一方、山上。
「さっきから音は聞こえるけど、中々来ないなー」
「上がっては来てるね」
音だけは聞こえるまだ見ぬ二台を探して、イツキは視線をさまよわせていた。そろそろ木々の間からライトの光くらいは見えそうなものだが、視界は真っ暗なままでもどかしい。
「そういやさー、自分で運転してて思ったけど、妙義の上りってなんだか秋名に似てるよね。広いし、直線多めでダイナミックって感じ。前のすごい狭かった碓氷とは真逆」
「そうかな。私的にはどっちかというと碓氷に似てると思うけど。リズムとか」
「……?」
相変わらず見えてる世界が違う。いつか理解できるようになるのだろうか。
「……降ってきた」
傍らで静かに拓海が声を上げた。
「え、あ、ほんとだ」
イツキも、自身の顔に冷たい雫の感触があったことで降雨が始まった事に気付く。
「おいおい、降ってきたぞ」
「アタック中なのに、ヤバくないか?」
周囲でも他のギャラリーが騒ぎ始めている。
「降り始めが一番ヤバいぞ……まだ行けそうに見えて、タイヤ乗っけた瞬間滑っちまうからな」
「中止あるか?」
「あるかもな。てかオレ達もヤバいぞ。傘なんか持ってきてねぇよ」
イツキも雨具を忘れてきた男の一人である。
軽い雨である事を祈り、空を見ようとしたイツキの隣でガサゴソと物音がした。見れば、拓海がいつの間にか手に折り畳み傘を持っているではないか。
「一応持ってきたけど……はい」
傘を開き、イツキとの中間地点にかざしてくれた。これはイツキにも入れという事だろうか?
「……い、いや、オレはいいって」
「さすがに隣で友達が濡れてるのに自分だけってのはできないって」
彼女はじっとこちらを見ている。できない、とは言っているがこれは単に意思を確認しているだけで、イツキが固辞するのであれば一人で傘を使うだろう。
「……ありがとう」
甘えるか、意地を張るかでしばし悩んだ後、イツキは入れてもらう事にした。せっかくの好意だし、とか、傘持ってきてたのに濡れて帰ったらまた親がうるさいとか、多分こんな機会二度とないかもだし、などと色々な考えが脳内を走り去っていった。
半歩寄り、肩を寄せ合う。が、通常の傘でも成人の二人横並びは難しいのに、今使っているのはそれよりさらに防護範囲の狭い折りたたみ傘である。体の半分以上が外に出てしまっている。
自然とさらに距離が詰まり、肩が触れ合った。
「……」
運転席と助手席の距離なら耐えられても、直に触れる程となると色々と辛いものがある。肩に感じる体温や、仄かに漂う何かしらの香り……イツキには洗剤や化粧品に関する知識は無いので、とりあえず己のような人種からは絶対にしない類の香りという事しか分からない。
というか、こちらが匂いを感じられるという事は、向こうからも分かるという事ではないのか。イツキは人並みには清潔にはしているつもりではあるが、今は九月の頭。汗と無縁というのは不可能だ。
何かしら反応を見せていないか、こっそり隣を覗いてみる。至近距離で真っ直ぐ見るのは気恥ずかしいので、小賢しく少し視線を下に外して。
特に拓海の側に反応は見られないので、気に留める程ではないのだろう。きっと。
(あれ、この服……)
拓海がインナーとして用いていた沙雪氏セレクトのタンクトップ。この服、上からよく見ると意外と胸元が開いている。今までじっくり見る機会も度胸も無かったから気がつかなかったが、やはり沙雪さんのチョイスなのか。
「そ、そういえばさぁ!」
黙っていると谷間に目が吸われそうになるので、顔ごと視線を外に出して話をふる。
「このバトル、どっちが有利かな。やっぱ上りだからGTR?」
「んー……」
数秒前までがっつり見られていたことにまるで気付いていないような平常の声色で拓海が唸っている。
「スタートは確かにGTRだろうけど、いったん走りだしたら分かんない。FDだってパワーはある車だし、置いて行かれるってのはまず無いかな」
「車が互角なら、ドライバーの勝負かな。拓海ちゃん的にはドライバーの二人ってどうなの?」
「何とも言えないかな。秋名のバトルの感じだと、GTRの方が少し上っぽいけど、こういうのって何か切っ掛けがあると一気に伸びるものだから」
「じゃあ、今は凄い伸びてるかも、って事?」
「バトルに出てるから、多分そうだと思う」
「あ、そっか。高橋啓介ってナンバー2だもんね。負けそうならリーダーが自分で走るか」
実際に二人と勝負した経験のある拓海なら、ドライバーの傾向や優劣も分かるのではないか、という疑問は本人からすぐさま否定された。
「うん。でも一つだけ言えるとしたら」
「?」
「二人とも、雨が降ったぐらいで引くようなタイプじゃないよ」
ぽつぽつ、と降り始めた雨はあっという間に本降りへ移り替わろうとしていた。
GTRの車内で、中里は強く奥歯を嚙みしめた。言葉や行動にされずとも、目の前のFDが余裕を保って走っている事はよく分かる。
「舐めやがって……」
噛みしめていた歯から力を抜き、口から大きく息を吐く。余計な力みや強張りは速さに繋がらない。怒りは脳内に押し込み、体からは力を抜く。
まだスパートを駆ける予定では無いが、ここで仕掛け返さないのは自尊心が許さない。アクセルをさらに開く。
「……!」
フロントガラスに水滴。模様の怪しかった空からとうとう降り始めたのだ。
(ここで来やがった……降り始めが一番怖いっていうのに!)
まさしく水を差された気分になる中里。空気中と路上の汚れが蔓延る濡れ始めの路面の上を攻めるのは中里でも恐ろしい。ある程度洗い流される本降りの中の方がまだやりやすいというのに。
思わず天を呪いそうになるが、そこでふと中里は考え直す。
(だが、条件は向こうも同じ……)
むしろ、ペースを作る先行の方がプレッシャーがかかるだろう。FDがスリップを恐れて突っ込みを緩めれば、たちまち立ち上がりでGTRの餌食となる。どのラインなら使えるか、この先すべてのコーナーで咄嗟にその判断が求められる事になる。
視界の先でFDがテールランプを光らせながら小刻みに揺れる。それが路面の手応えを確認している動きであることはすぐに分かった。ひとしきり確認を終えると、そのままコーナーの内へと切り込んでいく。
速い。行けると確信すると同時に躊躇なく飛び込んでいる。
「そうかよ、そっちがその気なら、こっちも引くわけにはいかないよなあ……!」
こじるようにステアリングを操作し、中里もGTRを突っ込ませる。
旋回中、FDの姿が少しばかり視界の中で小さくなるが、立ち上がりで思い切り吹かせてやれば取り戻せる程度の差である。先に加速を始めてるはずのFDのリアに再び張り付き、攻めの機を窺う。
いくつものコーナーを抜け、コースも後半に突入した頃。中里の焦りは徐々に増してきていた。
コーナーで差が開くも、直線でまた詰める。何度繰り返したか数える気にもならない展開であるが、徐々に差が開いてきている気がするのだ。
(ここは長い直線だ……行けるか?)
中里は強くアクセルを踏みしめ、思い切って抜きに出る。迫るリアをかわし、ジリジリと並びにかかるが、中々前に出きれない。
雨足強まる中での果敢な動きに、ギャラリー達からも驚きの声が上がる。
「GTRが行ったぞー!」
「すげぇペースだ。見てるだけでも凍り付きそうになるぜ……目の前は崖なんだぞ」
しかし、間に合わず。ブレーキを踏んでFDの後ろにGTRは戻らざるを得なくなる。
「うおっ、逃げ切ったか」
「パワー無い車なら今ので終わってたな……」
「高橋啓介のFD、確か350馬力だっけか。一回勢いついたら四駆でも手こずるのか……」
(ちっ、さすがに甘い考えか……)
FDの加速に舌を巻くギャラリー達と混じって、中里もGTRの車内で一人毒づいた。やはり、このFDはコーナーからの立ち上がりで仕留めるしかないらしい。
しかし、それが簡単にできたら苦労はしない。先ほどやられたように無理矢理ねじ込んで隙を作ろうにも仕掛け時が見つからない。
(なんなんだこの走りは……オレのとは随分違う)
後ろから追いかけて気付いたが、高橋啓介は自身が突き詰めて作ったそれとは違うリズムで走っている。車の特性の違いだけでは説明しきれない何かを中里は感じていた。
しかもそれで差が開きつつある。まるでお前のそれは間違っている、と示されているようで苛立ちが募る。
(どうする……雨も止む気配はさっぱり無いぞ)
フロントガラスに張り付いている水分量は増える一方だ。悪化した視界がそろそろ鬱陶しく感じてきた中里はワイパーを動かし、水気を一掃する。
とにかく今は進むしかない。攻める事をやめたら負けだ。中里にできる事は後方から圧をかけ続ける事だけであった。
待ち続けていたイツキの視界にヘッドライトの光がようやく飛び込んできた。
「あっ、来た来た!」
隣では拓海も視線をそちらに向けたのが分かった。
周囲ではギャラリーも二台に気付いて騒ぎ始めている。
「FDが前だ!」
「突っ込んでくるぞ!」
「ウソだろ、GTRが抜かれたのか!?」
狭い峠道の中、信じられない程の速度で二台が迫り来る。
「うおわっ!」
「……!」
耳がおかしくなりそうな轟音だけを残し、二台が一瞬で通り過ぎる。あれほど待ち望んでいた二台はそのままテールランプを光らせ、十秒と経たないうちにコーナーの先に消えていってしまう。
「くーっ、すんげぇ迫力!」
あの瞬間だけは他の全てが頭から消えて二台に夢中になっていた。イツキはハチロクが大好きだが、ハチロクであの迫力を出すのは難しいだろう。ストレートでの馬力の殴り合いはコーナーの技術勝負とはまた違った魅力がある。
「確かに凄いや。前とは比べ物にならないぐらい上手くなってる」
拓海も二台が消えた先を見て感嘆している。声色から本気で褒めているのが分かった。
「どっちが?」
「FDが」
「そんなに分かるもんなの?」
「分かるよ。特にアクセルの使い方が上手くなってる感じ。車ってある程度スピード出てるとハンドルだけじゃなくてアクセル使う部分が出てくるから、コーナーもかなり速くなってるんじゃないかな。秋名の時はここまでじゃなかった」
直線以外でアクセル踏み抜く度胸がまだないイツキにはイマイチ理解できないが、彼女がそう言うのならそれだけ上達しているのだろう。
「もしかして、今もう一回秋名の下りでやったら危なかったりする?」
「それはない。負けない」
軽い気持ちで問うてみたら、予想以上に強く返された。むっとした表情というのは何気に初めて見たかもしれない。
コースは既に最終盤。中里の視界の右端に赤い鳥居が映る。これが見えるという事は上りがもうすぐ終わるということである。この鳥居がある左コーナーを抜けた場所が頂上であり、ここからほんの少しの下った先がゴール地点なのだ。
攻めなければ負けるが、攻めるどころか追い縋るのがやっとな戦況に中里は焦燥を募らせていた。
もはやこれまでなのか。敗北の二文字が脳裏によぎらせながら下りに突入する。最初の右を越え、目前に左が迫る。この左が妙義上りのラストコーナーだ。
「!」
左コーナーへのアプローチを開始するFDの動きが今までと違う。
(突っ込みが甘い!?)
今なら、行ける。外から被せれば、並んでの立ち上がりに持ち込める。
その事を認識した中里はすぐさまGTRを突入させようとするが、ここで脳内の未だ沸騰していなかった部分が警鐘を鳴らした。
ここまで先行でペースを作ってきたFDが、急に遅くなった。これがただのミスなら問題ない。しかし、高橋啓介が無理だと判断してペースを落としたのなら?
(いや、それでも行く……!)
ここで行かなければ負けが確定する。であれば、行かないという選択肢はあり得ない。怖気ついて逃げるなど認められない。
FDをインに押し付けるように、そのすぐ外にGTRの大柄なボディを置く。これでFDはもう落とした速度を上げられなくなった。
「GTRが外から行ったーっ!」
「突っ込んでくるぞ、避けろ!」
ギャラリーの誰かが叫んだ。叫ばなかった者達も、皆一様に顔を驚愕に染めている。
(そりゃ来るよな……オレが逆の立場でも仕掛けてたぜ)
一方、さして驚いていない啓介は突っ込んできたGTRにアウト側を譲ってやり、感触を探り続けながらブレーキングを行う。
啓介はここまでシート越しに伝わる四つのタイヤの感触を基に攻め込む限界を決めていた。ここまでグリップに問題は無かったにも関わらず、最後の最後で雨の影響が来てしまった。
僅かに怪しくなった足元の感触に気付いた啓介はすぐさま安全マージンを拡大したが、中里はこれを見逃してくれる優しい敵ではなかった。
小回りの為にさらに速度を落としつつ、この後の決戦に備え路面の情報を集める。
回頭を終えた時点で、FDはまだ車体半分ほど前に出ていた。GTRの足ならばまだ逆転がありうる位置である。
啓介はこれまで集めた情報と勘と経験を組み合わせ、今のタイヤが持ちこたえるであろうアクセル開度の限界に凡その当たりをつける。踏まなければ進まないし、踏みすぎても空転する。
(こいつでどうだ……!)
一方で中里も最後のダッシュに備え右足をペダルに置いていた。水で滑りクラッシュ、という最悪の事態に陥ることなく並ぶ事に成功したのなら、次にやることなど一つである。
(全開で立ち上がる……これで抜き返せる!)
アクセルを床まで踏みつける。両車の差は車体半分程で、ゴールは目前。GTRのトラクションならば確実に巻き返せる。
踏み込みから一瞬遅れて、ブースト計の針が急激に振れる。
「なっ……!」
リアタイヤの感覚が無くなった。GTRのフルパワーにリアタイヤが限界を超えてしまったのだ。
踏ん張りの利かなくなった車体は掛かるGのままに外へと飛んで行ってしまう。
中里は反射的に立て直しを始めるも、それができるだけの空間の余裕が無い。抵抗する間もなく右のリアを激しく山肌を覆うコンクリートの壁に擦ってしまう。
「やっちまった!」
「400馬力が荒れ狂ったぁーっ!」
「ひぃっ!?」
最後の加速勝負の行く末を見守っていたギャラリー陣から悲鳴が上がる。ある者は似たような覚えがあるのか顔を青ざめさせ、また偶然進行方向にいた不運なある者は制御を失った暴れ馬から逃げようと走りだし周囲にパニックをばらまいている。
黒いボディに痛々しい傷を幾本も付けながらコースへ復帰するも、既にFDはゴールラインの向こう。
ひとしきり歓声を上げ終わった赤城と、声すら出せない妙義。それぞれのチームメンバーの視線を受けながら遅れてゴールラインをGTRが越える。
交流戦、前半戦終了の瞬間は非常に静かなものとなっていた。