抉るようにギャラハッドの鳩尾へと放たれた左腕の肘は、全ての衝撃を逃さず肉体に叩き込み、彼の鎧甲冑を砕き、瞬時に身体全てへとダメージを刻む。

 同時に跳ねる左脚がギャラハッドの足を刈り取り、宙に浮かせている。

 

 受け身を取る事など出来ず、ギャラハッドは宙を舞う藁屑のように回転し、放物線を描いて壁へと激突した。

 ギャラハッドがルーナへとやったのとは対象的に、ギャラハッドは肉体へと叩き込まれた衝撃か、全身が痺れたように震えながら地に伏していた。

 激痛と脳裏を焼き尽くしているだろう衝撃で痙攣している姿だけが、彼はまだ生きていると証明している。

 

 戦闘不能。

 最初の騎士らしい剣と盾のやり取りとその結果とは真逆。己の二本足で立つのはルーナで、地に伏しているのがギャラハッド。

 

 勝利したのは、彼女ただ一人。

 それを正面するように、遂に彼女は再び呼吸を始めゆっくりと吐気をし、戦闘への意識を霧散させていく。

 

 

 

 

「……………………」

 

 

 

 再び広間が静まり返る。

 荒れ果てた大広間。その中心に立つ少女。だがこの戦いを見てルーナをただの少女と侮れる者など誰も居ない。冷たく無言でギャラハッドを見据える姿は、人間的ではなく超越者のそれでしかない。

 

 彼女にだってダメージはあった。一目見て、明らかな重症と分かる程のだ。

 頭からは今尚血を流し、体と頭髪を赤く濡らしている。左手の指先は砕け、肘も砕けたのか血が滲んでおり、右手は剣を受け流した時の紫色の痣が、未だ浮かび続ける赤い回路を塗り潰すように一直線に刻まれている。

 足も酷く、両脚は滲む血に濡れて、打撃痕の跡で紫色に変色していた。

 

 

 しかし、彼女は立っていた。

 

 

 痛みに悶える訳でもなく、何か苦痛の表情を表す訳でもなく、無言で。端正な表情は一つも動かさず、影絵の絵画のように静か。身じろぎもしない佇まいは、己の秘密を暴いた騎士を倒し切るという名目を終えた人形のように。

 何たる光景か。もはや彼女を怪物と形容するしかない。

 一体どんな執念が、ここまで人を錬磨していくと言うのだろう。

 彼女の今までの数々の技は、ブリテンでは誰もが見た事がない。そもそもあり得ない技の武練の数々。一つ一つの熟練度はあり得ない程に高いというのに、一切の一貫性がない。

 

 

 思わず彼らは身震いする。

 

 

 際限なく、まるで無造作に継ぎ接ぎしていき無限に積み上がっていく彼女の力。

 その姿は、騎士というより剣士。剣士というより戦士。そして——戦士というより、修羅。

 数年前、ランスロット卿と一騎討ちして負けたという事実が覆り始めていた。

 

 今の彼女はそれこそ無窮の空を覆い隠す嵐になれる程に、力を積み上げたのではないか。

 合う合わないなど関係なく、向き不向きなども関係なく、全てを無尽蔵に呑み込み継ぎ接ぎにしながら積み続けるその終着点。

 生命としての格も、人間としての力も、その全てを獲得した者。対人、対軍、対城。その全てを穿つ修羅。竜の化身。人の形をした竜。竜と同じ力を持つ、人。

 それを前に、性別など些事でしかなく。

 即ち、彼らの脳裏に過るのは——円卓最強の四文字。

 

 

 

「アーサー王。決着はつきました。これで私の勝ちです」

 

 

 

 静寂を破ったのは少女の声だった。

 誰もが再び認識する。男性ではなく女性の声。不気味な呪文とは違う、意志の篭った彼女の声は自然とその場に染み渡る。かの影武者は、自然と広間の中に透き通る清廉な声の主であった。

 ざわつきの中でも、彼女の一言は簡単に分かるだろう。強く気高い意思の持ち主は、アーサー王へと振り返る。

 

 だがその冷たさだけは、彼女を彼と認識していた時から変わらない。

 覚悟もなく相対した者を、魂から凍らせる竜の一言だった。

 

 

 

「————……………………」

 

「とりあえず、ギャラハッドが提示したあの条件は否認してください。今の内は。

 ギャラハッドが円卓入りする事を渋っている訳ではありません。ただ今の彼には譲れないだけです」

 

 

 

 流れる血を煩わしそうにし、頭を振りながら彼女は続ける。

 

 

 

「それと最初の、私が次代の王になると言う話、は——」

 

「…………ルーク?」

 

 

 

 ブツっと途切れるように、彼女を支配していた赤い線が消える。

 途端、糸の切れた人形のように膝を崩し、彼女は倒れる。

 

 

 

「——ルークッッ!!」

 

 

 

 意識を失うその瞬間、ルーナの脳裏には最後までアルトリアの声が聞こえていた。

 

 

 

 

 




【詠唱解説】

 主は我が魂を蘇らせ
 御名(みな)の為に我が正道へと導かん
 たとえ死の谷の影を歩むとも、(わざわい)を恐るるまじ、主が我と共にあるが故に
 貴方の(むち)と貴方の杖が私を慰める
 貴方が我が敵の前で宴を(もう)け、我が(こうべ)に油を注がれる
 杯《さかづき》は溢れ、我が恵みと慈しみを(もたら)すだろう

 Fate/zeroから。
 衛宮切嗣との決戦前の——言峰綺礼より。
 

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