折れる事はなく。
Unknown to Death.
「マーリン」
キャメロットの庭園。花園。
その場所に訪れた彼女は、虚空に向かって声をかける。
「マーリン」
返事はない。
彼は基本的に気紛れだ。どこにいるかは分からず、また此方から探す事も難しい。だがそれでも声をかけ続ける。
「マーリン。いるんだろう。出て来い」
「——何だい、物騒だなぁ」
彼女の声のかけ方がまるで脅すような口調だったので、マーリンは頭をかきながらその場に現れた。
彼女は振り向く。風に揺らめく花々の上に立つのは、ただ一色に塗り潰されたように黒い人型。穢れのない花との対比は目に映る。
「マーリン、お前に頼みがある」
「——………そうか。何だい? 久しぶりだけど私も力を貸そう」
マーリンは彼女の瞳の裏に、冷え切った鉄のように黒い星を幻視し、何かを言いかけて結局やめた。
彼女の精神状態の凡そは一眼で分かった。
マーリンは心を読み取る眼や未来を見る眼までは持たないが、世界を見る眼は確かにある。現在の積み重ね。そこから生まれる未来予測。
絶対に当たる訳ではないが、多少なら予言も出来る。なんならして来た。その擬似的な未来視から、彼女が何をし、一体どうなるのかも大体は予測が付いた。
しかし、それでも尚、マーリンは彼女に助言をしなかった。
非人間故に人界には関わらず、関わらないが故に人々の様に揺らぐ事もない。
その在り方は時に人類からの忌避対象になろうとも、しかし同時に地獄の中でも変わらない不変の柱として、人々の依代になる事もある。
慰めもない。助言もない。過ちを正す事もしない。ただ彼女が望んでいるから、その通りに従う。
マーリンはマーリンだからこそ。非人間は非人間なりに、彼女を案じていた。
「もしも——モルガンを騙せるとしたらどれだけ騙せる?」
「——どう言う事だい?」
「言葉のまま」
交差する視線。
一瞬の瞳の揺らぎはマーリンだけだった。
今この場に於いて、非人間は一体どちらなのか。彼女の視線は、マーリンの一挙一動を観察する不気味なモノになっている。
敵か味方か。使えるか使えないか。それはさながら、昆虫が人間を害あるものか判別しているように。
「はぁ………もう、分かったよ」
先に折れたのはマーリンの方だった。
彼女が何を望んでいるのかも分かった。
「まぁうん。騙せるんじゃないかな。
これでもボク、モルガン並みの天才だからね。なんなら彼女よりも長生きしてる魔術師だし。幻術に関しては誰にも負けないんじゃないかな」
「……モルガンって私がいない間、何をしているのか知っているか」
「いいや分からない。嫌われてるのかなぁ。未だに見せてくれないんだよね。
それに最近のモルガン……なんだかボクの千里眼すら見破って来て、あっ今見ているなって理解してそうだし。なんなら千里眼のカウンターとして、認識しているだけで発動する術式を自らに埋め込んでそうだし。
伝えに聞くメドゥーサの魔眼みたいな」
「そんな訳あるか」
「いやぁどうだろう。
キミの前では猫被っているけど、彼女はあんな玉じゃない。彼女の本質は魔女だ。
多分ね、この長い沈黙の間、誰にも知らない裏で、キミも知らない影で何か凄い事を準備してるよ」
「そうか。でも別に良い。
彼女は私を縛らなかった。私も彼女を縛らない。好きにすれば良い」
それを最後に、彼女はマーリンの横を抜けていく。
もう分かったと言質を取ったから、会話の必要はないのだろう。
「ねぇキミ」
「忘れてたマーリン。最後に言っておかなければならない事があった」
マーリンの言葉を遮って、彼女は言う。
「私に味方するくらいなら、アーサー王に味方しろ」
「………………」
マーリンをその場に残して、段々と遠ざかっていく足音。
残されたマーリンは天を仰ぎ、溜息を吐いた。
非人間だって溜息くらいは吐く。だがそう、その溜息すら一切吐かない頃がマーリンには確かにあった。
「人間らしくなれた、か。キミはその真逆だね」
振り返った時には、もう彼女はいなかった。
武勇に優れ、忠誠に厚く、立ち振る舞いは優雅にして流麗——
彼はそう呼ばれていた。何よりそう呼ばれるだけの実績があり、振る舞いがあり、故に理想の騎士と謳われた。
彼は、騎士道という一点に於いては正しく完璧だった。
強いて言うのなら、彼はいつも——人が壊れていく瞬間ばかりが人生の転機だったというくらいで。
彼の目の前には、壊れたように笑い、泣き崩れているギネヴィア王妃がいる。
叫ぶ事もなく、彼女は静かに告げた。
もう良い。私はもう良いのですと。
見上げる視線。まるで許しを乞う罪人の様な挙動からは疲れと絶望が滲んでいる。苦悩すら振り切れ、もうどうしようもなく笑いながら、彼女は頬に涙を伝わせていた。
壊れている。壊れた人形のように、人が泣いている。ただランスロットはそれだけを理解出来た。
ランスロットはただ乞われた。
罪人が救いを求めるように、もう終わらせてくれと。
"全て、ダメでした。もう私は、何も出来ませんでした。だからもういいんです。もうやめたいんです"
しなだれかかる女性。
だがその動作に甘いモノなど何もない。足を無くして倒れるように、意識を無くして気絶するように、ギネヴィアはランスロットの胸に収まる。
その言葉に、一体何と答えればよかったのだろう。
どんな言葉をかければ良かったのだろう。
分からなかった。分からなかったが故に、硬直するしかなかった。
そう。彼はまたこうやって、選択を迫られた。もうどうしようもなくなった時、一人の女性に泣き付かれた事があった。
疾うの昔に置いて来た面影と重なる。それはエレインという姫。己の息子ごと遠い国に置き去りにして来た、遠い輪郭。
——では今度は?
悪意はない。甘さはない。籠絡などは欠けらもない。
そしてそれだけだ。他にあの姫と差異などはなかった。
立場がある。責任がある。たとえ王妃が何を望もうと、王妃がもうどうしようない程に弱り、最後の一線を踏み切って逃げようとしても——それでも。
ランスロットはギネヴィアを、抱きしめ返さなかった。
"もう、ダメなんです。今、貴方が止めたから、もう決心が出来ないんです"
そして同時に、振り解く事も出来なかった。
咄嗟に止めた。あの凶刃を防いだ。その代償。これが選択を奪った人間への贖いなのか。
では——人がもう良いと、そうやって死ぬのを止めるのは悪だったのか。果たしてあれが間違いだったのだろうか。
分からない。何も分からない。この問いに、答えを出せる者なんているのだろうか。
でも結局、間違いの選択すら選ばない事が一番の悪だった。
きっと、そうだった。
"もう知りません。アーサー王も、この国も………何も。ランスロット卿……………私をもう——殺してくれませんか"
その場の空気が一変した。
トリスタン卿とケイ卿。その二人に対し、ランスロットは言葉をかけていた。彼としても極めて慎重に。決して他意はなく、彼女にも無いと。
だが、半ば口論になっていた——まだ口論で済んでいたやり取りは、ギネヴィア王妃のその言葉で終わりを告げる。
硬直から解け、一番反応が早かったのはトリスタン卿だった。
彼は無言で弓に手をかける。勿論、王妃の願いを叶えてやろうなんて意思で弓を引いた訳ではない事が、ランスロットにはすぐ分かった。
何が、彼の琴線に触れてしまったのだろう。
分からない。トリスタン卿が円卓を去ってから、一体何があったのかを誰も知らない。どうして戻って来たのかも知らない。
口論が終わった。
空気の刃と剣の刃の斬り合いが始まった。
それがきっと、最後の一線が断ち切られた瞬間だった。
円卓最強の騎士と、それに追従すると言われた弓の名手の戦いが始まる。
弓だけで生きて来たのか、帰投を経て更に研ぎすまされた彼の射撃。弓の形を以って放たれる真空の刃が部屋中に踊り、それを湖の波紋の如く聖剣は防ぐ。防ぐしかなかった。
たった二人で行われる戦争。
その戦争に只人が飛び込めばどうなるのかなどは——
"手を、離して、くれませんか"
何が正しかったのだろう。
今思えば……そう考えても、何も答えは出ない。
何かを取れば、何かを取り零していた。でも何かを取り零すのを許容すれば、剣の代わりに何かを掴み取る事が出来てしまっていた。ならばきっと、全て正しく、全て正しくなかった。
では剣すら握り、彼女の手も握って逃げる今の自分は何なのだろう。
どちらかを選択しなかった。
その選択を後回しにした。
思考をやめてはならない。
あの少女は良くそう言う。だから考え続けた。ぐるぐると……同じ場所から何も脱却出来ず。逃げた。ただ王妃の手を引き、キャメロットから逃げた。
"………ッな、ランスロット卿!? 一体何をしてい■■■■■"
何をしているのだろう。
それを聞く声がする。
何をしているんだ。
そう糾弾する声がした。
それすらも段々聞こえなくなる。
同じ箇所を回り続ける思考は、周囲のそれを雑音にしていた。
逃げた。
まさか、このタイミングで自分に加勢してくれる人がいた事に驚きながらも逃げて——しかし逃げられないと悟る。キャメロットから逃げてすぐに理解する。
絡まった糸。真空の竪琴。あの魔弓を前に逃げる事など叶わない。
このままでは関係のない人までもが死ぬ。そうするには、糸ごと断ち切る他はなく——
"あぁ"
そう吐いた己の言葉は嫌に響いていた。
真空の糸は、いつの間にか切れていた。
そう。逃げる為には。糸ごと"相手"を断ち切る以外に方法はなかった。
湖の聖剣は血に汚れている。掲げる名誉など何もない。
"逃げるな——"
いつの間にか剣の音が消えた。
剣閃の音が無くなった。
代わりの音が辺りに響く。
大地が、人が、魂が。
遍く全てが焼け付く音がする。
焼け野良になった周囲。灰となった周囲の木々。
振り返れば、太陽の騎士が立ち上がっていた。
ガウェイン卿。それ以上は——
"逃げるな、ランスロット——"
傷だらけだった。互いに。
否、違う……ガウェイン卿ばかりが傷付いている。当然だ。聖者の加護を受けているガウェイン卿を前に擦り傷で済むなどまずあり得ない。
つまりは、ほとんど無傷で耐え切る以外に勝ち目はなかった。相討ちは己の敗北でもあった。だからこそ陽が沈むまでガウェイン卿の猛攻を防ぐしかなく、騎士の一騎討ちから逃げるしかなく——
"貴様は——妹達を裏切った"
あの滅私の騎士が、執念と妄執で立ち塞がる。
燃えていた。
溶鉄となり、溶け落ちるように。ガウェイン卿の全てを薪として。
太陽の聖剣が。聖者の数字が。蒼銀の帯が——燃え堕ちている。
"剣を取れ……ランスロット——ッッ!"
どうすれば良かったのだろうか。
あの手を振り解くべきだったのか。
——あの少女のように、躊躇いもなく見捨てるべきだと。
諭す方向に舵を取るべきだったか。
——あの少女のように、人の生き様を導くべきだと。
もはや意味の無い問い。
今あるのは、変えようのない事実だけ。
しかし問う。
答えは何だったのだろう。
答えは、未だに出ていない。
物事の是非や成否に関わらず、周りからの評価によって、物事の価値や相応しさ——つまりは正しさが変化させられる事がある。
納得出来るか出来ないかという話。建前ともメンツとも。人間は理性の機械ではなく感情の獣であるが故に。
それをルーナは深く理解していた。
理解してなくてはおかしいからだ。そう例えば——多くの命を救う為、小さな村を焼くしかなかったなんて話、良くある事だ。
正しさの是非に限らず、選択の成否にもよらず、多くの恐怖を集めてしまうとかだって。
彼女は最初、そう言う選択の果てから生まれた。彼女が誕生したのはあの日からだった。故にルーナは——トリスタン卿を手にかけるのは己かもしれないと心のどこかで思っていた。
一度、王への糾弾を止めた時。
その日より、運命は決まっていたのかもしれない。彼はもう止まれなくなった。愛と正義の両方に裏切られ、自らを失ってしまった。
愛と正義に生きた人。故に理不尽に対し、正しい義憤をぶつける事の出来る人。
だが——物事の価値や相応しさ、正しさはとっくに変化させられていた。
彼が悪いというモノでもない。同時に良いという訳でもない。当たり前の事だ。全人類皆等しく、悪いという訳でも良いという訳でもないから。
愛を求める姿勢は時に人に愛を教え、正義に生きる姿は人々に清き想いを説くだろう。時代が違えば多くの人の道標となる騎士の一人だった。
きっと。それが——騎士道が枯れ行くこの時代では違ったというだけで。
建前があった。考えがあった。何より、立場と役割があった。
故にその想いも嘆きも、悉く全てを断つ。理由など関係ない。もう一線は踏み抜かれた。ならば私が手にかけよう。
人としての正しさ。選択の是非。それは疾うに地に落ちた。騎士道の花は枯れ果てた。故にトリスタン卿はもう、殺さなければならないかもしれない。
あぁきっと、これが地獄なのだろう。
それはアーサー王が、騎士道を掲げていたからこそ顕現しなかった人間の闇。
アルトリアが王だったからこそ、封印されていた災厄。国に蔓延らなかった人間の地獄。つまりこれは——私が生み出した人の地獄。
清らかさ。誰もが地に落ちる状況だからこそ、人の前に立つ王として人は尊く在れるのだと、そう示していた騎士の王。
それが無くなった瞬間、こうも容易く地獄が広まってしまうのか。
しかも新たに成り代わった王は、率先して人を暗闇に誘い込み、何より王本人が地に落ちている。
悪は殺せ。悪いものは正せ。情状酌量の余地など必要ない。だって何の罪のない人々の方に温情があるべきなのだから——
私の在り方は、そう言う思想を人々に植え付けてしまっていた。人の善性を狂わせた。一体どちらが悪なのか。この国には最初から、悪も善もなかった筈なのに。
アルトリアは善の道標として王を成し遂げていた筈なのに。
成る程。酷く道理だった。人は導けても、人を救う事は出来ない。
そんな人間が関わり、果てにはあまりにも大きな影響を与える程の現状。
確かに自分の方が適していた筈だった。確かに一つ一つは良くなった筈だった。だが結末は何も変わらない。同じ終焉を迎え、そこに至るまでの過程は腐り堕ちた。
己が変わらない程。自らの意思を貫き続けた程。私は周囲を歪ませる。
ならばこれが当然の対価だったのだろう。
己を張り続ける程、私は——自らの大事だった人すら手にかける事になる。
何たる矛盾。
人の死を嫌悪しながら、その為に行動しながら、結果的に人の死を多く加速させた。
ならばこれはきっと、理想と現実の乖離——彼女と彼らが味わってきた摩耗の道筋。
尊くあると誓っても尚、少数を切り捨てなければならなかった騎士王の悲痛。
誰かを救う事は、誰かを救わない事なんだと悟るしかなかった彼の嘆き。
磨り減る程に駆け抜け、理想にも正義にも裏切られた彼の絶望。
きっと。今味わっているのが、彼らと同じ一歩。最初の絶望の一歩。
だから、トリスタン卿を殺すのは。
身勝手であろうとも、もう醜態を晒さないようにと殺害するのは。
きっと己だろうと、そう信じていた。
まだ自分なら彼の死が無駄にならず、せめて意義があるものになるだろうと、そう信じていた。
そう——ルーナは信じていた筈だった。
「………………」
酷く心が動かなかった。
それを理解して、ルーナはただ、きっと己は何も信じていなかったのだと決定付ける。
損切りの心構えと可能性を考えていただけ。何もない。それ以外には、何も。
ランスロット卿を追う道すがら。
街道の真ん中に"それ"はあった。
道を真っ赤に染め上げている赤色。
それは、横たわる"それ"の——炎のような赤髪すら染め上げている。
身じろぎもなく、僅かな呼吸の音もなく、ましてや心臓の鼓動すら感じ取れなくなった、人間の亡骸。
それはルーナが、戦場では何度も見て来た光景。
鎧は壊れ、武器は壊れ、信念すら疾うに果てたモノ。戦いの余熱はもうなく、冷たい亡骸となったモノ。
唯一の違いは、その亡骸がトリスタン卿であるというだけで。
「……………………」
僅かにもざわつかない辺りの茂み。
その中、ルーナはうつ伏せに倒れた彼の死体を確認する。
軽装の鎧。一太刀のみの、僅かなずれもない真っ直ぐな斬撃跡。衝撃で砕ける事もなく、まるで竹を斜めに両断したようなこの斬撃跡は、湖の聖剣でしかあり得ない。
彼が愛用していた真空の竪琴の弦は、何本も
当然か。彼の糸から逃げるには、糸ごと彼を断ち切る他にはない。
だがそれは同時に、言葉による対話は不可能であり、彼を殺害する以外に方法はなかったと証明している事でもあり——
「騎士に二言はなし。女性や子供。弱き者の力になる事こそ騎士の本懐。
——キャメロットへの帰還、お見事でした。トリスタン卿」
彼女は静かに閉目し、トリスタン卿の亡骸を仰向けにした後、彼の瞳を閉じさせた。彼の瞳は濁っており、もう生命を感じない。
"必ず、必ず私はキャメロットに戻ります。
それがいつかは分かりません。ですが、どうかそれまで、私の剣を貴方が預かっていては貰えないでしょうか——"
「何故本当に、キャメロットに帰還したのですか」
そこまでだったのか。本当に、本当にそこまでだったのか。
叔父を置き去りにし、一人目のイゾルテを顧みず、二人目のイゾルテすら裏切って、本当に——己の下へ。
精神と肉体。その両方を毒に侵され、あまつさえ自らを失いながら、それでも戻って来たのか。
事実だけがあった。
トリスタン卿は本当に、約束通り戻って己の下に戻って来たのだと言う事。
「もしも二人のイゾルテに出会ったら、私は背中から刺されそうで困るのですが」
冗談めかすように言うが、当然トリスタン卿は返事をしない。
愛だとか恋だとか、親愛だとか友愛だとか、そう言うモノを語れる程多くを経験した訳ではない。
だがきっと。
「トリスタン卿。それはただの罪悪感と責任感。
貴方が求めた愛と正義に、私はきっと当て嵌まりませんでしたよ」
それを残し、ルーナは立ち上がった。
かける言葉は届かない。もう罪悪感や責任感に囚われる事はなく、ただ労いの言葉ではなく、貴方の役割は終わったと結論付け、実際に己自身が手をかける。
それが僅かなりとはいえ、意味を持った行為と言葉だったかもしれない。
しかしそれが果たされる事なく、彼はこの世を去った。
ならばもう、語る言の葉などない。
彼の人生、最期に至るまでの過程。それに対する感想はルーナにはなかった。良いも悪いもない。ただ事実だけがそこにある。
「まさか本当に、あの日の約束通り私の下に戻って来てくれるとは思ってもいなかった。
私はきっと、何処かで貴方の事を侮っていたのでしょう。申し訳ありません。あの日の約束通り、この剣は返します」
ルーナはその場に、トリスタン卿から預けられた剣を突き刺した。
本当ならトリスタン卿の手にあったままの剣。宝具級の神秘と価値があった筈の剣。慈悲の剣。カーテナ。
まるで墓標のように地面に突き刺さった剣は、彼の代わりに持つ物ではない。
「ですが、貴方の竪琴は私が借ります」
地面に落とされたままの、真空の竪琴を拾う。
軽い。糸は何本か解れている。だが——それが何の障害になろうと言うのか。
この弓を扱うのはこれで二度目。ある魔術師をこの弓で追跡した時の記憶は焼き付いている。
しかし今度は更に違う。今の自分なら、私はこの弓を完全に支配出来る。
自らの殺戮の武芸を研ぎ澄ませてしまうだけとなった結果。それが無為に終わろうとも、決して無益ではなかったのだと私が証明してやろう。
トリスタン卿の弓。
必中の魔弓にして真空の竪琴を受け取ったルーナは更に歩を進めた。
トリスタン卿は何も返せず、またルーナも何も返せなかった。だがしかし、確かに受け継がれたモノはそこにある。
彼の生涯。その生き様の頂点。それが完全な程に灼き付いている武器。
全てを見失いながら、しかし決して鈍る事などなく、むしろ鋭さを増した彼の技の全てが。
今確かに。また一つ赤い線として。彼女の内側に装填された。
ガウェインが気付いた時には、辺りはもう真夜中になっていた。
記憶は朧げ。頭は未だ眠りにあるのかもしれない。
暴走するように剣を振るっていたのは分かる。それ以外には何も。暴走していた時の記憶が薄い。まるで燃え尽きて灰となり、風に運ばれて消えてしまったようだった。
生きているのが不思議だった。
日輪の下。片方どちらか果てなければ、この戦いは終わらない。そう言う戦いをしていた。故に己がこうやって、敗北しながら月の下にいる事が不思議で仕方がない。
それは、あの人から受け継いだ聖者の祝福と、同じく預けられた輝かしい帯の加護のお陰なのだろうか。
まだお前には成す事がある。やり残した事がある。
天からそう言われている感覚がした。
申し訳なさで一杯だった。
ガウェインはただ申し訳なく、そして悔む。
体が冷たくなっていくのを実感しながら、しかし頭が冷えたのかもしれない。
太陽の力は穢れ、彼から受け取った帯はボロボロに焼け焦げてしまっている。
私怨に囚われた者は聖者足り得ない。そんな事は当然だっただろうに。彼にも誓った筈なのに。
もしも、もしも次があるなら決して——
朦朧とした意識の中で、空へと向かって手を伸ばす。
それは最期の最期の抗いだったか、もしくは何かに助けを求めてか、更には……月に向かって手を伸ばしただけで、意味などなかったのか。
意識が消えるまで後もう少しとなる。伸ばした手が地面へと落ちていく。
否——その手は落ちなかった。
自分よりも小さな、本当に小さな手が、己の手を掴んだ。
しかし力強く、何より彼女はその手で剣を握って来た。だから力強く、故に誰にも負けはしない。
覗き込む瞳。顔。作り込まれた人形のような彼女は、月に照らされながら、確かにガウェイン卿の最期に間に合った。
あぁ。どうしてこう、彼女は本当に何かを探し求めている時に限って、必ず隣を訪れるのか。
ずっと何年も他人だと勘違いしていた、一番下で一番強い妹の姿を見て、ガウェインは力を抜くように笑った。
「申し訳、ありません………陛下。ランスロットを討つ事、叶わず」
こんな時になっても、彼は己を陛下と仰いでくれるのか。
滅私の騎士。アーサー王に忠誠を捧げた騎士。
それが、自分に対しても仕えている。仕えてくれた。ただそれだけでも感嘆物だと言うのに、何故。
肝心な時にいなかった王の代わり役にすら、恨み言の一つも吐かずに自らの使命と役割を全うするのか。
「それとどうやら………私はもうすぐのようです」
ガウェイン卿の手を掴みながら、ルーナは彼を抱き起こす。
亡骸に成り行く人の感覚は、もう良く知っていた。実の母親。ギャラハッド。死に行く人間の軽さと、両手に染み付く重さ。これで三回目。
だから悟る。彼の言葉でも理解する。彼の最期を看取るのだと。
「陛下よ、今更ではありますが、貴方に剣を——」
「…………………」
「遅く、申し訳ありません。
この聖剣。もう一振りの……星の聖剣。それを、貴方に」
ガウェイン卿のすぐ隣には、彼の太陽の聖剣が野晒しにされていた。
白と青。太陽の光を照り返す蒼銀の刀身に、流麗なる加飾は要らず。
それは自らの名誉よりも、ただ仕える主の右腕である事を己に定めたガウェイン卿のような聖剣だった。
だがその聖剣は、野晒しにされたまま光を失っている。
担い手から離れた聖剣。影に覆われたように黒く燻んだその出立ちは、ガウェイン卿の残りの命と今の状態を、残酷なまでの正確さを以って表しているのか。
つまりは、今の彼の魂はもう、灰と化している——
「どうか受け取ってはくれませんか。この、太陽の聖剣を」
力無く笑う顔の姿だが、しかし私怨に囚われた身ではない事は確かだった。
むしろ今この瞬間、執着や私怨から解き離れた聖者の如き様子を彼から感じる。
「情け無い……私は陛下に何も捧げておらず、唯一これくらいの忠義しか渡せない。不忠の騎士として、叱責を受けても……当然だ」
そう。彼は滅私の騎士にして忠義の騎士。アグラヴェイン卿とはまた別の、鋼鉄の人間。アグラヴェイン卿が騎士王から深く信頼されたように、彼もまたアーサー王から深く信を置かれ、事実彼は王が不在の場合の代理候補だった。
——王の影武者は、本来なら彼だった。
だが彼は、そんな名誉を意に介する事なく忠勇の騎士としてアーサー王に仕える。
アーサー王の影である事を選び、円卓の中で何よりも輝く事を選ばなかった武人。アーサー王が卑王を倒すよりも前から完成された騎士の中の騎士。
彼こそは、騎士としての在るべき姿を何よりも表した騎士だったのだ。
「私は、王足り得ましたか」
だから、思わずルーナは彼に尋ねた。
滅私の騎士。常に礼節を失わない高潔な騎士。しかし爽やかに勝利を勝ち取る筈だった彼は、最愛の妹——家族を失う事が彼に影を落とす。
でもそれでも——彼はまだ、ここで死ぬ運命ではなかった。
その理由に、己がある事は何となく分かっている。
だからこそ、彼に聞かずにはいられない。
そこまで………本当に、ここで命を賭してしまっても良かったのか。本当に自分は、貴方をそこまで駆り立ててしまう程の王だったのか。
疑問も不安。そして自分が、アーサー王と同じだけの忠義を、今確かに渡されようとしている事への罪悪感。
私は、王足り得たのか。その言葉には、彼女の内側の感情が滲んでいる。
「陛下が王足り得たか………それを決めるのは、私ではありません。ですが………私にとって貴方は、王ではなく——妹です」
血の繋がりはない。家族でいた期間すらもない。
なのに、ガウェイン卿から妹と言われた事実がルーナは信じられなかった。
何故。ただの他人でしかない自分が。突如関係の無いところから現れた偽物の親族が。それでも彼は、己を妹と言うのか。
何故、彼はこんな自分すら——
「——ふ……そのような表情をするから、貴方は私の妹なのですよ」
そう指摘されるまで、ルーナは凍らせていた表情が僅かといえど溶けていた事に気付かなかった。
かすかに動いていた瞳。細められていた眉。
無表情の域にあるそれは、どうしてかガウェインには泣いているように見えた。
怯懦の影に濡れた彼女の瞳を見る権利がある者は少ない。
「だから………誇らしかった。わたしは、あなたが…………」
彼の言葉にルーナは俯く。
悟る。これが彼の忠義と親愛なのだと。
彼が己の事を妹だと捉えながら、しかし騎士として私情を挟まず、剣を預ける。
最期の瞬間、己を主として見送る事を選んだその行為。それが彼の最期の、最大の忠義ではないなどと、どうやって言えるものか。
「ありがとう。サー・ガウェイン
貴公の忠義。確かに受け取った。卿の聖剣、私が預かろう」
低く冷酷に。
感情を見せないまま、淡々と彼女は告げる。
しかしそれでも、彼女は強く続けた。
彼が見せた、最大の忠義。それを報いるなら当然、彼女は王として徹するべきなのだから。
「そして、ガウェイン卿——」
ルーナは顔を上げ、一心になって彼の手を握り返す。
強く、そして騎士の名にかけて誓うが如く彼に応える。
「——騎士として在るべき姿を体現した"理想の騎士"は、貴方だった。
貴方は私にとって、最も偉大な兄上だった。ありがとう。私が貴方を忘れる事など決してあり得ない」
感情が欠けたかのような、何処までもただ平静なままの宣言。
しかしそれにガウェイン卿は僅かに瞠目した後、小さく安堵するように笑う。
「あぁ、それは、よかった——」
安堵の表情。微笑むような笑みをルーナに向けたまま、その言葉を最期にゆっくりとガウェインは目を閉じた。
「……………」
ルーナは小さく彼の体を揺さぶる。
反応はなく、返される応えもない。ここから新たにかける言葉はもうなく、訂正出来る言葉もない。
短い会話だった。もっと他に交わすべき言葉があったかもしれない。伝えたい事もあったかもしれない。しかし、もはやその問答に意味はないのだ。
あるのはただ、彼が最期、安堵の表情を浮かべてはくれたという事実だけ。
ならばそれを胸に収め、前に進もう。まだ私は歩けるのだから。
ルーナは抱き上げていた彼の体をそっと横たわらせ、彼から受け取った太陽の聖剣を手に取る。太陽の聖剣は——驚くほどに手に合った。
不思議と自らの手に完璧に収まった太陽の聖剣、その力を測るように確かめた後、彼女は立ち上がる。
——寸前、ガウェイン卿が身に付けていたそれを、ルーナは引き抜いた。
それは、彼がとある人物から貰い受けた物。
災いを退ける加護を持っていた筈の"帯"。もはや疾うに焼け焦げ、色も燻んでしまった——ベルシラックの帯。
ルーナはそれを、握りしめる。
太陽の聖剣と同じく暖かな加護を持っていた筈のそれは、ガウェイン卿の亡骸のように、疾うに冷たくなっていた。
もう力もない。何の加護もない。ガウェイン卿の最期のように、聖者の祝福と共に燃え尽きた。唯一ガウェインを堕とす事より守ったそれは、ただの殻として残っている。
ルーナは無言で、ベルシラックの帯をマフラーのように首に巻き付けた。
焔に焼かれて多くが灰になり、随分小さくなった帯。マフラーとして、首に巻き付けておくには丁度良い。
焼け焦げた影響か、ベルシラックの帯は色が変質していた。青は赤に。金は黒に。まるで反転したかのよう。
焼け焦げたベルシラックの帯が、吹き荒ぶ風に揺れる。
冷たい寒さを遮る為のマフラーとして、首に巻き付けたボロボロの布切れが、宙に揺らめく。
それはまるで——彼女から焔の陽炎が流れて揺らめくように。
「陛下、これは………」
「来たか」
己を呼び止める声に、ルーナは振り返った。
振り返った先にいるのは、先行した彼女に追い付いて来た弓兵騎士五十人。
誰もが幻視した。風に揺られる彼女のマフラー。太陽の焔が残滓として揺らめいているのだと。
「トリスタン卿とガウェイン卿は亡くなった」
「……………」
「もはや問答の余地すら消えた。円卓の騎士三人の死亡に温情する余地はない。
何があろうとも、如何なる呼び名で誹謗されようと、私は彼を粛清する。手筈通りに必ず、ランスロットを討つ」
「——は。陛下」
少女の呼び声。それに対して誰も疑問に思わない。
狂ったような統制力だった。何をすれば良いか分かる。何を成せば良いか分かる。かつて一人の円卓の騎士の配下だった、彼ら騎士達は皆、等しく同じ者の下で同じ意思を固定していた。
彼女を残し、先行していく騎士達。
どこにいるのか分かっている。彼女が事前に教えたからだ。予想外でも起こらない限り彼女はランスロットを見つける。
そしてその予想外は起こらない。今の彼女はそういう幸運によるモノ、賽を天に預けるなんて行為から"シャットアウト"されている。
「一度目は事故で。二度目は他に手段がなく。三度目は仕方なく。
では——四度目は?」
月が暗い。
暗い月の夜空は、太陽が黒く堕ちたのと変わりはしなかった。
彼女は空を見上げる。
右手に握る太陽の聖剣が、赤い光となって霧散し、また一つ彼女の内側に装填される。
「リベンジ戦ですね。ランスロット卿」
七年前は彼に敗北した。
勝てる気がしなかった。
今も勝てる気はしない。
勿論。
騎士らしく——彼の間合いで戦うのならば。
【WEAPON】
サー・トリスタンの魔弓
詳細
フェイルノート
円卓随一の弓の名手と呼ばれた騎士が愛用した、必中の弓にして真空の弓。
精霊の加護を受けた竪琴の糸は何本かが解れている。
奏でる曲はなく、響かせる音はもう消えた。
いずれ歌を捧げるという誓いは果たされないまま。
そこに残されたのは、冷たい殺戮の武芸だけだった。
サー・ガウェインの聖剣
詳細
ガラティーン
太陽の騎士ガウェインが愛用した太陽の聖剣。アーサー王の聖剣と起源を同じくする、もう一振りの星の聖剣。
不浄を清めなくてはならない。
だがその思いによって染め上げられた太陽の聖剣は、黒い焔の陽炎が揺らめいている。
しかしだからこそ。今この擬似太陽は、大地を焼き払う竜の息吹にすら匹敵する熱量を持つ。
ベルシラックの帯
詳細
サー・の称号を失っても尚、戦い続けた騎士の帯。
加護は薄れ、煌びやかな装飾は掠れ、血に汚れて赤黒く燻んでいる。二人の太陽の騎士を支え続け、帯の端は焼け焦げたようにボロボロになっていて、新たな所有者に焔の輝きを宿す事もない。
全てを失った運命の果て、凍える程に冷たくなった
運命の果て、彼らは対決を余儀なくされた。
ひとつの時代で無双を誇るまでに到達した者。
ひとつの時代で一度も敗北を許さなかった者。
あらゆる精神的制約下であろうとも、十全に剣を振るう事の出来る騎士。
あらゆる精神的弱体を無視し、身を鉄にして剣を振るう事の出来る騎士。
二人に隙はない。歳による老いや不足なども関係ない。
互いに極められ続けて来た経験と時間。
収められて来た力と技。
故に今こそが全盛。今この瞬間こそが最強。
次回。全盛期ランスロットVS鉄心ルーナ。
勝利の天秤は疾うに傾いている。