夜10時、秋名山頂上。
8時から始まったフリー走行、そしてヒルクライムのタイムアタックも終わり、いよいよダウンヒルのタイムアタックの時間となった。
「すげぇ数のギャラリー出てるなぁ。この中で走るなんて、オレなら生きた心地がしないよ」
道端に押し寄せている大勢の人影を見て健二がぼやく。
バトルの噂を聞きつけた大勢の見物人が、各所の展望台や待避スペース、コーナーのガードレール内側等に詰め寄せて、峠バトルの最大の見せ場、ダウンヒルアタックの開始を今か今かと待ちわびている。
もっとも、彼らのほぼ全員が赤城レッドサンズ、ひいては噂の高橋啓介の妙技を一目見ようと集まった面々で、スピードスターズを応援してくれているものは皆無に近いが。
「オーライ、オーライ……ストップ!」
ダウンヒル開始に向け、レッドサンズ側の案内に従いながら、すでに配置についているFDの隣にハチロクを停める。
拓海がエンジンはかけたままで運転席から降りると、ガードレール越しに池谷が声をかける。
「精一杯やってはみたけど、やっぱりオレじゃこんなもんだ……下り、頼む」
「わかりました。秋名の下りなら、任せてください」
ヒルクライム戦では想像通りの結果に終わった池谷は、それでも悔しそうな表情をしている。
同じく頂上に駆け付けていたイツキも、地元なのになぜか感じるアウェーな空気に泣きそうな雰囲気をかもしながら、拓海を不安げに見つめている。
「拓海ちゃん、おれ、こういう時なんて言ったらいいかわかんないけど……とにかく、頑張って」
「ありがと。まあ見ててよ」
イツキに笑いかけた拓海が、背後から指し続ける視線にそろそろ耐えかねて振り向くと、ハチロクを挟んで向かい側で、高橋啓介が戸惑いを含んだ眼を拓海に向けていた。
「……お前が下りの代表なのか?」
「そうですけど」
啓介だけでなく、スピードスターズの面々と高橋涼介を除いたこの場のほぼ全員がそういった目で拓海を見ていた。
女性の走り屋というのは珍しい存在だが、チームの代表として走るレベルとなれば一県に一人いるかどうかのレベルで希少である。
「先週も居たのは憶えてたけどな。女は珍しいし。だけど、まさか代表とはな……名前は?」
「藤原拓海です」
「覚えておくぜ。オレは高橋啓介だ……そろそろ始めるか、史浩!」
啓介がFDの運転席に収まると、脇に引っ込んでいた史浩が二台の前に立ち、カウントダウンの態勢に入る。
「それじゃ、カウント行くぞ。十秒前!」
拓海も運転席に座り、シートベルトを締める。クラッチペダルをべったりと踏み込み、シフトノブを静かに左上に押し込む。
「3、2、1……!」
空ぶかしされた二台のエンジンが、轟音と排ガスを吐き出す。
その音に負けないよう、史浩もひときわ大きな声を張り上げた。
「GO!!」
空転する二台四輪のタイヤが白煙とギャラリーの歓声を巻き上げながら、二つの鉄塊を派手に弾き飛ばす。
開幕からわずか二秒後、すでに車一台分は優に前に出ているFDの大型リアスポイラーに観客の視線が釘付けになる。
「はっえーな、高橋啓介のFD。350馬力は伊達じゃねぇ!」
「クラッチミートもバッチシだぜ。ハチロクのフル加速なんか、まるで止まってるようにしか見えないだろうな」
「勝負になんねーよ、コーナー入ったら、ますます差が開く一方だろうな……」
あっという間に夜の闇の向こうに消えたかと思えば、鳴り渡るハードなスキール音に再び大きな歓声が会場に木霊する。
ようやく闇に消えたハチロクのテールを見送ったスピードスターズの面々は、会場の興奮の陰で静かに息を吐いた。
「任せるとは言ったものの……」
こうしてまざまざと車の性能差を目の当たりにしては、腕があると知っていてもなお池谷は不安をぬぐいきれない。
別に勝ち負けをいまさら気にするつもりもない。ただ無理をせず、無事に終わってくれれば何も言うことはない。
「信じるしか、ない……」
第1コーナー進入の為FDを減速させながら、啓介はバックミラーをチラリと覗く。
既に姿は見えないが、映り込む一対のヘッドライトの光がそこにハチロクが存在する事を教えてくれている。
(女だからといって遠慮なんかしない……この程度でミラーから消えるんじゃねぇぞ!)
しっかりと前輪に荷重を移して頭を突き入れ、遠心力で振り出された後ろ半分をカウンターステアを切って安定させる。
車体がきれいに横を向いた、絵に描いたような派手なドリフトでクリッピング、最もコーナーのイン側に寄るポイントを通過すると、大きくアクセルを開け大馬力を活かしてロケットのように立ち上がる。
立ち上がる最中、コーナーの奥から飛び出してくるハチロクの白い車体をミラー越しに確認し、啓介はにやりと笑う。
(まだいるな……そうでなくちゃ面白くない。どこまでオレに付いてこれるか見物だな)
並の相手なら、この時点で勝敗は明らかになっている。
まだ鬼ごっこを続けさせてくれるなら、やはり期待した通りの相手というわけだ。久々の獲物と呼ぶにふさわしい相手の出現に、啓介の闘争心が掻き立てられる。
だが二つ目のコーナーを抜けた後、啓介は気付く。
(差が詰まってる?)
ヘッドライトの光でしか位置を確認できなかったはずのハチロクが、今は直接見えるようになっている。
そんなはずはない、とアクセルを踏みしめる。だがヘアピンカーブに差し掛かりFDを横に向けた時、啓介は己のすぐ後ろで、今まさにターンインに入ろうとするハチロクの頭をはっきりと視界にいれてしまう。
「追いつかれた……!?」
今まで経験したことのない状況に、啓介の額に冷や汗が一筋、音もなく流れた。
後方からFDをしばらく眺めていた拓海は、現在の啓介の実力を大方把握すると予定を変更する。コース終盤まで待たねば厳しいと想定していたが、今の啓介が相手ならば早々に仕掛けにいけると判断したのだ。
(ちょっと無駄にアクセル開けすぎな感じ)
有り余るパワーで暴れる車を抑え込むのにタイヤのグリップを割いているため、車がさっぱり前に進めない。
並のドライバーならとっくに限界を超えてスピンしているであろうが、啓介ならギリギリでそれを抑え込めてしまう。
FDの非常に高い旋回性能と啓介のコントロール能力、両者が悪い方向で噛み合い、足の引っ張り合いになっている。
(これなら、次でぎりぎり届くかな)
迫る二連続のヘアピンの一つ目に、アウトからインへとFDが切り込んでいく。拓海はブレーキングを遅らせてFDに接触しないギリギリ外側をすり抜けながら、4速から3速へシフトダウンしつつアウト側を駆ける。
一つ目の出口で並び、左右の入れ替わる二つ目のヘアピンでイン側を取りに行く戦術である。
クリッピングにつかず、アウト側を目いっぱい使って速度を稼ぎ、コーナー勝負では不利な側にいながらも二つ目のイン側に何とかハチロクの鼻先をねじ込む事には成功するが、FDも前には行かせまいと加速を始めている。
次のコーナーまでのわずかな距離、この位置を維持したいハチロクとの加速勝負が始まるのだが、もし啓介にもう少し技術があったか、4WD車のように加速に優れていたなら、この攻撃は容易く防げていただろう。
しかしあと一歩のところで、啓介はブレーキングに入りハチロクが横に並ぶ事を許してしまう。拓海にとってはまだ早いと思えるが、啓介にはこれ以上は攻め込めないというタイミングだった。
前に出る事に成功した拓海だが、まだ追い抜けたとは言えない。
2連続ヘアピンを抜ければ、次は秋名のコース最長の直線であるスケートリンク前ストレート。実際には緩やかに曲がっており厳密な意味での直線ではないが、それでもこのコースで最もスピードが乗るポイントである。
左車線にへばりつくようなライン取りで精一杯加速するハチロクの右側に、今度はFDが頭をねじ込みに来る。2速での立ち上がり、3速への切り替え直後まではハチロクが優勢だったが、ブーストさえ立ち上げ終えてしまえばターボ車の爆発力には敵うはずもない。
先ほどの苦労はなんだったのかと、容易く前に出なおしたFDだが、拓海はここで抜き返されるのは想定済みである。
このストレートの終点である左コーナーにはミゾが、排水用の小さな側溝が彫られている。これを利用する為に、このストレートで付けられる差を最小限にするのが目的でいったん前に出たのである。
ブレーキランプを点灯させたFDの左側に突っ込んでいき、インに並ばれた事でアウト側よりへの走行ライン変更を余儀なくされたFDをよそに自身も減速にかかる。
ややオーバースピードでの進入となるが、ミゾに引っ掛けられたタイヤの抵抗が、本来の限界よりもほんの少しだけ速い速度での進入を可能とした。
スケートリンク前ストレートに詰めかけたギャラリーが、再び前に飛び出していったハチロクを大歓声で見送る。
峠でのバトルで、抜きつ抜かれつの白熱した展開などそう滅多に見られはしない。
珍しいものを見られた幸運に沸きたつ無関係なギャラリーの間で、バトルの様子を実況するために配置されたレッドサンズの連絡員が、震える手でトランシーバーを操作する。
「こちらスケートリンク前ストレート、今2台が通過した……啓介が、抜かれちまった。あっけなく、インから、スパーっと……」