アルトリアのように清らかではなく。
ましてやアルトリア・オルタのように冷徹でもなく。
彼女はいっそ、おぞましい程の執念と恐怖すらする妄執を以って立ち上がって欲しい。
鋼鉄の疾風となり、ギャラハッドは廃城を駆け抜けていた。
今まさに、自らの命すらかけた術中に飛び込もうとしている事は自覚しているし、焦りもある。背後に残して来た彼女の事は、特に。彼女の異常な状態は気掛かりだ。
しかしだからこそ、ギャラハッドは後ろを振り返らず、迷わない。
彼女を助ける為には、これが最善。
自らの闘志。彼女からの信頼。彼女の身を案じて足を戻せば、彼女への信頼を失い、この守りも失われるだろう。
城を駆け抜けて、中心の王座に近付く度に濃くなる何かを弾き返しながらギャラハッドは進んだ。例えるならそれは死臭と血臭。噎せ返るほどに集めて腐敗させた臓物の臭い。
正常な人間が何分と居れば、気をおかしくするだろう。それ程までこの空間に染み付いた——呪いと呪詛。
——これは、あの時よりも酷い。
ギャラハッドは城を走り抜けながら表情を悪くさせた。
城を駆け抜けていると、時々目に映る人型の何かがある。人形という事はあり得ないだろう。昔の光景からさらに悪化していた。以前、この城で盾の呪いを浄化した時は、これほどまでに酷くはなかった。
新たに地面に転がっている死体は、新たに出来たものか。
聖杯に近付いている程、柱や物陰の裏で倒れている人型が多くなっている。もしかしたらこの城には、城下町すら含めてもう人間はいないかもしれない。
一体、どれ程の嘆きと絶望がこの城で振り撒かれたのだろう。
こんな死の気配しかしない景観を生み出した所業。
この場に倒れている彼らにも一部の責任はあれど、この光景を生み出した聖堂教会の一騎士に、ギャラハッドは静かなる憤然を抱いていた。
ただ聖杯に向かっているだけで、惨劇の中で亡くなった人々の怨嗟の声が、幻聴として聞こえてくる。それまでの過程を想像するだけで胸が悪くなる。
だが、それがギャラハッドを止める事はなかった。
呪い。嘆き。気が触れる程の呪詛を弾きながらギャラハッドは進み——遂に聖杯があるだろう場所に辿り着いた。
長い回廊を抜けて、天守の両開きの扉を開け放つ。
ギャラハッドの眼前に、王座の間が開けた。
その王座の中心にあるのは——眩く光る黄金の杯。重量を感じさせず、宙に浮かぶ姿は酷く神秘的だった。
だと言うのに———
「あれが———聖杯?」
ギャラハッドは、それが不気味な何かにしか見えなかった。
一目で、あれこそが聖杯であると分かる。なのに本当にあんなものが聖杯だとは信じられない。
冷たい圧力。不気味な気配。釜に吸い上げられていく死の気配に、今か今かと、微睡みの淵から目覚めの時を待っているナニかを内に収めている気配を感じる。
全てを呑み込み、蠢く底で生誕の瞬間を待ち望む生物。
それが中にある。
——あれは、この世に残してはならない。
一瞬の硬直から解けたギャラハッドは、そう確信した。
あれは願いを叶える奇跡の杯ではない。解放されれば、死を撒き散らすだけの物。凄惨な光景を幻視したギャラハッドの脳裏に、一つの姿が浮かぶ。
それは——この城に近付いた途端、苦しみだした彼女の姿だった。
"聖杯を、破壊する"
本物だろうが偽物だろうが関係ない。
降臨の儀式すらも、ギャラハッドの胸中にはなかった。あるのはただ、元凶たる杯を破壊せねばならないという使命のみだった。
ギャラハッドは、形だけは美しいというのに、おぞましいナニかを溜め込んだ聖杯を破壊すべく——ロンギヌスの槍を引き抜く。
その槍はかの救世主を貫き、槍から滴る血を受けた杯が聖杯と呼ばれるようになった、正しき由縁の槍。
しかしその槍を無作為に使用すれば、使用者のみならず周囲にすら被害が及ぶ、嘆きの槍。その槍の解放時は、正に此処だ——
「聖槍——二重拘束解除」
言葉と共に、白銀の槍が変形する。
第一の拘束。その解除によって、槍は黄金の光を宿す。
第二の拘束。その解除によって、血のように赤い本来のロンの槍の権能を取り戻す。
それはもう一つの聖槍。
天と地。神と人の加護を受けた光の槍。
無闇に使えば、所有者の寿命を喰らうに足らず、周囲の土地国すら喰らい尽くす嘆きの槍。
「カウント——」
奇跡は疾うに穢れている。
尊き奇跡はここにはない。
ならばこの聖槍——元ある場所に返上致す。
ギャラハッドは槍を握り、狙いを定める。
そうして大きく槍を振り被った、その時だった。
「———ッッ!?」
何の前触れもなく、地面が揺れた。
それと同時に、火山が噴火するように聖杯から溢れ出る——黒い泥。
思わず、ギャラハッドはその光景に凍り付き、揺れる地面に足をとられる。
ナニかの脈動。脳裏に響く産声に、ギャラハッドは気圧された。
酷い光景だ。急速に辺り一帯が黒一色に侵食される。だからこそ彼は確信した。
この黒い泥は、途中で止まる事なく無限に溢れ続ける。
いや、それが本当であるかは分からない。分からないのだ——聖杯が奥底に溜め込んでいるだろう、ナニかの大きさが。
大きさではなく、もしかしたら量と例える方が相応しいかもしれない。
聖杯という器。それは世界に空いた孔。繋げてはいけない異空に接続してしまったような感覚。底抜けに深く重い闇が、全てを押し潰す超質量として顕れている。
今も尚、聖杯から溢れ、辺りを侵蝕し融解していく黒い泥。
あれは止まらない。どんなに少なくとも、この島の全てを呑み込むまでは。
「————…………ッ」
急に明確な形を成した聖杯に釘付けになっていたギャラハッドは、すぐに体を起こし、飛び退いた。
聖杯から溢れ出る泥——それが人の形を成して襲って来たのだ。
聖者に縋り付く亡者のように、這い蹲りながらギャラハッドに迫る黒い影。
その影の動きは遅かった。
ギャラハッドにとってすれば躱す事は容易い。だが、じわじわと溢れ続ける泥を考えれば、全く楽観視など出来ない。
数が増える。量が肥大する。逃げ場が無くなる。
このままでは何も解決しない。
ギャラハッドは己が最も信頼出来る盾に持ち替え、泥に対抗する。
浄化の力を持つ、聖盾の力を解放し辺りに浄化の力を降り注がせる。
「——この盾が、通じる………?」
そういう意図はあったにせよ、想像以上の効き目にギャラハッドは驚いた。
その場に突き立て、魔力防御を押し出し展開する。盾から中心に辺りへと響く浄化の波動。それは波紋のように広がり黒い影を霧散させていった。あまつさえ、黒い泥の侵攻を遮るばかりか弾き返した。
「通じる……! でも———」
多くの影が消えた。多くの泥が退いた。
しかし元凶の杯は依然としたまま、多大なる圧力を放ちながら泥を湧き出している。
再びギャラハッドを襲う影。増え続ける泥。
ギャラハッドは一歩も譲らない。
盾の真価を発揮し、白亜の如き聖なる壁が、津波にも等しく押し寄せる泥を防ぎきり——同時に、防ぐだけで手一杯という窮地にギャラハッドは襲われ続けた。
聖杯に一歩も詰め寄れない。
聖杯を破壊する為には槍の拘束を解かねばならず、しかしその時間すら与えられない。
滅びへのカウントダウンを加速させる聖杯に対し、趨勢の定まらない持久戦を余儀なくされる。
希望の見えない状況の中、ギャラハッドは必死となって盾を振るった。
死の淵を垣間見た生き物は、その死を回避する為に通常では必要とせず、また生きていく上では必要のない力に目覚める事があるという。
最後の悪足掻き。火事場の馬鹿力——そう言う次元ですらない覚醒の時。
それは今までの価値観が変わる瞬間。それは見えている世界が切り替わったのを理解する刹那。
——当然、そんなモノは私にはなかった。
当たり前の事だった。
私に眠っている才能などない。あったとしても、きっと全て消費した。
私を私足らしめている原初の強さは、後天的に得た卑王の心臓があるから。私を更に高みに押し上げてくれたのは、幾千の英雄達が極めた技を一部再現出来るが故。
ただの呼吸だけで人域を逸脱し、幻想種最強の魔力をその身に宿す事の出来る竜の炉心。
一つ一つが究極。故にその一部を借りただけで、凄まじい年月と経験を借り受けられる、異質な投影。
故に、私自身に才能はない。
私が振るう才能は、全て他者のモノだった。
だから、死の淵で目覚めるモノなどありはしない。私にあった才能は、しいて言うなら誰かの真似をする才能だったと言う事。
そう。それが現実。どうしようのない事実。
私は非才だ。私自身は何処までも非才だった。
こうして死にかけている時に、それが良く分かる。
竜の炉心が動かない。魔術を駆使出来ない。
私のこの力は、全て魔力から始まる。
魔力が使えない以上、魔力放出は使えず魔術は行使出来ない。
結局私はこの様だ。私には何も出来ない。私自身では何も出来ない。自分に才能がないから。だから私は、ここで死に伏している。
ただ悔しい。吐き気がする程に悔しい。その事実と己の不甲斐無さで、内側が焼け付く音がする。
努力はした。
借り受けた力を正しく使う為の努力は、確かにした筈だった。
でも…………それだけ。
そう。どうやっても、どれだけ足掻いても、努力では覆せない時がある。
後天的に得た力では、生まれ付き持っている先天性の力に敵わない時がある。
戦えば戦う程明らかになった。
私には才がない。私自身の才がない。私は能無しだ。私は、私である意味がなかった。この力が別の者に渡った瞬間、私自身の必要性が消える。私の力を持つ誰かがいれば、自分の存在意義が激減する。
消えていく。竜の炉心が動かなくなった瞬間、私が死んでいく。
地面に横たわりながら、ただそれだけを自覚していた。
呼吸が段々と薄くなる。視界が暗くなる。流れ出る血と共に、体から魂が抜け出ているような感覚がして、肉体で感じる温度が冷たくなる。
死の淵で、世界が切り替わる瞬間など目撃出来ず、ただ視界が闇に包まれていくばかり。
深い深海に沈んでいくような無音の世界。底の無い暗闇にゆっくりと落下していって——ようやく奈落の底に着いたのに、私は何も出来ない。
この時になってもまだ、私は何かに目覚める事はない。
新たな扉は開かれない。過去を凌駕する感覚を私は得ない。
私は無能だ。
私が私を。ルーナという自らを呪い、恨み、嫌悪し、憎悪する。
その不甲斐無さに、全身が焼け付く音がする。
あぁ、私に才能があれば——
醜くもそう思った。こんな時になって、それを願った。
母を、兄を、顔も知らない父を呪っている訳ではない。自分の家族を恨んでいる訳ではない、のに、それを渇望してやまなかった。
私に私だけの力が最初から有れば。私が私である意義があれば。
私に、私だけが持てる先天的な力があるなら、それなら何だって良い。今この瞬間、たとえほんの数瞬でも良いから、私が私を凌駕する力が欲しい。
まだ、まだ私は——こんなところでは死ねない。
胸に穴が空いていようとも、竜としての力が無い中でも、地の底から這い上がれるだけの力が欲しい。
天に向かって手を伸ばす。
暗い奈落のそこから、黒い星に向かって手を伸ばす。
何だって捧げる。何を代償にすれば良い。
私には核がない。ならば私が捧げられるモノなど、この精神と理性しかない。
音がする。自らの不甲斐なさに、体が焼け付く音がする。
ただ、今この瞬間だけの、この僅かな時間で良い。
本当に、この刹那の時間だけで良い。良いんだ。だから、まだ立って、立ち上がって、戦う為の力が欲しい。
吐き気がする程、ここから立ち上がれるだけの力が欲しい。
今の私が要らないモノを持ち過ぎていて、もう持てる容量がないというのなら、私は捨てる。捨てても良いんだ。
恐怖で身が竦むと言うのなら、心を無にする。
痛みで足が進まないのなら、感情を削ぎ落とす。
思考にノイズが走るのなら、自我を封印する。
要らない要らない。全て要らない。今だけは、何も要らない。
今までの経験も、報われない人々の想いも、怒りも、嘆きも、慟哭も、私がたった一つだけ守り続けている——私が剣を取った原初の理由さえも、この身を駆動させる薪として焚べる。
だから、動け。
どうか、動け。
この思いを薪にして、動け——
音がする。
こうまで願う己の自身の不甲斐無さに。
自らの力の無さに。
脳裏に響く、魂が軋むような音。自分がどうにかなりそうな音。
聞こえてくる。
鉄が軋むような音がする。
焼け付く音がする。
——音がする。
黒い"太陽"の下——魂が焼け付く音がする。
「何だ、アレ——」
その場から離れようとした時、グリフレットは空に浮かぶソレに気付いた。
空の中心。廃城の真上に浮かぶ、黒々と渦巻くナニカ。
それは新月——のように見えた。
最初は辺りが夜なのもあって、そうだと見間違えた。
だが違う。あれは月などではない。新月は、あのような黒い光を発しない。
「黒い太陽———」
言葉ではそう言いながら、グリフレットはそれすらも真実に思えなかった。
例えるなら天上に穿たれた孔。底無しの闇を溜め込み、呪いと怨嗟を振り撒くナニか。あまりにも重い。あの孔の真下に居る訳でもないのに、体をナニかが犯そうとしている感覚がする。
「呪いの塊か…………」
だが、丁度良い。
アレに向かって、この世全てから魔術師を消せと願えば正しくその通りになるだろう。祝福の奇跡を叶える願望器より、此方の方が何よりも相応しい。
しかし、あまり時間に余裕もないのだと理解した。
グリフレットは廃城に入る為、茂みを抜けようとする——その時だった。
金属と金属を凄まじい速度で擦り合わせたかのような轟音。
それは——鞘から剣を抜いた時の音に似ていた、と理解するよりも早く、反射的にグリフレットは振り返る。
瞬間、瞳に映る黄金の輝き。
それは旋転しながら彼の脳天へと迫り、風を撒き散らしながら既に眼前に——
「————ッ」
今まで幾度の魔術師を殺し、死戦を潜り抜けて来たグリフレットの戦術的経験からなる直感が、彼を救った。
咄嗟に屈んで避ける。
刹那、彼の背後にあった木の幹に深々と突き刺さった——黄金の剣、カリバーン。その突き刺さった高さは、丁度彼の脳天があった場所。即死を求めた一撃。
この場でそんな芸当が出来る人間は一人しかいない。
木の芯を貫通して突き刺さっている黄金の刀身に身震いしたグリフレットは、改めて理解し、向き直る。
そこには、血塗れになりながら立ち上がっていた——ルーナの姿があった。
「ハハハ…………いい加減にしてくれよ——」
言葉では軽口を叩きながら、身震いが止まらなかった。
俯いて表情は見えない。幽鬼として蘇って、死体が動いていると言われたら納得出来る。何せ彼女の胸は剣で貫かれ、穴が空いているのだ。
今も尚出血している彼女の肉体を見れば、明らかに立ち上がる方がおかしい。
後方で、カリバーンの突き刺さった木が折れる音がした瞬間だった。
僅かに意識を取られたグリフレット。
瞬間、狙いを定めた獣のように彼女が迫る。
「ふざけんな——」
即座に飛び退いて、彼女に黒鍵を投げる。
飛んだ刃の切先を膝に受け、脚装束を貫き通しながらも——彼女は止まらない。
距離を取るグリフレットの何倍も早く動き、地面に落ちているカリバーンを握り、グリフレットに向けて剣戟を放つ。
それは僅か、数瞬の刹那で行われた。
振り落とされる剣。
だが、その剣はグリフレットに当たらず地面を抉るに留まる。
反射的にグリフレットが避けていたのもあった。しかしそれ以上に、彼女は自らの力を制御出来ていなかった。彼女は、グリフレットをやや飛び越した地点に剣を叩き落とし、地面を捲り上げながら転ぶ。
それに命を救われたと理解しながら、しかしグリフレットは攻勢に移れない。剣が振り落とされた衝撃でグリフレットは吹き飛ばされていた。
思わぬ反撃に頭が眩みながらグリフレットが立ち上がるのと、自らの制動を全く制御出来てなかったのか、先程の跳躍の衝撃で派手に地面を転がったルーナが立ち上がるのは同時だった。
此方を射抜いてくる視線。彼女の瞳に浮かぶは修羅の如き執念の炎。
彼女の姿からは理性というモノが感じられない。
飢えた獣。怒り狂った獣。呼吸は荒く、陽炎のようなオーラが彼女を支配している。
逆鱗に触れた竜なら最も気高いモノだろうが、今の彼女にそれもない。
「………………何だ、それ。何かが——抜け落ちた?」
立ち上がり互いに睨み合って、グリフレットは気付く。
ルーナの姿は、何か変質していた。
明らかに瀕死だと分かる様子なのに、瞳は血走っており飢えた獣のように呼吸は荒い。それはある。だが何より、見た目が変わっていた。
彼女の体半分。右半身に——色が戻っていた。
あまりに薄い肌は人間らしく戻り、掠れた金髪には、星の光のような輝きが戻っている。金砂のような髪が揺れていた。
そして何より一番の違いは——右目が翡翠色だった。
左目は金色。右目は翡翠。
左半身は人間味が薄く、しかし右半身は光を失っていない。
それは何を意味しているのだろう。
分からないままグリフレットが見つめる中、彼女は無言で剣を此方に向けて来た。それは真の輝きを取り戻した黄金の剣。
右手の剣の切先には、冷たい殺意が揺らいでいる。
揺らめく炎。陽炎のような圧力。不定形で形はなく、質も量も分からないナニか。少なくとも、竜のドクンドクンという鼓動ではないナニか。ただ、それが彼女から流れている。あまりにも冷たい、凍える程の陽炎。
それが、人としての光を取り戻した右半身から流れていた。
人間味のない左半身からは、深海の底のような不気味な静けさしかない。
その二つは、明らかに相反しているモノだった。
互いに何も噛み合ってない。噛み合ってないモノ同士を無理矢理交互に使って動いている。
彼女の様子は、理性を失った飢えた獣にしか見えなかった。
しかし、彼女は荒い呼吸を無理矢理抑え、フーッ、フーッと己の何かを抑えつける。
暴走しているとしか思えない彼女は、しかし凍える程に冷たい殺意の乗った剣の切先でグリフレットを射抜いている。
剣に震えは一つもない。剣先はグリフレットの脳天目掛けて飛び込んで来るとでも思える程に縫い付けていた。虚ろな金の瞳と血走った翡翠の瞳が、冷たい殺意と燃えるような執念を両立させている。
「………やっぱりお前は、魂の底から人間なんかじゃないよ」
思わず身震いしながら、グリフレットは黒鍵を引き抜き戦闘態勢を取る。
悪い悪夢でしかなかった。
どう考えても死にかけ。彼女は暴走している。暴走したまま、凍える程の殺意だけで動いている。竜の力はなく、魔術も使えないまま——
今の彼女は何で動いているのか。
ただの精神力と言われてもグリフレットは驚かない。そう言う常識の埒外にいる化け物として、グリフレットは彼女を扱う事にしている。
しかし、聖杯に辿り着くには、今度こそ此処で彼女を倒すしかない。
この戦いで、全てが決する。
黒鍵の刃が黒い太陽に照らされて妖しく光る。
黄金の剣が黒い太陽の下にて黒い光を宿す。
たった三本しかない指に二本の黒鍵を両手に握り、復讐の聖職者は相対する。
竜の力を使えないまま、それでも立ち上がり殺しに来る、何かと。
このままでは、呑まれて死ぬと悟った。
減らぬ泥。湧き続ける影。確かに盾の力を以って浄化を繰り返すギャラハッドだったが、無限を相手に消耗戦を繰り返し、じわじわと死に追い詰められている感覚がしてならなかった。
拮抗したまま数が減らない。幾ら盾の力で押し返しても新たに量が増す。
底無しの空洞が逆流していた。
どれだけの闘志を滾らせ、猛然と力を込めても元凶の聖杯に辿り着けない。膨大な海。その質量を越えた先に穢れた黄金の杯がある。
持久戦は無駄だと悟りながら、ギャラハッドは持久戦を強いられていた。
焦燥が鼓動を加速させ、疲労が増す。止まれば死ぬと悟ってから、疲労によって身体が強張る。相手は無限。そうではなくとも、ギャラハッドという個人からすれば、敵は数億にも等しいこの現状。備蓄の争い足る持久戦に勝ち目はなかった。
しかしどうしても、この海にも等しい質量を越える事が出来ない。
泥から伸びる人の手のようなモノを盾で両断し、その場から離脱しながらギャラハッドは焦る。
聖杯を破壊しなくてはこのまま。
しかし聖杯を破壊し得るロンの槍は使う暇すらない。仮にあっても、この泥をどうすれば良い。泥を越えられるのか………ただ焦りがギャラハッドに積み重なっていた。
泥を何とかする必要がある。
しかし盾では抑える事しか出来ない。剣がない。そう——海を焼き払う程の剣が。
もしも彼女が居れば………そう思案して、それは為してはならない考えだとギャラハッドはかぶりを振る。
彼女をあれ以上聖杯に近付けてはならない。ギャラハッドは、そう確信していた。
ならばここで、自分自ら一人で、全てを成さなければならない。
盾で凌ぐばかりではならない。
剣がいる。彼女には頼れない。
だからこの状況で、この泥を消滅させる程の剣がいる。
「…………………」
そんな剣はない——そう否定しながら、ギャラハッドには一つだけ心当たりがあった。
当然、その剣は偽物だ。
いや正確には——偽物でもないし贋作でもない。それは影。ただ一振りのみ存在する神剣と同じ空想の形をした、同一の影。
その影の剣を、限界まで本物に近付ければ、海を晴らせる。
極光を以って海を焼き払うのではなく、海を構成する水。その一粒一粒全てを——両断し霧散させられる。
「………………—————」
一瞬の焦り。刹那の——恐怖。
ギャラハッドの脳裏に、今までの全てが浮かんだ。それら全てがギャラハッドに二の足を踏ませ、それでも尚全て呑み込み、ギャラハッドはそれを選んだ。
今のままでは、この剣では海を断ち切れない。
それは、この剣が所詮はただの影だからだ。ならばその影、新たな形を得るしかない。そしてギャラハッドは——どうすれば良いか分かっていた。
素体は出来ている。イメージも出来てる。影を形にするなんて事は何回も、見て来たから。
この空間。この場所は不安定な力場。聖杯によって異空となりかけているこの場所。
故にこの場所は、あらゆるモノに形を与える。だからこそ彼女はここに連れて来ては行けない。あの聖杯は、彼女の奥底に眠る何かに形を与える。
だがその、呪われた聖杯の力をこの剣にも使わせて貰おう。
今この瞬間だけ———ギャラハッドが携える剣は、限り無く本物に近い剣となる。
ギャラハッドは冷たい瞳で、穢れている黄金の杯を睨み据えた。
己がただの一度も鞘から引き抜かなかった、勝利を捧げる剣を携えて。
端的に言って、グリフレットは自身の勝ち目を全く信用出来なかった。
己の武器は少ない。身に着けている黒鍵。残数は現在二十三。血に濡れたダビデ王の剣。三本の指先でも使えるように、指に嵌め込めるように柄をくり抜いただけの、純粋普通のナイフが二つ。
持ち得る武装はこの程度だった。
騎士の一太刀や魔術師の攻撃をも弾く、チェーンメイルの裏に巻いた防具呪符は、黄金の剣カリバーンを前にすれば大した意味はない。
精々、彼女の格闘技術に対してはそれなりの防御力になる程度だが、そもそもそこまで近付かれた時点でまともな勝ち目は期待出来ない。
"防御は意味を成さない。やられる前にやるしかない"
駆け抜けた思考で、グリフレットは勝ち筋を探し続ける。
彼女を殺し得る武器——ダビデ王の剣は、三本しかない指の影響で上手く使えない。アレは聖遺物だ。不意打ちかつ両手ならなんとかなるだけで、武器としては黒鍵の下位互換。
黒鍵以外にも、代行者の代表装備足る灰錠なら通用し得たかもしれないが、やはりここでも三指しかないという弱点が出て来る。純粋な力が無い分、技量で誤魔化すしか道が無かったのだ。
それに、彼女を倒すにはやはり刃しかあり得ない。
黒鍵の半霊体、半実体の刀身ならば彼女の鉄鎧の甲冑を貫通し得る。
竜として、人域を凌駕する魔力放出を防御に割り振られていたなら、鎧を貫通出来なかった可能性があったからこそ、今まで多くの魔術師を淘汰して来たこの武器が、一番彼女に通じる。
後、もしも戦況を左右し得るとするならば、念の為にと設置した地雷型魔術陣がこの場から離れた位置に二つ。対魔力無き今なら、竜に対する特効関係なしに通用しよう。
——以上を以っても、グリフレットは彼女に勝てる気がしなかった。
相手は、あの黒き竜の化身。
その力の源流が無きとて、油断など出来る箇所はどこにあろうか。
互いに利用し合う関係だったグリフレットだからこそ、黒き竜の化身が竜でなくなっても、何も安心出来なかった。
相手は何処までも人ならず。
あれは竜ですらなく、あれは人の姿をしている修羅だ。
羅刹とすら呼ばれたローマの皇帝を殺し、密かに彼女が修羅と呼ばれた時、感心すら覚えた。
子供は全て、大人とは比べものにならない天才だと言う。大人の所作や動作をつぶさに読み取り、貪欲に吸収する者。
その生きる為に成長する力——その全てを殺人技術に割り振った化け物が彼女だ。
一体、幾つの技術や経験を無尽蔵に身に収めて来たのか。
竜の力がないから何だ言う。彼女は竜の力がなくても、何十何百と人を殺しても尚あり余る。
それに、今の彼女の姿もだ。
瀕死。荒い呼吸。それがただ弱っているようには見えず、追い詰められた獣、飢えた獣の様な印象しかない。
下手に傷付けた狼以上に危険なものは無い。しかも絶対に撤退を選ばず、血の匂いすら嗅ぎ分け、凄まじい執念で喉元を食いちぎって来ようとする獣。
彼女は正にそれだ。
瞳の奥にチラつく燃える炎のような執念は、見ているだけで寒気がする程。
成る程、こんなモノが彼女の敵や蛮族達に向けられていたのか。嫌でも脳裏に焼き付く。恐怖しかしない。
そう言う風に自分を誤魔化しながら、グリフレットの脳裏は冷え切っていた。
グリフレットが参照し得る全て。
彼女が使える武装はカリバーンのみ。魔力を練り上げられない以上、黒鍵に刀身は作れず、無から剣を生み出す魔術は使えない。
しかし、カリバーンのみで足りる。
カリバーンの剣戟なら此方は一撃。格闘技術も相まって近距離に勝ち目は皆無。自分は鍔迫り合いが出来ないのだから尚更。
身体能力は未だ脅威。
十五の少女の領域ではない。竜の炉心の残滓か、はたまた別か。竜の炉心を保有した敵を相手にしたのは今回が初めて。情報が足りない。だが最優先するべきは状態の確保などではなく殺害。
精神状態は不明。
何処まで冷静か、完全に暴走しているかどちらか。もしくは両方が混ざり合っている。どちらにしろ油断は出来ず。
そうまで思案を続け、グリフレットが選んだ初手は——逃走だった。
「——————、————」
互いに睨み合っていた中、突如として身を翻し森の茂みへと消えていくグリフレットを見て、ルーナは心が煮え返るような怒りにおかしくなりそうになり、血走った翡翠の瞳を森の暗闇に固定する。
"逃がしてはならない。アイツだけは逃がしてならない"
"何があろうと、必ずここで殺さなくてはならない"
瞬間、右足にかけられるだけの力を込めて跳躍しようとした瞬間——足首を貫いた二本の黒鍵の刃で彼女は地面に倒れ込んだ。
「ぅあ——っぁ………」
寸前まで跳ぼうとしていたのもあって盛大に転ぶ。
縫い付けるように貫通していた刃がより深く突き刺さる。
それは罠だった。同時にグリフレットが、今の彼女が何処まで理性的なのかを測る為の策であった。
今の彼女は完全に何も見えていない。
油断は出来ないが、勝てる範疇にいる。
近付かず、少しずつ削ぎ落とすように攻撃を仕掛けて確実に彼女を殺す。
彼女を中心として、円を描くように茂みの中を疾走するグリフレットはそう断定し、再び黒鍵を構えた瞬間だった。
「——っぁああ゛あ゛あ゛ッッ!」
地面に倒れていたルーナはカリバーンを逆手に握り、渾身の力を振り締めて地面に突き刺す。その反動で跳び上がる体。右腕の力だけで自分の身長の高さ程まで舞い上がる。
空中に浮かんで、その頂点で一瞬停止する刹那、ルーナは右脚に突き刺さった二本の黒鍵を引き抜き、あまつさえ投擲して来た。
その場所は——グリフレットの脳天と、その進行方向を塞ぐように。茂みに隠れ見えていないにも拘らず。
「———ッ」
なりふり構ってられないと、頭からダイブするように跳んで避ける。
受け身を取る余裕なんてない。胸が地面に叩きつけられ、グリフレットは大地を滑る。
切り傷を増やす両手。大の大人が地面を転ぶ轟音は、先程外れた二本の黒鍵が背後の木に着弾し、生木を叩き折った音で掻き消された。
抉れた木。砕け散った黒鍵の刃。人成らざる者が振るうには力不足か。
修羅の化け物め。悪態を吐きながら、砂利で傷だらけになった両手を払う事なく、再びグリフレットは走る。
既にルーナは体勢を取り戻し、再び剣を構えていた。
しかし其方に時間は渡さないとばかりに、グリフレットは再び林の向こう側から黒鍵を投げる。
が、同時四連の投擲はその場に居座った彼女が振う黄金の剣に全て叩き落とされた。神速の刃。彼女の身体能力は普段より劣っているというのに、剣舞には一切の隙はなく、僅かな翳りもない。
その対応速度が狂っている。
速い。速すぎる。見てから判断しているのではなく、まるでどの方向どの角度から飛んで来ているのかを読んでいるかのようだった。
風や音でも読んでいるのか。足と胸に穴が空き、心身が暴走している状態、あの理性の無さで——
「シィっ——!」
手を譲らせないと言うのなら、貴様には思考を許さない。
そうとでもばかりに、彼女はカリバーンを真上に投げる。瞬間、彼女は叩き落とした黒鍵を両手に握り、変則的な角度と時間差をつけて四本を茂み中へと投げ放った。
全て、グリフレットの進行方向と脳天。
矢の掃射を掻い潜り、針の穴に糸を通すような精度で彼は弾幕の穴を抜ける。そんな回避を余儀無くされる。当然避けられない。肩と額を深く切った。
続く連撃。真上に放り投げたカリバーンが落下する。彼女はそれが地面に落ちる瞬間に握り、刹那、真横への一閃を繰り出した。
光の斬撃が幾つもの木を両断した。両断された木の断面図が、まるで溶解した新鉄の如き有様を晒す。
それは、星より溢れた一筋の光の如き。
しかし人からすれば、近付き過ぎた星の光など有害でしかなく。
「ふざけんな! サー・ランスロットかっ!」
叫びながら、強化の魔術で身体の骨格を隆起させ、迫り来る光の一閃を無理矢理避ける。
瞬間的ながら、しかし突発的な回避には有効。魔術が切れた瞬間、筋肉が裂けるような痛みを味わいながら、それでもグリフレットは理解した。
彼女は、投擲前の僅かな音だけで此方の居場所を把握して来ている。
しかも反撃の黒鍵投擲の命中精度は——回避行動を取らなければ100%
視認が出来ずとも一切減少せず。湖の騎士じみた斬撃を放ってくる。このままでは、岩を少しずつ削ぎ落とすように殺されるのはどちらか。
だが——それならば、あえてその正確性を逆手に取ってやる。
グリフレットは二本の黒鍵を真上に放り投げた瞬間、再び強化の魔術を身体に使って加速し、すぐさま彼女の背後に回り込んだ。
彼女の真後ろに辿り着いた瞬間、再び二本の黒鍵を投擲。ヒュンという音。当然の如く対処される。甲高い音を立てて、カリバーンの剣舞が叩き落とす。
瞬間——
「——
解き放った詠唱が、先に真上に放り投げていた黒鍵に作用し、彼女へと炸裂した。
天高く放り投げられ、落下し地面に落ちようとした黒鍵の刃が彼女の方を向き、重量と慣性をも無視してルーナへと飛び込む。
彼女がそれに気付くがもう遅い。間に合わない。剣は振り切っている。
反射的に動いた片腕が命を救った。頭を貫く筈だった刃はルーナの左腕を貫く。手の平と手首。腕甲冑のおかげか貫通は免れたが、刀身は骨に達していた。
「ッ………ぐっ———」
再び続けて連撃。
先程と同じように、十字砲火の如く真正面と真後ろから黒鍵が迫る。
分かっていても対処出来ない。片方を対処すればもう片方が対処出来ない。次は真後ろの黒鍵二本がルーナに突き刺さった。
足裏。脇腹。命中精度が僅かに劣化したのは、強化魔術の無理矢理な使用か。だが、このまま何本も受けていては死ぬ。残り黒鍵の残数は九。死の見える範囲。
「———、———ッ………ぅぁっ……ぅっ……」
この場に居ては死ぬ。
無理に身体を動かし、引き摺るようにルーナはその場所から離脱した。寸前の、十字砲火を躱して茂みに隠れるように逃げる。
当然、グリフレットは追撃する。
強化の魔術を使用する己と同じ速度で走る彼女。
しかし、彼女の動きは歪だった。
両足の動きが合わさってない。
左足を出したら右足を出すという、当然の動きは泥を纏ったように不安定。いつ転んでもおかしくない。
例えるなら、他人の鎧を着て無理矢理動いているよう。
"ならば……"
彼女が足を前に踏み出した瞬間、グリフレットは彼女目掛けて黒鍵を投げる。
走りながら、その殺意の連投に気付いたルーナ。
対応する他ない。疾走をやめる。振り返り様の一閃で払い飛ばす。慣性もあって蹈鞴を踏む。
故に、彼女は対処出来なかった。
「こ———ふ………」
小さな短刀。三本指でも扱えるようにしただけのナイフのそれが、小さいが故に音を全く出さず投げられ、彼女の胸元を貫いた。
心臓目掛けて投げられたナイフ。黒鍵ほどの貫通力はなく、胸の甲冑を滑り心臓直撃を避けたものの、肺のすぐ真横を貫いていた。
「——貰った」
「————ッぅ」
ここに来て、グリフレットは接近して来た。
両手の二本の黒鍵を鉤爪のように振るい、彼女に襲いかかる。完全に彼女が不利となる状況下。それでも尚、彼女の剣舞が黒鍵の斬撃を弾き返した。
だがそれは、グリフレットの策。
振り上げの刃で黒鍵を弾かれた瞬間、攻防の隙を縫い、彼はルーナの懐に飛び込んだ。振り上げられた剣の隙に滑り込み、ルーナを蹴り飛ばす。
「頼む」
その背後にあるのは——
「——これで死んでくれ」
彼女を拘束する、地面に仕込んでいた魔術陣。
それは彼女が足を踏み入れた瞬間弾けるように炸裂する。
「ッ—————ぁぁぁぁぁぁああああっっっ!!」
竜にも等しい対魔力が機能していない今、魔術陣から溢れる赤い稲光が彼女の肉体を焼き尽くす。
全身を針が貫くような痛みが精神すら汚染し、思考を染め上げる。
絶叫。悲鳴。しかし——それは長くは続かない。
糸の切れた人形のように倒れる。
黄金の剣からようやく手が離れ、ようやく彼女は停止してくれた。
「顕現せよ——」
ギャラハッドは宙へと跳躍し、身を翻しながら泥と距離を取る。
海にも等しい泥を斬る以上、あの剣は真横に振り抜かねばならず、同時に鞘から抜き放った瞬間斬撃する以上、抜刀術でなければならない。
両腕が必要。盾を握る事は出来ない。あの剣は、それしか受け付けてくれない。
だが、盾は盾としてまだやるべき事がある。
それは災厄の席には立てずとも、災厄の席へと座り王座へと辿り着いた人を囲む、決して砕けぬ守護の力。
即ちそれは、穢れなき白亜の城。その城塞。
「——
地面に着地した瞬間、盾を構える。白亜の城が前方に顕現する。
今までとは比類無き浄化の力が聖盾より放たれ、溢れる泥を弾き返した。しかしそれは本命ではない。この聖盾の力を限界まで引き出したそれは、その性質故に消耗が激しく、決して長くは続かず、また敵を破る為の力ではない。
だがそれで良い。
一瞬の隙に、ギャラハッドは盾をその場に残したまま、更に後退する。
距離は見えた。
感覚は完璧。
何をすれば良いか分かる。
どう力を込めれば良いか分かる。
ならば後はそれを成し遂げるだけ。
心は平静だった。凪いだ波のように、今のギャラハッドはどこまでも静かでいられた。
「—————————」
遂に魔力切れを起こし、顕現させていた白亜の壁が儚く消滅していく。
途端、ギャラハッドを襲うように雪崩込んで来る泥の津波。それを目にしながらギャラハッドは小さく体を引き、腰の剣に手をかけた。
この剣の拘束を解く。
マーリンによって付与された概念。この剣が本物の影である意味を放棄する。
「"神剣"、抜刀」
その剣は、聖杯の原型の一つとされた、とある魔法の釜と同じ四つの神宝に分類された伝説の剣。
その剣は、あらゆる聖剣や魔剣。光り輝く剣という概念を確立させた、光の剣そのもの。
その剣は、鞘から抜けば何人も逃れる事は出来ずに倒されるという伝説を持つ不敗の剣。
その剣の真名はクラウ・ソラス。
呪われた聖剣。勝利の魔剣。そう、それは——勝利ではなく不敗の伝説を持つ剣。
その剣を引き抜いた先の生死など関与されず。
人が振るう事など想定されず。
神の権能を形にしたそれを使用するという事は、神の理にすら歯向かう重罪にも等しく。
故に、この剣による勝利はただ儚く散るが定め。
「ここに、我が勝利を捧げる——」
だが、関係ない。
得られる勝利は自分のモノにはならない。ならばその勝利、彼方の星に捧げよう。
だから届け。どうか届け。星の光にすら届け。
人の身で星の輝きに手をかけるその代償。人の身で神の座を呼び起こそうとするその不敬。今ばかりは見逃したまえ。
泥が迫るその瞬間。呪われた聖杯が輝きを放ったその瞬間——ギャラハッドは躊躇いなくその剣を鞘から引き抜いた。
光り輝く剣のその真名。不敗の剣と言う呼び名を以って影で隠した、光そのものであるその剣の——本当の真名。
それは——
「——
「はぁ………はぁ…………やっとか、やっとなのか」
地面に倒れて動かなくなった彼女を見て、ようやくグリフレットは息をつけた。
視界がふらつく程の疲労。手足は擦り傷でズタズタ。強化魔術の乱用で手足の感覚が酷く、貫くような痛みと冷たさしかない。
黒鍵の残数は残り六。魔術陣もない。短刀もない。これ以上無理に動けば魔術回路が暴走するに飽き足らず、心身の両方が焼き切れる。
何とか勝てた。本当にギリギリ勝てた。
「トドメ…………」
それでもまだ安心出来ない。
間違いなく100% 絶対に殺したという感覚を実際に手に入れない限り、彼女は油断出来ない。再度彼女を貫こうと近付く。
今度は脳天。僅かな情も慈悲も残さない。絶対に殺す。
「………………は」
そうして彼女に近付こうとしたその時だった。
僅かに——彼女の指先が動く。全身を襲う悪寒。グリフレットには一切の油断も無かった。
しかし、彼の僅かの脱力感に差し込むように、糸の切れた人形が再度起動する。
「——
何が起こったのかを理解出来たのは、腹に激痛が走ってからだった。
針で貫かれたような一撃。仰向けのまま腕の一振りで投げた剣が防護呪符を貫通し、刃が脇腹を貫く。低い軌道で飛んだそれに対し、反応が遅れた。
だがそれ自体はまだ良い——何故魔術を使えた。
「———ッ」
思考の空白がグリフレットの対応を一手遅らせる。
足を振り上げ、即座に地面に叩き付け、その反動で後転するように立ち上がるルーナ。同時に彼女は、スカート状の草摺を引き千切るように外し、盾を投げるが如くグリフレットに向かって投擲した。
そのスカート状の草摺の裏にあるのは、びっしりと彼女が仕込んでいる黒鍵の柄。
反射的に頭を守るように構えたグリフレットの両手に衝突する。
鈍器にも等しいスカート状の草摺は、彼の腕にヒビを与えながら、弾け飛ぶ黒鍵の柄がグリフレットの視界を奪った。
気付いた時には、グリフレットの真下にルーナが居た。
視界の陰。思考の隙。その隙間を縫うように猛然と突進したルーナは、その突進の速度のまま、渾身の震脚を打ち鳴らし、拳を繰り出す。
踏み込んだ脚。打ち鳴らされた地面。その震脚と共に繰り出された正拳突きが、グリフレットの胸元に吸い込まれた。
獣が突進して来たも同然の破壊力がグリフレットを吹き飛ばし、真後ろの樹木の一つに叩きつけられる。ドス黒い血を吐き出して痙攣する。
チェーンメイルとその裏に詰められた防護呪符すら突き抜けた彼女の鉄拳がグリフレットの肋骨を砕き、肺の機能にまでダメージを与えていた。
呼吸がまともに出来ない。片方の肺が痙攣したまま動かない。
呼吸すら痛みが伴い、思考を戻すのすら決死の戦いにも等しい状況の中、グリフレットは見た。
まだ——まだ立ち上がり、地面に落ちていたカリバーンを柄を蹴って弾き、吸い込むように片手でキャッチするルーナの姿を。
ゆっくり、ゆっくりと、彼女は此方に近付いて来る。
背後に幾百、幾千の怨霊が幻視出来るような出立ち。
フラフラと迫る。不安定な足取り。それでも彼女は近付いて来た。
黄金の剣の光で目が眩む。だと言うのに、狂おしい程の執念と妄執が焼き付いた瞳だけは否応にも目がつく。
「ハ、ハハ…………ハハハ…………ッ本当にふざけんな——」
血を吐き、樹を背に何とか立ち上がりながら彼は悪態を吐く。
先程のいきなりの投影魔術は——そう言うモノだと受け入れた。相手にしているのは竜の炉心という、その全容を知る者は世界に数人もいない神秘。
それそのものが超級の神秘を兼ね備えた特級の魔術礼装。呼吸のみで魔力を生み出す半永久機関。
だから、竜の炉心が動いていなくとも、周囲の魔力残滓すら回収して変換するかもしれない。例えば——今さっき彼女が受けた魔術陣の魔力とかを。
ただ、そう考えてグリフレットは受け入れた。
今まで数多くの魔術師を相手にし、多くの理解し難い神秘に触れて来たからこそ、彼はこの事態を柔軟に受け入れた。
しかし、それでも——
「ふざけん、なッ…………いつになったら——いつになったら死んでくれるんだよお前はッッ!」
それでも、対魔力がない以上、確かに大地に刻まれた雷光は彼女を焼いた筈だ。
凄まじい激痛を身に浴び、事実彼女は気絶していた。だと言うのに、それでも尚彼女は立ち上がる。追い縋って来る。
ふざけるな。
ただグリフレットは絶叫していた。今本当に、初めて——彼女に恐怖していた。
どうすれば倒せる。どうすれば殺せる。どれだけ追い詰めても、死の底から這い上がって来る幽鬼が目の前にいる。
勝てない。彼女は負けを受け入れない。どうしても、どうしても最後の一歩が届かない。
不意を突き、力を奪い、本性を剥き出しにしても尚、彼女はおぞましいばかりの執念を浴びせて立ち上がる。
グリフレットが恐怖する先にいるのは、虚ろな眼差しにありながら、殺意を剣の切先に激らせている人の型をした怨讐の化身。
彼女から立ち昇る黒い陽炎には、僅かな翳りすら見せず。
「………お前は、必ず殺す……少なくとも、お前を殺すまで……私は死ねない」
怨嗟の如く押し殺した声で彼女は呟く。
血走った翡翠の瞳も遂に濁り始めた。剥き出しになった本性。理性すら無くし、狂気すら失われた中、彼女にあるのは妄執だけだった。
「本当は、私とお前は同じだった。憎悪。復讐。怒り。自らで植え付けた使命。きっとそれだけだった。
でも私は、清らかなモノを見た。掛け替えのないモノを知った」
だから——」
残ったもう片方の草摺から三本の黒鍵を引き摺りだし、黄金の剣と黒鍵を握りながら彼女は言う。
「——だから、彼女達はこんなモノ見なくて良い。彼らはこんなモノ持たなくて良い。ギャラハッドは、こんな執念を知らなくて良い」
だから彼らは、前だけ向いていれば良いんだ。
前から降りかかって来るモノに立ち向かえば良い。
盾は前だけを見ていれば良い。
その背後、背後から足を引く為に襲いかかって来る些事に囚われずに前進すれば良い。
後ろを気にする人間なんて、そんな役割なんて——自分一人で良い。
「だから頼む。
ここで死んでくれ、グリフレット。もう、お前の存在が鬱陶しいんだ」
吐き気がして歪めたような表情。一方的に見下すような視線。今まで彼女がした事のない表情と嫌悪を剥き出しにしていた。
「私をお前と同じにするな。私はお前と違って、復讐の為だけに動いているんじゃない。だからお前が許せない。復讐の為に、私達の邪魔をするな」
心の底から、彼そのものの在り方を否定する。
自分とお前は違うと断言する。
故に告げた。
それは己が最も嫌悪する、それ。
今までずっと、自分のみならず全ての者に対しても拒絶して来た根本の核。
「だから、グリフレット」
何の価値もない生涯を歩んだと突き付けられ。
「今日この日」
草木の如く刈り取られる命のように、己の掲げた想いの全てが霧散し。
「有象無象のゴミのように」
今までの一切が"報われる"事なく。
「ここで死ね——」
その言葉を兆しに、黄金の剣の輝きが致命的にまで高まった。
もはや黄金ですらなく、あらゆるモノを塗り潰し焼き焦がす熱線。僅かに虹色にすら輝く白い光帯。
光そのもの同然となった刀身を握り、殺意一色になったルーナが疾走する。
勝ち目など彼女にしかない。最後の一閃がグリフレットを斬り伏せんと迫った。
——その時だった。
二人は気付けていなかった。
彼らの背後。その彼方にある廃城で行われているそれが、致命的な一線を越えたのを知らなかった。
彼と彼女。二人の生と死のやり取りが終わる刹那——そのやり取りを塗り潰す程の光が、廃城の頂点を横断し、城から溢れる光の束が宵闇を照らし上げた。
ランク EX
種別 対軍・対神宝具
詳細
聖騎士ギャラハッドが手にした二つの剣。その一振り目。
生涯に於いて、彼が一度しか鞘から引き抜かなかったとされる聖剣、もしくは魔剣。
その全力解放。
それは、神代の時代、神霊が神霊を屠る為に使用された神剣クラウ・ソラスによる、権能を振り翳した斬撃。
それをギャラハッドが、人の身でありながら限界まで再現したモノ。
それは光という概念そのものを弾き飛ばす斬撃。
光ではなく"光という概念"を以って斬撃している。
即ちそれは、光の速さが無限と思われていた時代の概念であり——事実、ケルトの神話形態に於いて、光が無限の速さであった頃の理。光という神の権能そのもの。
つまりこの宝具は、剣を鞘から引き抜き、同時に振り抜いたその瞬間——視界内の全てが、全く同時に斬撃される。
故に回避不能。故に逃げる事も不可能。故に不敗の剣。
無限の速度を持つ光は、因果率すら歪ませ、時間の逆光すら無視して敵へと迫る。
海を焼き払う星の極光ではなく、海の分子一つ一つに攻撃を放つ光の斬撃とも称する事が出来る。
例えるなら、海と言う概念そのものをも断ち切れる
アイルランドに名高い魔槍ゲイボルクや、逆光剣フラガラックのように、回避には敏捷が全くの意味はなさない。またクラス・ソラスの場合、幸運すら意味をなさない。
無限の速度から成し得られる、攻撃したという概念の押し付け。
故に必要なのは、湖の聖剣にすら匹敵する一撃を耐え切る事が出来る耐久のみ。
ただし唯一の難点として、この宝具を使用出来る存在は戦神ヌァザを除けばまずいない。
仮に使用出来ても、光という神秘そのもの……即ち権能を含んだこの宝具を解放すれば、然るべき代償が所有者を襲う。
ブリテン最後の英雄譚。
聖杯探索。その結末。
捻れ狂い、壊れた運命の果て。
斯くして"ソレ"は至る。
何故なら彼女は特別だったから。
ただ彼女は狂わず、また壊れなかったというだけで。
次話
その日。
黒き竜の逆鱗は極天の星すら塗り潰した。