秋名山の頂には、かつてこの山が火山活動を行っていたころの名残であるカルデラ湖、秋名湖が存在し、休日などはそれなりに賑わいのある観光地となっている。夏真っ盛りのこの時期だが、標高約1400メートルに位置するこの湖はそのような暑さとは無縁の心地よい場所だった。
平日の昼間という事もあり人気はまばらなこの湖のほとりに、いま三台の車と四人の男女が向かい合っている。
「あの……はじめまして、佐藤真子といいます」
落ち着いた青色のシルエイティを背景に、真子はぺこりと育ちや親のしつけの良さを伺える綺麗なお辞儀を披露する。
「あ、はい、こちらこそはじめまして、藤原拓海です」
赤いレビンを後ろに置いた、ガソリンスタンドの制服のままの拓海がつられて頭を下げ返す。
そしてその様を少し離れた場所から見ていた、シルビアの脇に立つ池谷は、同じくこの光景を見ていたイツキに小さな声で話しかけた。
「なあイツキ。オレ達どうするべきだろう」
「そうですね……とりあえず、しばらくここから離れます?」
「……そうだな。ここは二人っきりにしておこう」
女二人、黙って見つめあっているだけの空気に耐えられそうになかった小心な男二人はそそくさと、時間つぶしのために秋名を軽く流しに行こうとするのであった。
事の起こりはその前日の朝まで遡る。
「実は今朝、真子ちゃんから電話があって」
店内にいた拓海に話しかけた池谷は、開口一番に佐藤真子の名前を出した。
そんな池谷の話を横で聞いていた祐一はニヤニヤと口角をあげた。
「朝一番にする話が彼女との惚気とは。池谷も随分出世したもんだな」
「違いますよ店長、オレと真子ちゃんはまだ正式にそういう関係になったわけじゃ……ってそうじゃなくて一応真面目な話なんですよ!」
池谷はこほん、と咳ばらいを一つ。
「真子ちゃんがな、拓海ちゃんの事に随分興味持ってるみたいでな。ぜひ一度会って話してみたいって言ってるんだ。拓海ちゃんさえよければ、どうかな」
「いいですよ。別に断る理由もありませんし」
「ありがとう。じゃあ真子ちゃんにはオーケーって伝えとくから、予定決まったらまた伝える……あ、いらっしゃいませー!じゃあ拓海ちゃん、また後で!」
来客を示すエンジン音の接近に、池谷はさっと話を打ち切って駆け出していった。
「池谷もすっかり春だな」
「そうですね。楽しそうで何よりです」
翌朝、イツキが出勤すると、すでに揃っていた他の同僚たちからの視線が一斉にイツキに刺さった。
「おうイツキ。いいところに来た。今日の夕方ヒマか?」
「予定はありませんけど、どうしたんですか?」
祐一は紫煙を漂わせる灰皿を傍らに置き、池谷を指さして言った。
その顔はやれやれといった表情で、何か彼が店長を呆れさせるようなことを言ったらしいという状況だけはイツキにも理解できた。
「例の真子ちゃんが拓海ちゃんに会いたいらしいんだが、今日の夕方に秋名湖でと決まったそうだ。それで、今日仕事が終わったら池谷が拓海ちゃんを乗っけて秋名湖まで行こうとしていたんだよ。駄目に決まってるだろう。分かるか?」
「ダメって……池谷先輩の横に乗ることがですか?」
そうそう、と祐一はいっそ大げさなまでに首を縦に振った。
「だって、彼女に会いに行くんだぞ?」
「そうですね」
まだ彼女というわけでは、と横から何か聞こえるが、祐一はそちらの方は無視して続ける。
「いくら制服で、単なる職場の後輩だからといっても、お揃いの服着た若い女を助手席に乗っけて彼女に会いに行くやつがあるか、という話だな」
いくら同じ時間に同じ場所に向かうからといって、同じ車に乗っていくべきではない。時間と油だけ見れば効率的な最善手に見えるが、彼女の事を考えるならむしろ悪手だな、と祐一は語った。
「そこでだ、イツキ。お前が拓海ちゃんを送ってやってくれ。最初は拓海ちゃんには自力で行ってもらおうかとも考えたが、やはり他の同年代の男とセットになってる方が向こうも安心だろう。池谷の応援だと思って引き受けてくれないか」
「は、はい。送っていきます店長」
その時、来客を告げるエンジン音が店内に響いてきた。
「今日のお喋りはここまでだな。そらそら、お客さんだぞ仕事しろ仕事。池谷も行ってこい」
「では、お車をお預かりします」
イツキは客から車のキーを預かると、ゆっくりと徐行させながら車を店の奥まで運んでいく。
今日やってきたその軽自動車はタイヤが大きく潰れていた。空気圧など調べるまでもなく不足である。
ここまで減っていれば明らかに走行に影響が出ているだろうが、気にしない人というものはとことん気にしないものである。
今日もおそらくは給油だけのつもりで来店したのであろうが、見かねた池谷が点検を勧めたのであった。
既に道具の準備を終えて待っている拓海の前に車を置き、キーを渡して後は彼女に任せるだけ。自身は表での接客に戻ろうと背を向けた時、拓海の方からイツキに話しかけられた。
「朝の話だけどさ。ごめんね。実は今日の夕方って車使えそうになかったから、誰かに送ってもらうしかなくって。ガソリン代は出すから」
「いやいいよこれくらい何でもないから。気にしないで……それにしても、話したい事ってなんだろう。バトルの申し込みかなやっぱり」
「さあ……バトルならバトルって最初からそう言うんじゃない?」
「それもそっか。じゃあ、オレ戻ってるね」
「うん」
イツキはそのまま背を向け、今度こそ表での接客に戻ろうとするが、その時背後から聞こえた小さな声に再び足を止めることになる。
「あっ」
振り返ったイツキが見たものは、屈みこんで何かを探す動作をしていた拓海の姿。
「どうしたの?」
「……キャップ落とした」
小さな部品であるタイヤのエアーバルブキャップをうっかり手から滑り落してしまったらしい。こういった小さな物を紛失するのはよくある事で、店には替えの備蓄がたっぷりと置いてあった。
「新しいの持ってこようか?」
「もうちょっと探してみて、無かったら持ってくる」
「わかった」
とはいえ、預かり物をなくさないに越したことはない。まだ探すつもりの拓海にここは任せて、自分は表に戻って一人奮闘中の先輩を手伝うべきだと判断。
そうして返そうとした踵に、こつんと何かが触れた感触があった。
(……ん?)
見れば、今まさに彼女が探しているであろう品のキャップが転がっている。思ったより遠くまで飛んで行っていたようだ。
何気なくしゃがんでそれを拾い、発見を伝えようと顔を上げたイツキの目に驚きの光景が飛び込んできた。
(!)
車の下を探そうと、膝をつき、限界まで上半身を下げて暗闇を覗き込んでいる拓海の後ろ姿である。
女子用制服のミニスカートの裾が持ち上がり、上着側に至っては前かがみの姿勢のせいで裾が重力でずり落ち中のシャツが見えている。
(……)
何の変哲もない安物の白いシャツであるが、普段見えないものが見えていると何だかそれがお得なものに思えてくるのだから人間の目というのは不思議なものである。
視線の先にいる拓海が動いた。ここには無いと判断し車の下から出てくるつもりのようだ。
上半身を引き抜く際にスカートの裾がまた若干持ち上がった。思わずこちらの顔も動いて視線を下げてしまう。
(……ってそうじゃない!)
暗かったとか黒かったとか言っている場合ではない。
こんな場面を本人や第三者に見られでもしようものなら武内イツキという人物の社会的信用は地に落ちることになる。
慌てて立ち上がると周囲を見渡し、こちらを見ていそうな人物がいないかチェックする。
中にいるであろう店長などは心配ないだろう。壁の向こうなのだから見えるはずがない。
続いて池谷先輩。こちらも大丈夫そうだ。給油ノズルを握っている状態でよそ見などできようはずもない。
最後に他の客。これも問題ないだろう。給油待ちの行列でもできていてれば危なかったが、幸いにも一度に複数台が来店することはなかった。順番待ちで暇を持て余した客が暇つぶしに店内の様子でも眺めていたらどうなっていたことか。
その口から出た噂が巡り巡って池谷先輩や拓海の耳に入らないとは限らない……そんな回りくどい事態よりその場で吹聴される可能性の方が高そうだが。
(うん、何も無かった。大丈夫)
先ほどまでの光景は自身の海馬の片隅へいったん置いておき、立ち上がった拓海に今度こそ失せ物の発見を告げる。
「え、そんなところにあったの?」
「う、うん。オレも偶然目に入っただけだし、見つからなくても無理はないよね」
「そうだったんだ。探してくれてありがと」
「ど……どういたしまして」
額の汗をぬぐいつつ礼を述べる拓海の姿に、イツキはいいようのない罪悪感を感じるのであった。
そして冒頭に話は戻り、池谷とイツキがそそくさと湖から離れていくのを横目に見送りながら、拓海は佐藤真子からの声を待つ。
「ええと、仕事の日に呼び出してしまってごめんなさい。でも、どうしても貴方と話してみたかったんです。同じ女性の走り屋のあなたと話せば、何か分かるかもしれなくて」
「いえ、仕事は気にしないでください。別に無理はしていませんから」
拓海は相槌を返す。というか、何か問いかけられたわけではないので他に何も返しようがないのだが。
「あの、池谷さんって、藤原さんから見てどんな人ですか?」
「いい人ですよ。素敵なプレゼントや、お洒落なデートができるような、いわゆる女性ウケするような人とは遠いと思いますけど、それでも。佐藤さんは、池谷先輩の事はどう思っているんですか」
「……優しい人だと思います。この人は、きっと私の事も大事にしてくれるんだろうなって、思えます」
真子は数分前まで池谷のシルビアが停まっていた駐車場の枠を見ていた。
「私、以前から悩んでいたんです。最近、周りからの圧を感じるようになってきて。今はまだ感じるだけですけど、もう何年もしたら、はっきり言われるようになると思うんです。いい人はいないのか、将来の事はちゃんと考えているのか、と」
「……」
「将来の事ばかり頭にちらつくようになって、走るのにも集中できなくなって。それで、私はもう走り屋をやめよう、って決意したんです。でもただ消えていなくなるのも嫌だから、最後に思いっきりバトルがしてみたい。そう考えていた時に、池谷さんと出会ったんです」
まさかその最後のバトルの直前に出会いが転がってくるなんて予想はしていませんでしたけど、と真子は苦笑いをしながら言った。
「……でも出会いがあったなら、佐藤さんが走り屋をやめる理由も無くなるんじゃないですか?」
「そう、ですね」
ここで真子は視線をかつてシルビアがあった場所からシルエイティに移した。
「不安なんです。辞める必要がなくなったのに、それを素直に喜んでいない自分がいる。憧れて入った世界のはずなのに、もうやめたがっている自分もいる。私って、こんな中途半端な人間だったのかなって。池谷さんはあんなに真っすぐ私の事を見てくれるのに」
続けるにせよ、辞めるにせよ、今までの自分がやってきた事にけじめをつけたい。中途半端な己のままでは池谷浩一郎のような素敵な人にはとても釣り合わない。
「だから……お願いします。私と、バトルしてはいただけませんか。走り続けてきたこの数年間で、私がどれだけの物を積み上げられたのか知りたいんです」
一見軽薄そうに見える走り屋でも、地元の意地を始めとする、なにがしかの『重い』ものを背負ってバトルに臨むことはままある事だ。
だがそれらとは別ベクトルで重たい真子の口上を耳にしながら、拓海は内心でげんなりとため息をついた。
(真面目な人だなぁ。そんなに思いつめなくてもいいのに)
ただ一言でよいのだ。走りたいから走るだけ。戦争じゃないのだから、バトルするのにいちいち理由など用意する必要はないのに。
よほどの理由が無ければ相手は断ったりなんかしない。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
とはいえ、こういった女性の方が池谷浩一郎という男とは上手くやっていけるかもしれない。
次の週末の夜、碓氷峠に向かう事を拓海と真子は約束。そしてこの約束は真子の親友たる沙雪、その幼馴染たる慎吾を通じて各所に知れ渡ることになり、大勢のギャラリーが碓氷に押し寄せることになるのはもう少し先のお話である。