雨の中、オーバーサイズのレインコートを被って家路を急いでいた。小雨なので傘を刺さなくても気にならない程度なのだが、数日前に新品のものを買ったので子供のように大喜びで着ているのだ。
気分も上がってきたので普段とは違う道を通ることにした。路地の方を通っていく。
と、争う声が聞こえた。どうも男が女に襲いかかっているらしい。彼が何をしたいのかは知らないが、降りしきる雨は私に勇気を与えてくれた。私は男に掴みかかった。
「なんだよてめぇ!」
私は男を殴り、地面に倒した。頭を踏み付けて泣いて許しを乞うまでにじった。数十分もすると男は精神の限界を迎えたようで泣き始めたので「次に会ったら殺す」と聞かせて解放した。
「助けてくれたんだな…あ、ありがとう…」
その女は私の通う学校の制服を着ていた。コートのフードを脱ぎ、軽く会釈をして立ち去った。彼女の家はすぐ近くだったようで家に入るところまで見送った。雨が酷くなる。私は大喜びでジャンプして走りながら帰った。きっと今日は野宿だ。
翌朝、晴れた。寒風に吹かれ目を覚まして支度を済ませて学校へ向かう。管理室に用があったのだが、私は間違えて化学実験室に入ってしまった。詫びを述べ、退室しようとすると聞き覚えのある声が私を引き留めた。
「君は…。昨日の彼か?」
そこには昨日助けた女がいた。私は化学実験室の噂話を思い出し恐れを抱いた。
「私の事だよ。学校に許可を貰って現在では使われていないこの部屋を使わさせてもらっている」
取り敢えず噂の正体が分かり安堵して息を漏らす。結局は馬鹿が垂れ流した妄想だったということだ。
「なぁ、君さえ良ければだが話をして行かないか?」
「先生に用があるから今は出来ない」旨を伝える。すると彼女は心底残念そうな顔をした後に紙切れに自分の名前と部屋の名前、時間を書いて渡した。
「放課後またここに来たまえ。君に御礼をさせて欲しい」
化学実験室を後にし、本来の目的地へ向かった。
私は彼女の言う通りにした。全ての授業を終え、他にやるべき事がないことを確認し、部屋へ向かった。
「来てくれたか、嬉しいよ。さぁ、そこに座りたまえ」
指示通りにする。出されたコーヒーに口をつけて彼女の礼を聞いていた。ある程度聞いた後、私は何故化学実験室の噂が生まれたのか質問した。
「それについてなのだが…。実は私自身記憶を失っているんだ。
私はどうも一年生の時に事故にに遭っているらしい。その時に大脳を損傷したとも聞いた。しかし三年生になった今、私は健康体で生存している。
私は一年生の頃は普通の生徒だったと教諭から聞かされたが、私は異常ではないと自覚している。それを主張すると化学実験室を明け渡してくれたよ。
それが2年生の終わり頃だから誰かが私の出入りを見てそういう噂を流したのだろう」
理解は出来た。この人は相当な苦労をして今ここにいるのだと。大脳が損傷しても生存し、人格が大きく変わったという話は聞いたことがある。しかしそれは昔の記録だ。私は今目の前でその現象に遭遇している。驚きと光栄に飲み込まれそうだった。
「もうこんな時間か…。すこし話しすぎてしまったな。君といるとついつい…な」
外はだいぶ暗くなってきている。まだ日は短いので早く帰らなければ。前のような危険にはお互い遭遇したくないだろう。
「さて、それでは私と共に帰るとしようか」
手を引かれ学校を出た。彼女は好機の目に晒されている。彼女からすれば今の自分が当たり前なのだろうが、周りからすれば異常なのだろう。
帰り道に通る湖を横目に見ながら深刻なトーンで彼女が話し始めた。
「君には私の助手になって欲しい。私はこの世の全てを化学的に証明したいのだ。君は何かの部活に所属していないから断る理由もないと思うのだが、どうだろうか?」
痛いところを突かれて私は「はい」と言わざるを得なくなってしまった。しかし私自身、本心から嫌でなかった。
「よかった。では明日から登校時間一時間前に化学実験室に来るように。勿論放課後もだ。君と過ごせるのが楽しみで仕方ないよ」
私はそれからずっと彼女の元に通い続けた。彼女の実験は有意義で、私達は私達なりの視点で世界の真実に近づいていた。一ヶ月ほど経った頃、同級生の友人が話しかけてきた。
「お前最近どうしたんだよ。なんか変じゃないか?」
「そうよ。いつも放課後に湖でぼーっとしてるのに見掛けないと思ったら、大事故に遭った先輩と仲良くしてるし」
実験のことを口外してはいけないし、何かカバーストーリーを考えるのも面倒だったので「たまたま知り合う機会があった」と適当に誤魔化した。
「そっか、俺もう行くわ。じゃあな」
「ねぇ、君。あの先輩気をつけてね」
私はその理由を問うた。なぜ彼女を疑うのか。近くにいた私には分からなかったから。
「だってあの人、平気で暴力働くらしいし。事故に遭う前はそんなこと無かったらしいけどね 」
「彼女はそんな人じゃない」と否定した。私はあの熱心で真面目な彼女を見ている。信じられない。
「私は忠告したからね」
同級生達は怪訝な表情でどこかへ行った。私自身も似たような顔をしていただろう。またあの部屋に足を運ぶ。
「今日は都合が悪いな…私の家に行こう。着いてきてくれるかな?」
渋々了承し、彼女に先導されて着いていく。今日ほど湖が濁って見えた日は無い。心癒されない風景を見ながら歩いた。
彼女の家はそれなりに大きくアメリカ映画の民家みたいだ。恐る恐る入っていくと玄関から整った様が見受けられる。促され、リビングの席に着く。
「両親は数ヶ月前から海外に出ていてね。私が珍しいから彼らは彼らで研究しているよ。だから、寛いで欲しい」
いつものようにコーヒーが出される。心做しか、いつもより美味しい気がしたのでそれを伝えると彼女は嬉しそうにしていた。
「家だとこだわった機械を使えるから君にも飲ませてあげたかったのだよ。喜んでもらえて何よりだ」
自分の分も淹れ終わったらしく私と向き合うように座った。彼女は今まで見たことも無い眩しい笑顔をしていた。
「助手君。君は私という女がありながら他の女と話していた。どういうつもりか説明してくれるかな?」
彼女自身にあらぬ疑いがかかっていることを伝えた。何か楽しんで話していた訳では無いと証明するためにも。
「ハハハ…!そんなことか!その通りだよ助手君!私は能無しの教諭を殴って言うことを聞かせたさ!」
私は慄然として席をたとうとしたが彼女の笑みは狂気を孕んで加速度的に口が歪んでいく。そこには少女の姿も、熱心な化学者の姿も無い。
「本当は今頃に眠って欲しかったが、元薬物中毒者には効き目が悪かったかな?」
迫り来る睡魔の中何とか口を開いてどこでそれを知ったのかを尋ねる。
「君のことならなんでも知ってる。かつて居た家では虐待され、幼少時代から薬物に手を出し、現在は施設で暮らしている。助手君は夜に施設を抜け出してあの湖に行ったり、雨が降ると門限を過ぎても帰ってこない問題児として認識されてるみたいだ。
だが安心したまえ、私は君の味方だ」
彼女の強烈な拳を腹に貰い、意識を保つことは不可能になった。理解が及ばないまま闇へ沈んでいく。私はどうなってしまう…?
「前の『私』に感謝しなくては。スポーツで鍛えられているお陰で助手君を眠らせることが出来たよ」
「そういえばアイツ帰ってこないですね」
「またあの湖じゃないか?」
「ですがもう数日ですよ?」
「前なんて一週間帰ってこなかったからな」
「うわ…最悪ですね…」
「頭おかしいからな。アイツの相手はしたくないよな」
「助手君ならもうここには帰ってこないよ。それと君達にはお仕置きが必要だな」
意識が戻ってきた。周りは暗い。起き上がるとカラカラと嫌な音がした。首の冷たい感触に触れるとそこには首輪とそこから伸びる鎖があった。何とかならないかと試みるが私の首が痛むだけだ。捕らえられてしまったようだ…。
「おはよう、助手君」
鎖が伸びる限り接近して彼女を睨みつける。しかしそれが気に障ったようで急所に蹴りを食らった。倒れて悶えていると腹に追撃が入る。あまりの痛みに叫ぶと喉輪で床に押し付けられる。
「少し黙っていたまえ」
呼吸が出来なくなって藻掻くことすら出来なくなってきた。再び意識を手放しそうになると自由にされて命を取り戻す。
「それじゃあ食事にしようか」
パンの一切れを渡されるが、違和感が凄まじい。なんと言うか、湿っていて変な匂いがするのだ。具体的に言うと乾いた私の口と同じような臭いがする…。悪魔のような視線に見つめられながら私はそれに手をつけた。
咀嚼すると小麦と発酵バターの香りにのせて唾液の臭いが口いっぱいに広がって私は盛大に吐き戻した。すると頭を掴まれて嘔吐物の溜まりに叩きつけられた。
「吐くな!吐いたならそれも喰え!私の愛が受け入れられないのか!」
小麦と胃液と唾液の混ざったそれを舐めとる。吐いたものを喰らってはまた吐く。嫌悪感と恐怖で体が震え出し、無意識で喰べ始める。もう限界だ…。
数時間かけて嘔吐物の一滴も残らずに喰べ尽くした。すると彼女は濡れたタオルで私を拭いてくれた。心地よい涼しさに心が安らぐ。太陽の匂いのするタオルは荒みきった精神に安寧を齎してくれる。
「では、選ばせてあげよう。もし君が奴隷になると言うのなら私を睨むといい。しかし君には地獄を見てもらうがね。
君が私の犬になるなら跪いて犬の鳴き真似をするんだ。そうするなら私は愛を持って君を飼ってあげよう」
私の心身は疲弊しきっていた。彼女が愛無しに私に私にどう接するのかはもう分かっている。私の体は少しでも負担のない道を選んだ。
「フフッ…ハハハハハ!!本当に嬉しいよ、助手君!いや、仔犬君!君は自分の意思で私の愛を受け取ってくれるのか!」
もうどうなってもいい。どうせ、学校にいようと施設にいようと最悪な人生に変わりはないのだから彼女に全てを委ねるのも悪くはないのだろう…。