遊び疲れたことで後部座席ですやすやと寝息を立てているサクラを乗せて車は走る。
もうじき夕暮れを迎える空は徐々に昼間の明るさを失っていく。
「お嬢様たちも今頃は温泉を堪能していらっしゃるんですかね」
言葉とは裏腹に沙羅は後部座席に座ってサクラに膝枕をしながらご満悦の表情だった。
しかし、それどころではない事態が起きていることに気づいた鮫島は車の速度を下げた。
「これは、一体…」
辺り一面に広がり出した黒々とした霧。
これは普通ではないと確信した鮫島は車を脇に寄せて停止させる。
「なんでしょう。この黒い霧を見ていると寒気がしてきます…」
沙羅の全身に怖気が走る。
見たこともない黒い霧と突如感じた怖気に体が自然と震える。
それとサクラが眠りから起き上がったのは同時だった。
「…ジュエルシード、来た」
サクラが感じた気配は間違いなくジュエルシードだった。
だが、その規模が今までとは段違い。
願いの強さがジュエルシードの強さならば今回は間違いなく規格外と言えた。
黒々とした霧は時間が経てば経つほどその色を濃く、禍々しく変えていく。
「サクラ様、今回は危険です。一旦逃げたほうがいいと思われますが」
鮫島は一度ジュエルシードに関わった経験から今回は明らかに異常だと感じ取る。
どう見ても犬のモンスターの時の規模ではないのだ。
「…ん、でも車、出せない」
どちらにせよこの黒い霧の出ている間は間違いなく車を出せない。
下手をすれば交通事故を起こすかもしれないのだ。
他人の事故に巻き込まれるという可能性も有り得る。
「…問題はこの霧がなんなのかですね」
沙羅は黒い霧が一体なんなのかが分からなかった。
この霧を見た瞬間に生き物として感じた怖気と黒い霧との関連性。
霧自体が一つの存在なのかそれとも霧はなにかの副産物なのか。
「…調べてみないと、分からない…『シェルプロテクション』」
瞬間、訪れた変化は劇的だった。
サクラとしては癖としてなんの気なしに自分を含めた三人に掛けただけの『シェルプロテクション』。
その光の膜は徐々に車内に侵入していた黒い霧に触れると同時にそれを一瞬で霧散させた。
「…驚きました。サクラ様の魔法はこのようなものにも反応するのですね」
鮫島がそう言うとサクラは不思議そうに首を傾げる。
本来『シェルプロテクション』にそのような効果はない。
万能どころか毒霧に突っ込めばきちんと毒状態になるような代物だった。
ならば残った理由は一つしかない。
この霧はサクラの魔法が持つ、『聖属性』に弱いのだ。
「…この霧、瘴気……幽霊?」
強い願いに応えるジュエルシードとこの世に強い未練を残す幽霊。
それならば『聖属性』に極端に弱い理由も分かる。
「…まさか、幽霊なんてオカルトですよ、ね?」
沙羅は顔を真っ青にしてサクラが否定するのを待つ。
だが、当のサクラは平常通りに無表情のままだ。
「…ん、サクラは行ってくる」
サクラは座席から腰を上げるとドアを開いた。
開いたドアから瘴気が車中に侵入しては光の膜に浄化される。
「待ってください!置いていかないでください!」
「…多分、危ない」
「ここに置いて行かれるよりはマシです!」
いつ幽霊に襲われるか気を揉むよりはサクラに着いて行く方が安全だと判断した沙羅は半ば泣きそうだった。
「そうですね。私も着いて行くことにしましょう」
鮫島も車内で待機するよりはそちらの方が良いと判断した。
単純に二人が心配だったこともある。
如何にサクラが魔法使いだったとしてもやはり子供。
足手まといになると分かってはいても放っておけなかったのだ。
「ん、分かった」
車外に出ると同時に三人の耳に小さなノイズのような音が漏れ聞こえてくる。
ビクビクする沙羅を二人は引っ張っていきながらサクラと鮫島は周囲を探る。
「…あっち」
サクラはジュエルシードの気配を慎重に探り、歩を進めていく。
その方向に進めば進むほど周囲の瘴気は色濃くなっていく。
――な…で…う…して…
ノイズは次第に人間の声として聞こえ始める。
どこまでも悲しげな、悲嘆に暮れるような人間の声として。
――思いだせ…いよ…忘…ちゃ駄目なのに…
車道から完全に外れた小さな林の中、一つの小さな影が存在した。
少女に見える黒々とした影は頭を抱え、うずくまっていた。
只々人型を模しただけの影。
突如彼女は表情も、顔すらも存在しない顔をサクラたちへと向ける。
「ひっ…」
思わず沙羅はその場にペタンと膝を付いてしまった。
彼女から溢れだす黒い霧は生あるもの全てを拒絶するかのように周囲の木々を枯らしていた。
「…ねぇ、教えてよ。私はなんで…なにをっ!」
少女が腕を天に掲げると黒い霧が集合するかのように寄り集まり、質量を持つ。
黒の霧はいつしか漆黒の巨大な槍へと姿を変える。
「…鮫島。沙羅、守って」
「…承りました」
その光景はサクラからしてみても想像以上だった。
何もかもが段違い。のっぺらぼうの少女は腕をサクラへと振り下ろす。
それに呼応するように巨大な槍の矛先はサクラに向けて放たれた。
「『マジックシールド』」
サクラが竹刀袋から杖を取り出し槍へと照準を向けると、半透明な騎士盾が槍の軌道を阻むように現れる。
その一撃は盾によって受け止められるが、第二、第三の槍が盾へと突き刺さる。
「…『フェアリーブレス』『フォーカス』『サモンユニコーン』」
四発目の槍が盾を砕くのとサクラがありったけの補助魔法を唱え終えるのは同時だった。
ユニコーンは平常通りに鮫島と沙羅を守る為に二人の元へと駆け出す。
「分からないよ…嫌だよ。でもなにが嫌だったのか分からないんだよ!」
砕けた盾の向こう側に見えたのはこれまでのものとは全く大きさの違う巨大な漆黒の槍。
大木一本ほどあるであろう黒槍がサクラへと向けられる。
「…『セイントギア』」
幾多の歯車が無数に重なり、先程とは厚みの全く違う即席のラウンドシールドが出来上がる。
十枚ほどの歯車のうち、七枚の歯車が槍に次々に貫かれ、九枚に差し掛かった所で黒槍は消滅する。
しかし、影の少女の周囲に集まる瘴気は際限なく濃くなっていく。
「誰かがおかしくなって、私もおかしくなって…あの子は…私は…?」
少女の嘆きは渦巻く瘴気となって刃のように周囲を切り刻む。
樹木に、大地に、黒々とした斬撃が奔る。
「…あの子?」
「全部私のせいだった筈なのに覚えてないんだよ。少しずつ、少しずつ削れていくの。ここに私が居るのにもなにか意味があるのかもしれないのに…」
のっぺらぼうの顔から透明な雫が零れ落ちていく。
「…ここに居る、意味」
その言葉はサクラの中のなにかを揺り動かした。
人ですらなかったサクラが存在する意味。
これまで誰かが動かしていたであろう『キャラクターネーム:サクラ』ではないサクラ。
少なくともサクラはアリサが、すずかが、鮫島が、沙羅たち使用人が好きだった。
サクラは良くも悪くも単純だ。
分からないなら探す。見つからないならもう一回探す。
「…ん、サクラも手伝う」
「…駄目だよ。私はもう止まれない。只々穢れを撒き散らすだけの存在になっちゃったもん。ほら、真っ黒でしょ?」
ジュエルシードに狂気を増幅させられた彼女は立ち止まれない。
摩耗しきった魂は破壊を振りまいて消滅するだけだと語る少女。
その間もサクラへの攻撃の手は緩めない。
遂には少女が巨大な黒槍の裏に忍ばせた小サイズの黒槍が光の膜ごとサクラを貫いた。
腹部から背中までを貫いた槍は瘴気でサクラの体内を蹂躙しながら消え去る。
「サクラ!」
「ぁぅ…」
『シェルプロテクション』が破られたことに焦る沙羅とそれを制止するユニコーン。
ユニコーンは冷静だった。なぜならユニコーンの主人は一撃で殺されない限り、それは負けではないからだ。
「けふっ!『ヒール』『ディスペル』」
血を吐き、足を震えさせながら辛うじて立っていたサクラの腹部の巨大な穴が消えていく。
『ディスペル』の解呪効果により、瘴気の侵食も同時に止まる。
だが、足元の血溜まりもサクラが感じた激痛も本物であり、それは紛れもなくサクラの命の残量を減らしていた。
「…丈夫なんだね」
間違いなく殺したと思った相手の傷が一瞬で消え去ったことに驚く影の少女。
「…ん、約束したから」
アリサと死なないという約束をしたサクラはなにがあっても死ぬ訳にはいかなかった。
『なにをしてでも』死なない約束をした。だが、今回は派手にスキルは使えない事情があった。
少女を完全に消し飛ばしてしまう訳にはいかないのだ。
サクラは杖を腰だめに構えて走りだした。
「こっちに来ないでっ!」
「『シェルプロテクション』」
上空から無数の黒槍がサクラを目掛けて襲いかかる。
サクラはそれを避けようとするが、右肩に飛んできた一本は膜が弾いたが左足へと向かった黒槍が防ぎきれず、浅く突き刺さる。
「『フライング』」
動かなくなった左足の代わりにサクラは光の翼で低空を駆ける。
少女の眼前で突如空に舞い上がった際に彼女の顔に左足から流れ出したサクラの血がぱたぱたと降りかかった。
「ッ!『ライトアロー』」
痛みに顔を歪ませながらもサクラは空中から杖を少女へと向ける。
そこから放たれたのは浄化の矢。
小さな柱のようなサイズのそれは寸分違わず少女へと飛翔し、貫いた。
少女を呑み込んだ光の柱は時折脈動し、彼女の漏らす呻き声と共に彼穢れを消し去っていく。
「あーあ、負けちゃったね」
仰向けに倒れ伏している少女の姿は既に影ではなかった。
金色の髪の少女は穏やかな表情でいつの間にか貫かれた足を治して無表情で佇んでいるサクラを見やる。
「…ん、勝った」
サクラは空気を読まなかった。
満足そうに腰に手を当ててアリサの真似をする。
若干気分が高揚しているようだ。
「…ふふっ、ありがとう、私を止めてくれて。でもこれでお別れ、だね」
少女の言葉にサクラは答えない。
「なんで?」といいたげな表情を向けるだけだ。
その姿がおかしくて少女は小さく笑う。
「ほら、見て。体がほどけていくみたい」
彼女が空に腕をかざすと腕の輪郭が徐々にぼんやりとしていく。
只でさえ消えかけだった少女は既にジュエルシードを失った。
足元で転がるジュエルシードは消えかけの彼女に力を貸さない。
「…忘れてること、探さない?」
「この体じゃもう無理かなぁ…」
少女は力なく笑う。
後数分もすればこの体、霊体は消え去ってしまうのだろうと少女は確信していた。
それでも破壊を撒き散らす悪霊として消え去るのではないことだけは少女にとって救いだった。
「…消えなかったら、探す?」
「うん。やらなくちゃいけないこと、あった気がするんだ」
しかしそれが叶わない願いであることは少女自身が分かっていた。
「…ん、サクラと『コントラクトパートナー』になれば消えない」
「…え?」
意味が分からなかった。
まだ自分は消えなくていいのか。果たしてそんな都合の良い話があるのだろうかと。
思わずそう疑ってしまう。
「本当に、私はまだ消えなくていいの?」
「ん!」
サクラは珍しく自信有り気に頷く。
『コントラクトパートナー』。
ゲームによって『テイミング』等様々な呼び方で呼ばれるシステム。
弱らせた一部のモンスターに対して使用可能であったそれはサクラにも当然存在した。
ゲーム内ではレアなスキル持ちのパートナーを手に入れる為にハムスターのようにそれを繰り返した廃人も居た程だ。
「私はまだ、諦めたくない。悪魔でもなんでもいいから縋りたい!」
「サクラ、悪魔…」
「ご、ごめんなさい、例えだから!」
突然の悪魔扱いに泣きそうな顔になるサクラとそれを必死に宥める少女。
先程まで戦っていたとは思えないような空気が漂っていた。
「……コントラクト、する」
どこまでもテンションの下がりきったサクラが呟く。
「えと、お願い、します?」
奇妙な空気の中、サクラは掌を少女へと向ける。
それを少し離れた場所で鮫島と沙羅が微妙な表情で見守っている。
「『コントラクト』」
眩い光が少女を包み、一瞬の後に少女は消え去る。
そして、代わりにその場にパサリと一枚のカードが落ちる。
材質不明のカードには可愛らしくデフォルメされた先程の少女の姿が描かれていた。
『コントラクトカード』と呼ばれるそれはコントラクトパートナーを召喚する為のアイテム。
サクラはそれを拾い上げると裏返す。
裏面はビッシリと文字で埋めつくされていた。
【名前】 ※※シア※※
【種族】 精霊
【詳細説明】
苦悩し、そしてなにかを探し求めた元幽霊の少女。
時と共に徐々に魂が摩耗したことで名前と記憶の一部を失っている。
一度祓われたことによって契約の際に精霊として分類された。
【コントラクトスキル】
〈精霊憑依〉
対象に憑依することが出来る。
憑依中は常にMPを消費する。
〈下位スキル共有〉
契約者の下位のスキルが使用可能。
効果は使用者のステータスに依存する。
「……シア?」
それに目を通したサクラが固まる。
サクラの契約した幽霊少女はいつの間にか精霊少女になっている上に名前も含めてあらゆる意味でバグっていた。