「こちらスケートリンク前ストレート、今2台が通過した……啓介が、抜かれちまった。あっけなく、インから、スパーっと……」
第1中継地点からの報告に、一名を除いてレッドサンズは凍り付いていた。
進行を取り仕切る史浩が代表して報告を受けているが、複数の端末を通してチーム全員が話を聞いている。
「百歩譲ってコーナーならともかく、直線でハチロクに行かれるとかありえないだろ……もっと詳しく説明してくれ」
「オレ達にも理解が追いつかねぇよ、前のコーナーからブチ抜きながら飛び出してきて、でもこの長い直線でまた抜き返したと思ったら、今度はあのハチロク、いつブレーキ踏んだんだよって感じのワケわかんねー速度で突っ込んでいって、スパーっと……」
静まり返る空気の中、涼介はこらえ切れなかったかのような含み笑いを上げた。
「涼介、笑い事じゃ」
「悪い。予想以上だったもんで、ついな……これで、下りの勝ち目は消えた。最も長い直線でも振り切れなかった時点でもう可能性はない。今ごろ啓介は運転席でムキになって攻め込んでいるだろうな。それでいい」
平然と言い放つ涼介に、史浩はあっけにとられる。
「お前、この結果が予想できてたのか……分かっていたなら、なんでわざわざ負けに行くなんて事を」
「勝負に勝つ以外にも、重要視している事があるって事さ。もしオレの計画通りに啓介を誘導できれば……あいつはここから、急激に伸びるぜ。あいつには才能はあるんだが、それを磨くためには悔しさが必要だった」
リスクはあるが、莫大なリターンが見込める投資だった。上手くいけば、レッドサンズに途轍もないドライバーが誕生することになる。
「今日のツケの事なら心配するな。そっちは何とかする。どうか、ここはオレと啓介を信じてくれないか」
端末の一つを貸してもらい、同じく報告に耳を傾けていた池谷たちは、うれしいはずの報告に顔を引きつらせていた。
「スケートリンク前って、あそこだろ……まだコース半分も行ってねぇだろ」
「しかも直線一本の間に三回ポジション入れ替わってる。なんか、オレ達が考えていたようなバトルってものとは次元が違うよ……」
「オレ達には想像もつかないような高度な駆け引きとか、やってんだろうな……とにかく、今は応援あるのみだ」
コーナーを抜ける度に、少しずつ差が開く。たとえ旋回速度で負けているとしても、加速で取り返せばいいとアクセルを開ける。前車との距離はじりじりと詰まるが、逆転には遠く至らない。
振れるブースト計の針が、ターボチャージャーが正常に作動中であることを伝えているが、啓介にはとても信じられなかった。
「今日はやけにFDがノロく感じる……クソったれ、セカンダリータービン止まってんじゃねーのか!?」
そしてすぐに次のコーナーが迫り、アクセルから足が離された事でせっかく掛けたブーストは全て抜けていってしまう。
ならばと無理に追いすがろうと進入速度を上げるが、いつもよりほんの少しスピードのレンジを上げただけ、それだけで今まで心が通い合っていたはずの相棒は途端に言う事を聞かなくなる。
(AE86に、時代遅れの安物マシンにできる走りが、RX-7にできないなんて事あるハズがないんだ……頼むFD、大人しくオレの言う事を聞いてくれ!)
ステアリングの角度、アクセルの踏み具合、それらが1センチも変わるだけでラインは大きく変わる。ほんの少し手足の角度がぶれただけで途端に明後日の方向を向いてすっ飛んでいく。
コーナリングに特化したマシンゆえのピーキーさに啓介は改めて手を焼いていた。まるで初めてこの車で山を攻めたあの日に戻ったかのような気分だった。
想像以上に膨らんだラインを抑えるべく咄嗟の修正を加えるが、ほんの僅かな荷重の変化が今度は逆方向に車を膨らませようとする。
いわゆるお釣りをもらうという初心者にありがちな凡ミスに思わず舌打ちする。急いで立て直して再度アクセルを開けるが、もうその視界にハチロクの姿は映っていなかった。
コース後半に存在する、秋名の名物ともいえる5連続ヘアピン。
その3つ目のヘアピンを観戦場所に選んでいたギャラリーの一段の中に、チームで観戦に来た一団がいた。
「ホントにハチロクがくるんですかねぇ」
「間違いない。あいつだけが飛び抜けて上手かったからな」
「オレ達には、どこにでもいるような普通のハチロクにしか見えませんけどね」
赤城と並び、群馬県内でその名を知られたチームである『妙義ナイトキッズ』のリーダー、中里毅は秋名の下り代表であろうハチロクの姿を待っていた。
(ま、無理もないか……)
車を己の手足のように操れる、人馬ならぬ人車一体の領域にたどり着いたドライバーと車には、一種のオーラとでもいうべきものが漂うようになる。同じ領域に達しているもの同士であれば、それは何となく感じられるようになるが、至っていない者には何を言っているのか理解できないだろう。
高橋涼介はかなり強いオーラが漂い、啓介のそれはまだ微かに感じられる程度。秋名スピードスターズの登り代表のシルビアは言うまでもない。
あの程度が出てくる時点で、秋名のレベルと交流戦の結果は知れたもの。
もう見るモノは無いと踵を返しかけたが、下りスタートに備えて山を上がっていく車列の最後列が視界に映った時、中里の身に戦慄が走った。
それは一見何の変哲もない、ほぼノーマルに近い外観のハチロクであったが、中里にははっきりと見えた。今まで見たこともないレベルのオーラがあの車を確かに包み込んでいたのを。
「来たぞー!」
頭上からの声に、5連続ヘアピンにいたすべてのギャラリーの目が第1ヘアピンの先に集まる。
第1ヘアピンにいたレッドサンズの連絡員が実況すべく身構えた時、山肌の陰からハチロクが飛び出す。
「こちら5連続ヘアピン、ハチロクが来た……FDは音は聞こえるけど、姿はまだ見えない!」
ハチロクの最初のヘアピンへの進入に歓声が沸いた。
「下りのブレーキングドリフト完璧だぜ、すげぇ突っ込みだ!」
どんな車も、ここでは嫌でも速度が落ちる。だがハチロクはとても失速しているとは思えない滑らかなドリフト走行を見せて5連の先に消えていく。
ここでようやくFDが姿を現し、同じくブレーキングドリフトで抜けていくが、歓声はほとんど上がらない。上手いのは上手いのだが、先のインパクトの前にはどうしても霞んでしまう。
「……下りは惨敗。これで一勝一敗の引き分けですかね」
「馬鹿言え、どこが引き分けだ」
FDを見送った仲間がぽつりと漏らした一言に、中里は訂正をせずにはいられなかった。
「下りで負けたってのは大きい。下りで速いのが本物の峠の走り屋だからな。この交流戦はレッドサンズの負けだ」
呆ける仲間たちに先に帰るぞ、と言い残し、中里は近くに止めてあった己の車、BNR32スカイラインGT-Rに乗り込む。
(世の中にはとんでもないヤツがいる……悔しいが、あれほどの技術はオレには無い)
中里も一人の走り屋として、己の技術には自信を持っている。だがあのハチロクにウデだけで勝負を挑んでも遠く及ばないだろう。
それを認めざるを得ないのは業腹だが、しかし己にはこの車がある。
GT-Rの圧倒的性能を持ってすれば、いかにドライバーに差があろうともひねり潰す事ができるはず。いや、むしろそうでなくてはならない。
(こいつに乗り換えて以来、オレに敵はいなくなった。昔は互角だった連中も、今は軽く流すだけでミラーから消せる。久しぶりにとことん本気になれそうな相手だ)
かつて味わわされた無念を、今度は己が与える番だ。
(秋名の下りスペシャリスト、あいつを仕留めるのはこのオレだ……)
秋名山のふもとで、トランシーバーに向けた叫びが響く。
「こちらゴール地点。今ハチロクがゴールした、FDは……もしかして、今向こうでチラッと光ったのがそうか!?」
「もうぶっちぎりとかそんな域じゃない……試合が成立してないってレベルじゃねぇか」
あまりの結果に、誰もが沈黙していた。ここまで一方的と誰が予想しただろうか。
「……FDもゴールした。スピードスターズのハチロクの勝ちだ」
そこへ、ゴールするやいなや車から飛び降りた啓介が計測員の肩をつかむ。
「おい、何秒だ!」
「え、ええと啓介さんのは……」
啓介の剣幕にたじろぎながら、レッドサンズの計測員はストップウォッチの表示を見せようとする。
「オレのじゃねぇよ、あいつとの差が何秒だったか聞いてるんだ!」
「……に、21秒です」
ハチロクの分のタイムと並べて見せられたストップウォッチの数字に、啓介の肩が震える。
「クソっ……オレのFDが、350馬力が、ぼろハチロクなんぞにっ……!」