一泊二日の温泉旅行も既に終わりが近づいていた。
自らの荷物を既に纏め終え、バッグに詰めたなのはの兄、高町恭也は一つ息を吐いた。
「それにしても、今回の旅行は中々落ち着けたな」
自動販売機で購入した缶珈琲を掌で弄びながら恭也が独り言を漏らすと、ふと視線を感じた。
不思議に思い、視線を辿ってみると床にぺたんと腰掛けたサクラが恭也の手元へと熱い視線を向けている。
「…それにしても、サクラが背中に担いでいるのは…竹刀か?」
その視線は自然とサクラが背負っている竹刀袋へと向かう。
中に収められているのがまさか魔法使いの杖などという発想は当然存在しない。
「なるほど。確かに俺にも覚えがあるな。買って貰ったばかりの道具を大事にする余り、手元から全く離さないというやつか」
恭也は静かに頷いた。
自然とその表情は柔らかなものへと変わっていた。
恭也はなのは辺りから自分が御神の剣士であることを聞いたのかもしれないと当たりを付けた。
しかし、サクラの所作からは武道を収めた人間特有の癖が一切感じられない。
年齢から考えてもまだまだ初心者の域を抜け出さないのだと判断した。
体つきも剣を振ってきた者のソレではない。
恭也は無言でサクラの居る方向へと歩みを進めた。
「…恭也?」
サクラは腰を曲げて真面目な表情をしながら視線を合わせてきた恭也の姿に首を傾げる。
「……サクラと稽古する場面を想像すると傍目からは児童虐待にしか見えない。それにもう少しサクラの体が完成してからだな」
少なくとも知り合いだけには絶対に見られたくないような光景になるであろうことを恭也は確信した。
そのまま恭也は腕を伸ばし、くしゃくしゃとサクラの頭を撫でる。
「…んっ」
くすぐったそうにサクラは目を細める。
硬い掌がサクラの頭上から離れた時にはその代わりにサクラの頭には缶珈琲が乗せられていた。
缶珈琲を頭の上から落とさないようにサクラの体がゆらゆらと揺れる。
「またな」
水族館のイルカのショーのように頭上に缶珈琲を乗せたまま揺れるサクラを暫く眺めた恭也は少し意地の悪い笑みを浮かべ、その場から立ち去って行った。
「アンタ、珈琲は苦手じゃなかったの?」
アリサは缶珈琲と睨めっこをしているサクラを見て、疑問に思う。
基本的に子供舌のサクラは苦いものや酸っぱいものが苦手の筈だった。
「…ん、恭也がくれた」
そもそもサクラはこの缶の開け方を恭也を眺めながら理解しようとしていただけなのだ。
今か今かと恭也が缶珈琲を開けるのを待ちわびていたのになぜか手渡されてしまった。
そもそも筋力が初期値のサクラは武道どころか動体視力や力が輪を掛けて低い。
下手をすればスキルによるドーピング抜きでは犬の散歩すら満足にこなせない程の貧弱っぷりだ。
恐らくこの真実を知れば恭也は恥ずかしさで心に深い傷を負うだろう。
「でも、サクラには開け方が分からない。やっぱりサクラ、駄目駄目」
サクラの声音は悲壮に満ちていた。
屋敷内では基本的に缶の飲料を飲む人間は居ない故に当然サクラも手にとったことすらない。
「…そうね。缶ジュースで回復するゲームなんてないものね。こう、プルタブ…じゃなくて上の出っ張りを引っ張るのよ」
一瞬、飲料会社とのタイアップがあればと考えてアリサはその考えを頭の中から追い出した。
アリサは着々とサクラの思考に毒されていた。
カツンカツンとプルタブに指先を掛けては失敗を繰り返すサクラ。
プルタブと格闘を繰り広げるサクラを眺めながらアリサは頷く。
「このなんとも言えない駄目な子な感じがサクラよね」
所々突き抜けているが基本的に残念なのがサクラなのだとアリサは再確認する。
もう少しサクラがマトモな性格だったのならむしろ警戒していたかもしれないと一瞬考えて、それどころかしっかりしているサクラが想像出来なくて諦めた。
「…サクラはとても頑張った」
ポンと軽い音を立ててスチール缶の底が机を叩く。
そのプルタブは未だに微動だにせずその存在を主張していた。
「スチール缶に負けてるんじゃないわよ」
ジュエルシードの化け物には勝てても缶珈琲にはサクラは勝てなかった。
「…爪が、サクラの爪が届かない」
爪の綺麗に切りそろえられた指先は若干赤くなっており、サクラなりの戦いの痕跡が見て取れた。
流石に可哀想になってきたアリサは諦観の念と共に缶珈琲のプルタブを開け、サクラに差し出す。
「…アリサ、力持ち」
「……こんなことで尊敬の眼差しを向けられるとむしろ恥ずかしくなってくるんだけど」
アリサがサクラの眼差しから逃れるように目を逸らす。
すると、沙羅がその手に怪しげな物体を握ってそろりそろりとサクラへと近づいてくるのが目に映った。
そのまま沙羅はサクラの背後へと付くと握っていた物体をサクラの頭へと取り付けた。
そのやり遂げた職人のような表情を顔に貼り付けたまま、沙羅はアリサの隣へと並ぶ。
「なんで猫耳なんてものをここに持って来てるのよ!」
サクラの頭から生えているもの、それは紛れもなく猫耳だった。
若干タレ気味かつ、サクラの髪と同じ桃色の猫耳からは沙羅の無駄なこだわりを感じた。
「メイドの嗜みです。他にも犬耳、狐耳、狸耳と各種取り揃えてございますよ」
そんなことを嗜むメイドがどこに居るというのか。
やけに荷物が多いと思ったらこんなものが入っていたのかと嘆息するアリサ。
「…清水、メイドの嗜みって言っておけばとりあえずなんとかなると思ってるんじゃない?」
沙羅はニコニコと上機嫌に笑みを浮かべるだけで答えない。
アリサでなくともこれが沙羅の趣味であるだろうことは簡単に理解出来た。
「んぅ?」
サクラは頭上に寄せられる二人の視線に気づき、掌でぺたぺたと猫耳に触れた。
「あー!サクラ、猫耳は取っちゃ駄目だよ!」
とりあえず頭に付いているものの正体を確かめようとするサクラを制する声が響く。
その声の主は両手一杯に怪しげな獣耳カチューシャを大量に抱えたシアだった。
「沙羅さん。カチューシャ全部持ってきたよ?」
「ありがとうございます。やはりシアは出来る精霊ですね」
「そうかなー、えっへっへー」
沙羅に褒められて照れ笑いを浮かべるシア。
いつの間にやら仲良くなった上に完全にシアの扱いを心得ているメイドの姿にアリサは驚愕した。
どこにそんな時間があったというのか。
「古今東西、使い魔といえば小動物や犬猫…ならばそれを自称するサクラも倣うべきかと思いまして」
すまし顔で語る沙羅はその心の奥底に宿る欲望を一切出さない。
それ故に沙羅の質の悪さは加速し続けていた。
「…ん、サクラはアリサの猫。にゃーにゃー?」
きょとんとしながらも両手を軽く握り、胸の辺りで垂らして小さく鳴き真似をするサクラ。
その仕草にアリサの理性を司るなにかはガリガリと順調に削り取られていく。
「アリサ、アリサ!犬にする?猫にする?それとも…き・つ・ね?」
物凄く良い笑顔をしたシアが両手一杯に、ある意味兵器と成り得る代物を抱えながらアリサへと尋ねる。
しかし、アリサは抱えた大量のカチューシャを差し出しながら颯爽とボケるシアを無慈悲にもスルーした。
そしてアリサは半ば無意識にそのうちの一つへと手を伸ばした。
そう、伸ばしてしまったのだ。
この日から、アリサは時折サクラの頭上に桃色の犬耳を、そしてサクラが喜んでいる時にはパタパタと揺れる犬の尻尾の幻を見るようになる。
アリサの犬好きは伊達ではなかった。