ヴァルキリープロファイル 神に挑む者   作:ばんどう

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7.ラッセン編(完) 女神の忠告

 ――お二人のお心遣い、心より感謝します。

 

 ベリナスは、今日招き入れた客人のひとことを思い出して執務書類に走らせるペンを止めた。

 

(……二人?)

 

 ベリナスに礼を言うのは当然だ。だが召使の阿沙加にまで――倭人の奴隷にまで礼を言う者はこのジェラベルンには存在しない。アレンは旅人と名乗ったが、そのふる舞いから身分の低い者でないことはうかがい知れた。貴族にしてはあまりにも貧相な身なりにギャップがある。

 またアレンが連れてきたあの二人の少年も妙といえば妙だ。あのくらいの子が――アレンの息子や弟といった風でもない子が、なぜ彼とともに旅をしているのか。

 考えれば考えるほど、妙な旅人だと思った。一方で、アレンに対して猜疑や警戒を抱けない自分もいる。いまもアレンが捜している二人について部下に探らせている。ベリナスの親切心はいつものことだが、どこか【力になりたい】と思わせる素養がアレンにはある。

 

「……いかん」

 

 軽く頭をふって、改めて仕事に取り掛かる。だがどうにも、上の空だった。

 

 

 

 奴隷市から帰った日の夕食。ようやく執務を終えたベリナスは、食卓についた。今日は客人もいるため品数が多く、色とりどりの食材が所狭しとテーブルに並んでいる。ふとベリナスは目を丸くした。

 

「……おや?」

 

 いつも阿沙加が作ってくれる夕食とはまったく違う、見たこともない料理がテーブルを占めていたのだ。

 

「すみません。ベリナス様……」

 

 ベリナスの隣に立って、阿沙加がうつむく。ベリナスは要を得ずに首をかしげていた。

 向かいの席に座ったアレンが、阿沙加の代わりに答えてくる。

 

「私が無理を言って、厨房をお借りしたんです。阿沙加に味見してもらいましたから、お口には合うと思うのですが」

 

「君が?」

 

 心底驚いて問いかけると、アレンが小さくうなずいた。

 

「兄っちゃんの料理~♪ ひっさびさの料理~♪」

 

「やっぱ見た目からして違うんだよなぁ……。つっても、確かにアレンさんと同じ手順は踏んでるはずなんだけどなぁ……」

 

 ロジャーがナイフとフォークを握って、上機嫌に歌う隣で、ルシオが小首を傾げている。アレンはなにか言いたげに、なにも言えずに複雑な表情で黙り込んでいた。ベリナスの傍らに立った阿沙加が、くすくすと微笑(わら)う。

 ベリナスは目を見開いた。

 阿沙加の笑った顔。それもこんな無邪気な笑顔は、ベリナスでさえも久しく見ていない。無意識にアレンを見やる。ロジャーたちを見据えて、仕方がないな、と言わんばかりに笑っている彼を。

 

「お客人に、すまないことを」

 

「いえ。私が無理を言いましたので。……よろしければ彼女も一緒にどうぞ」

 

「いいのかね?」

 

「我々は客というより、厄介者ですので」

 

「……ありがとう」

 

 ベリナスがほがらかに笑み、視線で阿沙加に傍らに座るよう命じた。二人でいるときでさえ、一緒の食事は遠慮してくる阿沙加が、こうして素直にベリナスの指示を聞いたのは、客人の前だったからかもしれない。

 ベリナスは複雑な心境で小さく笑むと、見たこともない料理にフォークを入れた。

 

「では、(いただ)こう。アレン君」

 

「恐縮です」

 

 アレンが礼を返してくる。ベリナスはフォークで切り分けた肉を、ぱくりと含んだ。驚きに目を()く。気づけば(ガラ)にもなく夢中で口のなかの肉を咀嚼(そしゃく)した。

 一噛みする毎に、ふわりと広がる香ばしさと、しっかりと落ち着いた肉の旨さ。肉汁もさることながら、舌の上で、ぷるんと弾ける肉が、ベリナスの歯に当たるとなんの抵抗もなく二つ、四つと分かれていく。

 

「美味い……!」

 

 ベリナスがつぶやくと、アレンは嬉しそうだった。

 

「これ、は……」

 

「阿沙加?」

 

 ベリナスの隣で食べている阿沙加の異変に気付いて、ベリナスがふり返る。阿沙加の頬には涙が滑り落ちていた。彼女が小皿に取ったのは、ベリナスが食べたものと同じ、鶏肉をなにかのタレで焼いたもの。

 ベリナスの向かいの席で、ロジャーがもりもりと料理を平らげながら、どこか誇らしげに、手に持ったスプーンを掲げた。

 

「兄ちゃんは、一度食べた料理はなんでも覚えてんだぜ! 姉ちゃん、倭国ってトコの人だろ? オイラたち、アルトリアで倭国料理店の全メニュー制覇したから、倭国料理はお手の物じゃんよ!」

 

「そうそう。なんてたって俺たちは、途中でダウンした変な姉ちゃんの分まで食ってやったからな!」

 

 ロジャーの隣で、ルシオも料理をもりもりと平らげつつ、偉業を誇るように何度もうなずく。

 

「……あれは、胃にも財布にも悪かった……」

 

 アレンは長いため息を吐いて、天井の片隅を見つめていた。

 ベリナスの隣で、阿沙加はゆるゆると涙を流している。もしかしたら自分が泣いていることにさえ気付いていないのかもしれなかった。

 

「あり、がとぅ……ございます……!」

 

 味見のときは気付かなかった――思えば完成品の味見はしなかったこの料理は、阿沙加が失くした――故郷の味だ。素材や細かなアレンジを加えていても、阿沙加には分かる。

 遠い昔。

 奴隷としてこの地を踏むよりもずっと前に、温かな食事を用意して待ってくれていた、そんな穏やかな日々の。

 

「……ぅ、……っぅ!」

 

 あまりに遠すぎて、阿沙加の思考の端にも掛からないほど、別世界の記憶として刻まれた現実だ。

 

「阿沙加……」

 

 ベリナスが心配そうに語りかけてくる。倭国に捨てられ、見知らぬ土地で物のように扱われ、どうしようもなく不安だったあのころ。優しく手を引いてくれた人の声が、いまもここに。

 

「美味、しゅう……ござい……、ますね。ベリナス、様……っ!」

 

 ベリナスに精一杯笑いかけて、阿沙加は涙を袖で拭うと、それでもぽたぽたと溢れる涙に困りながら、料理を食べる。

 

 美味かった――。

 

 どれを取っても、この世でなにより美味い料理に、阿沙加はめぐり合えた。

 

「美味、しい……! 美味しい……!」

 

 抑えた声で、嗚咽混じりに阿沙加がつぶやく。ベリナスは言葉を失い、圧倒されたように押し黙った。

 

「ベリナスさんも、どうぞ」

 

 アレンに促されて、ベリナスも気を取り直して食事を再開する。今度は、鶏肉の隣に置いてある前菜のようなものを口に運んだ。

 

(確かに、美味い……)

 

 ベリナスが今まで食べてきた、どのシェフが作った料理よりも。だが阿沙加の涙の理由は、それだけではないように思えた。倭国料理とさきほどロジャーが言っていたが、珍味といわれるあの国の料理が、これほど抵抗なく食べられるはずがない。

 少なくともベリナスの知る、ベリナスが今まで見てきた倭国料理は――。

 

「……!」

 

 そこまで考えて、ベリナスはまたたいた。

 同じ倭国料理。

 なのに、ベリナスまでもが美味いと感じるこの不思議な味を、阿沙加は故郷の味として食べている。

 狐につままれたようにベリナスが料理を見下ろす。

 

(私は、いったいなにをやってきたのだ――?)

 

 答えは見つからない。迷宮はベリナスを思考の渦に突き落とす。ただ阿沙加の笑顔と涙を久しぶりに目の当たりにして、ベリナスのなかでなにかが変わっていた。

 

「なぁ、ベリナスのおっちゃん」

 

「コラ、ロジャー!」

 

「アレン君、かまわない。……なんだい?」

 

 食事が終わるころにロジャーが思い立ったように話しかけてきた。地方領主をおっちゃん呼ばわりしてしまうロジャーの気さくさにアレンは慌てたが、ベリナスが笑って受け流す。みなの関心が自分に集まったのを確認してから、ロジャーがあらためて言った。

 

「この町のあのでっかい檻、あれ、なんに使うんだあ?」

 

 食事するみなの手が止まった。ベリナスはそっとアレンを見る。表情は変わらないが、アレンの空気がややぴりついたのがわかった。

 

「ドラゴンでも捕まえんのかと思ったけど、それにしちゃ小さいし、檻の前に階段みてえなのもあっただろ? スフレ姉ちゃんたちみたくサーカスでもみせてくれんのかな?」

 

「けどよバカダヌキ、スフレの姉ちゃんたちが連れてたライオンやら鳩が入るにしちゃ、あの檻でかすぎだぜ? やっぱ別の、なんかがあるんじゃねえのか?」

 

「ともかくよ! お祭りみてえなのがあるならオイラ、見てみたいじゃんよ!」

 

「ダメ!」

 

 嬉しそうに語るロジャーとルシオを鋭い声で制したのは、阿沙加だった。ロジャーとルシオが驚いて目を白黒させている。阿沙加は二人を睨み、強い声で言った。

 

「絶対、ダメ。あなたたちがあんな所に行ったら、危ない目に遭います。だから、絶対に行かないで! 外に出るならアレンさんから離れてはダメ!」

 

「阿沙加姉ちゃん……?」

 

 すがるような阿沙加の様子に、ロジャーとルシオが顔を見合わせる。阿沙加は胸の前で両手を組み、祈るようにうつむきがちに確認してきた。

 

「約束してくれる?」

 

「お、おぅ……」

 

 ロジャーとルシオが、気圧されながらもうなずく。アレンが「食事を続けよう」とみなに言って、その場の緊張はいったん流れていった。

 

 

 

 その夜。ベリナスの身に異変が起こった。

 

 ……みし、

 

 布団のうえに、なにかが乗っている。上質な木製のベッドがベリナス以外の重みで(きし)んだのだ。

 夢半分に瞼を開けようとしたが、(からだ)がまったく動かない。指一本すら動かせなかった。ふいに首を絞められる。息苦しくなった。

 

「っ、っっ!」

 

 喉許に絡みついた奇妙な感触をふり払おうと足掻(あが)くが、(からだ)が動かない。冷や汗がどっとにじんた。開かない瞼の向こうに、濃密な質量を感じる。冷たく、重く、暗い気配だった。

 

 ――こんな奴隷さえいなければ!

 

 こもった女の声が聞こえたと同時にベリナスの耳の奥で、金属がすれ合う音がした。閉じた視界が――光に包まれていく。

 

「っ!」

 

 反射的に腕に力を込めると、(からだ)はそれまでの鬱屈を晴らすように、バネ仕掛けのごとく跳ね起きた。直後、身構えるベリナスの目に飛び込んできたのは――つい先ほどまで自分の上に乗っていた女の顔をした白い(もや)だった。

 

「死霊?!」

 

 ベリナスが息を呑んだ。顔立ちはわからない。だが恨みがましい視線が、見知ったものである気がして背筋が凍った。

 突如、夜闇に包まれた部屋が、すべて光に照らされる。鳥が飛び立つときの盛大な羽音が響くと同時、光のなかから、白い翼を広げて現れてきたのは――銀髪の女神。蒼穹の鎧を身にまとった、運命の導き手だった。

 

「お前は何者だ! ……まさか!」

 

 ベリナスが息を呑み、銀髪の女神を凝視した。彼女は無言で腰の剣を抜き、目の前の死霊を払い斬る。死霊は声も立てず、ねっとりと恨みがましそうにベリナスを見据えて霧散していった。

 室内に残ったのは、淡い光を放つ女神と、ベリナスのみだ。

 動揺するベリナスに、死霊を切り裂いた女神は淡々と告げた。

 

「……この屋敷は不死者に呪われている。娘が危ない」

 

「阿沙加が!」

 

 反射的に部屋を飛び出していた。思考はうまく働かない。それでも、あの死霊を見てベリナスは直感している。

 

 あれは、自分を殺そうとした。

 恐らく阿沙加をも――

 

「阿沙加!」

 

 

「あ、おっちゃん!」

 

「こらっ! ロジャー!」

 

 必死の形相で阿沙加の部屋に転がり込むと、ロジャーの呑気な声と、アレンの慌てた叱責が室内に飛んだ。一瞬、ベリナスがひどく馬鹿げた勘違いをしてしまったと思わせるほど、緊張感がなかった。

 だがロジャーとルシオに守られるようにして、部屋の入り口近くに立った阿沙加は、怯えた表情でベリナスを見てくる。

 

「ベリナスさま!」

 

「なにっ!?」

 

 阿沙加は首を横にふり、「来るな」という。ロジャーと、ルシオの前、部屋の奥に立っているアレンと、対峙する影がある。室内に悠然と浮かぶヴァンパイアだ。それと目が合った途端、ベリナスの背筋に電流が走った。

 

「貴様は――!?」

 

 さきほどの死霊が脳裡(のうり)をよぎる。

 ベリナスの前で腰に手を当てたルシオが、ヴァンパイアに向かって自信たっぷりに言い放った。

 

「ま、お前もアレンさんに見つかったのが運の尽きだな! 悪魔だかなんだか知らねぇけど、“けーやく”だかなんだかの悪巧みは、ここまでだぜ!」

 

「よ! 虎の威を借る狐ならぬアホネコ!」

 

「うっせ! バカダヌキ!」

 

 ぎゃいぎゃいと言い合う二人とは視線を交わさず、アレンは町にいたときと同じ、二メートル近い巨大な筒を手にしていた。なにかが入った筒だが、筒が長すぎてベリナスには中身の見当がつかない。

 アレンは静かに、その悪魔――エルダー・ヴァンパイアを見据えた。

 

「方陣が崩れれば、契約書を失くしたのも同じ。貴様がここにいる理由は、もうないハズだ」

 

〈愚かな。契約は既に成された。対価を受け取り、我がきた時点で成就しているのだ〉

 

 エルダー・ヴァンパイアは阿沙加を見て、口端をうっすらと広げた。

 

「……そうか」

 

 アレンが筒に手をかける。筒を巻いていた紐を一瞬でほどくと、中から現れてきたのは、二メートル超の剛刀だ。アレンはそれを手に言い放った。

 

「ならばその契約ごと、俺が断ち切る!」

 

莫迦(バカ)な――!〉

 

 エルダー・ヴァンパイアが嘲笑にも似たつぶやきをこぼした瞬間。悪魔の手に宿った魔力が魔力として放たれるよりさきに()()()()

 抜く手すら見えない神速抜刀だった。エルダー・ヴァンパイアが状況を理解できず首をかしげた。不思議そうに自分の(からだ)を見下ろす。頭から足先まで、一刀両断されていた。

 

〈ぎき゜ぃいいやぁああああ……っ!〉

 

 エルダー・ヴァンパイアの魂が凄まじい叫声とともに、闇のなかへと沈んだ。

 小さな鍔鳴り音が立ち、部屋に静寂が訪れる。さきほどまでの争いが、まるで夢だったようだ。

 

「……終わりだ、ヴァンパイア」

 

 エルダー・ヴァンパイアが居た部屋の壁を(あらた)め、アレンは傷がついていないことを確かめると小さくうなずいた。ベリナスが譫言(うわごと)のようにつぶやく。

 

「君は、一体……アレン君?」

 

 ふり返ったアレンが、静かに笑う。

 

「あなたがたを見かけたときから、妙な感じがしたんです。俺は魔導師ですから、そういう感覚に敏感で……。だから屋敷を掃除させて頂いたときに原因を探って、阿沙加に憑いた魔術の、厄除けをしたんですよ」

 

「しかし……、あれは……!」

 

「昼間に気付いて身代わり人形(リバースドール)を仕込んでおいたのが幸いしたようです。方陣を崩しても、この威力。……さっきの使い魔の主は、相当高位の魔族か」

 

 最後は独り言だった。アレンは改めて、阿沙加に向き直る。

 

「怪我は?」

 

「いえ……!」

 

 ふるふると小さく首を横にふる彼女に、そうか、とうなずいてアレンはきびすを返した。ベリナスが、引き止めるように彼の名を呼んだ。

 

「アレン君!」

 

「すみません。見知った気配がするので先に会ってきます。ルシオ、ロジャー。夜更かしはほどほどに、な」

 

「任せてください!」

 

「今夜はふかふかベッドで“枕投げ男勝負”だぜ! アレン兄ちゃん、早く帰って来いよな!」

 

「……ほどほど、は伝わりにくいか?」

 

「じゃ、後でな! 兄ちゃ~ん♪」

 

 どこまでもマイペースで言い切って、客間に戻っていくロジャーたちの背中を見つめて、アレンはため息を吐くなり阿沙加の部屋を後にした。

 

 

 

 

 阿沙加の部屋は屋敷二階の奥まった場所にある。そこから四、五メートルほど歩いて玄関ホールに行くと、彼の見知った――最近知ったばかりの女性が、神々しい光を放って立っていた。

 

 月明かりのなかに映える、銀髪の女神。

 

 女神はくるぶしまで伸びる銀髪を肩のあたりから三つ編みにしている。アレンが玄関ホールにたどり着くなり、彼女は青い瞳をそっと押し上げた。女神の肌の白さを強調するように、その全身からは淡い燐光が放たれている。

 

「また、会ったな……」

 

 アレンの言葉に応えず、レナスは無言のまま、アレンが階段を下りてくるのを見守っていた。下りるアレンの足音が、レナスのいる玄関ホールで止まる。

 ちょうど、二メートル。

 アレンに染み付いた戦闘習慣が、ぴたりと足を止めるその場所で、アレンは屋敷の二階、阿沙加の部屋とは真逆の――左側の部屋を(あお)いだ。

 

「……あなたは知っているのか? 阿沙加にかけられた呪いの主が、一体なんなのかを」

 

「ことの原理はお前が理解した通りだ。でなければ、あの部屋で見つけた魔人(ヴェリザ)の方陣を、ああも容易く無力化させることは出来ない」

 

魔人(ヴェリザ)の、方陣……?」

 

 初めて聞いた名を口にするように、アレンが思案顔を浮かべる。女神――レナスは小さく目を細めた。

 

「少なくともアレによって、あの少女は呪い殺されるはずだった。そしてあの男(ベリナス)がその命を代償に、彼女の代わり身となる運命だったのだ」

 

「それがあなたの予見、と?」

 

「……戦乙女が見定めた死期を、お前は狂わせた」

 

 レナスは淡く光る蒼白の鎧から白い翼を広げると、細身の剣を抜き打った。まさに神速。放たれた白刃が、アレンの喉許で止まる。アレンは涼しい表情のまま微動だにせず、レナスを見つめていた。

 

「なぜ、抵抗しない?」

 

「あなたに斬る気配がなかった」

 

「甘いな。人間よ」

 

 白刃を喉許に突きつけたまま、レナスが厳しく告げる。

 アレンは微笑んでいた。

 

「それに、あなたに礼を言いたかった。ベリナスさんを救ってくれて、ありがとう」

 

 レナスは息を呑んだ。

 彼は、知っていたのだ。

 

 死霊にうなされ、殺されかけたベリナスが、レナスによって救われたことを。

 

 ベリナスの悪夢は、妻の呪いの余波を受けた副産物のようなものだ。それに干渉する能力をアレンは持っていない。

 彼自身、ベリナスが悪夢にうなされているのを察知できたわけではないが、なんとなく()()()()

 

 ――この戦乙女が、少なくともアレンが屋敷にいる間、ずっとベリナスの隣にいたことを。

 

 見えなくとも感じたために、アレンは静かに微笑(わら)っていた。剣を突きつける相手に少しも臆さずに。

 

「貴様……」

 

「あなたは死期の近い戦士の魂を、神界に連れて行く神、らしいな。だがあなた自身は人に死を与えるわけじゃない。だろう?」

 

「……どういう意味だ」

 

「あなたは人の命を引き取る。だが、その心を守ろうとした。アリューゼが自害したあのときも。ベリナスさんが闇の気に晒された今も。少なくとも、俺にはそう見えた」

 

「………………」

 

 レナスは視線を下ろすと、アレンの喉許に突きつけた剣を納めた。人間が知れるはずもない神の行いを、この男は理解できた。運命(ノルン)の女神のなかで最も神格の高いレナスを以ってしても、目の前にいる男の奥にあるものはうかがい知れない。人間であるのに、この男はすでに神の気配を覚えてしまっている。

 無言のままきびすを返すレナスに、アレンが問う。

 

「行くのか?」

 

 レナスは質問に答えず、ただ肩越しにアレンをふり返って言った。

 

「戦乙女の見定める死期は絶対だ。……次の妨害は、容赦しない」

 

「一つだけ」

 

 レナスが鮮やかな蒼の鎧から清廉な白い翼を広げて、空間に溶け消えるまえにアレンをふり返る。――自分でもどうしてふり返ったのか。

 レナスが首をかしげる間もなく、アレンが言った。

 

「あの方陣を作ったご夫人を。あなたなら助けられないか?」

 

 アレンが昼間に見つけた魔人の方陣。それを発見した場所がベリナスの妻の部屋だった。

 今日屋敷にきたばかりのアレンが、犯人をベリナスの【妻】と断定できたのは、あの魔人の方陣が、妻の部屋のクローゼットに刻まれていたためだ。

 阿沙加が着るにしては、あまりにも豪奢な服。

 ベリナスの母にしては、あまりにも若いデザイン。

 そしてなにより阿沙加とベリナスの関係を看破したアレンは、誰がなぜ、そのような方陣を組んだのか、大体の予想がついた。

 憎しみに駆られた妻が、すでに逝去していることも。

 レナスはアレンをふり返って、首を横にふった。

 

「魔人に贄として魂を捧げた人間は、魔人の一部として取り込まれる。消滅した魂を、私が救うことは出来ない」

 

「魔人が死んだその後でも、か?」

 

 問いかけるアレンに、レナスは一瞬、耳を疑った。

 

 人間が、魔人を?

 

 蟻が象に挑むような話だ。賢明であると思われた男が、しかし人間であるがゆえに無知だということを思い出して、レナスは失笑した。

 

「魔人に人間が挑むことは不可能だ」

 

「魔界にいるから、か?」

 

「そうだ」

 

 それもヴェリザともなれば魔人でも上級種だ。アース神族のレナスたちでさえ、まともに相手をすればどうなるか分からない魔界(ニブルヘイム)を、まさか人間に扱えるはずもない。

 彼は魔界(ニブルヘイム)に向かう術さえ、持っていないのだから。

 アレンは静かに視線を落として、それからもう一度、レナスを見上げた。

 

「……それで。最初の質問の答えはどうなんだ?」

 

 ――魔人を殺した後、解放される人間の魂を。

 

 そんな小さなものにこだわるアレンに、レナスは鼻で笑った。まるで話にならない。

 

「出来ないことを知っても、無駄なことだ。どの道、お前には関係ない」

 

「それは俺が考える。俺に出来る最大限のことを。……だから」

 

 言葉を切った人間は、恐れ多くも神であるレナスを真正面から視線で射抜いた。

 

「もしも俺が成功したときは――、ご夫人をよろしく頼む」

 

 人間の戯言にレナスはそれ以上答えず、夜闇に消えていった。

 

「……すまない」

 

 誰も居なくなった虚空に、アレンのつぶやきが洩れる。

 次に向かうのは、ベリナスの部屋だ。屋敷の主人が、そこで待っている気配がした。

 

 

 

「夜遅くにすまないな、アレン君」

 

「いえ。それで話というのは?」

 

 木製の丸テーブルを二人で囲み、ベリナスとアレンはテーブルに立てた蝋燭の火を見ていた。

 ベリナスの左手には、珍しく果実酒が握られている。酒の手を借りねば、とても寝付けない。この日はいろいろあり過ぎた。

 

「まずは君が捜していた二人組だが、やはりこの町にはいないようだ」

 

 アレンは予想していたのか「調べていただきありがとうございます」とすぐに礼を返してくる。

 ベリナスが果実酒を一口あおる。「私の話を聞いてくれるか」と問うと、アレンは黙ってうなずいた。ベリナスは礼を言い、胸のうちを打ち明けた。

 

「さきほど阿沙加を襲った魔物……。あれを放ったのはおそらく、妻なのだ。私はよき貴族、よき指導者であるために今日までを生きていたつもりだった。ひとびとの模範となるように自分の感情がどうにもならないときは、神の定めた【運命】だと受け入れ、事態を割り切るように努めてきたのだ。だが……、実際はっ」

 

 ベリナスの唇が震え、ベリナスは動揺を隠すように左手で顔を抑える。アレンが落ち着かせるように、ゆっくりと声をかけた。

 

「ご夫人も、つらいお立場だったと思います。貴族の女性が子を身ごもれない苦痛が、彼女を追い詰めてしまったのでしょう」

 

「違う! 話は、それだけではないのだ。私が、私が阿沙加を……、阿沙加を愛してしまったがために、私は妻を抱くこともできなかった……そのせいで妻は、追い詰められた。自殺ではなかったのだ。阿沙加を殺すために、自分の身を――」

 

 果実酒を入れたグラスを握る手が震える。アレンが気づかわしげにこちらを見ていた。

 

「ですがベリナスさんは阿沙加さんと、なにか関係をもったわけではないのでしょう?」

 

「当たり前だ! 神に誓って、妻の立場を(けが)すことはできない。だが私が感情を御せなかったばかりに、私を慕ってくれた妻があんなことに……」

 

 ――阿沙加が奴隷でなく貴族であったなら

 ――ベリナスが感情もなく、妻を抱ける冷徹さを持ち合わせていたのなら

 ――妻と【阿沙加は奴隷の倭人であるまえに、家族同然だ】という価値観を共有できたなら

 

 ジェラベルンに住む者たちが【当たり前】として甘受している常識が、最悪の形で噛み合った悲劇だった。ベリナスの苦悩は、ジェラベルンで正義とされているものを護り続けるかぎり決して晴れることはない。

 ゆえにアレンを、部屋に招き入れたのである。

 

「私の、私のせいで阿沙加は笑顔を曇らせ、妻も、マリアも、みなこの世を去った。信頼していた部下も父も戦争で……私はいったい、どうするべきだったのだ? アレン君、まだ年端もいかぬ君にこんなことを聞くのは間違っていると思う。だが私は君の料理を食べ、阿沙加の反応をみて、衝撃を受けた。決してまじりあうことがない二つの文化が、違和感なく溶け合っていた。君には、わけへだてがない。だから我々がどうすればいいのか、君ならば――」

 

「……社会として成り立ってしまっている価値観をひっくり返すことは容易ではありません。ましてラッセンは経済の根幹が奴隷市場。もしいまの状態で奴隷の立場をよくすれば、労働力を奴隷に任せきりだったこの国の支配層――つまりベリナスさんと同じ貴族たちからの反発は相当なものになるでしょうね」

 

 だからこそ、と続けたアレンが自分にも手渡されたグラスをからりと鳴らした。

 

「やりがいがあるとも言える」

 

 ベリナスがまたたく。

 

「ラッセンを……変えようというのか? 私ひとりのために」

 

「いいえ。ただ、あなたはラッセンの住人でありながら、私の連れ――ロジャーやルシオを歓迎してくれた。ひとと見た目が違うからと言って下に見なかった」

 

「客人をもてなすのは当然だろう」

 

 アレンが小さく笑う。

 

「あなたは優しい方です。見ず知らずの私のためにひとを捜してくれ、このラッセンの独立部隊の方々や民衆からも慕われている。経済破綻した本国と違い、商業都市として町を成り立たせている優秀な方。私は、ラッセンにいるひとびとがあなたのような視野をお持ちなら、今回のことは起こらなかったと確信しています。すなわち奴隷は【物】ではなく【ひと】として尊重できていれば」

 

「……そんなことは、ない。私は阿沙加を愛してしまっただけで、奴隷は奴隷と……見放している」

 

 答えながらもベリナスはうつむき、震える手を抑えた。思い出すのはこの青年と出会う寸前のこと、阿沙加が道端の花を摘んでいたときのこと。

 

 ――こうなることが、この花の運命だったんだ。

 ――ウンメイ……?

 ――そう。神によって定められた――

 

 悲しげな阿沙加の顔が浮かんで、ベリナスの胸が痛む。こんな想いは、ジェラベルン貴族にあるまじき邪念だ。わかっている。わかっているのに消しきれず、【運命】を持ち出して割り切るしかなかった。

 だが、

 

 運命?

 妻やマリアが死んだのも、運命というのか。

 父や 多くの仲間が戦死したのも、運命といえるのか?

 自分がいまここにいるのも、運命のたまものなのか?

 阿沙加と出会ったのも――!

 

 ベリナスの心が限界を告げている。大切な人を【大切だ】と言えない世情が、心を軋ませる。だからジェラベルンの常識に毒されていないアレンの言葉を聞きたかった。

 聞いたいまでも、生まれてからずっと【正しい】と言われてきたことを変えることに抵抗がある。

 ベリナスがもっとも、その正しさに苦しまされてきたというのに。

 アレンはベリナスの肩にそっと手を置いた。

 

「私も、生まれは田舎の地方領主家です。ですから幼いころから人の上に立ち、剣術を極めることは義務だった。周りに負けないために自分を殺し、弱音を殺し、つねに平静を保つよう努めてきました。けれどロジャーやルシオたちと出会って、私は救われた。自分のあるがままの感情を受け入れ、話してもかまわないのだと、ロジャーやルシオは教えてくれます。彼らの国には差別がない。種族間の違いは、彼らにとって尊敬すべき個性でしかないんです」

 

「個性……?」

 

「すごい国です。ロジャーとルシオだけでも祖にもつ種族は違うのに彼らは争わない。完璧に()み分けている。過去には彼らの国に攻め入ろうとした国もあったそうです。けれど彼らの国は互いの個性を生かして、侵略を退けた。だから多種多様な種族がいる彼らの国の隣都――交易の街、ペターニという隣国においても、ロジャーやルシオといった【亜人】は受け入れられている」

 

「そんな場所があるのか……」

 

 しみじみと驚くベリナスに、アレンはうなずいた。

 

「このラッセンが、ペターニのような街になるのは遠い未来かもしれません。あるいは、ないのかも。それでも違う種族を受け入れることは、決して不可能じゃない。ラッセンも変われるはずなんです。支配階級は強大な権力で、これまで正義とされてきた立場を失うことに強烈な反発を示すでしょう。しかし、あなたは、阿沙加を幸せにできる人です。きっと阿沙加だけでなく、多くのひとを」

 

「…………」

 

「戦いましょう」

 

 ベリナスの瞳に、力が帯びていく。アレンの言っていることが常識外れであることはベリナスも十分承知している。だが目の前の男の、迷いない視線はベリナスの心を動かす力を持っている。

 

「私は、阿沙加を愛してもいいのだろうか……」

 

 ベリナスの瞳が揺れる。アレンは正面から見返してきて言った。

 

「あなたはなにも間違っていない」

 

 

 

 

 夜が明けた早朝。旅支度を終えたアレンは、眠気眼のロジャーとルシオを連れて、ベリナスの屋敷の前に立っていた。

 

「もう行ってしまうのか?」

 

「ええ」

 

 見送りにきたベリナスに言われ、アレンがうなずくと、ベリナスが不満そうに眉根を寄せた。

 

「君は私と阿沙加の恩人だ。せめて礼をしてからでも……」

 

「方陣を解いたのは、一宿一飯の恩義です。気になさらないでください」

 

「しかし……!」

 

 物言いたげに口を噤むベリナスに、アレンは微笑(わら)いかけた。ベリナスの隣で、彼と一緒に見送りにきてくれた、阿沙加を一瞥(いちべつ)して。

 

「お幸せに。吉報をお待ちしています」

 

 アレンの言葉に、阿沙加とベリナスが顔を見合わせ、照れたようにうつむく。アレンがベリナスに手を差し伸べる。すると、ごしごしと目許をこすったルシオとロジャーも続いた。

 

「元気でな!」

 

「世話になったぜ」

 

 三人の、差し伸べられた手を見下ろして、ベリナスは大きくうなずいた。困ったことがあればこれに話しかけろ、と言われて持たされた謎の四角い箱が、ベリナスのズボンのポケットにある。

 アレンとルシオとロジャーと、これでは握手というより円陣のようだが、ベリナスは気にせずに彼等の手に、もう一方の自分の手も重ねた。

 

「ほら、阿沙加姉ちゃんも!」

 

 ロジャーに言われて、阿沙加が戸惑いながらも手を差し出す。五人の手が重なったところで、アレンが言った。

 

「次に会う、そのときは――」

 

 ベリナスを見やってアレンが微笑(わら)う。それに、こくりとうなずくベリナスが、後に続いた。

 

「私は誓いの言葉を、阿沙加と交わそう。例えいくらかかろうとも、ラッセンの市民に、私たちを認めさせてみせる」

 

 阿沙加がハッと目を見開く。アレンが言ってきた。

 

「御武運を」

 

「君も。君たちの旅に、幸運が待ち受けんことを」

 

 互いにうなずき合うと、円陣を組んでいたロジャーが張り切った声で叫んだ。

 

「がんばるぞー!」

 

「おー!」

 

 声をそろえた四人の 円陣が解ける。

 ベリナスは柄にもなく腹からの大声を出して、驚いた表情でこちらを見る阿沙加に笑いかけた。もう表に出ているというのに、その彼女の肩を抱く。

 

「ベリナス様……」

 

 阿沙加の涙ぐんだ声が、いまのベリナスの活力だった。

 

 

 そして――、

 

 

 ベリナスに彼女を選ぶ勇気を与えてくれた青年の背を、ベリナスは建物の影で見えなくなってからも、見送り続けた……。


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