心が弱くても勝てます 作:七件
これにて二章はおしまい
これは夢だ。
彼は食事をする。
彼は運動をする。
飛び跳ねて、しゃがんで、走って、立ち止まって。
彼は就寝する。
彼は起床する。
彼は、
彼は、
彼は。
その全てが、
観察されている。
立方体の部屋には、幾つもの黒いカメラ。
その奥には沢山の、目がある。
一人の男が、彼の前に立った。
彼はその男の名をよくよく知っていた。
だが、彼はその男を、観察者、と呼んだ。
観察者は、彼を常々観察する。
彼は見られていることを気にも留めず、出された問題を解いていく。
ある時のことだ。
思い立った。ただそれだけの話。
彼は立ち上がる。
誰もが問題を解いている中、彼は無許可で立ち上がった。
逸脱した行為。
しかし、目は、ただ彼を見ている。
いや違う。
彼、の皮を見ている。
彼は立ち上がっている。
だが、彼の皮は、問題を解き続けている。
彼の皮を、観察者は観察している。
観察者は彼を見ているようで、彼を見ていなかった。
そのことに、彼は初めて気が付いた。
彼の知的欲求は満たされた。
彼は座り直し、問題を解き続けた。
周りに人がいなくなって、久しいある日。
観察者は霧のように掻き消えてしまった。
立方体の壁は、パタンと音を立てて外側に倒れた。
閉じた世界が、開いたのである。
彼は、周りを見回して、戦慄した。
たくさんの目は、監視カメラを通さず、たくさんそこにあって、
たくさんのあちらこちらに向いている。
それは木だったり、虫だったり、人だったり、空だったり。
多彩な目は、多様な推し量れない何かを含んでいる。
その推し量れない何かを、彼は察した。
外側だけは知っている。
温かさも冷たさも、膜が覆われて触れることはできないけれど。
そして、彼がそれを外側だけ捉えているように。
あの観察者も、同じように彼を見ていたのだと、彼は理解した。
観察者は、彼を見ているようで、彼を見てはいなかった。
彼は自分の皮をベリベリと剥がす。
あの時立ち上がった彼がまだいるかもしれない、そう思ったからだ。
だが、そこにあったのは空洞だけ。
そりゃそうか。
無いものは見れない。
彼は納得した。
同時に、空洞の中からとめどなく透明な液体が溢れ出す。
あの、推し量れない何かを含んだ瞳を。
向けられることのくすぐったさを知ってしまったなら。
この透明は赤に変わると。
彼は確信した。
ーーだから先に拒絶した。
「席を譲ってあげようって思えないの?」
その声に、ハッと目が覚める。
バスに揺られながら、オレは、自分が眠っていた事に漸く気が付いた。
■
人と触れ合うのが苦手だ。
人の目を見て話すのが苦手だ。
人が集まっている所で過ごすのが苦手だ。
でも。
心を満たすのに、他者からの承認が必要なことを、私は知っている。
どれだけ孤独を愛そうと、孤独は私を愛してはくれない。
きっといつか、苦しくなって、人を求める。
私は認められたい。
私は称賛されたい。
だけど、人との繋がりが怖い。
矛盾だと、分かっている。
だから、仮面を被って、私を偽った。
仮面を通して、私は他人と繋がった。
でもきっと。
本当の意味では、私はそれらの自己矛盾を“分かって”いないのだろう。
孤独を愛する私と、他人に認められたい私。
どちらが偽物で、どちらが本物なのか。
そう考えていた時点で、私は間違っていた。
本格的に七月に入り、蒸し暑さが無視できないほど増してきた、休日の昼下がり。
私は木陰のベンチで、待ち人を探していた。
須藤くんの事件が無事解決して、一週間が経った。
須藤くんはやっぱり喧嘩をしていなかった。
私が見たものは間違いじゃなかった。
綾小路くんはその間夏風邪を拗らせたらしく、学校を休んでいたので、約四日ぶりに会うことができる。体調が万全になってからで良いと言ったけど、早くカメラが戻ってきて欲しいだろう、と彼は気を利かせてくれた。
今から私たちは、修理したカメラを取りに行く。
ついでにストーカーも捕まったことで、私が記入したものが偽の個人情報だったことを伝えるために、綾小路くんが必要だったのだ。
暫く待っていると、約束の時間の五分前に、彼はやってきた。
手には、二本の250mlのペットボトル。
「待ったか?」
「う、ううん。今来たところだよ」
「そうか。良かった」
本当は、約束の時間の三十分前に着いてしまい、ずっとソワソワしていた。
「喉渇いてないか?」
そう言って彼は、私に一本渡してくれた。
麦茶だ。
「ほら、今日暑いだろ?行くついでに自販機で飲み物を買ったらおまけが当たったんだ。何が好きか分からなかったが、それで良かったか?」
「え、あ、ありがと!」
確かに、少しクラリとする。
人を待ってて熱中症なんて、笑えないかもしれない。
「あれって、本当に当たるんだね」
「ああ。オレも都市伝説か何かかと思っていた。今なら宝くじも当てることができそうだな」
「成人になってないから、0%だと思う……」
「た、確かに……」
彼は少しだけ落ち込んでいた。
なんだか申し訳なくなる。
私は喉が渇いていたので、ありがたく彼から貰った麦茶を飲んだ。
冷たさが、胃の中まで染みるのが分かるくらい、私は水分を欲していたらしい。
ついつい半分ほど飲んでしまった。
「じゃあ、カメラ。取りに行くか」
「う、うん」
私は立ち上がった。
二人でショッピングモールを歩くのは、とても恥ずかしかった。
でも、すれ違う人たちは、結局私を見ていない。
私は、風景なのだ。
そう思うと、少しは気が楽になる。
「オレはあまり詳しくないんだが、風景の写真ってどういう時に撮るんだ?」
彼がそんなことを聞いてきた。
「え、」
「変な質問だったよな。忘れてくれ」
「ううん。そんなことないよ」
「佐倉は風景も撮るんだろ?」
「うん」
「何のキッカケがあって撮ろうと思うんだ?」
「そ、そんな難しい事は考えた事なかったけど……。なんか、綺麗だなとか、ずっと取っておきたいな、とか。多分、そんな感じなんじゃないかな」
「確かに。その瞬間をもう一度見たいという点では、需要はあるのか」
「あ、でもね。写真って、よく偽物だって言われるけど。わたしは違うと思うんだ」
「違う?」
「例えば夕焼けの景色の写真を見て、これは朝焼けだって言っても、許されるから。瞬間を切り取った世界は、それはもう、別の生命を持つんだって。
写真は偽物でも本物でもない。ーーそのものなんだと、私は思う」
綾小路くんは暫く首を捻らせていたけど、なるほど、と頷いた。
「綺麗な考え方だな」
私は彼の言葉に、嬉しくなる。
家電量販店に行き、用事を済ませる。
特に何も問題はなく、修理されたカメラが返ってきた。
一週間も手放していたので、自然に口角が上がる。
綾小路くんは、「良かったな」と一緒に喜んでくれた。
私たちはカメラの動作を確認しながら帰路に着く。
結局そのまま合流した地点に戻ってきていた。
私は日陰のベンチに座る。
何か話したがっていることを察してくれたのか、彼も同じように、私の隣に座った。
沈黙が続く。
きっと彼は私のことを根気強く待ってくれている。
私は、大きく深呼吸をした。
自分のタイミングで良い。
そう、彼は言ってくれたから。
「あ、綾小路くんは……私がグラビアアイドルをやってること、あんまり聞かないんだね」
やっと出た声は、ちょっと掠れていたけど、彼は気にしていないようだった。
「全く興味がない、とまではいかないが。佐倉は聞かれたくないだろ?そういう話を、男に」
「え、あ、うん。そう、だね」
「それに、アイドルだったと分かった所で、佐倉は佐倉、だしな」
やっぱり彼は優しい。
それに、彼の瞳の奥は透明で、私をあの恐ろしい目では見ない。
「うん。ありがとう」
「佐倉こそ、掘り返すようで悪いが、その。大丈夫、か?」
「……ま、まだ、夢で見たりしちゃうけど。うん。大丈夫。その夢でね、綾小路くんが来てくれてね、」
「オレは佐倉の夢の中に出てくるのか……図々しいな、なんか」
「あ、あのね!い、いつも助けてくれるの。だから、怖くても、安心できるというか……」
「それは……良かった……のか?」
「うん」
恥ずかしいことを言った気がして、俯きたくなる。
「一応聞いておきたいんだが。今後もし、ネットでの活動がクラスにバレたら。佐倉はどうしたい?」
「え?」
「何か手助けできると思ってな」
彼は、私に親身になってくれる。
まだそんなに話したことがない私に、寄り添ってくれる。
だからこそ、私は疑問に思った。
「綾小路くんは……強いね」
「オレが、強い?」
「うん。綾小路くんってさ。私と同じで、人の目が怖いんじゃないかって、そう思えて」
「……まさか、バレていたとはな」
「め、目立つのが苦手、なんだよね?」
「ああ。他人から注目されるのが、怖いな。オレは」
「どうやって、克服したの?」
「克服?」
「私はやっぱり、まだ怖い。人前で堂々と話せないし……。でも綾小路くんは、たくさん友達もいて、普通に話せてる」
すると綾小路は「え?」と困惑した顔をした。
「いや、オレは友達はいないぞ?」
「す、須藤くんとか、沖谷くんとは、仲良くしてないの?」
「昼食も一緒じゃないし、世間一般で言う友達じゃないんじゃないか?」
「なら堀北さんとか……」
「ただの隣人だ。連絡先も知らない」
「櫛田さんは?」
「あれは……。友達、ではないだろ、うん」
どことなく歯切れが悪い。
もしかして、恋人?
心がつきんと痛む。
「不本意なことを思われていそうだから訂正させてもらうが、断じてそういう仲じゃないからな」
「不本意なんだ……」
「……櫛田にとって、不本意、ってことな」
あまり深くは聞かない方がいいのだろうか。
でもきっと、彼の寛容さや親切心に、お世話になった人もいるのだろう。
彼の周りの人の目は、温かいものが多いように感じたから。
人の目が苦手でも、そう強くあれる姿が、羨ましかった。
「やっぱり、綾小路くんは凄いよ」
「……佐倉はどうして人が怖いんだ?あーいや、答えたくなかったら、」
私は首を横に振る。
多分、きっと。
彼になら話しても良い。
そう思えたから。
「私ね。分からなかったの」
「分からなかった?」
「ひ、人との繋がりが、こ怖くて。私は、仮面を被ってる。仮面を被って、外の世界と辛うじて繋がってる。だ、だから。みんなも、私みたいに仮面で取り繕って、裏の顔を持ってるんじゃないかって。そう思うと、怖いけど、でも、本当かどうかは、分からない。写真みたいに、綺麗な世界を、信じていたいから。矛盾、してるよね。私」
「これはオレの持論だけどな」
私の話をしっかり受け止めてから、彼はそう前置きをする。
「きっと多くの人は裏の顔を隠し持っている。だがそれでいいとオレは思う。全てを曝け出した世界は、多分今より生きにくい。だから人は、在りたい姿に近い自分を切り取って加工して、周りに配るんじゃないか?それが悪いことだとは思えない。オレだって、仮面を被っている。櫛田もそうだ。堀北も、須藤も、みんな。弱い自分を、醜い自分を、空っぽな自分を。取り繕って生きている。誰かと繋がるために何かを隠しているのは、何も佐倉だけじゃ、決してない」
独りじゃない。
そう言われている気がした。
だけど、私の中に燻る何かは、反論する。
「でも、その仮面で、人を傷付けるのは、悪いことじゃ、ないかな」
私はつい、そう漏らしていた。
彼は目を見開いた。
自分でも変なことを言っているのは分かっていた。
彼の慰めの言葉に真っ向から反対する、酷い言葉。
でもずっと。
吐き出したくて吐き出したくて、堪らなかった。
わたしは俯く。
「もしかして佐倉。あのストーカーに罪悪感を持っているのか?」
彼は、慎重に、そう言った。
私の心はグラグラ揺れる。
私のせいで。
私が居なければ。
あの人はおかしくならなかったんじゃないか。
「罪悪感……なのかな」
「分からないのか?」
「う、うん。でも、あの日からずっと。心の内でモヤモヤしてるの」
「そうか」
「これって、なんなのかな……」
「確証はないが、オレはそれに答えることができる、と思う。だが、自分で気付くべき、なんじゃないか。何様のつもりだって話だけどな」
彼は簡単には答えを教えてくれなかった。
でも、口に出すことで、私のモヤモヤは整理されていく。
「……わ、私は!たぶん……あの出来事を、言い訳にしてるの。
ーー外の世界と繋がらないための、言い訳に」
自分の醜い姿。
私は、そんな私に出会っていた。
私は顔を上げられない。
「その仮面に救われている他人だっているんだろ?」
「えっ」
「それだけで、今は充分だと思う。
難しいことは、時には考えなくたって良いはずだ」
彼の言葉が、心に染みていく。
不器用で、でも、芯をついた透明さ。
俯いた先には、カメラがある。
私はカメラを見つめる。
落として壊れて。
でも、修理に出せば、こうやってまた使うことができる。
「あ、ありがとう」
私はそう、口にしていた。
「こんなことで佐倉の心が軽くなるなら、いつだって相談してくれ」
私は頷いた。
やっぱり、彼は優しい。
彼は、不用意に私を見ないでくれる。
あの、濁った何かを向けないでくれる。
そんな彼の姿が、私は嬉しい。
つい、私は彼の涼しい横顔にカメラを向けた。
カシャ
彼は私に撮られたことに気付き、少し困った顔をした。
「オレなんか撮って楽しいか?」
「う、うん。楽しいよ。……他の人を撮ったの、家族以外で初めてかも」
「いいのか?オレが初めてで」
「うん。むしろ、綾小路くんで良かった」
「それは、なんか、気恥ずかしいな」
「え、あ!そ、そういう意味じゃなく……なくなくない、というか……?」
顔が赤いのは暑さのせい!
私は顔を覆う。
顔を覆いながら、チラリと彼を盗み見る。
彼を、見つめる。
きっと、この気持ちは、簡単に言葉にしてはいけないもの。
でも、もし名前をつけるなら、多分それは……。
「オレの顔に何かついてるのか?」
……あれ?
彼は、困ったように、私の、方を見ないでくれる。
私は、目を逸らした。
だって、彼が。
何故か、とても辛そうにしていたから。
私に見つめられることが、耐えられない。
そんな、表情をしていたような気がしたから。
どうして?
「結構話し込んだな。暑いだろ。そろそろ帰るか?」
「こ、この後。用事、あるんですか?」
「悪い。病院の診察時刻が迫ってるんだ」
「ぁ、あ、うん。早く夏風邪治るといいね」
彼の顔が強張る。
……ああ、そっか。
私は、人の目が嫌いだ。
だって彼らは、私を見てはくれないから。
本物の、私を。
存在していないものとして、扱う。
仮面で取り繕った、偽物の私を、見る目。
色眼鏡をかけて、勝手に私を推し量るから。
でも、私も結局、色眼鏡をかけて生きている。
私の嫌いな人間と同じ、色眼鏡を通して彼を見ている。
濁った何かを向けて、
彼を見つめて、彼を苦しめてしまう。
彼は、立ち上がり、「また、明日」と別れの挨拶を言った。
私は仮面を被って、彼から目を背けて、笑う。
「うん。じゃあね」
彼の後ろ姿は、どんどん小さくなる。
私は、眼鏡を外した。
デジカメの画面に、水滴が落ちる。
彼の写った写真。
写真は本物でも偽物でもない、そのものなんだと。
そう言っていた自分が、今はなんだか恨めしく思えた。
□
静かな朝の、清涼な空気。
私は鏡の前に立つ。
制服を着て、髪をセットして。
そして。
私は眼鏡を机の上に置く。
鏡の中の私は、写真の中の私だった。
孤独を愛する私と、他人に認められたい私。
どちらの私も、同じ人を好きになった。
だからきっと、どちらも同じ、本物なのだ。
私は実らない恋をする。
私は人知れず涙する。
私は玄関のドアを開いた。
朝日が眩しくて、つい、手をかざす。
机の上に、眼鏡を置き去りにして。
私は振り返らずに歩き出した。
他人からの好意を受け入れられない不幸な少年と、そんな彼に恋をしてしまった不運な少女。