町の広場はひとでごった返していた。競りを仕切る商人のかまびすしい声が熱気をさらに盛り上げ、広場中央にそびえる巨大な檻が衆目を集めている。
木槌が高らかに打ち鳴らされた。
競りの始まりである。檻から引きずりだされてくるのは、農村や異国から連れてこられた奴隷だ。
喧騒はとどまることを知らず、押し寄せるひとは浮かれたように紙幣を空にかかげる。より多く札束を握る者こそがこの土地の正義だった。
奴隷市から東に進んだ先に、この衛星都市ラッセンを取り仕切る【衛士長】の屋敷がある。
――
――あの奴隷さえ、あんな奴隷さえいなければ
吹き抜けになった板張りの玄関フロアで、夫人のか細い声は、おびただしい血と異形になりつつある人間のうめきで掻き消えていった。さきほどまで「奥さま、奥さま」と金切るように叫んでいた使用人すらも巻き込んで、夫人の、もはや怨嗟と化した【願い】は二人の人間を二体の魔物に変えていく。
「……愚かなことを」
戦乙女が、空からぽつりとこぼす。魔物と化していく人間の前に、なにもない空間から白い羽根が数枚、はらり舞い落ちた。羽根は小さな光の粒となり、光のなかから蒼穹の鎧を着た、銀髪の女神が
地上界に降りた戦乙女レナス・ヴァルキュリアは、寸前まで浮かべていた憐れみの
「冥界にそそのかされるまま闇に堕ちた人間よ。あるべき場所に
白刃がきらめく。女神の一刀が不死者の胸を難なく払い斬ると、ふたつの魂が魔に堕ち切るより先に、女神によって浄化されていく。
だれもいなくなった衛士長の屋敷。
戦乙女は残りの家の者が戻ってくるよりさきに、空間に溶け消えていった。
「なんてきれいな花。コレ、名前知ってますか?」
男は屋敷を出て、使用人とともに奴隷市場へと向かっていた。赤みのある焦げ茶色のゆるい巻き毛を肩まで伸ばし、彫り深い顔立ちに太めの眉、ひげは細めに、几帳面に整えている。黒い軍服は袖の部分に金の装飾、襟元には白いレースが配され、ジェラベルン貴族の手本のような洒落た装いだった。男の目は意外にも小さく、二重瞼と下瞼の肉付きの良さが切れ長ながらもくっきりとした目力を感じさせる。髪の色よりも瞳は濃い茶色だ。
男が住むこのラッセンという町は、王国全体が経済破綻であえぐなかで唯一、経済を成り立たせている商業都市である。おもな産業は町を象徴する巨大な奴隷市場。治安もよく、町の軍政を担う【衛士長】は民衆の支持を集めている。
「
男――【衛士長】を務めるベリナスは整った眉根を寄せて、後ろをふり返った。
「…………」
使用人の少女は――もはや屋敷で唯一の同居人となってしまった彼女は、ベリナスの問いに応えず、道端に咲いた白い花を手許で遊ばせている。陰気な倭人の娘だった。
――ベリナスさまぁっ! うふふふっ
昔は明るくほがらかに、この使用人、
それがベリナスが妻をめとったあたりから、
殻に閉じこもってしまうのも無理からぬことだった。
ベリナスは道端の花をいらう阿沙加をじっと見つめたあと、彼女が握っている花を奪い取った。「ぁ」と阿沙加が小さな悲鳴を上げる。
「返してください! ベリナスさまっ!」
阿沙加が叫んだあと、ハッとしたように口をつぐんだ。倭人らしい艶やかな黒髪が、陽の光を浴びて青く照りかえる。彼女は腰まで流れる長い髪の持ち主だったが、白い三角巾で髪をひっ詰めており、うつむいても乱れない。メイド服に身を包んだ彼女は伏せ目がちにむっつりと押し黙ったあと、ようやく口を開いた。
「……人の売り買い、好きじゃないです。見るのも、嫌!」
異国生まれゆえに阿沙加の言葉は少しカタコトだった。奴隷が貴族に抵抗するなど、ジェラベルンではありえない。貴族によれば奴隷を殺しかねないほどの不敬なのだが、ベリナスは困ったようにため息を吐くだけだった。
「仕方がないことだ。私の妻も、マリアも、もういないんだ。お前ひとりで屋敷をきりもりするのは無理だろう?」
「ベリナス様に買われる人、幸せ。それはいいの。でも……他の子は皆かわいそう。私、見たくない」
「阿沙加にきてもらわないと困るんだ。異国の言葉は私にはわからないし、働けそうな子を選んでもらわないと――」
「それが嫌なんです! 私の一言が、人の一生を左右するなんて……」
「花ならいいのか?」
言われて、彼女は哀しげに目を伏せた。
「召使を選ぶのは、花を摘むのとどう違うんだ」
「……」
沈黙は、阿沙加にとっての防御手段なのか――。
ベリナスは阿沙加から奪った白い花を
ベリナスが満足げにうなずいた。
「こうなることが、この花の運命だったんだ」
「ウンメイ?」
「そう。神によって定められた――」
「人と花は同じ、か……」
ふと、ベリナスがまたたいて後ろをふり返った。
奴隷市に続く街道に、青年が立っていた。陽に透けるようなさらりとした金髪と、深い蒼の瞳。身長は、長身のベリナスよりもまだ頭一つ分上にある。彼は黒いシャツに革のジャケットという一風変わった服装で、身の丈よりも長い、妙な筒を背負っていた。
「私には、そちらの女性の言い分の方が共感できますね」
青年が苦笑するようにつぶやく。どこにでも居そうな青年であるのに、彼の生命力とでも言うのか。どこか町の者たちとは違う【光】を感じさせる男だった。
ベリナスは首を傾げた。
「君は……?」
「私はアレン・ガードという者です。この地には先ほど着いたばかりでして……、新参者が出過ぎたことを申しました」
アレンが頭を下げてくる。ベリナスは「いや」と生返事を返すと、横目で阿沙加を見た。自分と同じく、阿沙加もまた、青年独特の雰囲気に目を丸め、きょとんとした顔でアレンを見ている。
ベリナスは一瞬顔をしかめて、アレンに向き直った。
「私は気にしていない。ここにきたばかりと言うことは、旅人かね?」
「はい。人を捜しているんです。ルシオとプラチナという男女二人組なのですが、知り合いからこの町で見かけたという情報があり、立ち寄りました。……二人とも、私と同じくらいの歳です。ルシオは金髪碧眼の男性で、プラチナは銀髪の女性です」
ベリナスは難しい顔で押し黙った。衛士長を務めているが、少なくとも近隣の貴族や町の防衛部隊にそういった名の者はいない。
「ほかに服装や、背格好など特徴はないのですか?」
引っ込み思案で人見知り。そんな阿沙加が会話に入ってくるのは珍しいことだ。
ベリナスが驚き、阿沙加を横目見る。アレンが弱った声で言ってきた。
「じつは二人に会ったのは五年前なんです。なので、いまの二人について詳しいことはなにも」
「……ベリナスさま」
物言いたげな彼女を見下ろして、ベリナスはため息を吐いた。彼女がなにを企んでいるのか、わかったのだ。
「家に、お客人をお招きしろと言うのだな? 阿沙加」
柔らかい口調で問いかけると、阿沙加はうなだれながらも、小さくうなずいた。
ベリナスが苦笑する。彼女の魂胆は、召使選びを先延ばしだ。アレンの変わった雰囲気に一瞬、目を奪われたのもあるだろうが、それ以上に客人をもてなすために早々に屋敷に帰ろうというのだ。
うつむいている阿沙加を見つめて、ベリナスの胸が痛む。彼女と視線が合わなくなってからどれほど時が経つのか――もう思い出せなくなっていた。
「ヴァルキリーよ。ここが、次の
ラッセンよりはるか上空、
「そうだ。だが……」
「アレンのやつもいやがるな。どうやって嗅ぎつけてんだか知らねえが、こりゃヴァルキリーの出番も怪しいもんだぜ」
ジェラードと時期を同じくして
地上を見下ろす
「戦乙女の見定めた死期は絶対だ。その運命を歪める者が神以外にいるのだとすれば、それは摂理に反する」
「ひとがひとを助けてはいかん、というのか?」
ジェラードが不安そうに聞いてくる。レナスは街
「やつがどのような存在なのかはわからない。だが、ふたたび
一方で、レナスは疑問を感じていた。下界の人間たち――つまり、アレンたち――が向かう【衛士長】の屋敷。あそこは少し前に、レナスが不死者に堕ちんとしていた夫人と使用人を浄化した場所だ。
(――あの場所に、まだ
戦乙女はさらに精神を集中させる。なにかが
………………
アレンはベリナス邸の厨房の扉によりかかって、ひたすらうなだれていた。
「オイラたちも、一宿一飯の恩義は体で返すじゃん!」
ぶかぶかの一角白眼ヘルメットを押し上げて、狸の耳と尻尾をもつ少年――ロジャーは、えへんと胸を張った。彼の動きに合わせて、ふさふさの耳としっぽが軽快にフリフリと踊る。緑色のタートルネックに、カーキ色のオーバーオール。大きめの手袋もやはりカーキ色で、好奇心の強そうな焦茶色の瞳は、満月のように丸く、嬉しそうにジッと目の前を見据えている。
ロジャーは包丁を高くかかげ、ベリナスの屋敷の厨房で仁王立ちしているのだ。
「あ、あの……」
厨房の入り口でうなだれているアレンの傍らに、阿沙加がいる。夕飯の支度に取り掛かろうとしたのだが、厨房を少年【たち】に占拠され、おろおろとしているところだった。
ロジャーと対峙するように立っているのは、クロネコの耳としっぽを持つつり目の少年、ルシオだ。こちらはお玉を片手に、どん、と胸を張っている。カーキ色のバンダナを頭に巻いたルシオは、長めの黒い前髪をバンダナの左右から視界の邪魔にならないように流している。ロジャーよりも黒に近い瞳だ。
二人とも瞳にやる気の炎を漲らせ、互いを睨み合っていた。
「へん、バカダヌキ! 俺と料理対決しようなんて片腹痛いぜ! こちとら、父ちゃんと母ちゃんが出稼ぎに行ってる間、
「はん、偉そうに! いっつもお前らの飯作ってんのベリオンじゃんか! それに甘いのはそっちだぜアホネコ! このロジャー様はフェイト兄ちゃんの目を盗んで、各地の工房を巡ってはマリア姉ちゃんと二人で料理の修業を積んできてんだい! 言わばお前とは、住んでる次元が違うじゃんよ!」
「……二人とも……」
アレンが声をしぼりだすようにして制止する。その手には、阿沙加の使い古した雑巾が握られていた。小間使いの阿沙加が、忙しく屋敷内を駆け回っているのを見つけて、アレンが手伝うと言い出したのだ。どう見ても奴隷や召使とは縁遠い彼が、そんな申し出をしてきたのが阿沙加にとって意外で、阿沙加は言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
「そんな、お客様にそのようなこと……!」
アレンに言われた当時、阿沙加は首をふって断ったが、アレンがやんわりと
「一宿一飯の恩義は返すのが礼儀だ」
阿沙加から取り上げた雑巾を、表彰状かなにかのように見せびらかして。
意外にも少年のような笑みを浮かべるアレンに阿沙加は戸惑いながらも、納得まではしなかったが引き下がった。人の意見を跳ね除けられるほど、彼女の意思は強くない。召使にそれほどの権利があるはずもなかった。
そうしてアレンが掃除を手伝うと、高価な調度類や広い床、高い棚などを掃除するうえで、彼は戦力になった。阿沙加が一日かけてようやく終える掃除を、二時間足らずで終わらせてみせたのだ。
「家事は得意なんだ」
アレンが得意げに言い、阿沙加もつられて
――そうして、今に至るわけである。
アレンはようやく厨房の扉から
「……そこまでだ、二人とも」
アレンはいつになく、声音を落とし、言った。ロジャーとルシオが、う、と同時に息を呑む。ぎこちなく少年たちは罰の悪そうな顔で背中をふり向くと、アレンが長いため息を吐いたあと、どこか遠くを見るように斜め上の天井を見つめていた。
「……二人の腕は、俺が
あの99.9%は劇物として出来上がる手料理を、間違っても阿沙加やベリナスに食べさせるわけにはいかない。固く決意し、「厨房は俺が受け持つ」と強めに言い切ると、しょんぼりとした少年たちの視線が、アレンを見上げてきた。
「兄ちゃん……」
「アレンさん……」
邪魔だ、と言外に言われ、ひどく傷ついたようだ。
アレンは無言のまま、ぴくりと片眉を引きつらせると、とりつくろうように小さく咳払いした。
「ロジャー、屋敷の外にまだ整理されていない薪があった。あれを割っておくと、ベリナスさんたちはすごく助かるだろうな。――それからルシオ。屋敷の裏に大きな
言って、アレンがロジャーとルシオを横目見る。表情を輝かせた少年二人が、間髪を置かずにうなずいた。
「任せとけ!」
ロジャーとルシオが仲良く言って、厨房を走り去っていく。また、どちらが先にその仕事を終えるか勝負だ、などと不毛な争いを展開しているのが廊下から聞こえていたがアレンはそっとしておいた。
「……やれやれ」
「あ、あの……」
阿沙加に呼ばれ、アレンが首をかしげながらふり返った。ああ、と思い立ったように阿沙加に謝る。
「すまない。ベリナスさんも忙しい人のようだったから、薪割や水汲みといった重労働は早めに済ませた方がいいと思ったんだ。余計な世話だったか?」
アレンの気さくさは阿沙加が身分の低い召使だから、というより、年下の少女だったから、といった風だった。恐ろしく分けへだてがない。阿沙加は戸惑いを感じながらも「いえ」と首をふり、目を伏せて答えた。
「水汲みも、薪割りも、……私の仕事、ですから」
阿沙加が消え入りそうな声でつぶやくと、アレンがまばたきを落として、うなずいた。
「失礼する」
アレンが阿沙加の手を取る。ベリナスの屋敷にきたばかりのころを思えば、ずいぶんとマシになったマメとあかぎれがいくつも出来た、召使の手だ。
阿沙加はあまりにも骨張った手に羞恥心を覚えて、とっさに手を引いた。だが彼女の手を握る手は意外にも固く、ほどけない。
「ヒーリング」
一瞬で構成された魔力が、少女の手に集まって青白く輝く。温かな感覚が触れてきた。洗いたての毛布を、そっと手の甲に当てられたような――。
阿沙加が戸惑っている間に、アレンは視線を上げ「すまない」と勝手に触れたことを謝ると、手を離した。目を白黒させている阿沙加を置いて、アレンが厨房に向き直る。
「ベリナスさんに苦手な物はないか? 一応、さっき露店で味見をしたから大丈夫だとは思うんだが」
アレンの言葉を聞き流しながら、阿沙加は自分の手を見下ろした。長い召使生活で、まめとあかぎれがいくつも出来ていたはずの自分の指。
「!」
それがいまは白魚のように瑞々しい、見たこともないほど美しい肌をした手になっている。
阿沙加は息を呑みながら、じ、と自分の手を見つめて
「ぁ、……ぅっ!」
意味のない音をこぼしつつもアレンを見上げた。
アレンが手際よく食材を切る手を止めた。ふり返って、驚いている阿沙加を見ると、ああ、と小さくつぶやく。
「俺は魔導師なんだ。だから、簡単な回復魔法を使える」
「魔導師、様……?」
「正規ではないんだけどな」
アレンはまな板に視線を落し、また手際よく食材を切り始めた。
「あ、あの……!」
今度は手を止めずにアレンは切り分けた食材をさっと皿に移している。
「どうして、こんなに……良くして下さるんですか……?」
「阿沙加。煮込み鍋はこれを使って構わないのか?」
「え? ……は、はい」
まったく関係のない問いを返されて、阿沙加は所在なく視線を落とす。煮込み鍋に水を入れ、火をつけたアレンが、火力を調節してからふり返った。
「一宿一飯の恩義、じゃ納得出来ないか?」
「………………」
阿沙加がうつむく。アレンは困ったように眉をひそめると、しばらく間を置いてから、観念したように言った。
「一生懸命だったから」
「え……?」
言葉の意味が理解できず、阿沙加が顔を上げる。阿沙加の前にあるのは、どこか遠慮しているようにも見える、苦笑めいたアレンの顔だ。これを言っていいものかどうか、悩んでいるときのアレンの癖だった。そんなことを阿沙加が知るはずもなく、アレンは意を決して答えた。
「君が、疲れているように見えた。ベリナスさんも含めて」
「…………」
阿沙加はどう答えればいいのか分からなかった。少なくともアレンは阿沙加に同情していない。そして、阿沙加を奴隷として見ない代わりに、ベリナスを貴族としても見ていない。
分かったのは、その二つだけだ。
アレンには身分という概念がまったく欠如していた。あの二人の少年たちと同様に――。
「外は、自由で……」
アレンは旅人だと言った。それを聞いたとき思った。彼がいた国に行けば、外ならもっと自由に、幸福に――。彼等のように、笑えるのだろうかと。
最愛の人と、
ベリナスと。
だが言葉は阿沙加の喉で詰まり、そのままため息とともに、空虚な宙に散っていった。
「……苦しいのか、この場所が」
「!」
ずっと見られていると思わなかった阿沙加が、頬を赤くして顔を上げる。どこか怯えた表情の阿沙加を見て、アレンは目を伏せた。
「だったら、立ち止まって深呼吸するといい。君は、懸命に自分の職務を果たそうとしているが、反面、職務だけを見つめて、すべてを諦めようと自分を追い詰めようとしている」
「………」
「もっと頼っていいんだ。君は、君が思っている以上に幸せになる素質を持っている。……そうだろう?」
最後に、ベリナスとの関係を指されているのだと知って、阿沙加は息を呑んだ。目を
「違います……! 私とベリナス様は、決して……っ!」
阿沙加はゆっくりと後ろに退きながら、首を横にふった。アレンの言葉をこれ以上聞かないように耳を塞ぐ。それだけでは耐えきれず、その場にうずくまった。
「……すまない」
そんな阿沙加を見かねてか、アレンが寂しげに言ってくる。阿沙加は更に首をふった。
同情。
そんなもの、自分には――。
「阿沙加。少し、味見をしてくれないか?」
火を入れた鍋に向き直ったアレンが、肩越しに問いかけてきた。うずくまった阿沙加が、反応できずにアレンを見上げる。
「ベリナスさんに食べてもらう前に、アドバイスを聞こうと思って。……立てるか?」
アレンが心配そうに覗き込んでくる。阿沙加は思わず泣き出しそうになった。
(どうして、そんなに――……!)
自分には、身に余る優しさを。
自分には、不釣合いな温もりを。
阿沙加は唇を噛んで、アレンの視線から逃れるように目をつむった。やはり同情ではない。この青年は、会って間もない阿沙加を、ベリナスを、心配している。
「……阿沙加」
阿沙加は目に浮かんだ涙を、感づかれないように拭うと、アレンに手を引かれて、立ち上がった。
「すまない。付き合わせてしまって」
詫びる彼に、阿沙加は首を横にふった。悪いのは、すべて自分なのだ。
卑しい身分で、ベリナスを愛した。
卑しい身分で、ベリナスの傍にいることを、今もなお望んでいる――。
彼女の思考を断ち切るように、小皿を手渡された。なにかのスープだ。味見しろというので、阿沙加はそれを、ついと口に含んだ。
「……!」
すると、温かな感触が阿沙加の胸に広がった。痛みも、苦しみも。阿沙加が抱えていた悩みも全て、ふっと忘れさせてくれる、そんな感覚。
肩の荷が下りる、といった感じだった。
「美味しい……!」
驚いて何度もまばたきし、渡された小皿と、アレンを見比べる。アレンがほっとしたように笑った。
「家事は得意なんだ。昔から」
褒められて、アレンは少し照れているようだった。
阿沙加が口許に手をやる。いつも強張っていたはずの筋肉が知らぬ間にほころんでいる。
(私、笑ってる――?)
たった、こんなスープ一口で。
阿沙加が驚いて、不思議そうに首を傾げる。アレンはそのさまを見ていたが、まばたきをひとつ落とすと、厨房の奥――窓の向こうに視線をやった。
「アレンさ~ん……!」
「おぉい! 兄ちゃ~ん……!」
遠くで、ルシオとロジャーの声。二人の仕事が終わったにしては、少し早すぎる時間だ。アレンが首を傾げる。阿沙加を一瞥して言った。
「行こう」
厨房の窓から入る夕陽が、アレンを照らすように射し込んでいる。その光景に、ぐ、と息を呑んで、阿沙加は小さくうなずくと、彼に連れられるようにして厨房を出た。
なかなか器用に薪を割る――までは良かったが、勢い余って薪割り台まで割ってしまったロジャーと、裏の桶に水を汲む――までは良かったが、調子に乗って屋敷中の水を盛大に床にぶちまけたルシオを、アレンが無言で、頭を抱えるようにして見下ろしている。
その三人の間に流れる微妙な沈黙に、阿沙加は柄にもなく、ころころと笑った。