朝独特の喧騒。それは平時と変わらずにアリサを出迎える。
会話を交わし、時折笑い声を漏らす少年少女たちを横目にアリサは自らの席へと赴く。
椅子に腰掛けたアリサは溜息を吐きながら無造作に机の上に教材を並べていく。
その目に映ったのは一冊のノート。
それを暫く眺め、ソレが半ば落書き帳と化してしまったことを思い出し、少しげんなりとする。
真面目に授業をしてくれる教師には悪いが、授業内容は今更そんなことをやられてもという内容ばかり。
授業は目新しいものは特になく、日々アリサは退屈を弄ぶだけ。
だからといってアリサは勉強だけが学校だという偏屈な考えを持っている訳ではない。
所謂大人の立場に立てる子供であるが故に特に反抗意識もない。
それらのことを理解出来る思考能力と存在してしかるべき子供としての意識。
相反する要素を兼ね備えたどこかアンバランスな少女こそがアリサ・バニングスである。
結果としてクラス内では「取っ付きにくい女の子」。そんな評価が付けられてしまうのも致し方ないことだった。
ふと、視線を少し離れた席へと向ける。
それと同時にアリサの視界へと二人のクラスメイトの姿が映る。
低身長で長い髪をポニーテールにした少女。そして、それより少し身長の大きな、髪をミディアム程度まで伸ばした少女。
所謂お喋りが好きな生徒の部類に入る二人はアリサの視線に気づくことなく会話を続けていた。
特に興味はなかったのだが、頬杖を突きながらなんとなくにアリサはその会話に耳を傾ける
―――海鳴には天使様が住んでいるらしい
一般的には都市伝説と呼ばれる呼ばれる類の噂話。
海鳴には無数の化け物が存在しており、それを狩る天使様が存在している。
その天使様は一対の翼を駆り、人々を陰ながら守護しているらしい。
本来ならば「そんな馬鹿な」このような一言で片付けられてしまうような代物。
時の流れと共にいずれは忘れられ、風化してしまうような、そんなお話だ。
しかし、二人の話の流れは段々とおかしな方向へと向かい始める。
曰く、天使様は車椅子を両手で必死に掴みながらよろよろと低空飛行していたらしい。
曰く、天使様の通った後に残っていた不思議な光を浴びたらなぜかおじいちゃんのボケが治ったらしい。
曰く、化け物を倒した天使様におばあちゃんが畑の大根をお供えしたら少しの間姿を消し、その後になぜかショートケーキをくれたらしい。
曰く、漁船が沖合で翼を羽ばたかせながら釣り糸を垂らしている天使様を発見。ちなみに大漁だったようでとりあえず海神様か何かだと思ってお神酒代わりに日本酒を撒いたらしい。
なんというか、酷い与太話の上に内容が非情に俗なのだ。
それでも、どこか引っ掛かるものを感じる。どこかで似たようなものを見たような、聞いたような。
全く覚えのない内容も混ざっていたのでアリサはスルーに徹しようとした。
「後ね、天使様って髪の毛も含めて全身桃色で子供の姿をしているんだって!」
その発言に顔を載せていた腕が机からズレてアリサは顔面を机に強打した。
唸り声を上げながら悶絶するアリサ。
どう考えてもサクラだった。というか天使なんだか海神なんだかハッキリして欲しい。
しかもその釣果がアリサの胃に収まっている可能性が非常に高い。
というか車椅子って一体なんなのだ。サクラの行動はもはやアリサの理解の外に存在していた。
その時だった。パンパンと手を叩く音と共にクラス内の喧騒が止む。
「はい。皆さん、席に着いて下さい。出席を取りますよ」
現れたのはアリサ、すずか、なのはたちのクラスの担任。
彼女は教師らしいカリスマを発揮し、あっという間にクラス中に散っていた生徒たちを席へと着かせる。
無事にクラスを治めることに成功した彼女は僅かに頬を緩め、その口を再び開いた。
「――その前に、今日は転入生が居ます」
その一言によってクラス内がにわかにざわめき出す。
この程度ならばと判断したのだろう。注意することもなく担任はその様子を静観に徹する。
アリサからしてもその転入生という単語は僅かに興味を惹かれるものだった。
私立聖祥大学付属小学校は中学、高校、大学とエスカレーター式に続く学校。
それ故に度を超える程駄目ならともかく基本的には身内には割と甘く、外には厳しい。
つまり、転入試験もそれなりの難易度が課せられる代物になるのだ。
もしかすれば、トップクラスの学力を有するアリサの立場を揺るがすかもしれない人物だ。
「は、はい!男の子ですか?それとも女の子ですか?」
噂話に興じていたポニーテールの少女は大きく声を張り上げて教師へと質問を飛ばす。
「そうですね……男の子ですかね。多分、恐らく」
いまいちハッキリしない教師の態度に誰もが大なり小なり首を傾げる。
その反応にアリサは微妙に不穏なものを感じた。
コホンと咳払いした後に、教師は転入生の苗字を呼んだ。
―――鮫島さん、と
アリサの嫌な予感は不幸にも的中してしまう。
扉を開いて現れたのは鮮やかな桜色。肩まで中途半端に伸びた柔らかそうな髪。
明らかにワンサイズ、いや、ツーサイズほど大きなサイズの合っていないぶかぶかの男子制服。
確かにその人物は普段から元から持っていたローブ、そしてメイド服など、丈の大きなものを好んで着ていた。
恐らくワザと大きなものを選んで発注したのだろう。
迷いなき足取りで教卓の前に辿り着くと、桜色は穏やかそうなその微妙に垂れた目元を僅かに細め、嬉しくて堪らないというように微笑んだ。
「……サクラは鮫島サクラ。仲良くしてくれると、とても嬉しい」
独特の喋り、そして不可思議な雰囲気を漂わせるサクラへと男子女子問わず、クラス中の視線が集まる。
誰しもが先程の喧騒を忘れ、言葉を失っていた。
早くもクラスの空気を掌握したサクラを余所に、アリサは真っ先に机に突っ伏し、頭を抱えた。
一体どうなっているというのだ。確かに膨大なそのINT値を全て記憶力に振ってしまったようなサクラなら転入試験は容易いだろう。
だが、問題は苗字として名乗った「鮫島」だ。
要するにアリサは鮫島にしてやられたのだ。
アリサがもたもたしている間に養子なりなんなりの形を以って、先を越されていたのだ。
しかし、それでも心の何処かに冷静なアリサが居て、分かってしまうのだ。
サクラに与えるには、バニングスの姓は余りにも重い。
同じように鮫島がしたであろう養子という形にすれば様々な厄介事にサクラを巻き込むことになる。
「……でも実際は間違いなく私情よね」
情が沸く、等というレベルではない鮫島の入れ込みようからするとそうは思えない。
あんにゃろうという気持ちが沸々と湧いてくるが今は隅に置いておくことにする。
「え、と。もう少し自己紹介が欲しいかな。例えば、そう!好きなものとか!」
酷く簡潔なサクラの自己紹介に困った教師はサクラへと懇願に似た視線を送る。
その目を真っ直ぐに見上げていたサクラは少しだけ考えこむように目を閉じ、数秒の後、僅かにその目を見開いた。
「…サクラが好きなのはアリサ。後、サクラはアリサの使い魔……間違えた。飼われてるから、ん。多分、ペット」
転入早々に口を滑らせたばかりか、サクラはとんでもない爆弾を投下した。
サクラへと向かっていた視線が全てアリサへと集まる。
驚愕、諦観、羨望。それを向けるクラスメイトは性別問わず、そして、様々な感情を孕んだそれをアリサは機敏に感じ取った。
しかし、驚愕はまだ分かる。諦観はどういうことなのだ。
とりあえず羨望の眼差しを向けた男子と女子の名前は一瞬でアリサは自らの脳内に刻み込んだ。
人を見た目だけで判断するアンタらにサクラはやらんと一瞬でアリサは駄リサと化した。
特に男子。可愛ければそれでいいのか。正義なのか。そんなものを認める訳にはいかないのだ。
「天使様を拾って、飼って……バニングスさん好みに調教?」
沈黙が教室を包む中、先程のお喋り二人の片割れ、ポニーテールの少女がポツリと呟きを漏らしたのをアリサは聞き逃さなかった。
恐らく桃色の髪と結びつけただけでなんの確証もないのだろう。
だが、間違いなく桃色なのは彼女の脳内だった。
それでもアリサはその呟きに大いに動揺せざるを得ない。
違うのだ。アリサ好みに調教した覚えなどない。もし、万が一、億が一、結果的にそうなってしまってもそれは仕方ない。
先程から新たな環境に喜んでいるのか瞳を輝かせているサクラの後ろに陽炎のように揺らめく桃色の尻尾が見え始めていてもこれは無罪なのだ。
駄リサ思考は斜め上の方向へと走り出して止まらない。
結果としてアリサは感情の赴くままに椅子から立ち上がり、その声を張り上げることになる。
「か、飼っているのはともかくそれ以外は事実無根の冤罪よっ!」
少なくとも飼っていることは事実なので冤罪もなにもあったものではない。
様々な感情を吐露していたクラス中の視線が途端にシラッとしたものへと変わったのがアリサには辛かった。
結果としてこの奇行により、クラスメイトたちがアリサに感じていた付き合いづらさが薄れ、この日から会話が少しずつ増えることになる。
そのことを今のアリサはまだ、知らない。
作者のミスタイプから産まれた駄リサという単語