新潟県のとある海水浴場。
真夏の昼のきつい日差しも、間に潮風を挟むと心地よい陽気に変わった気がする。思わずうとうととしそうになる拓海の意識を茂木のはしゃぎ声が呼び戻した。
「拓海ちゃんお待たせー!」
「藤原さん、場所取りありがとう。はいこれ」
両手に飲み物を抱えてやってきた白石が、手に持った片方を拓海に差し出す。
「ありがとう」
「ふふ、どういたしまして。藤原さん、水着似合ってるわよ。なつきもこういう時は役に立つわね」
「あ、ちゃんと水着合ってた。試着室と外でちょっと雰囲気かわるから心配だったの。いかにも女の子向けです、って感じのデザインだと何かしっくり来ないし、拓海ちゃんはボーイッシュ路線で攻めた方がいい感じだよね」
土曜日に茂木に選定されたボーイレッグ型のビキニの上に無地のTシャツを着た拓海は、この海岸ではそこまで目立つ存在にはなっていない。もっと華美、あるいは過激な装いの若い女性がその辺にいくらでも転がっている。
「てかこういう時ってなによー。それはそれとして、拓海ちゃんやっぱりお腹細くていーなー。なつきなんて今年はずっとお腹気になってるのに」
茂木は手足や胸元を出しつつ、ウエストはさり気なく覆うビスチェ型の水着のトップスをめくり、おなかを軽くつまむ。
上下が一体になったワンピース型の白石の水着のお腹もついでに茂木がつつく。
「いーなー二人ともお腹にお肉なくって。拓海ちゃん普段何食べてたらこうなるの?」
「おからと豆腐ならうちに山ほどある。形が悪いのとか売れ残りとか、捨てるのもったいないからできるだけ家で食べてるよ」
「へーなつきもお豆腐食べようかな。冷奴でいいかな」
二日で飽きる、てか飽きたと拓海が過去の経験から告げる。
「えーじゃあ今度拓海ちゃんの豆腐料理レパートリー教えてね。それじゃ、せっかく海に来たんだし、いつまでも立ち話してないで泳ごっか」
交流戦から一夜明け、昼過ぎまで眠りこける事で昨夜のショックからやや立ち直った啓介は、髪型を最低限整えると真っ直ぐ兄、涼介の部屋に向かう。
「アニキ、今いいか」
「啓介か。やっと起きてきたのか」
机上のパソコンに向かい何かを一心不乱に打ち込んでいた涼介は、手を止めて入室してきた啓介に向かい合う。
「史浩たちから聞いたぜ。昨日は全てわかってたって」
「ああ」
それがどうした、と言わんばかりに涼介は先を促す。
「アニキがなんか企んでるのはいつもの事だから、それについては今更何も言う気はない。ただ、なんで今なんだ。オレに教えたいことがあったなら、もっと前でもできただろ?」
「教えなかった理由か……」
とうにぬるくなったコーヒーで口を軽く湿らせ、涼介はひとつ問いかける。
「啓介、お前はなぜ峠を攻める?」
「はぁ?」
唐突過ぎる話題の転換に、まだ若干残っていた啓介の眠気は完全にとんだ。
「なんでって……それが楽しいからだろ。ほかに何があるんだよ」
「そうだな。楽しいからやっている。誰だってそうだ。お前に足りないもの、ぜひ身につけてほしいものはいくつもあるが、オレが何も言わずにいた理由だ」
新たなものを会得するには練習が必要だが、それらはえてして地味で退屈で苦痛なものである。
楽しむことが目的の人間に苦痛なことを要求しても真面目に取り組んではもらえないし、そんな練習ならやらない方がマシなのである。
「だが、今のお前なら取り組める。負けん気は最高のモチベーションになるからな……あのバトルの中で、課題を見つけることはできたか?」
「まあ……確かに、アクセルを上手く開けられなくて苦労はした。でも何度か、ピタリとハマったと感じる場面があった。あれがいつでもできるようになれば、もっと速く走れるようになるはずだ。だけど……」
より繊細なアクセルワークを習得できれば、確かに今より数段速くコーナーを回れるし、直線でもより効率の良い加速ができる。
だが、それだけではまだ何か足りない気がする。
FDの限界までコーナーを攻めても、まだあのハチロクの走りを上回れる気がしない。啓介は昨夜を振り返ってそう感じる。
「なあ、アニキの目から見て、あの車はどうだった。何か特別なチューンがしてあったとか、特殊なテクニックを使っていたとか、何かないのか。コーナーワークとかブレーキングとか、そんなありきたりな理由じゃあのハチロクの速さを表せない気がするんだ」
上手く言えないものを何とか言い表そうと言葉を探す啓介の姿に、涼介がにやりと笑う。
まだ何の講義もしていないにも関わらず、啓介は本能的に“それ”に気付いた。涼介的にも上出来である。
「オレの目から見ても、車自体は大したことない。足回りはかなり深くやっているが、あとは吸排気やギヤ比くらいしかノーマルとの違いはない。バケットシートや四点式シートベルトといった必需品レベルの装備すら装着していなかったしな。モンスターと呼ぶには程遠い」
まだ信じられないといった顔をする啓介に、涼介は言葉を続ける。まだ早いかとも思ったが、気付いているならついでに教えてしまった方がいいだろう。
「啓介、その感覚をよく覚えておけ。一流のドライバーは、ストレートでもコーナーでもない、第3のポイントで差をつける。お前が感じたものの正体を理解できた時、一つ上のステージへの扉が開くんだ」
「第3のポイント……?」
「そうだ。まあ第3のポイントは今は置いておけ。直線とコーナーを極めない事にはスタートラインに立てないからな。まずはアクセルワークの特訓だ。メニューはもう組み終わってるぞ」
当の昔に準備されていた特訓の内容を聞いて、啓介は絶句する。
仮に今の啓介が全閉全開を除いて微開、浅め、深めの三段階のアクセル開度を使い分けているとしたら、最終的にはこれを十段階程度まで増やす事を目指していく特訓である。
昨日までの啓介ならば、勘弁してくれと言って間違いなく逃げていただろう。楽しむために山に来ているのに、アクセルを開けずして、エンジンを回さずしてどうやって気持ちよくなるのか。
だが今の、燃え上がっている自分なら我慢できるかもしれない。
今まで啓介が戦ってきた相手は皆、バトルの前は対抗心を燃やして啓介を睨み付けてきた。
その後叩き潰す工程まで含めて、啓介はその向けられる敵意を心地よく感じていた。
だが昨夜の相手、藤原拓海の目にはそういった感情はいっさい含まれていなかった。バトル前の名乗りも、それがしきたりだから淡々とやっているといった具合。
単に緊張感に欠けているだけかもしれないが、とてもこれからチームの看板背負って真剣勝負に挑む走り屋の姿には見えなかった。
そしてバトルでは啓介をあっさりと抜き去り、ゴールしたら自分はそのまま帰ってしまう淡白さに、啓介は最初からまるで相手にされていなかったのだと思い知らされた。
一人で勝手に盛り上がって勝手に落ち込んで、さぞ滑稽な姿だっただろう。
これならいっそ罵倒でもされた方が良かった。今までの対戦相手にそうしてきたように、今度は自分がカス呼ばわりされても文句を言える筋合いなどない。
(走り屋ってのは自分の積み上げてきたモノにプライド持ってる生き物なんだ……それを無視される事ほど屈辱な事はないぜ)
ただ漠然と走るだけだった啓介の中に、初めての目標と呼べるものが生まれる。
散々コケにしてくれた、顔を思い出すだけでもムカついてしょうがない女に吠え面をかかせてやる。
「やるぜアニキ、速くなるためなら何だってやってやるさ」