最初のコーナー直後に早々に二速へと切り替え、荷重をかけるために僅かにブレーキペダルに足を乗せる。
碓氷峠の下りは開始直後から激しく道が左右にくねる。
左を抜けたと思えばもう目前に右が見えている。一秒にも満たない直線区間の間に何度もアクセルとブレーキを踏みかえてはラインを描くための位置取りを整え、次へと飛び込む。
何十、何百と数え切れないほど走り込んだ真子達は、最良の加減が完全に手足に染みついていると自負していた。
「……へえ、やるじゃん」
助手席で沙雪がにやりと笑った。
今、真子はほぼほぼ己のリズムで最序盤を走り抜けた。それはつまり、先行車に合わせてペースを落とす必要がほとんど無かったという事だ。
これがもっと下手なヤツであれば、追突防止のために苛つきに耐えながらもっとブレーキを踏み足してやらなくてはならなかっただろう。
「そうでなくっちゃ、先の楽しみがなくなるわ」
運転席の真子も口角をあげて先のハチロクを見つめる。
ハンドル握ると人が変わるタイプ、と沙雪に評される真子は獰猛で積極的な攻めの運転で、煽り立てるようにグイグイと車間を詰める。
「まだまだ、こんなモンじゃないよ私たちの本気は。どこまで逃げられるかしら……」
この左を抜ければ、ここでようやく直線らしい直線が現れる。
今夜初めての出番である三速ギアと共に躊躇いなくアクセルを踏み抜き加速するが、ハチロクとの距離は中々変わらない。向こうも恐れることなく全力での加速を選択している。
ここがもっと距離のある直線ならば馬力の差で追いこせたであろうが、しかし並ぶ前に次のコーナーが迫ってくる。
「次の左、インベタ、グリップ!」
沙雪が助手席で叫ぶ。
真子が力強くブレーキを踏みつければ、先行するハチロクとの差が少し空く。
一見すればよりブレーキを遅らせたハチロクの方が上手ともとれる状況、しかし真子は焦ることなく二速に落としてコーナーへと切り込む。
ハチロクの方は、減速しつつ軽く右に車を振っている。それをドリフトの下準備と見た真子が隣の参謀役に呼び掛ける。
「沙雪!」
「見えてる、大外行くよ!」
リアを振り出しドリフトの態勢に入ったハチロクを追って、ベタベタにインに寄せながらシルエイティを飛び込ませる。
進入速度の差でじりじりと開いていくハチロクとの車間。それらを見ながら何かを脳裏で計っていた沙雪が声を上げた。
「今だよ真子!」
声を耳にした真子は前を見ることなく全力でブレーキングを行う。
「っ!」
減速のGでシートベルトに体を締め付けられながら前方を確認すれば、テールランプを煌々と光らせて減速を続けるハチロクの姿が視界一杯に映されている。
先の左コーナーを抜けた先にあるのは右のヘアピン。山肌に覆われた視界が開けた時には既に次のコーナーに一歩足を踏み入れた状態なのである。
左で勢いをつけすぎればこの右を曲がれなくなる。
事故るのが嫌なら死ぬ気でブレーキペダルを踏みしめるしかない。間に合えば失速しつつも何とか曲がりきれるし、間に合わないならば崖に刺さるだけの話である。
最初の左へ思い切り突っ込んだ時点で次の失速は目に見えている。
よろよろになったその外側を遠慮なく追いこさせてもらう、二人の即興の策は成功しそうに見えた。
既にステアリングは左には切られているので次は右に、シルエイティの鼻先をその頭にかぶせるべく空いているハチロクの左サイドへとボディをねじ込みにかかる。
「……真子っ!」
沙雪の警告とほぼ同時に、再びシルエイティの視界がハチロクの右側面で埋め尽くされる。
目の前でハチロクが横を向いている。それだけならばさして驚く事ではない。
曲がり切れない、と判断して自らスピンする事を選ぶ可能性は十分にありうる。むしろ、その程度の判断ができる技量はある、と信じたからこそこうして仕掛けたのである。ねじ込まれてパニックを起こしそうなヘタクソに仕掛けて、こちら諸共事故られては大変だ。
しかし、目の前のハチロクの挙動は明らかにスピンではない。
ブレーキングを中断し、並びかけられていた状態を脱して車を回すスペースを確保。即座に全力でステアを切って車体を右に向ける。明らかにこのコーナーをクリアしようとしている動きである。
大きくカウンターを当てた姿勢を維持しながら、イン側のガードレール目掛けて突っ込んでいく。
この狭い道路で既にハチロクが横を向いている今、シルエイティが割って入るスペースはもうない。
仕方なくこちらもハチロクの後に続く形でコーナーへ進入、並んで横を向く。
内寄りのラインのハチロクと、外寄りのラインのシルエイティ。魅せるだけのドリフトでもここまでする事は滅多にないと言える程のカウンターを当てて、眼前のハチロクは懸命に制御を試みている。
(それ、曲がれるの?)
すべき減速を途中でやめ、無理矢理方向転換したハチロクの速度はまだかなり高い。走り慣れた真子でもその速度、ラインで曲がれるかと問われれば、自信は無いと答えるほかない。
隣で沙雪が息をのんだ音が聞こえた。
なぜそれでぶつかっていないのか驚くほどガードレールをスレスレで抜けたにも関わらず、ハチロクの車体は外、山側に向けてどんどん膨らみ続けている。
これだけインを攻めてなお、足りないのだ。
(ぶつかる……!?)
あわやの事態も覚悟しそうになった真子と沙雪であるが、しかしハチロクはすんでのところで立て直しに成功、何事も無かったかのように猛然と加速し始める。
逃げる相手を見てほぼ反射的にアクセルを踏みなおしながら、真子は隣の沙雪に目だけを向ける。
「沙雪……」
「うん、見てた。何今の……普通、やれそうと思ってもやらないよ。失敗した時のリスクが大きすぎる。相当自信あったね、あれ」
信じられない物を見る目で沙雪が前を見つめている。
「まあ、今ので終わられてもつまんなかったしね。次行きましょ、沙雪」
「……そうね、隙あらばガンガン攻めてあげましょ。まだまだ始まったばかりなんだし」
土壇場の底力に驚かされはしたが、同時にこちらの優位も確認できた。
まだまだ落とし穴はたっぷりとある。右かと思えば左、左かと思えば右、今見えてる景色が信用できない碓氷のコーナーの恐ろしさを思い知るのはこれからである。
べったりと張り付いている一対の光をミラー越しにちらりと確認し、拓海はまた正面に視線を戻す。
(ああもう、バンパー擦った)
それなりのマージンは確保した上で飛び込んだつもりであったが、先の右コーナーはそれでも久々に肝が冷える思いをした。
積み上げた数多の経験と『記憶』から算出される予測……行ける、との直感からの声を信じてブレーキペダルから足を離した拓海であったが、その結果はコーナーこそ辛くもクリアしたものの、膨らみすぎで車体の左後方を山肌に僅かに接触させてしまうものとなった。
直感が間違っていたわけではない。脳裏には速度こそ大きく犠牲とするものの、ぶつける事無くギリギリで曲がり切れるラインが明確に描けていた。
原因は操作ミスである。
この動きを実現させるには、右へ左へステアリングを大きく、素早く回す操作を要求された。拓海は自身の身体能力の許す限りの速度で回したが、それは直感の要求した速度には僅かに届いていなかった。
あとほんのコンマ数秒早く車を前に向けられていれば、ぶつけずに済んでいたのである。
「はぁ……っと」
過ぎた事への葛藤や、父の雷の事は一旦ため息と共に頭の外へと追いやり、目の前のバトルへリソースを集約する。
当初の目論見は半分成功、半分失敗といったところ。
拓海はこの碓氷峠というコースについてよく知らない。自身の記憶ともう一つの『記憶』、二人分を足しても片手の指ほども走っていない場所であり、いくつかの特徴的だった場所を除けばコースレイアウトはさっぱりと言えるほど頭に入っていない。
そして、こういった場所の攻略において、二人分の記憶の恩恵は普段よりもはるかに少ない。かつて関東各地へ遠征を繰り返した記憶はあるが、その時は事前にコースを撮影したビデオを何度も繰り返し見てレイアウトを頭に叩き込み、前日には現地に乗り込んで練習走行を繰り返し、自分なりの攻略を形作ってから戦いに臨んでいた。
初見の場所を、なるべく安全に、しかし速く走るというのは経験のない、苦手な分野の技術である。
一方、高橋涼介は先日の秋名での交流戦前の顔合わせにて、完全初見であるはずの秋名下りを拓海以外の地元が誰も追従できない速度で駆け下りていた。彼がこうした分野にて一定のノウハウを有しているのは明らかであり、今回先行を選んだのも、あの時FCの後を走って感じたものを少しでも己の物にできないか試す実験という意味合いが大きい。
最初は調子よく走れたが、あの左はしくじった。ストレートだからと欲張らず、しっかりと減速しておいた方がトータルではずっと速い。
まだまだあの再現には程遠い。
先の見えないコーナーに進入する時、高橋涼介はどこに陣取っていた?
あの時のFCは、いつブレーキングを始めて、いつ止めていた?
タイヤはどう動いていただろうか。タイヤを見れば、車にいつどのような操作が加わったか読み取れるはずだ。もう一度よく思い出そう。
ヘアピンというほどきつくはないが、しかし甘い操作では抜けられない程度の小刻みなカーブを繰り返し、たまに短い直線を挟みつつ、鬱蒼と茂る木々の緑と闇の中を駆ける。
「……最初と比べてペース上がってきてるね。慣れてきたかな」
前方を行くハチロクの走りを見て、沙雪は一人ごちる。
先の見えないコーナーへの進入ではまだまだこちらが上であるが、先の見えるコーナーへのそれは急激に差が詰まってきている。前ほど入口で車間が詰まらない。
沙雪の考えるこのコースの最適解とはずいぶん異なる走り方だが、それでも相当なハイペースである。真子以外の地元の車ならとうに置き去りにされているだろう。
「次右、狭いよ!」
「OK!」
並行して真子へのナビゲートを続けることももちろん忘れない。
まだコースは半分も消化していないのに早くもこの峠のトリッキーさに順応し始めている。いや、どれだけ順応したところで道を知らないという足枷は絶対に消えない。他に要因がある。
(先を知らない以上、突っ込みの上限は上げられない。なのにペースが上がってるという事は……脱出速度の方が上がってる?)
脱出速度で稼げるなら、無理に進入時に速度を保つ必要はなくなる。そして進入速度を下げられるという事は、採れるラインの自由度が増すという事だ。
そう考えたうえでもう一度走りを見てみれば、確かに最初の頃程ハチロクはコーナー入口で車体を外に振らなくなっている。
スポーツ走行でのコーナリングの基本はアウトインアウトと言われるが、外に振って大回りをすれば当然移動距離は伸びる。
外に振っても大して速度を稼げないのなら、内寄りに最短を走った方が良くなる時もあるだろう。
(つまり、見えない入口ではロスを最小限にすることだけ考えて、見える立ち上がりを重視するスタイルに切り替えてきた)
「ここの左、軽く流し気味で!」
そう簡単に勝たせてもらえるなどとは思っていなかったが、ここまでは予測の外。今はまだ余力を持ってついて行けているが、ここからさらにもう一段ギアを上げてくるような事があれば辛い。ついて行くだけなら問題なくとも、抜きに行けるかとなれば難しくなる。
(なら、いっそ二本目以降に勝負は持ち越すべき?)
自分たちが前に出る偶数本のタイミングで突き放しにかかるか?
(いや、多分ついてくる)
「次、インに寄せ気味で!」
あのペースはあくまでも先が見えていないから。自分たちのリズムを見ていれば良い後追い時なら、こちらがレコードを叩き出すぐらいの勢いで走らなければ、振り切れる保証はない。
もつれて長期戦、というのは最悪の想定だ。
真子があの拓海というドライバーに唯一明確に劣っているポイント、バトルの経験の乏しさを突かれるだろう。対等なケンカに持ち込まれたなら、既に県内有数の強豪らと争った経験のある分向こうが有利。
(なら、一本目、なるべく早い内に勝負に出るのがベスト。このコースで勝負と言ったらあのポイントしかない!)
コース中盤における難所、C=121と呼ばれる長く急なコーナー。
下り入口から見ると広そうに見えるが、出口が狭い。ここに突っ込む未熟者はコーナーのキツさを恐れてゆっくりと進入し、そしてコーナーの長さでアクセルを踏めず失速する。ここをドリフト状態を維持したまま抜けられれば上級者、などと言う地元の者もいる。
自分たちが一番速い、と絶対の自信を持つあの場所で前に出る。これ以上に成功率の高い作戦は他に無い。
「真子、C=121で仕掛ける。行ける?」
「……そういう事ね。見せつけましょ。私と同じスピードで突っ込んで、クリアできたヤツなんていないからね!」
もし、向こうがC=121を対策済みであったら、とは今は考えない。
下から一度上がってくるだけでも、C=121の特異さは嫌でも印象に残るだろう。ここが勝負所になると考え、どう乗り越えるか脳内にイメージを描いている可能性は当然ある。
それでも、走り込んだ自分たちのスピードを上回っている事だけはあり得ない。
ここで仕掛ける。自分たちならばやれる。その確信を瞳に乗せて、真子と沙雪は僅かに顔を傾けて視線を交わし、頷きあった。