9X年7月某日、群馬県S市。
夏の熱気を含んだぬるい風が吹き抜ける県立S高校の屋上で、眠たげにあくびをする三年生の女子生徒、藤原拓海は秋名山の方角を眺めながら物思いにふけっていた。
(……今朝は久しぶりに見たな、あの日の夢。もう5年もたつのか)
藤原拓海にとってはあるかもしれない未来の話。『藤原拓海』にとっては過ぎ去った過去の1日の話。
初めてこの夢を見たのは中学一年生のころ。
別に何かの記念日でもないただの平日だが、その夢を見た夜は拓海にとっては忘れられない1日だった。
遡ること五年前。
『藤原豆腐店』を経営する父、文太は山向こう、秋名湖近辺のホテル街に毎朝4時、自家製の豆腐の配達へ向かうのだが、その日はこれを拓海がやる事になったのだ。
きっかけはちょっとした事だった。
その日、店に立つ文太に頼まれ、拓海は自宅横のガレージで洗車をしていた。
一通り洗車が終わったのち、拓海はふと何に気なしに運転席に腰を落としてみた。
腕を伸ばしてハンドルを握り、ペダルに両足を置いてみると、それらは妙に体になじむ感覚がした。シートが遠すぎてこのままでは満足に操作できないが、それでも何故かしっくりくるのだ。
しばらく意味もなくペダルやシフトレバーを操作していると、拓海の鼻腔を煙草の匂いがくすぐった。
「何やってんだ?」
銜え煙草姿の文太が店の前から拓海を怪訝そうに見つめていた。なかなか戻ってこないので様子を見に来たのだろう。
「な、なんでもないよ」
シフトレバーをニュートラルに戻し、車を降りる。
車に鍵をかけ、気恥ずかしさを隠すように自室に戻ろうとする拓海の背中に、文太の声がぶつかる。
「……運転、してみたいか?」
悪戯好きな子供のように、ほんのわずかに口角を上げた文太の細い瞳が拓海をまっすぐに見つめていた。
その日の晩、拓海ははじめて車の運転をする事になった。ちなみにこの時、中学一年生である。
運転席に座り、ステアリングに手を添えた瞬間、全身を強張らせていたはずの緊張はスッと体の中から抜け落ちていった。
初めて乗ったはずなのに、まるで何年も乗り続けてきたかのような手に馴染む感触。今まで欠けていた何かが填まり込み、元の姿を取り戻したかのような充足感。
それからの事はよく覚えていない。ただ勝手に手足が車を操り、ホテルまでの道を往復していた。
配達を終えた拓海は家の前で待っていた父、文太の労いの言葉にテキトーな返事を返し、朝まで二度寝を決め込んだのだった。
二度寝にふけった拓海は妙にリアリティを感じる夢を見ていた。
それは自分と同じ名前の男が歩んできた23年間の人生だった。
中学1年の時に父親から車の運転を仕込まれ、毎日毎日豆腐の配達に行かされた。
高校3年の夏に初めて公道レース“バトル”を経験し、それからは県内のみならず関東中の峠という峠に繰り出してはバトルに熱を上げた。
ついには念願のプロに……英国に渡ってラリーストとして実績を積み上げ、いよいよWRCの大舞台を目前に控えたある日、マシンテスト中に事故にあう。
ドライバーの制御から離れた車が崖下へと転落していく最中“オレ”は半身も同然のような存在……最後の公道バトルで壊れてしまったあの白い車を思いながら最後の時を待ち続けていた。
少しずつ直すから、と無理を言って実家に保管してもらっていたあれに思いをはせた時、強い衝撃に意識を刈り取られ、夢は終わりを迎える。
「変な夢……」
目を覚ました拓海はぼんやりと天井を眺めながら、夢の内容を思い返していた。
夢の内容なんて大抵は寝覚めてすぐに忘れてしまうものだが、今回の夢はいくら経っても消えていかない。
それどころか時間がたてばたつほど自分の中で確固たる存在となりつつある。
ベッドに腰かけ、両手を空に突き出し、そこにある架空のステアリングを握る。
右足でアクセルをあおりながら左足のクラッチを素早くつなぐと、タイヤの空転を示す激しい摩擦音が響き、それに一拍遅れて車は勢い良く前に飛び出していく。
1速ギアはあっという間にタコメーターの針が頭打ちし、クラッチを切ってシフトノブを2速に押し込む。一瞬だけ半クラッチを当てつつ素早くアクセルを踏み込めば、急激に回転数が低下したにも拘らず滑らかに繋がる。
目の前にコーナーが現れる。
足先でブレーキを踏み込みつつアクセルを蹴る。ステアをきりつつシフトダウンすれば、リアタイヤは地面をつかむことを早々に諦めアスファルト上を流れ始める。
さらにアクセルを開けつつ、ステアを先ほどまでと反対方向に少しだけ向ける。独楽のように前輪を軸に回りだそうとしていた車体がわずかに横を向いた状態で安定する。
コーナーの出口が見える。アクセルとステアを少しづつ戻していけば、それまで横に流れるばかりだったタイヤが再び地面を掴み、車体を前方へ猛然と弾き飛ばす。
「……おーい」
イメージの中で、次々と秋名のコーナーを抜けていく。
所詮妄想でしかないのだが、たとえ実車……ハチロク、というらしいあの車でも全く同じ挙動をするだろうという確信があった。
「……起きてるかー」
明日の配達の帰りはこれが本当にできるかどうか試してみよう。
そうと決まれば、昨日は単に面倒でしかなかった家業の手伝いも少しばかり楽しみになる。
「拓海ぃ!いつまで寝てやがる!!」
妄想のステアリングを投げ捨てベッドから飛びあがる。いつの間にか時計の針はずいぶんと進んでいた。
最低限の支度を整え部屋を飛び出ると、ドアの向こうにいた文太と目が合った。
「やっと出てきたか。大丈夫かお前?」
「……大丈夫だって。行ってくる」
自宅兼店舗のドアを開け、店先まで付いてきていた文太に手を挙げて小走りで駆け出す。
急げばギリギリで間に合うだろう。
(結局、あの日はギリ間に合わなくて遅刻だったっけ)
夢の内容の正確なカタチ……それが自分の過去の記憶であると思い出すまでにはさらに時間がかかった。
もう十年以上も生きてきた女性の身で自我が確立している上での記憶の復活のため、いまさら女であることに戸惑うようなことはない。
配達に行きだした当初こそ、過去と現在の肉体の体力差に戸惑い、思ったように操作できずに車をスピンさせたことが何度かあったりしたが、今ではほぼ思い通りに動かせるようになっている。
(私は……藤原拓海は、やっぱり、クルマと峠が好き)
普通なら、事故で痛い目にあったのなら、もうこんな危ない馬鹿な遊びはやめてもっと安定した道に進むのが正しい、あるいは賢いやり方なのだろう。
それでも、車を速く走らせる。このたったひとつの自慢できる取り柄を押し出して生きていきたいという思いは変わらない。
(そのためにも、まずは)
休み時間の終了が近いことを告げるチャイムがなっている。
踵を返して拓海は教室へと向かう。
(期末試験、なんとかしないと……)
学力的にはそう不安はないが、それでも万が一無様な点を取った結果、夜遊び禁止令の宣言でもされたら非常に困る。
勝てる勝負を落とさないのはプロの鉄則なのだから。