ヴァルキリープロファイル 神に挑む者   作:ばんどう

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12.クレルモンフェラン編 空っぽの棺(くちなし)

 光満ちた神界宮殿。吹き抜け窓から差しこむ光を一身に浴びる黄金の女神像は、神界で最も格調高い玉座の真上に鎮座している。

 

「フレイ、変わりないか」

 

「オーディンさま……!」

 

 主神オーディンの傍らに立つ第二級神フレイは、そっとわが手を取った主神をふり返って眉根を寄せた。オーディンは黄金の玉座に深く腰かけたまま、灰色の瞳でフレイを見上げてくる。銀髪を後ろに撫でつけた壮年神の瓦顔には心配や気遣いの色がにじんでいた。

 

「はい。かの人間を勇者の魂(エインフェリア)とすることはかないませんでしたがオーディンさまのお引き立てにより、人形(ひとがた)とアーティファクトの回収はとどこおりなく。しかし、あれは――」

 

 能力を封印されているいまのレナスには感知不能だろうが高位神たるフレイにははっきりと認識できた。

 突如、時の次元(・・・・)が曲がった。

 腹心の言いたいことを察して、オーディンが満足げに口端を広げ、うなずく。

 

「上下の真理は変わらんのだ。永久にな」

 

 オーディンが言い、フレイに重ねた手をどけて上向けると空間から水時計がひねり出されてきた。黄金でできた長方形の箱のなかに細く透明な管がうねりながらも縦列をなし、その管を通る水の流れが複雑にかみ合った歯車を動かしている。悠久を生きる神にとって時の概念は忘れがちだが、水管と歯車に埋もれるようにして蔓に四肢をつながれた女神がフレイの目に留まった。フレイですらなじみのない顔だ。

 

「オーディンさま、そちらは?」

 

「神々の目覚まし時計、原初の記憶……呼び名はさまざまあるが、ひとつ、これの名を挙げるとするならばグルヴェイグ。太古の神だ」

 

「グルヴェイグ……?」

 

「正確にはその魂を水時計に封じたものだ。これを傾けることで時の移送をずらしておいた。人間が神を超えようなどと思い上がりも(はなは)だしい。私が統治する世にいかなる脅威も不要だ。この世の平定こそが主神たる我が務めなのだからな」

 

 オーディンが目を細めたとき、水時計に囚われた女神の瞳が開いていく。映し出されてくるのは、フレイも気になっていた【あのとき】だ。下界アークダインの遺跡で人間と戦ったあの瞬間――

 

 

 ……………………

 ………………

 

 

「けがらわしい! 消え去りなさい!」

 

「させない……、このひとはわたしが、まもるっ!」

 

 アリスが人形めいた顔をきゅっと引き締め、光の剣をフレイ目掛けて無数に放つ。だがアレンとフレイの強力なぶつかり合いをまえに戦闘用ホムンクルスの魔法()の剣はすべからく蒸発するだけだ。何度撃っても牽制すらできない。フレイの瞳に冷酷な光が宿った。

 

「レナス!」

 

 蒼穹の鎧をまとった戦乙女が、アリスに鋭く抜き打ってくる。呻き、アリスが身を屈め光の剣で応戦するも、一対一では本物の戦乙女には歯が立たない。魔術師らしく距離を取らんとするアリスを蒼穹の戦乙女が追いかけ、がむしゃらに切り立ててくる。

 

「く、ぅぅっ!」

 

 防ぎきれない。アリスが確信したそのとき、『声』がアリスの脳内に響いた。

 

『……お前はいつまで茶番を演じている? 思い出すがいい。偉大なる己の使命を、神殺しの槍よ!』

 

 低く重厚な男の声だった。アリスの唇が震える。戦乙女の猛攻に堪えきれない。アリスが魔術で創った光の剣は四方に砕け散り、戦乙女の白刃が頭上に迫った。アリス――戦闘用ホムンクルスA-11号C Editionの赤瞳が涙を散らしながらも淡く光ったそのとき、すべてを断ち切らんとする黄金色の太刀風が彼女のすぐ傍らを過ぎていった。

 アリスの長い黒髪が太刀風の余波でなびく。光速に地面を疾駆した【空破斬】が、受け太刀したレナスごと三メートルほど後方に吹き飛ばしたのだ。

 アレンの全身からは煙が上がっている。血まみれだった。

 

「あ、ぁ……っ」

 

「心配ない」

 

 アレンが頬に流れてきた血を肩で拭い、フレイを睨み据える。

 アリスのつぶらな瞳から大粒の涙があふれ、こぼれていく。『逃げろ』と言いたいのに喉がまったく動かない。戦闘用ホムンクルスの赤瞳がさらに赤く光るや、その表情からはすべての感情が抜け落ちていった。

 アリスの変化に気づくことなく、アレンはフレイを睨み据えていた。

 

「貴様」

 

「ブラムスと渡り合ったとは聞いていたけれど、まさかここまでけがれていたとはね。人間ごときが我が神技を受け止めたこと、現世の誉れとするがいいわ」

 

 フレイは微笑み、宙に浮かんで長い脚を組んでいる。勝敗は決した。そう言いたげな顔だ。

 兼定の刀身とアレンの蒼瞳、さらに右人差し指に嵌めている【星界の指輪】が蒼く輝き始める。アレンの血が黄金色の焔の勢いにのり、くゆり、蒸発していく。

 

「ア、アレンにいちゃん! やべえなら逃げるのもアリじゃんよっ!?」

 

「……かっっっけぇ……!」

 

 ロジャーがあわあわ言いながらフレイを横目見ては撤退を促す傍らで、少年ルシオがほうけた顔でつぶやいた。

 アレンが抜刀姿勢を取る。フレイから微笑みが消えた。

 そのときだ。

 戦闘用ホムンクルスがアレンの背中でぽつりと言った。

 

「……対象を捕捉、これより任務を遂行します」

 

 両手を突き出した戦闘用ホムンクルスの矛先がアレンに向いている。瞬間、水時計のうねる水管の模様がアレンの胸もとに描かれるや時間が(・・・)止まった(・・・・)

 

 ――アレンっ!

 

「上下の真理は変わらないのよ」

 

 シルメリアの叱責のなかフレイが光に消えていた。鋭い蹴打がアレンの背後を捉える。抜き打たんと止まったままのアレンの手許から兼定(カタナ)消えた(・・・)。背後のホムンクルスが瞳を光らせ兼定を両手で抱いたままいずこかへ消えていく。そのとき。神気で高硬度化した蹴打がアレンの胸にあざやかに決まった。右肩から左腰にかけてアレンの胸板から真っ赤な血が噴く。時間がようやく正常に流れ始めると、突如大怪我を食らったアレンがよろめきながらも目を白黒させた。手許に兼定がない。察するや蒼瞳がぎらつき、その拳に焔が宿った。

 フレイが猫目をほそめて微笑んでいる。

 

「まだ足りないみたいね」

 

 フレイの神気が両腕にやどり、野太い光の砲撃が至近距離からアレンを襲う。アレンが歯を食いしばり、黄金の焔の拳を神技の核に叩き込む。右人差し指にはめられた【星界の指輪】とアレンの蒼瞳が壮絶に光り、砲撃を引き裂いた。フレイの鋭い気合声が背後で湧き、神の蹴打が背中に突き刺さる。槍で貫かれたかのごとく、アレンの(からだ)が震えた。

 

「ぐ、ぁ、ぁ…………っ!」

 

 ――アレン!

 

『よせっ!』とシルメリアを引き留めるには一歩遅かった。フレイが息を呑み、目をみはる。とどめを刺さんと睨みつけた人間の内側から、不死者王に捕らえられているはずの戦乙女が迫り出し、ろくな実体化もできずに両腕を広げ立ちはだかったのだ。

 

「馬鹿なっ……! シルメリア!?」

 

 アレンが呻きながらも急速に紋章力を高めていく。フレイの顔がさらに鋭くなった。

 

「人間が、ここまで咎を重ねてくるとは!」

 

 第二級神の両腕に神気が集まっていく。みたび砲撃がアレンを襲った。ロジャーやルシオたちが叫んでいる。だが朦朧としたアレンの脳裏をよぎるのはリセリアの言葉だ。

 

 ――移送方陣。方陣内にいるものを遠くの場所へと転移させる魔術です。

 

 この時間軸(・・・・・)では聞けるはずのない言葉を、術を、アレンは【星界の指輪】を通し再現しようとしている。フレイの気合声が走り、光がすべてを消し去っていくのが視えた。アレンの紋章陣がレナスとフレイを除くすべてのものを遠く転移させたのは、同時のことだった。

 

 

 ……………………

 ………………

 

 

 水時計より一連の流れを読み取ったフレイは、ほぅ、と息を吐いた。世界樹(ユグドラシル)の根元、精霊の森の奥深くに兼定を奪い、逃げたホムンクルスは捕らえている。あれをいくら痛めつけようとホムンクルスの出どころはわからぬままだが、いまの一幕でフレイは完全に理解できた。

 

「冥界とつながる異端者ども。屍術師(ヘルの尖兵)があの人形(ひとがた)に関わっていたとは」

 

「この私が神々の目覚まし時計(グルヴェイグ)を用いたことでやつらも動き出したのだろう。いずれ霧の国(ニブルヘイム)も我が統治下とするがいまは女王(ヘル)の動向に目を光らせておかねばな」

 

 近々、神界にいる勇者の魂(エインフェリア)たちには妖精の国(アルヘイム)の光弓シルヴァンボウを入手せよと命を下す。うまくいけば神槍グンニグル、竜珠ドラゴンオーブに続いて三つめの四宝がオーディンの手中に収まるのだ。

 

「今世、ロキを野放しにするなどあり得ぬが、うまく遣ってやるのも我が務めか」

 

「オーディンさま……?」

 

 主神のひとりごとにフレイが首をかしげてふり返る。もとより全知全能の第一級神は微笑むだけで、フレイの問いには答えなかった。

 

 

 

 

「にいちゃん、全然目を覚まさねえじゃんよ」

 

 ロジャーが神妙な面持ちでつぶやいたのは、ゼノンと名乗る貴族の屋敷に身を寄せて三日過ぎたころだった。

 

「シルメリアさまも深く眠っておられるようです。あのようなことがあれば、致し方のないことですが……」

 

「……心配ねえよ。アレンさんにかなう奴なんか、この世にいるわけねえんだから」

 

 アレンが横たわる寝台で、つきっきりの看病を続けてやつれたリセリアの表情は暗い。肉体よりも精神が参っている。猫耳少年のルシオが気を遣って軽口をたたいても、リセリアの視線はアレンの顔に貼りついたまま剥がれない。

 客室の壁に寄りかかって腕を組んでいる金髪の青年、ルシオは目を覚ましてからこちら、重傷のアレンをまえに一瞬青褪めた顔を見せ、戦うわけでも去るわけでもなくとどまり、なにも語らない。

 

 三日前、アレンの転移魔術でアークダインから遠く離れた都市郊外に飛ばされたロジャーたちは、重傷のアレンをまえに騒然とし、彼が気を失う寸前で魔女リセリアは実体化(マテリアライズ)された。

 そんな一行の傍らを通りがかったのが、東国の湿地帯・ネルソフ遠征から戻ったばかりの宮廷魔術師ゼノンだった。二十半ばの青白い顔をした陰気な金髪青年は、金刺繍がほどこされた白い法衣のフードをはずし、気絶したアレンを見るや三白眼を丸めて「すぐに俺の屋敷へ!」と従者に命じ、ロジャーたちを屋敷にうながした。

 屋敷についてから治療にあたったのはおもにリセリアだが、ゼノンの魔術はたしかなもので薬や食事の手配にも余念がない。いまはエントランスで「これから城に向かう」と話している屋敷の主人は、執事に呼び止められ、眉をひそめていた。

 

「花が足りない? いまさら言ってどうする! 今年の夏が寒いことぐらい、みなわかっていただろう!」

 

「し、しかし……ぼっちゃま。梔子(くちなし)は温かい環境でなければ育たず、農家の見込みより遥かに収穫量が少ない状況なのです……」

 

「ならばアルトリアからでも取り寄せろ! 本番は三日後だ。いまさら国の判断を取り下げることはできない!」

 

「かしこまりました」

 

 執事が一礼し、駆け去っていく。ゼノンがため息を吐いた。

 

「まったく。あいつなら、こんな不手際はないぞ」

 

「くちなし? なんだ、それ?」

 

 エントランスの喧騒に気づいたロジャーが素早く駆け寄り、ゼノンの足もとでぴょんぴょんと跳ねる。ゼノンの鋭い表情がわずかにやわらいだ。タヌキの耳としっぽをもつ不思議な少年は、愛嬌たっぷりでどこか憎めない。

 ゼノンは人差し指をぴんと立てる。いまは亡き厩舎の少年がそういえば軍馬たちにこうやって話しかけていたことを思い出しながら。

 

「死後、ひとびとが朽ちることなく生き続けてくれと願う祈りの花だ。三日後、国をあげて英霊たちを弔う儀式が執り行われるんだ。その関係で俺はしばらく屋敷をあけるが、お前たちはゆっくりしているといい」

 

「おう! あんがとな!」

 

 ロジャーがヘルメットを押し上げて屈託なく笑う。ゼノンはうなずき、支度が済むや屋敷をあとにした。

 

 

 

 ――徴兵なんてみんな行ってるし、『負けるはずのない戦いだ』ってみんな言っていたから……

 ――だから、ぼくは……

 

 大陸東側を制する宗教大国クレルモンフェラン。山脈と森に囲まれた巨大都市は、もとは温暖な気候に恵まれた大規模農業によって栄えた。だが近年、相次ぐ異常気象により主要品目の麦と葡萄は不作の年が続いている。。

 国が『捧神戦争』をうたい始めたのは、はたして大陸中央を統べていたアルトリアが弱体化してからだったか、それとも大雪に悩まされ始めたころだったのか――正確な時の流れを識る民はいない。

 

 すべての民を睥睨するかのごとくクレルモンフェラン城は急峻な丘のうえに鎮座している。周りは高い尖塔に囲まれ、霧がかった空をせまく切り取っていた。今夕の月は大きく白く丸い。城門前の石畳の広場に、黒い棺が所狭しと並んでいる。民衆は喪服姿で、胸元に手をやりうつむいていた。くすんだ茶法衣を着た祭司が分厚い聖書を片手に、手許の鐘をちりんちりんと響かせた。

 

「戦乙女よ、どうか我らの勇敢なる友の新たな旅路に光を灯したまえ! その御霊、決して朽ちることなく!」

 

 朗々と鎮魂句が述べられていく。祭侍の合図で集められた民衆のなかから代表数人が、棺に梔子(くちなし)がたむけていく。強い風が吹いた。梔子(くちなし)の白い花弁が風にあおられ、天に舞いあがる。強力無比とうたわれるクレルモンフェラン海軍の戦没者たちをなぐさめる鐘の音は、城下のあらゆる生活音を吸い込み太く長く響いたようにミリアには感じられた。

 

(……空っぽの、棺……)

 

 黒いベール越しに、街娘のミリアは棺の群れを眺める。手前から三つ目がラウリィのものだと国葬の準備を手伝っているとき祭侍から聞いた。

 

(変よ……。だってラウリィは『待っていて』って……そう、言ってくれたんだから……)

 

 母のすすり泣きが左から聞こえてくる。ミリアの瞳に涙は浮かばなかった。怒り、悲しみ、寂しさ――明確な感情が湧いてくるほど、心に力はない。ただうつろで重苦しい気持ちが胸に渦巻いて、考えるのも億劫だった。

 

 ――戻ってきたら、結婚しよう。

 

 引っ込み思案なラウリィが、ようやく口にしたプロポーズの言葉。ミリアを安心させようとまっすぐこちらを見る愛しいひとの顔。帰りを待つ間、あれほど思い返した瞬間をなぜかうまく思い出せない。あのときラウリィは笑ったのか、それとも寂しげに微笑んだのか、困ったのだったか……。

 国の音楽隊が管楽器を高らかに響かせた。ヴィルノア属領国との戦いで、クレルモンフェラン海軍はすべて船ごと海に沈められている。国葬の壮麗さに反して、棺で眠る戦没者はひとりもいない。

 

 

 

 

 戦乙女の蒼銀の長い髪が天空の風にのってなびく。青い軽鎧、金刺繍の入った白いロングスカートが波打ち、しなやかな肢体を時折ほんの少しだけあらわにする。神妙に目を閉じた戦乙女は、数刻前に受けた第二級神フレイの言葉を反芻していた。

 

「レナス、あなたにお願いがあるのだけれど……弓兵が足りないの。後方援護に優れた者を送ってちょうだい」

 

 つんと澄ました第二級神フレイは、水鏡のなかから感情を読ませない硝子の瞳でこちらを見据えてきた。神界戦争は、いまだヴァン神族が有利な状況が続いている。急務にレナスはうなずき、フレイとの通信を終えた。レナスがいま抱えている勇者の魂(エインフェリア)は大剣使いアリューゼ、魔術師ジェラード、弓兵ラウリィの三名である。

 

「本当に、行ってしまうのか?」

 

 アルトリア人らしい目鼻立ちのくっきりした白皙をくしゃくしゃにして、金髪縦ロールのわがまま王女ジェラードは唇をすぼめた。黙っていれば人形のように愛らしい顔が、いまは仲間との初めての別れをまえにくもっている。

 呼び止められたラウリィは、眉をさげて笑った。

 

「はい。こんな僕でも、ヴァルキリー様のお役に立たないと」

 

 戦には縁遠い温和な笑みだ。ラウリィは金褐色の髪をショートボブにしたたれ目の青年で、瞳は茶色く、左目尻のそばに泣きぼくろがある。弓兵としては並で、アリューゼのような戦歴もなければ、ジェラードのように優れた才能もない。

 そんなラウリィの言葉に、ジェラードは金色の眉を寄せて押し黙った。彼らの足許にいま、大国クレルモンフェランが広がっている。

 

「ヴァルキリーさま……。でも、本当にいいんですか? 僕なんかのために……」

 

 ラウリィの根底にひそむ願いは、婚約者だったミリアを神界に行くまえに一目見たい、というものだった。戦乙女がふり返ってきて、凛とした青瞳をラウリィに向けてくる。相変わらず勇者の魂(エインフェリア)たちとは一線を画すような、ぶっきらぼうな言葉が返ってきた。

 

「お前が気にすることではない。叶えられない望みであれば、私がここに来ることもない」

 

「……ぁ、すみません」

 

 レナスの声に鋭いものはなかったが、ラウリィは思わず謝っていた。

 

「お前には、やり残していることがある」

 

 続く戦乙女の言葉に、ラウリィの喉がひきつった。

 彼女の手引きによって地上に降りたラウリィは、霊体のまま、王都にほど近い森のなかにいるミリアを見つけた。生前最後に、ミリアと結婚しようと約束した因縁の場所だ。

 ミリアは十代後半の少女である。丘の頂にある城に向かって坂道を登っていく王都構造の中腹にラウリィ家とミリア家は並んで居を構えている。少女の艶やかな栗色の髪は腰まで流れ、額から頬の左右に垂れる前髪は肩にかかる。長い横髪を左右黒いリボンでまとめるのが彼女お気に入りの髪型だ。ふんわりした襟つきシャツのうえから青いひとつなぎのサロペットスカートをはいた姿も生前、ラウリィが見慣れたものだった。

 ただし、憔悴しきったミリアの顔だけは初めて見る。

 

「ラウリィ。今日ね、お母さまがお見合いの話を持ってきたの」

 

 よく晴れた日だった木漏れ日がミリアの顔に斑点をつける。ミリアは遠くを見やり、明るくも感情を押し込めたくぐもった声で語った。

 

「もちろん断ったわ。身分とか家柄とかそんなことばかり延々と私に言って聞かせるの。馬鹿みたいに……」

 

 ミリアが眉を寄せて吐き捨てる。声に籠もる悲しみ、つらさ、怒り、むなしさ――さまざまな感情がないまぜになった苦しみの言葉だ。ラウリィの口許も震え、こらえきれず顔全体がわななき、言葉にならない息をこぼす。

 この森は、ミリアにとって特別の場所だ。

 

 ――ラウリィ。ほら、木の葉が揺れる音を聞いてみて

 ――森全体で鳴っていると、まるでさざ波の音みたいでしょ?

 ――海に、行くんだよね? 兵士として、戦争に。

 ――待ってるから……。ここに来ればあなたの居場所を感じられるもの。ううん。居場所だけじゃないわ。ラウリィのことだって感じられるから。まるで一緒にいるみたいに……。

 

 風が吹いた。多くの木々がこすれおだやかで心地よい音の連鎖が森全体に広がっていく。彼女が愛した、さざなみの音だ。

 

「嫌! こんな音聞きたくない!」

 

 ミリアが両手で耳をふさいでうずくまる。顔をくしゃくしゃにして首を振るさまは幼子を思わせた。

 

「止めて! だれか止めてよぉ……っ!」

 

 ミリアの悲鳴混じりの嘆願は届かない。ラウリィは霊体のまま、思わず駆けだしていた。震えるミリアの細い肩に触れようとしたそのとき

 

「空っぽの棺……。あなたが死んだなんて信じられない……」

 

 ぽつりとつぶやかれた言葉がラウリィの胸をえぐる。伸ばしかけた手をラウリィはだらりと垂らすと、震える唇をかみしめて後ずさった。

 

「ひとの死は、残された者にとってその絆が強ければ強いほど、残された者が弱ければ弱いほど、痛いほどに心を縛り付けるもの」

 

 ラウリィのすぐ傍で戦乙女が、恋人を亡くし涙する少女をそう称した。ラウリィが顔を跳ねあげて、レナスを見る。レナスはいつもの毅然とした顔だった。

 

「わからないのか? あの娘の時が止まっているということが」

 

「だからと言って……!」

 

 ラウリィの頬が震える。涙をこらえる青年は、かける言葉を見つけられず悲しみに満ちている。『戦争で、死ぬかもしれない』そんなことはわかっていた。それでも愛する少女の願いを叶えたくて、約束した。果たせなかった。

 ラウリィの視界がにじんでいく。頬を伝う涙が冷めて肌にはりつく感触が、余計におのれの無力を思い知らせる。

 結局決心がつかず、ラウリィは一度、森を離れることにした。戦乙女たちが去ったあともミリアの嗚咽は続いている。

 

「大切なひとなのですか?」

 

 ふと森の奥から声を掛けられ、ミリアは息を呑み込んだ。

 

「だれかいるのっ……!」

 

 草むらを踏み分けて、女が現れてくる。喪服の女だ。髪も黒く、白く小さな顔を黒いベールで鼻先まで隠している。ミリアより少し年上か。陰気な女だった。上等な黒皮の手袋をはめた手で、小さな茶器らしきものを握っている。

 黒ベールの奥から、女が琥珀色の丸い瞳を細めて言った。

 

「私はしがない調香師。『ダリネ』と申せば、少しは通るかしら」

 

「…………ぁ……っ」

 

 ミリアは思わず後ずさった。国葬が行われるまえから、このクレルモンフェランではひそやかに噂が飛び交っている。長きにわたる戦乱で、身内を失った者のまえに必ず現れるという、救済者の名だ。亡くしたはずの愛しい者をふたたび今世に蘇らせる蘇生士、または死人使いとも言われている。

 香炉を握る女の雰囲気は海中の深い闇を思わせた。

 ミリアは胸に手を置いたまま動けない。

 

 ――ラウリィは、死んでなんか!

 

 反論は唇を震わすだけだった。ダリネが笑う。妖艶で残酷に。

 

「ああ、でも残念。あなたの恋人は遺骨さえも残っていないのですね」

 

 風が吹いた。森全体が揺れる。ミリアは頭を鈍器で殴られたかに錯覚した。【さざ波みたい】と感じた森全体の木の葉の揺れる音が風に乗って流れていく。

 ミリアは指先が白くなるまで拳を握りしめた。葬儀では一度も泣けなかったのに、涙があふれてくる。ダリネが「さあ」と語りかけてきたとき、ふと森の奥から元気な歌声が風に乗ってきた。ミリアの悲しみを優しく包み込む、不思議な歌だ。ラウリィが馬の世話をしながらよく口ずさんでいた鼻歌だった。

 

「これって……!」

 

 ミリアが顔をあげて辺りを見渡す。一瞬、ダリネが鬱陶しげに鼻筋にしわを刻んだが、ミリアを見るなり微笑み「また会いましょう」と残していずこかへと消えていった。

 ミリアは指で涙をぬぐう。ダリネが現れた右手方向ではなく、左手へ、立ち上がって森の奥に向かっていった。

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