薄っすらと赤く染まる頬。涙の雫が目の端に溜まり、潤んだ黒曜石のような黒い瞳。
冬の風が入り混じり、その桜色の髪を上下左右、悪戯をするように揺らす。
髪が目に入り込んだのが僅かに顔を顰め、乱暴にこしこしと目元を擦り見上げる。
その仕草は期せずして彼女の身長からは桜色の主が上目遣いで覗きこむような形となる。
自らの赤い頬にぺたりと掌を這わせ、僅かに首を傾げた。
まるで此処に新たな出会いが紡がれたことを祝福するように再び風は吹く。
ローブが巻き上がるように浮き上がり、木枯らしの中を揺蕩う。
ぱさり。
舞い踊るローブの袖や裾がひとまずの休息を得て、その動きを止めた。
涙の滲んだ瞳をローブの袖で払うように拭う。
彼女の、ロッテの心臓が跳ねる。
痛いほどにその鼓動を伝えてくる心臓。
その雫で僅かに濡れた袖の隙間から見えたのは縋るような、だがどこか不満そうな顔。
「――ってなんでよ!」
ロッテは叫んだ。
確かに思う存分抓ったせいでサクラの頬は赤い。
間違いなく目の端に浮かぶ涙もロッテのせいだ。
それに加えて、涙が出れば拭うということにも不思議はない。
だがしかし。
それがなぜ、アドベンチャーゲームの一シーンのようになるのか。
一人やり場のないツッコミの業務に励むロッテ。
「痛かった」
当然サクラには訳が分かるはずもない。
むすっと若干の不満を表情に浮かべて不況を露わにする。
「えっ。いや、その……」
ロッテでも一目見て分かるほどの不機嫌。
斬りかかられたのはセーフで抓るのはアウトだったのだろうか。
基準がいまいち分からないが、価値観はひとそれぞれということでひとまず納得しておく。
「ごめんなさい」
「ん」
どうやら許しを得たらしいとロッテは安堵する。
些か軽すぎるのではないかと思わないでもないが、同時にサクラの表情が無表情に戻り、余計に感情が読めなくなる。
そして、その視線は徐々に上に、上に。
ロッテの頭上へと向かう。
そこで完全に固定された視線。ロッテはむず痒い、なんとも言えない感覚に襲われた。
サクラは視線の先、屹立する一対の猫耳に手を伸ばす。
だが、その手が届くことはない。当然のように両者の間には険しい身長の壁がそびえ立っていた。
「……おすわり」
「なんか勘違いしてない?私一応アンタが好き勝手してた猫なんだけど」
「……サクラは猫耳より、猫のほうが、好き」
その言葉にロッテの脳天に雷撃のような衝撃が走った。
おかしい。普通はこちらの姿を晒せばもうちょっと、こう、前向きな反応が貰えるはずだ。
だが、猫の方が好き。
この一言でロッテの女性として積み上げてきたアイデンティティーがガラガラと音を立てて砕ける音が聞こえた。
よく分からないがロッテ自信の想像を超えたダメージを被ったロッテはその場に膝を着いて崩れ落ちる。
ロッテがその場で膝を着き、頭の位置が降りてくるのに合わせてサクラはその猫耳に手を伸ばす。
サクラはぺたぺたと興味深いと言わんばかりにそれに触れる。
時折ぴくぴくと反応を示す猫耳。そして、サクラは感想を呟いた。
「……本物。イヌミミ三号より、凄い」
「なぜに犬耳と比べられてるの」
未だ立ち直れないロッテが思わず声を漏らす。
というか三号ってなんだ。一号と二号はどうした。
「……ん、イヌミミ三号は脳波で動く。アリサがくれた。とても、はいてく」
そのアリサとやらは駄目な人かもしれない。
ロッテは偶然にもはやてと同様の感想を抱いた。
一号はただの桃色タレ気味の犬耳。二号は三号と同様の性能だが、若干重いことがネックであった。
三号はその弱点を改良した果てしなく無駄なオーダーメイド製の犬耳である。
余談だが、犬耳に並々ならぬ情熱を燃やすアリサの様子には流石の沙羅も若干引いていた。
◇
「……ハハハ、我ら全員で幼子に襲い掛かりあげくの果てに真っ先に倒され無様を晒すか」
光の失われた瞳で彼方へと視線を向けて黄昏れる一人の男。
虚空へと消え去っていく自嘲の声。
言葉と共にその体は光を纏い、みるみるうちに縮小され、歪み、その姿を変える。
年端も行かないであろう幼子に襲い掛かり、見事に返り討ち。
砕けた拳を包み込むように触れられただけで尋常でない醜態を晒した。
得るものは特になにもなかったのに失ったものは余りに大きかった。
現代風に言えば小学生に喧嘩で負けて泣かされた高校生のような言葉にするのも躊躇われるような虚しさがあった。
体は傷どころかむしろ快調なほど万全だが、ザフィーラの心には深すぎる傷跡が刻まれている。
光が止んだ先では、小型犬程のサイズまで変じてみせた小さき狼が四肢で大地を踏みしめていた。
「―――もはや既に守護獣を名乗る資格などない。ザフィーラという名も捨てよう。気軽に『ざっふぃー』と呼んでくれ」
きゃるんとしたつぶらな瞳の小さな狼は渋い声で可愛らしい愛称を提案した。
端的に言えばザフィーラはぶっ壊れていた。
非常に残念ながら彼には暴走していた間の記憶が消えるなどというご都合主義が機能しなかったのだ。
しかし、そのことを恨んでいても仕方がない。
そして、ザフィーラの暴走と迷走を繰り返す思考はとある答えを導き出したのだ。
【検閲】顔を仲間に晒した騎士は既に死んだ。
此処に居るのは新たな騎士であり、愛玩動物『ざっふぃー』である、と。
それは心の防衛機能。此処に居るのは『ざっふぃー』であり、『ザフィーラ』ではない。
余りに酷すぎる現実からザフィーラはダイナミックに逃避していた。
そして、衝撃の余りとんでもない着地点を見出してしまったのだ。
その眼前では、全ての元凶、サクラが微睡むような瞳をザフィーラへと一直線に向けていた。
無意識にザフィーラの体がぶるりと震える。
――だが、これ以上の無様を晒す訳には行かない。
砕かれたはずのプライドの欠片が集い、ザフィーラを辛うじてこの場に留めていた。
「……ざっふぃー、もふもふ」
膝を曲げ、その場に屈みながらその毛並みに手を伸ばし、ぽやぽやと微笑むサクラ。
一瞬ビクッと挙動不審な反応を示す。だが、目の死んでいるザフィーラはサクラに大人しく撫でられている。
幾度も、幾度も。手櫛が背筋から毛並みを溶かすように滑る。
暫くの間、そうしていたサクラの手が離れると同時にザフィーラは息を吐く。
サクラに危害を加える気がないと察したザフィーラはなんとも言えない表情のシャマルへと初めて目を向けた。
「――シャマルよ。気づいているか。我らと書を繋いでいたものが失われている。つまりは我々は既に主の守護騎士ではあるが書の守護騎士ではないのだ」
守護獣を名乗りはしないが騎士であることを辞めることはない。
言外にそうザフィーラが意思を固めたのではないかとシャマルはその確固たる意思を読み取った。
ザフィーラはなんにせよ、乗り越えて見せたのだ。
現実からダイナミックに逃避こそしてしまった。
そして、『ザフィーラ』から『ざっふぃー』へと彼は身をやつしてしまった。
だがそれでも彼は、いや、彼の中に在る騎士足る挟持は死んではいない。
力強く燃え上がる騎士としての信念は未だその熱を失ってはいない。
シャマルの胸に熱いものがこみ上げてくる。
瞼の裏がかっとなり思わず涙が溢れそうになるのをシャマルは辛うじて堪えた。
「おのれ猫の姿の方がいいなんて許せるかぁ!こらぁちび助!年上のおねーさんの魅力を分からせてやる!」
「……や!それに、サクラはちび助ではない」
「や!じゃない!ちょっと可愛いじゃないか馬鹿ぁぁぁ!」
遠くから喧騒交じりに聞こえてきた叫び声にシャマルの熱いものは引っ込んでいった。
何事も萎える時は一瞬であるとシャマルは悟った。
そして、いつでもそれらは「なにやってたんだろう」という寂寥感だけを残すのだ。