バックミラーに映り込み続ける一対の光に、慎吾は思わず舌打ちする。
(やっぱ前に出といて正解だったぜ。逆だったらと思うとゾッとする)
ガムテープデスマッチというルールをFR殺しだと認識している者もいるが、繊細なコントロールさえできればFR車でも走り切る事は可能である。
(オレも今まで、右手を持ち替えずに走る練習は山のようにやってきた。当然、最小限の舵角で曲がる方が速い事だって分かってる……)
実際にタイムを計測したわけではなく、プロのようなコンマ1秒単位のシビアな時間感覚も無い。それでも明確に感じ取れるだけの差がある。
ならば一定以上のレベルのドライバーであれば、普段からそういう運転をしており、ガムテープごとき彼らには何の制約にもならないという事態はありうる。
その場合、慣れない道路でさらに片手を縛っている自分こそが不利な立場にいることになる。
(だけどな、オレも下りには自信がある。このまま抜かせずにゴールすればオレの勝ちなんだ。全力で逃げる……!)
当初の構想とは全く違った形になってしまったが、始めてしまった以上は後には引けない。
迫る緩い右コーナーに、慎吾はステアをきりつつアクセルを離すと同時に軽くブレーキ、元々重いFF車のフロントにさらに荷重がのしかかり、前輪の切れている方角へ向かって急激に旋回を開始。
最小限の減速で抜けたシビックの目の前に左へアピンが現れ、慎吾が息をのむ。
(何度通ってもここのキツイ左はぎょっとするぜ……)
一度フェイントモーションをかけた後、アクセルをふかしてシフトレバーを2速へ押し込みつつ、右手が耐えられる目一杯の範囲で左へステアを回す。
車が曲がり始める瞬間にアクセルを抜けば、それまで前進に使用されていた前輪のグリップがほぼ全て旋回に回され、エンジンブレーキによる回転速度抑制の補助も受けつつ、その重たい頭をコーナーの先にねじ込もうと懸命に路面を蹴る。
(……ここだ!)
いわゆるタックイン現象の発生を感じ取ると、左手で勢いよくサイドブレーキを引き上げる。
それまで前輪に追従しきれず、慣性に流されるままの抵抗となっていた後輪にロックが掛かり、前輪を軸に回転する独楽が完成。
即座にサイドブレーキを解除、アクセルを踏みつけてアンダーステアを発生させて独楽の回転を止め、コーナーの出口へと向かわせる。
ここを抜ければ長いストレートが待っている。まだ2速でもエンジンの回転数に余裕はあるが、それでも慎吾はギアを3速へと入れ替えると、アクセルを床まで踏み抜く。
踏める場所で少しでも長く踏みたいが故の行動だが、ギアを上げてなおEG6シビックは飛ぶようにスケートリンク前ストレートをかけ続ける。
スポーツカーによく使用される大馬力の高回転型エンジンというものは、高回転域での出力こそ素晴らしい反面、低回転ではトルク不足で乗りづらくなったりする。
EG6シビックに搭載されたB16Aエンジンには、それまで相反する要素と考えられていた低回転時のトルクと高回転時のパワーを両立させるVTEC機構が搭載されており、多少回転が落ちようとももたつくことなく加速することができる。
(直線なら単純なパワー勝負……ここで稼がせてもらうぜ)
ミラーを覗けば、ハチロクはじりじりと引き離せていることが確認できる。
いずれは追いつかれるだろうが、抜かせなければいいのである。ここで稼げたことで、一歩勝利が近づいた。
ふとメーターに目を落とせば、早めのシフトアップにより大きく落ち込んだはずのタコメーターの針が早くもレッドゾーンに近づいている。
「レッドゾーンまで一気に吹き抜けるこの音……最高だぜ、たまんねぇ!」
1.6Lでこれだけの加速をする車なぞ、他のメーカーの、どんな車種にも無いだろう。下り勾配さえあればGT-Rにすら食らい付く、官能的な加速に慎吾の表情がほころぶ。
ストレートの終盤、慎吾は己の両眼に全神経を集中させ、ブレーキを踏み始めるポイントを見定める。妙義最速の下りスペシャリストと自称し、ブレーキングを遅らせ突っ込みを速める走り込みを続けてきた慎吾の目でもこれ以上は怖いとなるギリギリの一線を絞り込み、渾身のフルブレーキングを敢行する。
荷重の抜けてふらつく後輪の挙動に注意を払いつつ、ステアリングを握る腕に力を籠め、行き先となる
コーナーの出口がある左前方をにらんだ時、その視界に強い光が飛び込んできた。
(なにっ!)
まさにこれから切り込もうとしているイン側に、ハチロクの頭が既にねじ込まれている。
ブレーキングに移る前はそれなりに距離があったはず、それなのに横まで来られたという事は、それだけさらにブレーキングが遅らせられているという事になる。
コースへの熟練度が十分なら、もう少しぐらいは遅らせても曲がれるだろうが、今の差を詰められる程ぬるい突っ込みなど慎吾はした覚えはない。
(……ぶつかる!?)
明らかにオーバースピード。一秒後に予想されるラインの膨らみからシビックを逃がすべく咄嗟の修正を慎吾は行うが、その予想に反しハチロクのラインは膨らむことなくコーナーを脱出。何事もなかったかのように再加速に移っている。
(なんだ今のは……あのスピードでインベタなんてありえないだろ!)
最新鋭の車の足とタイヤならば、あの速度でもグリップは持ちこたえるのかもしれない。だが、今目の前にいるのは旧式マシンなのである。
テクニックでどうこうという範囲は超えている。秋名の峠には何か自分の知らない地元ならではのギミックがあったりするのだろうか。
しかしそんな事を今考えても仕方がない。それが何か分かったところで今夜のバトルには寄与しないし、抜かれる寸前で仕掛けるという目論見もご破算となった。
勝利の為の次なる一手を考えなくてはいけない。そしてそれを思いつき、かつ実行可能な段階になるまで必死で食らい付かねばならないのだ。
スケートリンク前ストレートを抜ければ、後はしばらく緩めのコーナーと半端な長さの直線が続く。
FF車はヘアピンのような場所でこそFR車に一歩劣るが、少しの回頭で済む緩いコーナーならばそうではない。路面次第ではむしろトラクションをかけやすいFF車に有利な状況も多々ある。
終盤ではまたヘアピンが顔を出し始める。そこまでが勝負どころとアクセルに力を籠めるも、追いかけるだけでも一苦労な状況に慎吾は舌打ちを一つ響かせる。
(あいつが負けるわけだぜ……このアマおっそろしく上手い)
そのコーナリングは一見するとただのグリップ走行である。リアを振り出さず、カウンターステアも当てていない。
(見るやつが見れば分かる。あれはドリフトなんだ。タイヤ四つのグリップ全部使って車を曲げてやがる)
前方を行くハチロクのラインをなぞるように、左足にブレーキを任せ、右足のアクセルはわずかに開けたままシビックの頭をガードレールすれすれ目掛けて投げ込み、クリッピングの瞬間にアクセルを抜く。
頭が抜けたら再びアクセルをオン、外に向かって流れようとする車体のスライドを最小限に抑え、短い直線と道幅を目いっぱいに使って駆ける。
(ダウンヒルがここまで怖いと感じるのは初めてだ……ただハチロクを追いかけているだけだってのによ)
車の性能は間違いなくこちらが上。GT-Rのように車重などの分かりやすい弱点を抱えているわけでもない。
左のヘアピンが近づいてくる。ここを抜けてしまえばもう次は5連ヘアピン区画となる。
仕掛けなければいけないのに、仕掛けるチャンスがまるで見えない。ただ走り続けるしかできなかった慎吾の視界に、ふと変化が起きた。
前方、コーナー出口付近に街灯でもハチロクのヘッドライトでもない光が存在している。
全ての走り屋にとっての恐怖の存在……悪者なのはこちらなので恐怖の存在呼ばわりは向こうのセリフであろうが、それでも走り屋達にとって会いたくない存在。
「対向車か……!」
ハチロクのブレーキランプが早いタイミングで点灯する。左車線のみでのインベタのコーナリングのため、どうしても車速を落とさざるをえないのだ。
その時慎吾の脳内に、ふと考えが浮かんだ。
そこまでやるのはどうかという思いも浮かぶが、それ以上に、ここを逃せばもうチャンスは無いという思いが脳裏を染める。
(まともに逃げても勝負にならねぇんだ、オレが勝つにはこいつを潰すしかない……)
ターンインの瞬間に間に合うようブレーキを調節し、ちょうど横を向き始めたハチロクのテールに接触させ押してやる。
大きく姿勢を崩したハチロクが対向車線側に流れ始めたのを横目に自分は颯爽と左車線を抜けていく。
「並のウデなら、ガードレールに刺さって終わり。アンタほどのウデなら、この状況からでも間一髪立て直せるかもしれねぇが……」
姿を現した対向車のハイビームに目をしかめながら、慎吾はアクセルは踏まず速度を落としたままミラーを覗き続ける。
右隣りから響く急ブレーキによるスキール音や耳障りなクラクションの大音量を無視し、こんな時だけ制限速度を守ってのろのろとシビックを走らせる。
(目の前に対向車がいる。オレが邪魔で反対車線に逃げることすらできない対向車がな)
ガードレールに刺さり、最悪崖下への転落を回避したければスピンから車を立て直さなければならない。しかしカウンターステアによるオーソドックスな立て直しにせよ、さらに回って360度ターンを試みるにせよ、右車線にいる限り対向車との正面衝突が待っている。
「選ばせてやるぜ……壁か、対向車か。どっちとキスがしたい、お嬢ちゃん?」
ギアをニュートラルに入れ、軽くエンジンを回してやる。軽くなったシフトノブを1速に入れ、まだクラッチは繋がず空ぶかしを続ける。
相手が相手なだけに、そういう行為には警戒していたつもりだし、そう簡単に当てに来られないよう立ち上がりを多少犠牲にしてでも進入速度重視のラインを走っていた。
対向車の存在には向こうも気が付いていたはずだし、さすがにここではやらないだろうと後方への警戒を切った途端にやられた。
(帰ったら久しぶりに怒られるだろうなーこれ)
まあ回ってしまったものは仕方ない。拓海は回る視界の中で、時折映る対向車を正面に捉えたタイミングでクラッチを一気に繋ぎつつ、ステアを思い切り左に切る。
限界目一杯回され続けたエンジンに引っ張られ、リアタイヤが空転する。オーバーステア状態になり激しく反時計回りに振り出された車体がガードレールにヒット、その衝撃と同時にステアを右に切り直し逆方向、時計回りのスピンに今度は持ち込む。
今からどんな操作を加えても間に合わないので、いっそ自分からガードレールにぶつかりに行き、反動で吹っ飛ばされる事で走行車線に復帰する作戦である。
目論見通り勢いよく吹き飛んだところでまたまた左へステアを切る。片手で回せる範囲では、スピンを止めるにはカウンターの当て具合がまるで足りないが、それでも勢いを弱めることはできる。
対向車との接触ギリギリを掠めながら、その外周を回る。
ハチロクのヘッドライトに、名も知らぬ運転手の影がちらりと映った。
吹き飛んだ先で再び衝撃。今度は反対側の山肌にぶつかり、その反動で今度こそ車は正面を向き直す。
今だそこにいたシビックを抜き去り、そのまま5連続ヘアピンに突入する。
慎吾はミラーの中で何が起きたのか理解するのにやや時間を要した。
(……ぶつけた反動で逆ドリフト!?)
危機的な状況で、むしろ自分からぶつかりに行く判断が下せるドライバーなどそうはいない。いるとすれば、それはよほど場慣れしていて、かつ頭のネジに何らかの異常があるドライバーだろう。
仮に思いつけたとしても、それを実行するには高度な技量が必要である。
ただ速いとか遅いとか、上手い下手で語れる一般的なレベルではない。
「ガムテープ巻いててこれかよ……!」
ミラーの中でハチロクの姿が大きくなる。
ミラーを見るばかりでアクセルを踏むのも忘れていた慎吾は慌てて加速を試みるが、出足の遅れはどうにもならず、あっさりと前に行かれる。
そして最初に危惧した通り、あっさりと前に出たハチロクがそのまま消えてしまうのに、さして時間はかからなかった。