ハザードランプを付けて路肩に止まっているハチロクの横を抜けて、FCは帰宅への道に就いた。
「何やってんだ路肩に停めて。オレの時はさっさと帰ってたのによ」
「何か話したい事でもあるんだろう。啓介の時よりは手こずらされたようだしな」
「……けっ」
忌々し気に鼻を鳴らし、啓介は視線を助手席の前方に戻した。
「それにしても、あれだけ後ろを気にしてた割にはあっさり行かれたな、中里のやつ」
「あれはハチロクが直前のライン変更でGT-Rのミラーの死角に潜り込んだんだ。気が付いた時にはもう自分のラインに割り込まれているから、もうブロックは間に合わない。それでも無理して頭を抑えに行こうとすれば、オーバースピードで膨らむのは当たり前の事だ」
涼介はFCのギアを5速に変更し、常識的な速度での巡行に移る。
「中里の敗因は、ハチロクを気にし過ぎた事だな。さっきの5連続ヘアピンにしても、別に相手にする必要はなかった。あんなところで無理に並んでも、次のコーナーまでに前に出られたかどうかは怪しい」
自分の走りに集中できていれば、まだ中里にもチャンスはあったかもしれない、と涼介は締めた。
秋名の下りのゴール地点を超えた先で、路肩に寄せて止めたGT-Rの傷の具合を確認して、中里は軽く安堵の息をついた。
一見些細な擦り傷でも、付き方によっては思いがけない金額になることもある。中里の経験上、この傷の感じなら何とか財布は持ちこたえてくれそうである。
これで十万超え確定コースにでもなっていたら色々と切り詰めた生活を当面余儀なくされていただろう。
「大丈夫ですか?」
街灯の光に差した影と声に中里が振り返ると、そこには先の対戦相手である女性……藤原拓海がそこにいた。
「……擦っただけだ。見た目以外は問題ない。もし気にしてるんなら、それは余計なお世話だぜ。オレが下手だったからアンダー出してぶつけただけだ。見事な追い抜きだったぜ」
「そうですか。なら良いんです」
虫の鳴き声が静かに響き、しばし無言になった二人の横を、帰宅中のギャラリーらしきS13シルビアが通り過ぎていった。
練習なのか単なる格好付けか、無駄にヒールアンドトゥでエンジンを唸らせながら交差点へゆっくりと進入していったシルビアのテールを見送っていた中里が、ぼそりと口を開いた。
「オレも昔、S13に乗っていた。ある日、神奈川ナンバーのR32に妙義の下りで煽られてな。その流れでバトルになったんだが、負けたよ。地元だし、ウデも確実にこっちが勝っている確信があった。それでも、どうしても追い抜けなかった」
中里は振り返り、まだまだ温かいGT-Rのボンネットに手を乗せた。
「悔しかったよ。あんなヘタクソ相手でも負けは負けだ。車の差ってのはオレが思っていた以上に大きな要素だった。いいマシン持って、まず相手と同じ土俵に立つ。そして初めてウデの勝負ができるんだって」
そう思い知らされたつもりだったんだけどな、と中里は呟く。
車を言い訳にしているうちは、走り屋としてまだまだ二流。あの日の自分にももっと実力や度胸があったなら、また結果は変わっていたかもしれない。
GT-Rに乗り換えて以来、もう群馬にこの車の敵はいないと調子に乗っていたが、まだまだ甘いと教えられた。
「またウデ磨いて出直すわ。今日のバトル、受けてくれてありがとうよ」
じゃあな、と中里はGT-Rに乗り込もうとするが、ふと何かを思い出したように運転席から振り返る。
「……ナイトキッズのナンバー2に、慎吾っていうシビック乗りがいるんだ。オレとあいつはあまり仲が良く無くてな。オレが負けたと聞きつけたら、喜び勇んで挑みに行くかもしれない」
中里が負けた相手に慎吾が勝てば、慎吾の方が走り屋として格上であると周囲に知らしめる事ができる。慎吾の性格を考えれば、まず間違いなく挑みに行くだろう。
「ウデは確かなんだが、性格が悪い。バトルでも追い抜くんじゃなくて、相手を潰して勝とうとするようなやつなんだ。もし来たら、気を付けてくれ……と言っても、お前なら普通に逃げられるだろうけどな。じゃあ、また機会があったらやろうぜ」
慎吾のスタイルを考えれば、スタート直後に後ろについて仕掛けるタイミングを計ろうとするだろう。しかし、それはハチロクの前に障害物が存在しなくなることを意味する。
逃げに徹するハチロクを慎吾のシビックが捕まえる、それは些か難しいだろうと中里は思った。
街灯のぼんやりとした光を痛々しく反射するGT-Rを見送り、拓海はあくびを一つ。
時刻はもうすぐ11時を指す。そろそろ帰らなくては明日の配達、そして明日からようやく始められるアルバイトに差し支える。
一夜明け、今日もガソリンスタンドの開店の時刻が迫る。
池谷はS13シルビアの隣にイツキを乗せ、職場への道を走っていた。もともと近所住まいという事もあり、出勤の時間が合えばイツキもついでに送ってやる事も時たまあった。
「昨日は凄かったっすよね。池谷先輩」
「ああ。今思い出してもつい口元がにやついちまうよ。なんかもう、笑うしかないって感じだよな」
スポーツ走行用の四点式ではなく、普通の三点式シートベルトを締めて走る池谷は口元からわずかに歯をのぞかせる。
「GT-Rなんて、誰もが知ってる“スゴイ車”の代表格だからな。それを、これでもかと終始煽り倒してたんだってな。群馬エリアはレベル高いけど、それでも別格って感じだよ」
「そうっすよね。もう秋名の下りで挑戦しようなんてやつ、当分はいなくなるでしょうし、オレも車さえ届けばそれはもう今のうちにガンガン走り込むのに」
「届けばって……おいイツキ、お前もようやく車買ったのか?」
前方を走る軽自動車の加速に合わせ、じわじわとアクセルを踏みたしながら、池谷はイツキに問いかける。車探しをしていたこと自体は知っていたが、契約までこぎつけたとは初耳である。
「はい、ようやくっすよ。親父に泣きついてローンの保証人になってもらって、そこそこキレイな中古のハチロクレビン買ったんですよ!」
「へぇ、良かったじゃねぇか。今もうキレイなハチロクの中古なんてだいぶ少なくなってるだろ。一時期タチ悪い業者も多かったっていうしな……あれ?」
職場前までたどり着き、従業員用の駐車スペースとなっている店の隅に車を放り込む。
サイドブレーキを引き、既に店長の祐一の愛車であるカムリが停まっているのを確認すると、残りの開店準備を引き継ぐべく車を降りた池谷は店の姿に違和感を覚える。
まだ開店前の時刻なのに既に開店準備が終わり、いつでも客が入れる状態になっているのだ。店長の祐一が朝早く来て準備をしている事はたまにあるが、既に準備が終わっているというのは初めてである。
「もう支度終わってるぜ……店長どんだけ早く来たんだ?」
池谷は時刻を確認した。遅刻という万が一の事態では無いようで一安心である。
店の奥に見えたスタンドの制服姿に向けて声をかけようと一歩踏み出したところで、池谷は逆に店の裏側から声をかけられた。
「別にいつも通りだよ……池谷、イツキ、お早うさん」
そこでは祐一が裏口に立って窓を拭いていた。
「おはようございます店長……あれ、じゃあさっきのは」
「突然だが、今日から新しいバイトが入る事になってるんだ。二人いるから支度も捗ったよ……おーい、ちょっと来てくれ」
祐一が店の奥の影に呼び掛けると、その陰の主がこちらに近づいてくる。顔が判別できる距離まできた段階で、池谷とイツキは思わず寸頓狂な声を上げた。
「今日からバイトさせていただく、藤原拓海です。よろしくお願いします」
「お互いもう自己紹介は不要だろ。二人とも、色々教えてやってくれ」
レギュラーガソリンを満タンにされた家族連れのミニバンが大きな音を立てて店を出ていく。
その様を帽子を脱いで見送った池谷とイツキは、日陰に入りながら汗をぬぐう。次の客がやってくるまでしばしの休憩である。
「なあイツキ。店長からは色々教えてやってくれと言われたけどさあ、もう言う事ないよな」
「そうっすね。もう完全にマスターしちゃってますよ」
二人の目線は現在使用済みウエスの片付け中の拓海の方へと向けられる。
最初に一通り口頭で説明したのち、さあ実際に作業してみようと接客にあたらせてみたが、その結果は非常に満足がいくものであった。過去にスタンドバイトの経験でもあるのかと思うほど拓海は迷いなく業務をこなしていく。
失敗があれば即座にフォローに入るつもりで目を光らせていたが、その時がやってくることは一度も無いまま昼を迎えようとしていた。
「さっきの家族連れのセレナのおっちゃん、ちょくちょく来るウチの常連の一人だけど、すげぇ驚いてたよな。女の子でガソスタバイトって確かに珍しいし」
「お釣り手渡されたとき思いっきり顔にやついてましたね。そんで隣の奥さんっぽい人に無言でスゴイ視線を向けられてて、窓拭いてて思わず吹き出しそうになったっすよ」
池谷は帽子とシャツで自身を扇ぎながら、僅かな時間で少しでも排熱に励む。
「それにしても……いいな、花のある職場って。いつものエンストしないギリギリでやってる退屈なルーチンワークだけど、今日はパワーバンドで全力運転だぜ」
「わかりますよ先輩。何か意味もなく張り切っちゃいますよね」
池谷達は店のマークが入った半袖長ズボンの地味な貸与制服を着ているが、女子用だと上は共通だが下がまるで作業させる気を感じさせないかなり短いスカートに変わる。火花や切粉が飛ぶような作業はガソリンスタンドには無いので問題は無いのだろうが、この肌の露出面積は作業着としてどうかと思うレベルである。
「今朝来たAZ-1の兄ちゃん、真っ黒のサングラスかけて気取ってたけど、明らかに視線が窓拭いてる拓海ちゃんのスカートの方に行ってたからな。体乗り出してフロントガラス拭いてる時とかもう露骨だったぞ」
「あれだけ車高低かったらドライバーの視線も相当に低くなりますよね。あれ普段から色んなモノが見えてそう」
「あれな、見える見えないのギリギリの高さらしいぞ。それを楽しむために乗ってるヤツも世の中にはいるらしい」
それと引き換えに街乗りでは物凄く苦労するだろうけどな、と池谷は言う。視点が低くて信号や縁石が見づらいのはスポーツカー乗りのあるあるなのだ。
「ていうかウチ、女子用の制服なんてあったんですね。初めて見ましたよ。池谷先輩は見たことあるんですか?」
「棚の奥に新品のまましまってあるのは見たことあるけどな……」
ある日の掃除中、ビニールに入った新品の制服の山の中に女子用もあるのを見つけ、池谷は祐一に昔は女の子がいたこともあるのかと尋ねてみた事がある。
「服は作るのに時間かかるから、予備はいつもストックしてあるだけだとさ。急なバイト希望の女の子なんて来るわけないからそれ一着しかないけどな、って。いつでも受け入れられる体制作っとかないと色々うるさい時代らしい」
「制服なら男女共通でも別にいいんじゃないですか?」
「ダメらしい。偉い人が一度そう決めたら、現場は黙って従うしかないんだと。まあ制服のデザインで進路選ぶ子も一定数いるだろうから、今どき風のデザインした制服ってのも分からんことはないけどさ……まあ本当に来ちゃったけどな」
店長もあれを棚から出す日が来るとは思わなかっただろうな、それはそれとしてガソリンスタンドが若い女の子狙いは方針としてどうかと思うぜ、と池谷はぼやいた。
「ああ、それで……」
イツキが拓海の方を見ながらふと呟く。
「なんだ、イツキ?」
「どうりで、何か窮屈そうにしてると思ったんですよ。微妙にサイズ合ってないんじゃないですか?」
池谷も目を凝らし、そして首を傾げた。
「この年頃の女の子って露出凄いイメージあるから、全然違和感無かったぜ。言われてみればそうかもしれないな……それで余計に短く見えてるのか」
「……短いとか何とか、どうしました池谷先輩?」
二人して拓海の方を見ながら話しこんでいたからだろう、さすがに気付いた拓海が近づいてきていた。
「え、い、いやそれは……」
池谷は頭頂部を軽く掻き、言葉を探した。
「……う、運転歴の話だよ。店長が前言ってたけど、拓海ちゃん、中学生の頃から運転してたんだっけ。オレこうして先輩ぶってるけど、運転キャリアはオレの方が短いんだよなぁ、って」
「まあ、確かに中一からやってますけど……」
「そ、そこでだな。オレ達ももっともっと上手くなりたいし、君みたいな凄腕の走り屋がコーチとしてついてくれれば心強い」
適当に思い浮かんだだけの内容だったが、一度しゃべり始めれば言葉は自然とすらすら出てきた。
もともと拓海さえ良いと言ってくれるなら彼女に色々教えを請おうというのはチームの中でも話が出ていたことなのだ。
「もし良かったら、今晩オレ達を横に乗せて秋名を攻めてみてくれないか。速いヤツがどんな風に走っているのか、勉強させて欲しいんだ。頼む」
「……いいですよ。ただ車が私のじゃないので、借りてもいいか聞いてからですけど」