ヴァルキリープロファイル 神に挑む者   作:ばんどう

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3.アルトリア編 蒼穹の戦乙女

「オラァッ!」

 

 男の鋭い気合声が森のざわめきを切り裂いていく。空を占める巨大な魔鳥(ハルピュイア)が、ついに地上に叩き落された瞬間だ。周囲から歓声が湧く。三メートルを超える男の大剣が、落ちた魔鳥の胸を容赦なく突き破ると、甲高い断末魔が響き渡った。

 魔鳥にやられた傭兵たちが散り散りに隊の後ろに逃げていく。代わりに、押し出てくるのは大剣をかついだ男を筆頭とした、銀甲冑を着込んだアルトリア騎士団だ。

 

「アリューゼさん、加勢します!」

 

 騎士団を率いる金髪の青年が、槍斧を手に男の隣に躍り出る。

 男はすでに次の魔鳥に向かっていた。周囲が見上げるほどの巨漢であるのに動きは俊敏だ。銀甲冑の騎士団のなかで、肩当と籠手以外なにも着けない男の軽装は大剣の存在感もあって戦場でひときわカリスマ性を誇っていた。当初優勢だった魔鳥の群れが男を中心とした騎士たちの攻勢で崩れていくのも時間の問題である。

 王都近郊に突如現れた魔鳥の群れは、日没後、ようやく討伐された。

 

 

 

 からからと車輪が回る。揺れる荷馬車の窓に男は肘をつき、もう片方の手にもった専門書を延々と読みふけっていた。西側最大の軍事国ヴィルノアから大陸中央の小国アルトリアまでの大街道。その路面は目的地に近づくほど日に日に悪くなり、揺れも増しているというのに男は気にする様子もない。

 

(熱心な学者さんだ……)

 

 御者が関心のため息を吐いた。鏡越しに客席を見る。依頼された当初はこんな若い男がひとりで馬車を貸切るなどと眉をひそめたが、御者が知らないだけで名のある学者なのかもしれなかった。

 

「しかし、いまアルトリアに行くなんて変わってるね。学者さん」

 

 好奇心と暇つぶしに客席の男に声をかけてみる。反応がない。御者が首を傾げてふり返ったとき、ちょうど男が手許の本を閉じてこちらを見上げてくるタイミングだった。灰色がかった栗色の前髪がさらりと頬の左右に流れる。丸メガネの奥から切れ長の瞳がこちらを覗いてきた。端正な男だった。

 

「簡単な薬の調合を依頼されたのですが、その成果を一応、この目で見届けなくてはと思いましてね」

 

「魔術師さまかい?」

 

「ええ。これでもフレンスブルグ魔術学院の出身です」

 

「あの名門のっ……!」

 

 御者が驚きのあまり言葉を失う。そのさまに満足したのか、男はすでに車窓の景色に気を移していた。

 

(十年前の内戦で疲弊した小国……。すぐに潰れるものと思っていたが、存外食い下がるものだな。ロンベルトの配下をくだしたか)

 

 男はジャケットの内ポケットにしまった宝石を無意識に握りしめる。得体のしれない黒髪の少年から譲り受けたこの石の価値を、多くの者は理解できない。だが男は、価値を正しく見極められる稀有な人間だった。

 

(まあ、そうでもなければ私の手を必要とはしまい。国の趨勢などどうでもいいが研究の糧とさせてもらおう)

 

 薄い唇をひろげて、男は流れいく景色を見る。遠目でも王都のまばらな街並みが見えてきた。山中に囲まれた小さな王国は背面に大きな湖を抱え、自然の恵みによって栄えた。

 伝統あるアルトリア城には、いま灰色の薄雲がかった空が広がっている。

 

 

 

 

「姫さま、どちらにおいでですか? 姫さまあっ」

 

「日没までになんとしてでも捜し出せ! ジェラードにもしものことがあれば、貴様、わかっておるじゃろうな」

 

「はいっはいっ、すぐにお連れいたします陛下。いましばらくお待ちくださいませ」

 

 去っていく国王の背を見送ったあと侍女が若草色のドレスの裾を躍らせながら、城内の扉をあちこちせわしなく開けては姫さま、姫さまと呼びかける。そのさまを見咎めたアルトリアの重鎮、ロンベルトは鼠顔の細い眉をひそめて侍女を呼び止めた。

 

「どうしたのだ、騒々しい」

 

「ロ、ロンベルトさまっ」

 

 侍女が悲鳴を呑むように息を詰め、両手でさっと口を覆う。顔色を失う侍女にロンベルトは手のひらを見せ、話の続きを促した。

 

「そ、それが……お稽古の時間だというのに、ジェラード姫さまがお部屋にいらっしゃらないのです」

 

「また無精されているのか、あのお転婆姫は」

 

 ロンベルトがため息混じりに語気を強めると、侍女がかしこまって頭を下げた。ロンベルトのふくよかな四角い顔が気難しい表情になる。後ろに撫でつけた髪は歳を重ねるごとに黒から灰色に変わった。だが銀縁眼鏡の奥にある、いまも変わらぬ黒瞳が侍女を鋭く睨みつけた。

 

「わかった。私からも騎士団に声をかけておく。あの方はいずれ民の指導者となられる御身、陛下も心配されている。夜までに必ずお見つけするのだ。よいな」

 

「はいっ、ありがとうございます! ロンベルトさま!」

 

 侍女が深々と頭を下げ、また城内をあちこち行っては姫さま、姫さまと声をかけ始める。

 ロンベルトは腕を組んで押し黙った。日暮れまであと数時間。くだんの高飛車なお転婆姫がふたたび城内で侍女の前に姿を現すことはなかった。

 

 

 

 

「胃薬を買ってくるから、大人しくしていろ。二人とも」

 

 身支度を整え、宿のドアノブに手をかけながらアレンが後ろをふり返る。歳は二十前後。カーキ色のジャケットに黒のシャツ、白のズボンという――この大陸ではあまり見かけない出で立ちだ。彼は淡い金髪をなびかせ、深い蒼瞳で室内を見渡した。アルトリア王都北側にある安宿の一室に寝台が三つ並び、うち二台のふくらみから今日は元気がなさそうな狸と猫の尻尾がゆらゆらと揺れ、返事をするように布団のなかに引っ込んでいく。

 そのさまを苦笑混じりに見つめて、アレンが二メートル強の白筒を背に担ぐやふり返らずに部屋を出た。

 

「くっそぉ~……。なんでだ~! 兄ちゃんだって、あの凄まじい量を食ったハズなのにぃ~……」

 

「は、は……ん! バカ、ダヌキめ! アレン、さ、は……俺たち……とは、ひと味、もふた味も違ぇんだよ! ……バ~カ! ぐぅぅっ……」

 

「んだと! このアホ……っ、ぐ! 力むと腹が……!」

 

 布団のなかに丸まって、狸を祖にもつメノディクス族の少年、ロジャーは低くうめいて腹を抱えた。いつもゆったりめの緑シャツに、カーキ色のだぼだぼのオーバーオールを着ているため、丸々と見えるロジャーの体型がいまや療養用として着せられた宿のパジャマのせいでボリュームダウンし、しょぼくれている表情も合わさってまさに【子狸】のちんまりさである。

 いつもかぶっている一角白眼モンスターの顔をあしらったヘルメットは外しておけと言われ、丸い茶色の頭から大きな狸の耳が元気なくひょこひょこと揺れる。

 隣でうめいている悪友のルシオ――こちらは猫を祖にもつフェルプール族だ――もほっそりした(からだ)をたたんで布団から出てくる気配はない。

 昨日は宿のトイレをどちらが使用するかで()めたが、今日はその元気もない。

 原因はわかっている。昨日の、【なんろうはんてん】でわがまま娘と()めた一件のせいだ。いま思い出しても食い意地を張りすぎたとロジャーはしみじみ後悔する。

 

  ――オイラ肉! アレン兄ちゃん、肉頼もうぜ!

 

  ――あ、俺も! 腹が減っちゃって……うまそうなやつお願いします! アレンさん!

 

 目を閉じると、昨日の昼下がりが瞼の裏によみがえってくる。ロジャーはうんうんうなりながらも、昨日のことを思い出していた。

 

 ……………………

 ………………

 

 王都の西側に、朱色の柱が目を()く倭国料理店がある。石造りの外壁が主流の大陸建築とは異なる木造二階建ての店だ。さびれた都でも異国気分を手軽に味わえるため、おもに富裕層の一部がターゲットだ。珍妙で奇天烈、玄妙な味わいを楽しむならここに行け、と食通が口をそろえる評判の店だった。

 

 薄紅色の羽織を着た倭国人と思しきウェイトレスに招かれ、アレンたちが円卓を囲んだのは店の端だ。入口からは遠く、店内が見渡せる位置。軍人だった習慣からもっとも落ち着く席に案内されたアレンは、背の高い木椅子の座り心地にもうなずきながら高級紙の菜譜(メニュー)()った。

 

「オイラ肉! アレン兄ちゃん、肉頼もうぜ!」

 

「あ、俺も! 腹が減っちゃって……うまそうなやつお願いします! アレンさん」

 

 円卓の左右から、ロジャーとルシオが元気に言ってくる。アレンは「わかった」と短く答えると、倭語で書かれた菜譜(メニュー)を翻訳機にかけ、ウェイトレスへのオーダーを終えた。

 

「しっかし、アレン兄ちゃん。これからどうすんだ? 【びるのあ】ってとこまでここから結構あるんだろ?」

 

 ロジャーが、初めての異国料理に目を輝かせながらも、皿が出てくるまでの間に尋ねてくる。

 アレンは難しい顔だった。 

 

「午前中、ざっと調べたかぎりだが。この惑星の文明レベルは十四世紀程度。俺たちが目指すヴィルノアは大陸の西側にあって、このアルトリアという国は大陸中央にあるんだ。周辺は山に囲まれ、海路は期待できない。港までどのルートを使っても距離があるから山を越えることになりそうだ。貴金属の換金は済ませてきた。あとは高速馬車でもあればいいんだが、馬の手配だな」

 

 アレンの左側に座った、大きなつり目の少年ルシオはアレンの言葉にうなずきつつも、バンダナの左右からこぼれる黒い猫耳を垂らした。

 

「けど、せっかくソフィアさんに協力してもらって(ゲート)をくぐり直したってのに全然違う場所で、しかも五年も経っちまってるなんて。アレンさんの話だと夜の森道を歩いてた子ども二人って、よっぽど切羽詰まってたんですよね?」

 

「ああ、無事だといいが。状況は極めて厳しい。せめて小型艇に乗ってこられれば一日と経たずにヴィルノアに入れるんだが」

 

「まあ、焦ってもしょーがねえじゃんよアレン兄ちゃん。なるようにしかなんねえ!」

 

 元も子もないロジャーの正論に、アレンは苦笑を返した。あのとき森で出会った金髪の少年ルシオと街に向かうために解析器(スキャナー)を使ったが、そのとき表示されたのが宇宙暦七七四年一〇二〇。ミッドガルドの惑星暦では一二四一年だった。

 ところがアレンが謎の黒髪の少年に元いた世界に戻され、フェイトたちと一悶着を終えたあとでやってきた世界(ミッドガルド)の惑星暦は一二四六年。宇宙暦は七七四年のまま、この惑星での時間のみが過ぎている。

 

(星界の指輪が探知したFD世界のエネルギーが関わっているのか、それともそれに似た()()()、か?)

 

 いまは少しでも情報が必要だった。昼食にこの店を選んだのも腹を満たすためともう一つ、利用客だ。ヴィルノアに最速でたどり着く術、もしくは情報を富裕客から収集する算段だった。

 しかし昼食の時間帯を外したのか、店内はまばらで、アレンたち以外に卓を囲んでいるのは一組しかいない。店の中心卓についた大柄の傭兵ーーアリューゼだ。アルトリアにつくなりルシオとロジャーとはぐれてアレンが困っていると、声をかけてきた男だった。

 アレンよりも頭一つ分背が高く――二メートルはありそうな大柄の男だ。背に三メートルほどの幅広の剣を差し、引き締まった体躯(たいく)に青い肩当てとガントレット、膝当てのみの質素な防具姿である。金はなさそうだが動きに無駄がない。正規兵ではなく傭兵だ。まるで虎を思わせる迫力ある顔立ちの男で、額から左顎にかけて大きな刀傷が残っており、その彼とは対照的なのが、向かいに座っている、大きな白い帽子をかぶった女の子である。

 アレンは卓越しに、アリューゼのなんとも言えない困惑と仏頂面がない交ぜになった顔を眺めた。

 

(傭兵なら大陸横断の術にも詳しいか……? だがあの装備は遠方向けじゃない。街の顔ぶれも覚えているとなると、やはりおもな収入源はこの国内の防衛か)

 

 兵士の信頼を得るには、おのれの実力を見せるのがもっとも手っ取り早い。

 アリューゼは初対面で白筒に入れた兼定(カタナ)に気づいた男でもあった。

 街に顔が利くのならば、馬車の手配に協力が得られるかもしれない。

 

「係の者を呼べ!」

 

 鋭い女性の声に、アレンの思考が現実に引き戻される。アリューゼの連れの少女が、血相を変えて立ち上がっていた。 

 

「は?」

 

 呼び止められたウェイトレスと少女の向かいにいるアリューゼが、そろって目を丸くしている。

 

「係りの者を呼べと言っておろう!」

 

 少女がかまわず怒鳴りたて、ウェイトレスはそそくさと店の奥に引っ込んでいった。 

 

「おろうって……、王様じゃないんだから……」

 

 アリューゼが声をしぼるようにつぶやいて、テーブルに突っ伏す。

 少女は赤い顔で立ったままだ。室内でも大きな青いリボンあしらった白い帽子をかぶっており、紺色のドレスは遠目でも仕立てのよさがうかがえる上等な身なりだった。傭兵(アリューゼ)の依頼人にしてはずいぶんと若い。いま少女が掛けている大きな丸眼鏡も、掛けなおす頻度が高く、普段から使い慣れているものではなさそうだ。奇妙な取り合わせだ、とアレンは思った。

 

 

「なにかご不満でも?」

 

 ほどなく少女に呼び出されて、店の奥から料理長と思しき男がやってきた。気難しそうな職人肌の男で、王都内でよく見る上下分かれた服装ではなく、白い羽織ものを着ている。鋭く小さな瞳が、じろりと少女を見た。

 少女は臆せず、男を見るなり怒鳴りつけた。

 

「不満もクソもあるか! なんだこの肉は? 生であろう!」

 

「お客様……。それは倭国料理の一つでお刺身といって……」

 

 不審そうに眉を寄せる料理長に最後まで言わせず、少女がテーブルの上に置かれた椀を指さす。

 

「なんだこの濁ったスープは! おまけに臭い! 腐っているぞ!」

 

「お客様……。それは倭国料理の一つで、お味噌汁といって……」

 

 やはりそれも最後まで言わせず、少女はテーブルを叩いて、居並ぶ皿のなかでも、一際大きい皿を指差した。

 

「なんだこれは! これは怪物であろう! ここではクラーケンの子を食わせるのか?」 

 

「お客様……。それはタコといいまして……」

 

「ここはゲテモノ屋か?」

 

「とんでもございません」

 

 気色ばむ少女に動じず、料理長がきっぱりと答えた。

 異様な沈黙が店内に満ちる。

 アリューゼはテーブルに突っ伏したまま、頭を抱えてぴくりとも動かない。

 

「……妾はこんな屈辱を受けたのは初めてじゃ」

 

 少女が拳を震わせて料理長を睨みつける。そのときだった。アレンのいる円卓が、ばんっ、と大きな音を立て、みればロジャーが立ち上がって少女を睨んでいた。

 

「やいやい! このワガママ娘!」

 

 いうなり、円卓を囲む木椅子からひらりと飛び降りて、ロジャーが全身で怒りを表すように、ぴょんぴょんと二度ほど跳ねるや少女に駆け寄っていく。

 

「黙って大人しく聞いてりゃ、さっきから一口も食べずにケチ付けやがって! 食い物を粗末にすんのは、人を騙す次にやっちゃいけないことなんだぞ! 父ちゃんも言ってたんだ! メラ間違いねぇじゃんか!」

 

「な、なんじゃお前は!? 小汚い小僧が、偉そうに――――」

 

 言いかけた所で、少女がぎょっと目を見開いた。

 自分の腰にも満たない、小さな少年。彼女が度肝をぬかれた視線の先では、ロジャー自慢のタヌキの尻尾がふさふさと揺れていた。

 

「し、し……っ!??」

 

 少女が息を呑む。驚き過ぎて、尻尾という言葉が発せられない。代わりにアリューゼが、驚いた顔でロジャーを見た。

 

「お前……、一体……!」

 

 この国では、どうやら亜人は珍しいらしい。

 面食らっている二人を置いて、ロジャーが嬉しそうに胸を張り、両腕を組んだ。

 

「オイラ? オイラは、ロジャー! ロジャーさまだ! 団長なんだぞ、偉いんだぞ!」

 

「バカダヌキ! 浮いてんのが分かんねぇのか! この大馬鹿!」

 

 アレンの円卓から、またひとり、少年が飛び出していく。ロジャーの悪友、ルシオだ。黒猫のしっぽと耳をもつ細身の少年が、少女たちの傍までいくと、少女はロジャー同様、人ならざるしっぽと耳をもったルシオを見て、顎が外れんばかりにぽかんと口を開けていた。

 

「し、っぽ……、みみ……」

 

 ロジャーとルシオが、不思議そうに首をかしげる。 

 

「どうした? 姉ちゃん、どっか気分でも悪いのか?」

 

「医者呼んだ方がいいか? バカダヌキにバカ伝染されると、もう治んねぇぜ。アンタ」

 

「んだとぉ! このアホネコ!」

 

「やんのか、バカダヌキ!」

 

 二人の少年が額のくっつく至近距離で互いに睨み合う。

 アレンが溜息を吐いて立ち上がった。様子見はここが限界のようだ。

 

「二人とも」

 

 アリューゼと連れの少女がこちらを見る。二人の視線がアレンの耳と背後に向いている気がした。おそらく亜人か確認したのだろう。獣の特徴がアレンにはないのを確かめてから、アリューゼがにやりと口端を広げた。

 

「よぉ」

 

「どうも。さきほどぶりですね」

 

 何事もなく答えるアレンに、アリューゼが鼻を鳴らす。 

 

「なんだ。やり合うってのはその場きりの話かと思ったが……。まだ闘志は衰えてないようだな」

 

 態度に反して、アレンの目には今にも白筒から得物を抜きそうな気迫がある。アリューゼが揶揄(やゆ)すると、アレンは視線をアリューゼから向かいに座っている少女に向けた。

 

「それで、そっちは?」

 

 触れてほしくない所を――。

 とアリューゼが胸中でつぶやいたのが表情から読みとれた。

 

「ええい。喉が渇いた!」

 

 アリューゼが答える前に、少女がテーブルのグラスをにぎるや一気にあおる。細い喉がごくごく動いたのもわずな間で

 

「げほっげほっ!?」

 

 少女が目を白黒させながら、上体を折って激しく咳き込んだ。

 

「げほっ、げほっ……なんだこの水は!? 毒を盛って殺すつもりか!? こんなことをして……どうなるか……」

 

 少女の顔がみるみる紅潮していく。彼女の愛らしい丸顔が振り子のように揺れ、そして――

 

「万死に、値、するぞぉっ!」

 

 全身の力が抜け落ちたように、彼女はばたりと倒れていった。 

 

「お、おい!? 姉ちゃん!」

 

「大丈夫かよ!? アンタ!」

 

 亜人の少年二人に続いて、アレンも少女の傍に寄る。アリューゼが呆れた表情で、ちらりと連れが流し込んだコップを見やった。

 

「それ、酒……」

 

 どこか他人事のようにつぶやくアリューゼは、もしかすると少女の行動が予測できず圧倒されたのかもしれない。アレンは少女の額の上に手をかざすと、解毒の紋章術を唱えた。青白い光が、すぅ、と少女の全身に降り注いでいく。

 

「急激にアルコールを摂取して、意識が混濁しています。毒性は抜いたので心配ありませんが、しばらくはこのままで」

 

 アレンは説明しながら、ゆっくりと少女を横たえる。少女は眠ってしまったようだ。

 アリューゼがため息を吐いて、

 

「世話をかけたな」

 

 と謝ってくる。アレンが「いえ」と苦笑する間に、アリューゼは少女、アンジェラを背負って席を立った。

 

「悪いが、勝負は……またお預けだ」

 

「お大事に」

 

「ああ」

 

 のそのそと初めて会ったときの迫力はどこへやら、アリューゼがややしょぼくれた背中で店を出ていく。そのときだった。

 

「お会計をお願いいたします」

 

 ウェイトレスが差し出した紙片を見て、アリューゼが目を見開いた。度肝を抜いたのは、その金額。いつもアリューゼが通う酒場なら、三度は気持ちよくなれる超高額だ。

 

「っ、っっ」

 

 険しく表情をしかめながらも、アリューゼの頬に汗が伝う。

 

「なぁ、兄ちゃん」

 

 アリューゼが懐から財布を取り出したあたりで、背中で、ロジャーが猫なで声を上げた。

 

「この料理……、食っちゃダメかぁ?」

 

 一口もつけずに並べられた中心卓の倭国料理。ロジャーが物欲しげに見つめているのを見て、アリューゼは小さく肩をすくめた。

 

「好きにしろ。どうせ捨てた金だ」

 

 アリューゼは乾いた失笑を残して店を出ていった。ロジャーが、あんがとな! と、店の外まで聞こえる声で礼を言ったが、アリューゼに答える気力は残っていなかった。

 

 

 

 倭国料理店で酒に酔いつぶれたアンジェラを自宅まで運ぶ羽目になったアリューゼは重いため息を吐いている。

 

「それで、結局は内容は聞けず仕舞いだったの?」

 

「……まあな」

 

 弟のロイに問われ、アリューゼは椅子に腰掛ける。古びた木造家屋の床がアリューゼの重みでぎぃーっと甲高く軋んだ。この中古住宅に客間などない。生まれつき足の悪いロイですら簡単に踏破できる手狭な部屋に押し込められたアンジェラは、寝苦しそうに眉間にしわを寄せ、寝返りを打っている。

 

「う、う~ん……」

 

「いい気なもんだぜ」

 

 アリューゼが思わずぼやく。アンジェラの寝顔を眺めながら倭国料理店での顛末が脳裏をよぎった。ズボンのポケットのなかで、軽くなった財布が存在を主張している気さえする。

 台所で水でも呑もうと席を立った。

 そのときだ。

 彼女の目許を覆っていた、やけに似合わない丸眼鏡と帽子がずり落ちた。輝くような白皙の美貌が、アリューゼの眼に入る。

 アリューゼは思わず目を瞠った。喉の奥にギュッと力が入る。

 

「じぇ、ジェラード、王女!?」

 

「一体どういうことなの?」

 

 同じく、驚いた様子のロイが、訝しげに眉を寄せて問うてくる。アリューゼは首を振った。

 

「さあな。変装してまで俺に仕事を依頼する理由なんて、わからねぇよ」

 

 率直な感想だった。

 だが、目の前で眠る王女は、間違いなくアルトリア王女であり――謁見の間での、あの勝ち気そうな風貌がアリューゼの脳裡に蘇る。

 

 一体どういうことなのか。

 

 問い正そうにも、ジェラードが目覚める気配は一向になく。

 ロイもしばらく部屋で様子を見ていたものの、結局、首を捻りながら居間へと引き揚げていった。

 

「……さま」

 

「ん? 寝言か」

 

 ふと寝息を立てていた王女が、なに言かつぶやいた。それが言葉のように聞こえて、アリューゼは耳をそばだてる。

 

「お父、さま……」

 

「………………」

 

 王女の眉間に寄ったしわを見据えて、アリューゼは表情を改めた。

 お父様――アルトリア国王の顔を、なんとはなしに思い出す。

 アリューゼのような傭兵の身分が王族の目にかかる機会などめったにない。あるとすれば、この間の魔鳥討伐の褒賞式だ。

 討伐隊のだれよりも魔鳥(ハルピュイア)を多く仕留めたアリューゼは、はじめてみたアルトリア王の顔を、なんとも精彩に欠いた、ぱっとしない男だと思った。弱小国の主に相応しい、冴えない男。金貨袋とともに、【王は分け隔てなく広い心で】下位身分の傭兵に褒賞の銅像を下賜(かし)られた。そのときの王は口ではほめそやしながらもまったく温度を感じさせない目でアリューゼを見下(みくだ)したのだ。

 国内に侵入した蛮族を騎士団だけで退けることもできぬ、この国の王がである。

 

 ――ハハハ、悲しいな。王よ。俺はこんな茶番に付き合うほど暇じゃあない!

 

 アリューゼはもらったばかりの銅像を王の目のまえで叩き切ると、王間を去った。華美な宝飾に包まられた王の間は、貧困にあえぐアルトリア王都とは無縁のきらびやかさだった。

 

「侮辱した、アリューゼ、万死に値、する、ぞ」

 

 ふと、目のまえで眠る王女が、唸りながらベッドのなかで身を小さくする。

 アリューゼは目を丸めた。数秒、押し黙る。言われた意味を理解するのに時間はそうかからない。あのときの褒賞式。たしか王女は、愚王のとなりに立っていた……。

 

「そうか、そうだったな」

 

 一向に繋がらなかった点と点が、一本の線になった。

 アリューゼはつぶやきながら、王女の眠るベッドに歩み寄り、腰掛けた。

 あの愚王に対し、アリューゼは間違ったことは言っていない、と確信している。だが王女(子ども)の前で親を侮辱してしまった――そのことについては、あらためて謝らなければならない。

 しばらくしてアンジェラは酔いから目覚めると、慌てて周囲を見渡した。

 

「ここは? もう夕方ではないか!」 

 

 窓から見える外の様子に蒼白になった彼女は、眼鏡をかけ直して身支度を整えるやろくにこちらも見ず「依頼はまた明日でも」と言い残して早々とアリューゼの家から去っていった。

 

 翌朝、アンジェラよりもさきにアリューゼ家の戸を叩いたのは、いつものギルドの使者だった。陰気な女はアリューゼの腕を見込んで、荷馬車をヴィルノアまで運んでほしいと依頼してきた。

 アリューゼは、その依頼を受けることにした。

 

 

 

 

「はい、胃薬だよ。お大事にね」

 

「ありがとうございます」

 

 薬屋の店主に頭をさげてアレンが店を出ようとしたとき、ちょうど王城から騎馬兵たちが、凄まじい速度で街路を駆けていった。

 アレンが首をかしげる。深いため息が店の奥から聞こえ、ふりかえると薬屋の店主が寂しそうにつぶやいた。

 

「またヴィルノアが攻めてきているのかもしれないね。……十年前まではよかったんだ。あの内戦があるまで、アルトリアには優秀なひとがいっぱいいた。だけど当時の第一王子と第二王子が王位継承権をめぐって争っちまって、優秀なひとがいっぱい死んだ。戦乙女に召されたひとだって何人かいたそうだよ。それが、いまの陛下は税を湯水のように使っちまって、もう傭兵に頼るしかない情勢だろう? だけど陛下はまだアルトリアは強いままだとお思いで、ぜいたくすることしか考えないんだ。ロイエンバルグさまがいまもご存命であったなら……」

 

 独り言のように続く店主の言葉を聞きながら、アレンは騎士団が駆け抜けた街路を見た。さきほどの騎兵の装備、どちらかというと戦地に行くというより速度を優先していた。なにか事件があったのだろう。

 

(事件……)

 

 ふと思いだしたのは、昨日倭国料理店で出会った男のことだ。左目に刀傷を負った軽鎧とも呼べぬ装備をした男、アリューゼ。

 アレンはハッと瞬き、視線を伏せて小さく苦笑した。 

 

「……悪い癖だな」

 

 血が疼く。金髪の少年ルシオのことも気がかりだが、あのアリューゼという男の、強い眼差しと視線が合ったそのときから。

 自分の身長より長い相棒の入った筒を、強く握り締めた。湧き立つような衝動を抑えるが、意に反して口許に浮かんだのは好戦的な笑みだ。

 きびすを返す。

 馬の速さについていくのは、なかなか骨の折れる。数時間程度なら問題ないが日をまたぐと少々厳しい。だが幸いと、彼には小型解析器(クォッドスキャナー)によって騎士団の座標を特定する術がある。

 だから――。

 

「行くか」

 

 アレンはつぶやくなり、アルトリア街路を風のように疾駆した。

 

 

 

 

  ――まったくロンベルトさまさまだぜ! 

 

 アリューゼとともに移送の依頼を受けた傭兵は、吐き捨てるように言いながら、両腕を頭の後ろで組んでいた。荷物の中身がわかるまえ、アリューゼはバドラックというにやけ面の壮年傭兵とともに呑気に荷台を引いていたのだ。

 

 ロンベルト――。

 

 アルトリアの重臣の名前を聞いて、アリューゼは、はた、と瞬いた。

 

「ロンベルト? アルトリアの重臣の? あの女が依頼主じゃないのか?」

 

 女はギルドの人間だ。見れば分かった。

 しかし、ロンベルトと聞いてアリューゼが連想したのは――青いリボンをあしらった白い帽子の少女。高貴な身分の者たちだ。

 関連性のない二つの事象に、バドラックは戸惑うことなく、にやりと笑った。

 

「なんだ、そんなことも――」

 

 初めてアリューゼが反応したことに満足し、バドラックが答えようとしたそのとき。

 バドラックの耳が異音を拾った。

 馬車を止めてみる。

 

「――おい相棒。後ろからなにか迫ってくるぜ」

 

「なんだと?」

 

 言われて、アリューゼも耳をそばだてた。

 

 ――確かに。

 

 なにかが――それも複数の(ひづめ)の音が、猛スピードでこちらに向かってくる。

 バドラックは荷台から覗きこむようにして、後ろを見やった。

 

「ありゃ、騎兵だゼ! しかもあんなに!」

 

「騎兵?」

 

 首を傾げるアリューゼに対して、バドラックが慌てて手綱を張る。その横顔に鬼気迫るものが混じった。

 馬車が速度を上げるも、騎兵はあっという間にアリューゼたちを取り囲んだ。

 

 ――なにかを追っている様子だったが、それがまさか俺たちだったとは……。

 

 いまにして思えば、このとき、アリューゼは疑問を抱くべきだったのだろう。

 自分の愚鈍さと、

 周りの目まぐるしい状況の変化に。

 

「アルトリア国王の命だ。至急、荷物を確認させてもらう」

 

「おい、待てよ!」

 

 一団を先導していた部隊長は、荷馬車を囲むやバドラックの制止も聞かずに部下の兵を動かした。ほかの兵士がアリューゼたちを押し退けるようにして木箱の周囲に集まり、鎖を取り外しにかかる。

 まったくアリューゼたちに見向きもしない。

 

「逃げるぞ!」

 

 その隙に、アリューゼは駆けた。馬車の手綱をさっさと放り投げ、素早く街道の端――森のなかへと駆けこんでいく。

 だが、アリューゼよりも先に騎兵に気付いたはずのバドラックが、なぜかもたついている。

 

「おい、なんだちょっと……」

 

 言い淀むバドラックの視線の先で、アリューゼたちが引いていた馬車の積み荷――木箱の錠が壊され、外側の鎖が引き千切るように外されていった。

 兵士の手が、木箱の蓋に手がかかる。

 

「いました!」

 

「あっ!」

 

 バドラックの驚きが、耳をつく。

 アリューゼは息を()んだ。驚きが、声にならない。

 ただ息を呑んで目を(みは)った。

 

 開け放たれた木箱から、兵士が抱きかかえるようにして取り出したのは、ひとりの人間。

 

 少女だった。

 (あめ)細工のような見事な金髪がだらりと零れ、きつく閉じた瞼は開く様子がない。

 アリューゼの位置から少女の姿は見えづらいが、そのあどけない横顔を、彼が見紛(みまご)うハズもなかった。

 

 荷から出てきたのは。

 

 ――青いリボンの帽子と似合わない眼鏡。

 

 あの、お転婆王女。

 

 ――愚鈍な父を殊勝にも慕う、誇り高きアルトリアの娘。

 

 ジェラードだった。

 

 

 ………………

 

 

「こりゃ夜を待って逃げるしかねぇぞ」

 

 バドラックの声を頭の端で聞き流して、アリューゼは事態を整理していた。幸い、騎兵は王女の対応に追われ、アリューゼたちを捕縛するに至っていない。

 

 ひとまず身を隠すことには成功したが、安心など出来るはずもなかった。

 

 ――なぜだ。

 

 アリューゼは混乱する頭を静めるように、自分に問いかけた。

 

 ――なぜ、あのおてんば姫が馬車の荷として運ばれていたのか。

 

「…………」

 

「しかしロンベルトの野郎、しくじりやがって!」

 

「てめぇ! 知ってたのか!」

 

 ふとバドラックが洩らした言葉に、アリューゼはカッと頭に血が上るのを感じた。背中の大剣に手をかける。

 バドラックが慌てて首をふった。

 

「な、中身は知らねェ。だが依頼主はいつもロンベルトだったんだ」

 

 ()()()――。

 不穏なバドラックの言葉に、アリューゼの眼光が鋭くなる。

 

「あの騎兵たちはロンベルトのことは知ってるのか?」

 

「は? んなわけねェだろうが。ロンベルトはなぁ、ヴィルノアのスパイなのさ」

 

「なんだと?」

 

「中身が分かれば訳はねェ。王女を誘拐したら、アルトリアはヴィルノアの好き放題だろうさ」

 

 思いもよらぬバドラックの発言にアリューゼが絶句するなか、バドラックが肩をすくめてみせた。

 そこまで分かっていながら――。

 アリューゼは拳を握り締めた。

 荷から降ろされたジェラードの――ぐったりとした姿が脳裡(のうり)に浮かぶ。

 

 ――性根の腐ったこいつを殺してやりたかったが、それよりもいま、俺は――

 

 ――はぁ、アリューゼ……

 苦しい、助けて……

 助けて!

 

「うわぁああ!」

 

「ぎゃあああ!」

 

 突如、男の悲鳴が聞こえ、バドラックとアリューゼは来た道を引き返した。

 

「なんだ?」

 

 茂みに隠れながら、街道を見やる。

 一体の魔物がいた。

 赤く頑強そうな表皮の――筋骨隆々な二足歩行の魔物。魔物はすでにアルトリア騎兵数人を(ほふ)ったらしく、鋭い爪におびただしい血がこびりついていた。

 

「おいおい、なんだありゃア!」

 

「た、助けて……」

 

 唯一生き残ったアルトリア騎兵が、必死に地面を這いながら近づいてくる。その騎兵に、アリューゼが問いかけた。

 

「おい、いったいなにがあったんだ? ジェラードは?」

 

「あ、姫の意識がなかったから、隊長が、ロンベルト様から預かった薬を飲ませたら……」

 

「あれが、お姫様だってのか!?」

 

 バドラックの驚きはもっともだった。

 可憐な王女の面影が、この魔物にはまるでない。

 

 ロンベルトは二重の手を打っていたのだ。

 誘拐の発覚を予見し、王女捜索部隊に薬を持たせ――

 俺たちがヴィルノアにたどり着けばなんの問題もなく、仮に発見されたとしても騎兵は薬を使うだろう。

 王女の意識がないのは、最初から分かっているのだ。

 効果は見てのとおり。

 王女は魔物と化し、真相を知る者は残らず死ぬ。

 たぶん王女すらも。

 

「あれは、グールパウダーを飲まされたに違いねェぞ」

 

 確信を持って言うバドラックに、アリューゼが眉をひそめた。

 

「グールパウダー?」

 

「ああ。人間を魔物にしちまう薬。ネクロマンサーの常套手段だぜ」

 

「ロンベルトが、ネクロマンサー?」

 

 思っていたよりもショックが大きかったのか。

 アリューゼの思考は空転するばかりだった。

 異形――見る影もない魔物を見据え、目を細める。

 

「アンジェラ……」

 

「アンジェラ? って、ジェラードだろうが。オメェ、こんなときになに言ってんだ?」

 

 バドラックが呆れたように言うと、さっさと荷物を担いできびすを返した。

 

「もうアルトリアには戻れねェぞ。俺は逃げるぜ、あばよ」

 

 バドラックが捨て台詞さえ吐いて飄々(ひょうひょう)と茂みの奥に走り去って行く。

 アリューゼはただ茫然と、目の前の魔物を見上げていた。

 

 ――たぶんあいつの選択が正しいんだろう。

 だが、俺は逃げる気にはなれなかった。

 戦場でもこんな気分になったことはない。

 

 異形の姿が、ジェラードとかけ離れていればいるほど。

 アリューゼの中で、青いリボンの帽子をかぶったアンジェラの顔が浮かんだ。

 あんなバレバレの変装で無邪気に笑って、

 突拍子もないことで怒り、

 父王のために、単身でアリューゼの家に乗り込んできた――

 

 ――ジェラードは、いったいどうすればいいのか……。

 

 アリューゼが考えを巡らせている間に、魔物が鋭い爪をふり下ろしてきた。その軌道は完全に、アリューゼの首から上を薙ぎ倒す。

 このままでは――、

 

(やられる……!)

 

 闘争本能が危険を告げる。だが意に反して、アリューゼの(からだ)はぴくりとも動かない。

 すべてがスローモーションに。

 鋭い爪が、己に向かってふり落ちて来るのを見据えている。

 ゆっくりと――

 斬られる、と確信した瞬間に、空気を裂く音がした。あまりに突然の出来事で、一体なにが起きたのか、アリューゼですら咄嗟に判断できない。まるで彼の意識ごと切断するような鋭い音。

 

「!」

 

 アリューゼは、はた、と瞬いた。

 眼前で、白刃が一閃。ふり抜かれている。アリューゼの首を、たったいま跳ね飛ばそうとした魔物の右腕が、その斬線と共に地面に転がっていく。

 魔物の血が飛び散っていく。

 アリューゼの目を奪ったのは、陽に映える淡い金髪。魔物を切り裂く白刃の、凄まじいきらめきだった。

 

「……な……!」

 

 思わず息を呑む。

 ――剣鬼。

 不意に、アリューゼは思った。

 魔物の腕を断ち切った青年が、意志の強そうな蒼穹の瞳をぎらつかせる。青年の、身の丈以上もある剛刀が、彼の意志に合わせて輝いた。ぐっと。彼が刀を握り込む。

 

 ――アンジェラが、斬られる!

 

「待てっ!」

 

 咄嗟(とっさ)の予感にアリューゼが叫ぶと、動きを止めた青年が、驚いたようにこちらをふり返って――、後ろに跳んだ。

 魔物の豪腕が、その一寸先をかすめていく。

 青年の淡い金髪をさらって。

 気付けばアリューゼの(からだ)も、青年によって引き倒されていた。

 

「どうした! なにかあるのか!?」

 

 刀を握っているからか、それとも、魔物が目の前にいるからか。青年――アレンは、鋭い口調で問いかけた。

 そのとき。アリューゼの頭上で光が生じ、炸裂するのを感じた。魔物が吹き飛ばされ、背中から地面に倒れる。

 

「人間よ。命は投げ捨てるものではない。お前も戦士ならば、戦いの渦中にこそ道を見出すべきだろう」

 

 光が、アリューゼの目を奪っていた。

 アリューゼが顔を上げると、天空から蒼穹の鎧が浮かび上がる。

 陽光を跳ね返す、透き通るような白い両手足。

 やわらかな風になびく、長い白銀の髪。

 華奢な女の腰には、一振りの剣が差してあった。

 

「戦乙女、ヴァルキリー?」

 

 神々しい光を放って現れた女は、凛とした眼差しを魔物に向けた。

 

 ――聞いたことがあった。

 神々は、魂を冒涜(ぼうとく)する存在と常に人知れぬ場所で戦いを繰り広げているのだということを。

 

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