ようやく暮葉が部屋に戻ってきたとき、フランは知らず安堵の息を漏らした。
「遅かったじゃない」
「いや、ごめん。ちょっといろいろあってね」
「……まあ、いいわ。それはなあに?」
フランは暮葉の抱える籠を指さした。白いタオルやらなんやらが入っているのが見える。
「私の服とかタオルとか。メイド長から話は聞いてたりする? 一緒にお風呂に入れって言われたんだけど」
初耳であった。
「そのお風呂っていうのは地下の方よね」
「そう」
紅魔館の地下には、フランの部屋のほかにもいくつか部屋がある。それは食糧庫やワインセラーだったり、あるいは浴場だったり。暮葉自身もそこの掃除を任されたことがあるので、場所自体はは知っていた。
ただ、そこはフラン専用と聞いていたし、暮葉は使ったことがない。
「急な話ね……でも丁度良かったわ。少し温まりたかったところなの」
「ああ、まあ、ここ寒いしね。地下だし」
そういう意味で寒いと言ったのではないが、それを追及するのも大人げないだろうとフランは口を噤んだ。良い主でありたいフランにとって、大人げない行動は最も避けたいことの一つである。
二人は浴場へ向かうことを決めた。道中──といっても浴場はフランの部屋のほぼ隣なのだが──暮葉が思い出したように尋ねた。
「そういえば、あれから私も吸血鬼について調べてみたんだ、図書館で」
「そ、そうなの?」
何でもないように取り繕ったものの、内心結構嬉しいフランである。
「で、気になったんだけど。吸血鬼って水が苦手らしいけど、お風呂とか入るんだね?」
「ああ、それはね。なんて言ったらいいかしら……そう、個体差があるのよ。お湯もダメみたいな吸血鬼もいれば、流水でも気にならない吸血鬼もいるの」
「フランは?」
「私は流れてなければ大丈夫」
暮葉はなるほどね、と頷いた。図書館で読んだのは吸血鬼が登場する物語で、その生態について詳しく書かれている本は見当たらなかったのだ。単に探し当てられなかっただけか、それとも常識すぎて置く必要が無かったか。
まあ人間も『人間は朝起きて夜寝る生き物です』なんて書かれた本を買うわけがないしな、と暮葉は一人納得した。
そんなことを考えながら、脱衣所の扉を開く。フラン専用なのに随分広い脱衣所だなと暮葉は思ったが、そもそもこの屋敷自体が相当広いので今更かと考え直した。持っていた籠を下ろし、自分もさっさと脱ぎ始める。
「……それ」
フランがそんな声を漏らしたのは、暮葉がメイド服の上を完全に脱ぎ去った時だ。
「その傷は」
「ああ、これは何時だったかな」
暮葉の体にはいくつもの傷跡があった。それらは暮葉が生活する中で気付かないうちに拵えたもの。大小様々なそれらの中で、フランが指さしたのは、
「随分前のはず。6歳くらいの時だと思う。好奇心に負けて、人里の外に出たことがあるんだ」
▽
大人たちはみんな『外に出てはいけない』と口酸っぱく言ってきた。痛い目に合うのだ、とも。幼い暮葉は、人里の外にきっと何かすごいものがあるのだと考えた。それがきっと、暮葉に痛みというものを教えてくれるのだと、信じて疑わなかった。
人目を盗んで里の端の森へ。薄暗い木々の間をずんずんと、怖いものなしに進んでいく。より暗い方へ、より昏い方へと歩いていくうち、木の陰からひょっこり少女が顔を出した。
「珍しいね、こんなところに一人で人間なんて」
「そうなの?」
暮葉の真っ黒な目や髪と違って、少女は金髪に真っ赤な目をしていた。暗がりの所為かややくすんで見えたが、それでも暮葉にとっては十二分に珍しい。
「あなたは妖怪?」
「そーなのだ。お母さんに教わらなかった? 妖怪は人間を食べるのよ」
「へぇ……」
暮葉の気の抜けた返答に、金髪の少女はむっとしたようだった。
「何その反応。もうちょっと怖がってくれないと、お腹にたまらないわ」
「お腹すいてるの?」
「そーなのだ。だから、ね、ね、ね……食べさせてぇ?」
言うが早いか、少女は暮葉を押し倒し、口を大きく開いた。顎が外れたように、いや、それ以上に開いていき──
▽
「やめて!」
涙目のフランを見て、暮葉は自分が余計なことをしたと悟った。話し過ぎるのは暮葉の悪い癖だった。暮葉の感性のズレが、日常会話に重い、或いは痛々しい話をぶち込んでしまう結果につながることが多々あった。
「それ以上は聞きたくない」
「……ごめん」
「もう二度と、貴女が傷つく話をしないで」
「……約束するよ」
それは、フランの心が痛むからだった。この痛みさえも、暮葉が分からないとしたら──。そんな考えを振り払い、フランは暮葉を浴場へと引っ張っていった。早急に温もりが必要な、そんな気分だった。
▽
「痛ぁ!」
水晶玉を覗き込むレミリアの後頭部を、パチュリーが本でぶっ叩いた。
「なにするんだ!」
「それはこっちのセリフよ。妹の入浴シーンまで覗き見るのは流石に悪趣味としか言えないわ」
「ぐっ……だがな、私の第六感が『目を離すな』と囁いてだな……」
パチュリーは憐みの目をレミリアに向けた。どうもレミリアの弁護は体のいい言い訳と取られたらしい。
「フランにバラすわよ。あんたの姉はとんでもない覗き魔だって」
「私が悪かった。この通りだ」
それを言われたらレミリアは抵抗できない。大人しく水晶玉をパチュリーに返した。
「……どうしよう親友、やることが無い」
「書類整理とか」
「終わらせてきた。いつもこの時間はフリーになるよう予定を詰めている」
はぁ。パチュリーは一つため息を吐いて、こう提案した。
「念話の魔法でも覚えてみたら?」
あーあ、目を離さなければ良かったのに。そうすればあの話の続きが分かったかもしれないのに、ね。
……えっ? あなたも続き、知りたいのかしら?
そうねぇ。まあ、特別よ?
▶◀
「すごいねぇ」
「……」
悍ましいほどに口を開いた少女を見て、しかし、暮葉は未だ能天気だった。これには少女も閉口した。
第一、妖怪というものは、恐れを食って生きるものだ。恐れを効率よく引き出す一手段として、少女は人間を食べているに過ぎない。
恐怖を感じない人間を食べるなど、スパイスをそのまま口にするようなものである。
まあ、それでも一応味は見ておこうと、少女は暮葉の脇腹に噛みつき、そこで反応が無いことに気が付いた。
「もしかして、痛くない?」
「うん」
なるほど、これが理由か。原始的な恐怖とは痛みである。原始的であるということはつまり、精神の未発達な幼子にも理解できるということに他ならない。
そういう意味でも人食は楽な手段だったのだが……まあ、意味ないのなら仕方ない。
「まあ、そうね。肉自体の味は悪くないし……ねえ、貴女、名前は?」
「くれはだよ」
「ふーん。今日のところは帰りなよ。案内してあげるから」
すると暮葉は不服そうな顔をした。
「大丈夫、痛いのもいずれ教えてあげるから。そうだなぁ──」
辺りを濃い闇が包む。
「死ぬのが怖い、そう貴女が思えるようになったら。その時こそ、貴女のことを食べに行ってあげる」
▶◀
今日のところはこれでおしまい。あなたの反応も面白そうだから、いつか別のシーンも見せてあげるわ。
また、いずれ、ね。