「イツキ、これ持って行きな」
いざ家を出立せん、と靴を履くために玄関に座り込んでいたイツキの前に、紙袋がずいっと突き出された。声の主は姿を見るまでもなく分かる。わが母だ。
靴を履き終えたイツキが差し出された袋を見ると、傘の柄の部分が突き出ているのが目に入った。そういえば、今日はあまり空模様が良くなかった気がする。傘を持って行くのは有りかもしれない。
しかし、傘を渡すだけならばわざわざ袋に入れる必要はない。イツキが袋の中を覗き込むと、折り畳みの傘だけでなく、タオルやシャツなどが入っているのが見えた。なぜか二セット用意されている。
「傘と拭くものと着替え。天気悪い日に出かけるんだ。男ならこれぐらい用意しときな。恥かかせんじゃないよ」
「……誰か乗せてくなんて言った覚えはないけど」
「言わなくても分かるさ、親を舐めるんじゃないよ。世の中には男が用意周到だと逆に萎えるなんて女もいるらしいけど、母さんには全く理解できないね。何もしてくれない旦那がどれだけ腹立たしいか、体験しなきゃ分からないらしい。全く父さんはね……」
「あ、うん……ありがとう」
余計なお世話、の一言ぐらい言ってやりたくはなったが、言うと面倒になりそうなので黙っておくことにした。
今回は下道をのんびり走って行く事にしたので金の代わりに時間がかかる。余裕を持って出てきたつもりではあるが公道には何があるか分からない。何より道が不安である。地図と睨めっこは散々したものの、一度も行った事のない場所なので自信が無い。いつまでもここで時間を無駄にしているわけにもいかない。
夕方、イツキは約束通りの時間に藤原とうふ店の前で拓海を助手席に迎えて走り出した。今日の拓海はいつもの恰好ではなく、インナーにタンクトップ、その上にブラウスを着、肩から小さな鞄を下げている。あれは確か、以前池谷先輩と真子が仕事を早退してまで消えた後、残された沙雪に拓海と三人で買い物に連れ出された際に選んでもらっていた物の一つである。
最初に沙雪がセレクトしてきたものは流石に露出多すぎできつい、と断っていた。こんな格好が許されるのは今だけなのに、等とぼやきつつも、次のチョイスはまだ普通の範囲に収まっていた。
あれは彼女流のジョークだったのか、それとも本気であれを着るよう促していたのか。
「それ、前に買ったやつ?」
「そう。買った以上は使わないと勿体無いし」
二人で出かけるときに洒落た格好になってくれるのはイツキとしては大歓迎である。イツキはそういった方面にはかけらも知識も語彙も持たないが、一枚増えるだけでおおいに印象が変わった。まだ暑い季節に着込む心配はあるが、これから向かうのが夜の山と考えれば丁度良いかもしれない。
「に、似合ってる」
「……ありがと」
とにかく何かコメントせねば、と声を絞り出す。
その時である。店の奥から何か視線を感じた気がしたイツキはそちらに目を向けた。
レジの向こう、暖簾越しに人影が見える……と思ったら奥に消えてしまった。あれが彼女の親父さんとやらだろうか。一応挨拶とかしに行った方が良いのだろうか。
「……行かないの?」
「えっ、ああ、今行くから」
いつまでも車を出さないから拓海から催促されてしまった。
夜の妙義山を登りながら、イツキは視線を右に左にさまよわせていた。既にあちこちにギャラリーが展開済みであり、めぼしいスポットは概ね取られてしまっている事は予想に難くない。完全に出遅れていた。助手席でも拓海が周囲に目を向けてくれているが、そちらも収穫は無さそうであった。
(どこもいっぱい……)
それなりに余裕をもって出発したつもりであったが、予想以上に時間がかかってしまった。これで頂上まで行っても駐車場にありつけず、遠くに車を停めて彼女を長時間歩かせる羽目になったら格好悪い。やはりガス代をケチって地図だけで済ませず下見をしておくべきだったか、とイツキは反省する。
次回、機会があればそうしようとイツキは静かに心に決めた。
幸運にもいまだ駐車場は埋まり切ってはおらず、車を停める事が出来た二人は少し山を下り、上る途中で見つけた未だ人の少なかったコーナーを見物場所に決めた。
ここは上りコース終盤の緩い右コーナー、下りから見ればその逆でスタート近くの緩い左となる場所である。
ギャラリーはスタート・ゴール地点、あるいは派手なコーナリングが見られるきついコーナー、速度の乗る長いストレートに集まりやすい傾向があり、そのいずれにも該当しないここは場所取りには遅い時間にも関わらず人はまばらであった。
二人が路肩に立つと、そのまばらなギャラリー達がちらりと視線を向けてきた。これが男一人なら気にもされないのであろうが、拓海には視線が集まっているのがわかる。隣で言葉を交わすイツキと拓海を交互に見やる視線を感じると、イツキは少しだけ謎の優越感を感じた。
そんな関係にはまだ遠いというのに。
「空いててよかったね。本当はもっと上の方が良かったけど」
イツキは上を見ながら言った。
妙義の頂上付近には激しい競り合いが予想される三連続のヘアピンカーブがあり、そこから抜けてきた位置にあるこの右は当然だがそれらを見る事が出来ない。欲を言うならもっと上で見たかったのがイツキの本音である。贅沢は言えないが。
「うーん、でも、ここの方が面倒な場所だと思うよ」
しかし拓海は少々意見を異にするらしい。
「そうなの?」
イツキが聞き返すと、拓海はコーナーの上り側出口の一点を指さした。
「あの外側のところ、凹んでる」
指さした先では確かにアスファルトに凹みがある。舗装が荒れ気味なこと自体はさして珍しくもない光景であるし、ここに来るまでも何度も見ている。やや深めだとは思うが、それがどうした、といった感じだ。
「あれが面倒なの?」
「ここ、割とスピードが出る場所だと思うけど、上りなら次のヘアピンに意識が行ってるタイミングだし、下りだと左に曲げつつ加速もして、って時に踏むことになるから危ないかもね。まあ、二人ともその程度でスピンするようなことはまず無いだろうけど、万が一、ね」
風が吹き、拓海のブラウスがふわりと揺れた。
「雨、降りそうだなぁ」
空は暗く、風も少し出てきていた。
そしてイツキは、今の拓海の言葉である事を思い出した。
「あっ」
「……?」
武内イツキ、痛恨のミス。
せっかく傘を持ってきたのに、車に忘れてきている。後部座席に投げたっきり存在が頭から消えてしまっていた。
夜の妙義の麓で一人、健二は手持ち無沙汰な時間を過ごしていた。
一緒に乗り合わせて来た池谷は真子ちゃんを見つけるやいなやそちらに行ってしまったし、ならばと沙雪ちゃんを探したが、ようやく見つけた彼女はあの赤いシビックの運転手……以前ガムテープデスマッチとやらを仕掛けてきたムカつく野郎と何か話し込んでいた。割り込む勇気などあろうはずもない。
月にため息でもついてやろうと空を見上げても、見えるのは分厚い雲の海。月明りは覆い隠され場を一層暗くしていた。
後から来るであろうイツキと拓海が今どこにいるかは分からない。今いる付近は早くも埋まりつつあるので中腹辺りで見ることになるだろう。つまり今宵顔を合わせることは無い。
周囲は当然知らぬ顔ばかり。バトルが始まるまではひたすら孤独と退屈のひと時となりそうだ。仕方なく目の前にあるもの……ヒマそうな健二とは対照的に忙しなく動く赤城レッドサンズの面々でも眺めている事にする。
コースの確認や計測員の準備など、バタバタと動き回っていた赤城の人々の波が急に割れた。それと同時に周囲に喧騒が一層大きくなった。何が来たのかと健二もそちらに目を向けてみれば、やって来ていたのは本日の主役の片割れ、FDとFCであった。
止まったFDとFCから降りてきた高橋兄弟が騒ぐギャラリーを一瞥すると、喧騒の中から黄色い声がいくつも混ざる。そういえばあの兄弟には若い女性の追っかけが多数いるとか言う観測情報もあったな、と健二は思い出した。秋名の時にもいたような気がするが、当時は目先のバトルの心配であまり耳に入らなかったが。
女に限らず、誰かに追いかけてもらえる立場になれた事の無い健二にとっては羨ましい限りだ。
もはや見慣れた、見飽きた光景なのであろう。黄色い声を意に介さず話し始めた兄弟。赤城の面々がたむろしている道路奥に歩いていく最中、健二のいる方向にも視線が向いたが、特に反応はされなかった。
まあ会った事が有ると言っても秋名での顔見せとバトル当日の二回だけ、それもバトル相手の拓海でもなければチーム代表として話していた池谷でもない、二人の添え物で背景な健二の顔など覚えていなくとも不思議ではないが。
「啓介。今日のバトルの事だが」
二人の話している内容が健二の耳にも入ってくる。
「特にない」
「……ないのか」
「ああ、ない。全てお前に任せる。好きに走れ」
啓介は立ち止まると、小さく拳を握り締めていた。
「つまり、今日は思いっきり走って良いって事か。最近はタイム指定だのパワー制限だの、抑えた走りばっかり指示されてたからな」
「あの程度で抑えた気になっていては困るな。今日の成果次第ではさらにハードルを上げる予定だったが」
「ええ……いや、やるけどさ」
高橋涼介制作の特訓メニューの内容が気にかかる。健二もまた、人並みに上手くなりたい欲はあった。
到底自分にはついて行けない、天才向きのハードな内容なのだろうが。
健二がこっそり会話を聞いていた前を、また一台の車が通り過ぎた。赤いハチロクだ。
視界に入っていた時間は短いが、それでも誰の車かは分かった。イツキがようやく到着したのだ。そしておそらく拓海も一緒であろう。
道路脇の健二には気付かず行ってしまったようだが、この暗さと人だかりでは仕方あるまい。周囲のギャラリー達も何の反応も示していない。これが拓海の方のトレノであったならざわめきの一つも起きたかもしれないが、イツキの方は身内以外誰にも知られてない。
しかし、ここにももう一人、反応を示した者がいた。
「……!」
高橋涼介である。上っていく車を静かに目で追っている。鼻を鳴らしたような音が風に乗って小さく聞こえた気がした。
「兄貴?」
その反応に気付いた啓介が声を掛けている。
「あのレビン、何か気になるとこでも?」
どこにでもある普通のハチロクだと思うけど、と啓介が続けて呟いた。
「秋名のハチロク、藤原拓海が乗っていた」
「……あいつはパンダトレノだろ?」
「助手席だ。オレも偶然そっちを見たから気付いた。一瞬見えただけだが、間違いない」
啓介の側はただの一般通過車の車内など全く気にも留めていなかった。が、兄が見たというのなら間違いは無いだろう。実際イツキの車なので正解である。
「へっ……藤原が見に来てんのか。気合入るぜ。眼中にすら無かった前のオレとは違うってトコ見せてやる。オレの敵はナイトキッズなんかじゃねぇ、あの女だ」
握り込んだ拳の中でぱきりと関節の鳴る音がする。
眼中にない、がどういう事か健二には分からないが、物凄く燃えているのだけは伝わってきた。
「まだ時間にならないのか。早く始めたくて足がうずくぜ」
「フリー走行まで十分前か……一足先に行ってくると良い。史浩たちには先に始めたとオレから伝えておく。セッティングの感想を言える程度の冷静さは残しておけよ?」
「分かってるって。頼むぜ」
言うが早いか、啓介はくるりと踵を返して車に戻るとロータリーの爆音を轟かせて走り去っていってしまう。ゆっくり発進しても何の問題も無いのにわざわざホイールスピンさせて飛び出して行ったのは沸騰寸前なテンションの表れか。
「……あの女、か」
間近で鼓膜を破れそうなほどに震わすサウンド。一種のファンサービスとも取れなくもない啓介の走りにまたギャラリー達が沸いていた。
その陰で、涼介が小さく呟いている。そちらに注意を向けていてなお健二の位置では聞き取りの難しいぼやきだった。
「分かってるんだ。ただ大人げないだけだって。子供の癇癪と何が違う。これでは啓介を子供っぽいヤツと笑えない」
涼介はギャラリー達に背を向け、人込みから抜け出す方向へ歩き出した。
「子供はどっちだか……あの人なら何て言うだろうな」