とうに日付も変わった平日の深夜の妙義の山を、けたたましくエンジンとスキール音を鳴り響かせながら登っていく車が一台。
頂上に輝く数少ない街灯から少し離れて休憩をとっていた妙義の下り担当、慎吾は手にしていたスチール缶を溢れかえりそうなゴミ箱にねじ込み、その車が登り切ってくるのを待っていた。
やがて黒いR32GTRが頂上に姿を現し、慎吾の車、シビックEG6の近くに止まる。
R32の扉を開いて降りてくるのは妙義の山の登り担当、中里毅である。
中里はちらりと後方を振り返った。そこにあるのは平日の深夜にも関わらず山奥に居座る二台の車。
彼の脳内のうち社会人としての常識をつかさどる部位は彼に今すぐ帰宅し明日に備えて休むよう強く主張しているが、それをねじ伏せ歩き出す。
固まった体を軽く伸ばしながら近づいてくる中里に気が付いた慎吾は、愛車に乗り込もうとしていた手を止めて彼の方に向き直った。
「なんだよ毅、下りないのか?」
「休憩だ。熱がそろそろヤバくなってきた」
「そうか」
慎吾は中里の説明に短く返した。
峠にせよサーキットにせよ、攻める走りを嗜む者にとって車の過熱は非常に重大な問題である。
止まれない、曲がれない、なんて事態に走行中に陥ったならばその先に待つのは悲惨な結末。兆候を感じたならば速やかに走行を中止して冷まさなければならない。
自身のプライドを懸けた戦いの真っ最中であるならばそれでも続行するかもしれないが、ただの練習でそこまで無理をする意味は無い。むしろ限界まで攻める練習ができなくなるので害悪だ。
「……」
ほんの少しの無言の見つめ合い、その時間にたちまち耐えられなくなった中里はたった今思いついた話題を慎吾に投げつけてみた。
「慎吾、下りはお前に任せる事になるんだが……お前個人じゃなくてチームとしてのバトルなんだから、いつもみたいなつまんねえマネすんじゃねぇぞ」
「つまんねえ?」
慎吾は中里を怪訝そうな目で見つめ返した。
「ああ、そういう事か……心配せずともんな事しねぇよ。ホームコースなんだぞ」
「ああ、それなら良いんだ。余計な事聞いて悪かったな」
気分を害しました、と顔にあからさまに浮かべる慎吾、中里はさすがに不適切な話題だったかと謝ろうと手を挙げるも、慎吾の次なる言葉に動きが固まった。
「あれこれ企むよりも普通に走った方が勝率高いだろうが」
「……懲りないヤツだな」
中里はため息を一つついた。慎吾が秋名までお得意のガムテープデスマッチを仕掛けに行き、順当に返り討ちにされた話は中里の耳にも入ってきていた。
それ以来、何がとははっきり言えないが、慎吾は少し変わったように感じられてはいたのだ。そうした面にも改善を期待してはいたのだが。
「オレの考え自体は変わってねぇよ。綺麗な二位より汚い一位だ。ただ、世の中には凡人のやる事なんざ何も通じない、格の違うバケモノがいるってのを分からされただけだ」
「……」
またしばらくの沈黙。
場を繋ぐためにも一本吸おうか、と中里はポケットに手を伸ばした。
紫煙を虚空に吐き出そうと顔を上げると、それまでそっぽを向いていた慎吾がいつの間にかこちらを向いていた事に気が付いた。
「なあ毅。お前の目から見て、あのFDはどうだ」
このFDが差している相手は言うまでもなく高橋啓介の事である。
ここ最近妙義で頻繁に目撃されるようになった黄色のアイツ。その目的はこの週末に申し込まれた赤城と妙義の交流試合に向けた特訓。
「FD……ああ、あれか。確かに上手い。以前秋名で見かけた時より遙かにうまくなっていやがる」
「直前でさらにパワーアップしてくるとか嫌なヤツだな……秋名で負けたのが余程悔しいんだろうよ。それでいながら秋名へのリベンジはせず妙義の方に来やがった。何考えてやがる」
「リベンジか。確かにそれはオレも思った。高橋涼介が出てくると期待してギャラリーに行く準備してたのが何人もいたぜ」
赤城の王者、高橋涼介は弟にばかりバトルさせて、己が矢面に出てくることは滅多にない。高橋啓介が秋名の無名の走り屋に敗北したニュースは群馬エリアを震撼させたが、同時に一つの期待も抱かせた。噂に名高い高橋涼介の走りを見られるかもしれない、と。
ナンバー2が敗れたならば、その恥を雪ぐためにナンバー1が出てくるだろう。赤城の白い流星の走りを見逃さぬため、多くの走り屋が赤城の動向に聞き耳を立てていた。
「秋名でなく、妙義。しかも負けた弟がまた出てくる。まあウデは格段に上げたみたいだが……」
「リベンジする気が無い、なんてのは無いだろうな、流石に。となると、ウチに勝った後で秋名か。もうナイトキッズ以外のめぼしいチームとはだいたいやり終えてたハズだ」
「……その言い方だとオレらは秋名のハチロクの前座扱いのようにも聞こえるが」
「高橋涼介にとっては、そうなのかもな」
二人はそこでしばし虚空を見つめた。ここでいくら話したところで高橋涼介の胸の内など分かるはずもない。
中里がひときわ深く煙を吸い込んでいると、隣で慎吾の足音が聞こえた。
「今日はもう終わりにするわ。下りたらそのまま帰る」
「そうか……慎吾」
「なんだよ」
車に乗り込もうとする足を止め、慎吾は顔だけ中里に向ける。
「また明日。そんだけだ」
「……おう」
小さな声であったが、深夜の空には意外とよく響いた。
夏休みも終わりを迎えた始業式の日。ただ座っているだけの楽だが退屈で暑さだけが記憶に残る式典を終えた後、気の早い一団はやる事が終わったならとそそくさと下校を開始していた。
夏休み中、アルバイトと練習走行に時間を注ぎ込んだ結果少しだけ距離が開いていた男友達らとの特に中身の無い馬鹿話が一段落したイツキは、そろそろ自分も帰ろうかと薄い鞄を肩に下げて立ち上がった。
周囲に人影は既にまばらで、少し遠くから賑やかな女子の話し声が聞こえる程度の静かな廊下を歩きながら、先ほどの男友達らとの会話の一部をイツキは脳裏で振り返る。
イツキは友人らから今度の週末に一緒に遊ばないかと誘われたが、昼間は空いているが夕方からは無理だと返した。理由を問われて、夕方からは先約がある事、その相手が藤原拓海である事を吐かされ、友人らから大いに揶揄いを受けたところである。
彼氏彼女の関係ではない、と否定したところで意味など無い。休日に一緒に遊んでくれる女友達がいる時点でもう揶揄いと少しの羨望の対象なのだ。
それについてはイツキも否定はできない。この夏の日々を昨年の己に語って聞かせたら、同じような反応をするだろう。ハチロクと、気心知れた先輩達と、そして彼女。朝から晩まで好きなものに囲まれて過ごした日々が楽しくないはずがない。
この日々が壊れずにいてくれることを願うばかりである。
男友達らと別れたイツキは自身もそろそろ帰ろうかと鞄を手に取り教室を出る。先のバカ話の影響ではないが、イツキの脳内は週末に予定された極めて重要な用事でいっぱいになっている。
もしも親が週末に何か予定を入れようとしてきても断固としてお断りする。その決心を胸に一人校舎の階段を下る。
(週末は妙義……これは絶対見逃せないよな走り屋としては!)
予定、即ちこの週末に赤城レッドサンズが妙義に乗り込むらしいという情報を耳にした秋名の面々の考える事は一つ、ギャラリーに行くことである。
池谷、健二の両先輩は交通費節約のため乗り合わせていくらしい。イツキも拓海に声を掛けてみたところ快諾を貰えた。
(道、ちゃんと確認しとかないとな。迷って遅れました、じゃカッコ悪いし)
高速代を惜しんで下を走るか、それとも時間を惜しんで上を走るか。早く行かねばいい場所は取られてしまうが、さりとて学生走り屋の懐事情はそう豊かではない。片道の高速代ですらケチれる物ならケチりたくなる。
物事を計画するとは難しく、そして楽しい。
「くーっ、早く土曜にならねぇかなーっ」
そうして階段の踊り場の真ん中で一人くねくねと感極まっていると、視界の隅に人影が映り込んだ。
人の目を認識するや否や我に返ったイツキが、先ほどの奇行を見られていやしないだろうかと心配になりながら上を確認する。
「あ、やっぱり武内君だ」
階段の上から顔をのぞかせたのは同級生の茂木なつきであった。
「なんか声がしたからさぁー」
そのままこつこつと軽い足音を響かせて階段を降りてくると、目線が同じ高さになるイツキより少し上の段で立ち止まった。
彼女が段を降りる度に、短く折られたスカートがぴょこぴょこ揺れて白い太ももが垣間見える。この子はこれを狙って計算づくでやっているのだろうか。もしそうなら将来が恐ろしいものであるが、たぶん何も考えてないのだろう。
以前同じようなシチュエーションがあった時に、思わずスカートの端に目をやってしまったら隣にいた拓海から無表情でただ見つめられて何だか心が冷えるような思いをしたのを思い出し、意地で目線を相手の顔に固定した。
「ねぇねぇ、土曜日がどうとか言ってたけどどっか遊びに行くの?」
「あ、えっと、土曜日に妙義に行くことになってて」
なつきは小さくみょうぎ、みょうぎと繰り返し、それが妙義山の事だと理解するとイツキに意外そうな驚いた表情を向けた。
「武内君って登山とかする人だったの?」
「いや、登山じゃないよ。土曜の夜に妙義でバトルがあるから、それを見に行くんだよ」
なつきは今度はバトル、という単語の意味するところが分からず小さく首をかしげる。
自分の常識が全く通じていない事にイツキはもどかしさを感じるが、車に興味のない人ならまあ仕方がないか、と吐きかけたため息を飲みこむ。
そういうイツキとて、スピードスターズの先輩方の繰り広げる車談議について行けなくなる事はあるし、そこに拓海も加わろうものならばもうお手上げである。
拓海も彼女なりに嚙み砕いて伝えようとはしてくれているのであろうが、そもそも前提となる知識や技術に隔たりがありすぎて、嚙み砕かれてなおイツキ達では咀嚼困難なのである。拓海が人にものを教えるのがあまり得意ではない人間であることも拍車をかける。
それに比べればこんなのは可愛いもの、むしろ自分が教える側に回れる希少な機会である。
「えーっとね、バトルってのはね……」
最初は慎重に言葉を選びつつ、気が付けば熱が入って身振り手振りを交えて語る事約十分。
「そんなわけで、オレはこの週末は妙義に行かなきゃいけないんだ。群馬中の走り屋達が注目する対決だからね」
「そんなにスゴイの?」
「そりゃあ、もう。走ってるとこを一目見ようと大勢やってくるよ」
「へー」
分かっているのかいないのか、よく分からない返事をしながら、少し前かがみになってなつきはイツキの顔を覗き込んだ。
「ねぇ」
その顔に悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「それ、拓海ちゃんも行くの?」
「あ、うん行くけど……」
「ふーん、じゃあなつきも一緒について行ってもいいー?」
「えっ?」
まさかそんな事を言われるとは思ってもいなかったイツキが気の抜けたリアクションをすると、なつきは急に不機嫌そうな表情をする。
「だってさー、最近なつきと拓海ちゃん、予定が全然合わなくて遊べなくってさぁ。それに拓海ちゃんや武内君がハマってるものがどんなものなのか見てみたいし。ダメ?」
イツキは答えに困ってしまった。不都合はない。むしろないからこそ困る。
ああも熱く説いた結果、興味を持ってもらえたのならそれは大変喜ばしい事である。座席はもちろん空いているし、交通費の折半相手も増える。断る理由などあるはずもない。拓海だってこの子であればOKを出すだろう。
とはいえ話を聞いたその場でそれを申し出てくるとはなんと思い切りが良いのか。
「……なーんて」
どう返したものか悩むイツキの前で、なつきは不機嫌から笑顔へと表情を変えた。
「ウソだよ」
「えっ、えっ?」
「せっかく二人なんだし、邪魔なんかしないって。なつきもそれぐらいは空気読むって。武内君の事、これでも応援してるつもりなんだけどなぁ」
「いやでも、別にオレと拓海ちゃんはそういう関係じゃ……」
なつきはニコニコと笑っている。ある意味、顔から感情や考えが読み取りにくい子だ。
「んー、別に脈が無いなんてことないと思うよ。嫌いな人のためにわざわざ休日潰したりなんて女の子はしないって。お金貰ってるとかならともかく。拓海ちゃんならなおさらだって」
「そ、そうかな……」
お金貰ってる、の部分に妙に生々しさを感じる気がする。
「ホントだよ。男の子に言い寄られてもハッキリ断るし、それでもしつこい相手には本気で怒るし。中学の時、しつこく迫ってた一個上の先輩がいたけど、ぶん殴られたんだよ。ビンタとかじゃなくてグーで」
「拓海ちゃんが?」
意外なエピソードである。というか、イツキだって同じ中学だったのだが、そんな話は聞いた事がない。
「周りには言わなかったんじゃないかな。恥ずかしくて。でもなつき見たんだよね、鼻押さえながら逃げてくその先輩」
「へ、へぇ……」
「なつきが拓海ちゃんと仲良くなれたのもそれからでね。普段は静かなんだけど、嫌な事ははっきりそう言うし、怒ると一歩も引かなくなるし。かっこいい人だなって。それまで全然話さなかったんだけど、思い切って行ってみたら仲良くなれたんだ」
普段の静けさからは想像しづらい場面である。もし仕事中にそんな気配が見えたなら止めに入った方がいいかもしれない。いや、それ以前にその矛先が自分に向かないよう日常生活でももう少し気をつける方が先か。
「だから大丈夫だと思うよ。拓海ちゃんが自分から関わりに行った男の子なんて武内君以外知らないもん。チャンスは間違いなくあるって。あ、でも、なつきもたまには遊びたいから次の休みは拓海ちゃん貸してね。じゃあ、また明日ー」
なつきはそこまで言い終えると、返事も聞かずに手を振りながら階段を下りていった。
(チャンス、かぁ……)
イツキは表情を隠すように顔の汗をシャツで拭う。
(週末、晴れると良いなぁ)
崩れたシャツを戻し、いつものお調子者の顔を取り戻したイツキはあらためて帰宅の途に就いた。