心が弱くても勝てます 作:七件
オレは走った。
あの目から逃げたのだ。
オレを疑うような目、ではない。
平田や、須藤、佐倉達が向けてきた、あの目。
拒絶反応を起こし、吐き気と脈打つような頭痛に耐え切れず、膝が折れる。
息ができない。
いや、呼吸は遮られていない。
それなのに、上手く、息が吸い込めなかった。
肺が、胸が、苦しい。
手の甲で口を抑える。
気道と食道がめちゃめちゃになったみたいに、こみ上げる胃酸と過剰な空気に溺れそうになる。
地面についた手から、小さな虫が這い上がってくる。
オレは咄嗟に振り払った。
引き留めようと伸ばされた手のようで。
ふいに、誰かが近づいてくる気配を感じた。
現れたのは平田だった。
ひとまず作戦の第一段階が成功したことに安堵する。
違う人間が来る可能性もあったが、川辺での告白を聞くに、平田が追いかけてくれると確信していた。
時間はあまりかけられない。
平田は顔を真っ青にして駆け寄ってきたが、オレは手で彼を制止させる。
異常を起こしている体を宥め、思考を加速させていく。
「だい、じょうぶかい」
彼はしゃがみ込み、オレの顔を覗く。
「ああ。気にするな」
オレは体を起こし、木に背中を預けた。
「それは無理があるよ」
「オレが犯人かどうか。今重要なのはそこだろ?」
息を整えながら、平田に失望の目を向ける。
彼は怯んだように、目を逸らした。
「君は犯人じゃない。そうだよね」
「ああ。オレは犯人じゃない。だが、これはラッキーだった」
「ラッキー?」
「伊吹はクラスをかき乱すためにこんな事をしたんだろう。どうやってペットボトルの場所を見つけたかは知らないが、オレの鞄に入れてくれたおかげで、上手くことが運んだな。犯人さえ特定されていれば、無闇に和が乱れることはない。もし伊吹がまた何かを起こしても、オレが全てを被ればいいからな。加えて、ヘイト役は団体行動の潤滑油だ。共通の敵は居た方が良い」
「それはできない!」
平田はオレの提案を、駄々を捏ねる子供のように拒否した。
「そんなやり方は、許容できない。皆に嫌われて、軽蔑され、貶められてしまうような人間を、たとえ策の内でも、僕は周りには作りたくないんだ。君には僕の在り方を伝えたよね?僕は絶対に許さないよ」
「伊吹を追放することはしない。平田。お前がそう言ったんだ。伊吹を糾弾してもいいのか?追い出そうとすれば、彼女は逆らえないだろうな。そして龍園から制裁を下される。お前はそれを許せなかった。だからオレに解決方法を委ねたんだろう?」
頭を抱える平田に冷水を浴びせるような言葉をオレは淡々と続ける。
「これは明確なお前の弱点だ。オレの解決方法で満足できないのなら、お前は自分の力で動くべきだった」
「それは、」
「賢いお前なら分かるはずだ。お前の憂慮するべき事柄は、他にある。違うか?」
「……分かった。伊吹さんにリタイアを勧める」
何か堪えるような、喉から絞り出したような声だった。
少し、予想外だった。
「……諦めるのか?」
平田は一度冷静さを取り戻したようで、地面に座り直した。
そして、自分の無力さを痛感しながらも、決心したように前を向く。
「少し、違うかな。確かに、僕は甘かった。伊吹さんという爆弾を抱えながら、クラスを上手く動かそうなんて、僕には無理だったんだ。だから、君に任せてしまった。君ならなんとかしてくれるんじゃないかって、期待してしまった」
「それが正解だった」
「いいや、それは間違いだった。確かに綾小路くんが強い人間だったら、僕もある程度受け入れる事が出来たかもしれないね。だけどね、君は自分がまるで強い人間かのように振る舞うけれど、僕には君がそこまで強い人間には思えないんだ。これは、君一人に任せてしまった僕の過失だ」
「……意味が分からないな」
「僕は最初、君のことをとても弱い人間だと思っていた。これは悪口とかではなくてね、強風が吹けば、パタリと倒れてしまうような不安定さを感じていたんだ。ほら、以前僕は虐められていた人間には独特な匂いや気配がするって言ったよね。それに、近いしいもの、かな。入学当初からずっと気にかけていたんだよ。
だから、堀北さんから君の実力を聞いた時、正直耳を疑った。頭脳明晰なのはテストの点数を見れば分かることだし、過去問のこともあって考えたことはあったけど、信じられなかった。
君は実力を隠していた。
それが正解なんだろう。
でも、やっぱり引っかかることがある。
今だって、君は一人で苦しんでいた。
綾小路くんは強い人間じゃない。だから、僕は君のしようとしていることを許容できない」
どうやら想定以上に見られていたらしい。
そのズレを矯正するために、話の展開を組み立てていく。
「オレがスケープゴートになって潰れると思っているなら見当違いだな。むしろ、嫌ってくれた方が楽なんだ。平田には分からないと思うが、世の中そういう奴もいる。高円寺なんて、まさに同じ人間とは思えなかっただろ?」
「確かに高円寺くんは普通の人とは違うね。縛るようなことをする方が彼にとって迷惑になる」
「同じ理屈だ」
「でも、綾小路くんに彼のような強かさはない。僕はそう感じている」
「それは違うな」
「だったらどうして、君は常に何かに怯えているのかな」
核心を突くような一言。
オレは息を呑んだ。
「……平田。どうやらオレと伊吹を天秤にかけているらしいが、それはお前の生き方に反することじゃないのか?」
平田の矛盾を突く。
だが、彼は揺さぶられることはない。
「僕はね。ずっとあの日に囚われている。
杉村くんの、あの何かを訴えるような瞳に。
君が、彼と同じ眼をしていた。
多分それが答えなんだと思うよ。
彼のような人をもう二度と僕の周りから生み出さないために、僕は今まで生きていた。彼と同じ眼をしていた君を蔑ろにするのは、本末転倒な話だ。
それに、伊吹さんを見捨てるわけでもない。彼女に本当のリーダーを伝えればいい。しっかりと仕事をしたと分かれば、龍園くんは制裁を与えない」
自滅的な方法を当然のように提案する平田に、オレは困惑の目を向ける。
「僕にはその覚悟があるよ」
平田は愚直にそう応えた。
一見、クラスを売るようなバカらしい案。
だが、彼は譲らない。
彼の信念に基づいて、彼は行動を諦めない。
そのことを察したように、オレは観念し、ため息を吐いた。
「……本当のことを話す。これは防衛策じゃない。攻撃に転じるための行動だ。伊吹にリタイアされたら困る」
「どういう、ことかな」
「平田。オレには隠しているつもりだろうが、堀北はリーダーじゃない。違うか?」
平田の表情に緊張が走った。
「よく、分かったね」
「クラス全員にはリーダーは堀北だと誤認させてある。そうだな?」
「……うん」
「そして堀北は、占有によるボーナスポイントを初めから諦めている。だからタイマーが見えないようにシートで隠しているんだろう。本当のリーダーは、」
「君だよ。綾小路くん」
平田は被せるように言った。
「この事を知っているのは僕と堀北さんだけだ。僕は綾小路くんに話すべきだと説得したけれど、彼女は譲らなかった。どうせ気付いているだろうから無駄だと突っぱねられたんだ」
ただの嫌がらせか、はたまたオレと櫛田の関係に勘付いたのか。
まだ分からないが、懸念材料としては考えていそうだな。
「でも、これは彼女の優しさなんだよ」
「試験は公平でなければいけない。だから、ルールは基本的に公平に作られている」
唐突な、至極当然の発言内容に、平田は首を傾げる。
「リーダーが体調不良でリタイアした場合、どうなると思う」
「リーダーが不在になるんじゃないかな。占有権も実質消えてしまうことになる。だから堀北さんは君をリーダーに据えた。いつでもリタイアしても良いように」
「違うな。マニュアルにはこう書かれてあった。『正当な理由なくリーダーを変更することは出来ない』と。リタイアは正当な理由じゃないか?」
平田は目を丸くする。
試験の大きな穴。そして、言われてみれば誰でも理解できるような単純な話。
「オレは復讐のためだとか何とか言って、本当のリーダーを伊吹に伝え、カードを見せつける。鞄の中にカメラがあった。証拠として撮るためだろう。そして、直前にリタイアし、名実共に堀北をリーダーにする。そうすれば確実にリーダーを守り通せる。しかも、AクラスとCクラスのポイントも減らすことができるんだ」
「……君は、凄いね」
感嘆の息を漏らす平田。
「これで分かっただろ」
しかし、平田は疑問点があるようで、顔は晴れないままだ。
「いや、聞いたからこそ、分からないことがある。伊吹さんにリーダーを伝えて、代わりに犯人であると名乗り出て貰えばいい。どうして君がスケープゴートになる必要があるんだ」
当然の帰結だろう。
「勝つためだ。これは防衛に関しての話だが、オレの真の狙いは防衛じゃない。攻撃だ。Cクラスの生徒の大半がリタイアしているのもあるが、オレはCのリーダーは龍園だと確信している。だがあっさりリーダーを教えれば、龍園にこの事を勘付かれる確率が高くなる。変えられると厄介だ。加えて、Bクラスのリーダーを当てるためにも、これは必要な過程なんだ」
「浜辺で誰かリタイアしないか常に見張っていれば良い。AとCだけでも十分な成果だ。100ポイントも手に入れることができるんだよ?」
「まだ足りないな。やるからには全力で挑まなくてはいけない。Bの方には既に餌は撒いてある。あとは回収するだけだ」
オレは譲らない。
平田は痛ましげな表情でオレの両手を包み、真剣に訴えかける。
「もう、充分だ。綾小路くんはクラスにたくさん貢献してくれた。ありがとう。だから、もういいんだ。君が無闇に蔑められる必要はない」
「価値観の相違ってやつだな。オレは完膚無きまでに勝ちたい。クラスは既にオレを犯人に仕立て上げているはずだ。お前が何を言っても妄言にしかならない。勝手にやらせてもらう」
オレは「もういいだろう」と、手を振り払い、立ち上がった。
フラつきかけたが、すぐに態勢を立て直す。
平田はそんなオレの腕を掴んだ。
「まだ話は終わってないよ」
「話すことはもうない」
「いいや、ある。君がそこまで勝利に縋る理由を教えてほしい」
「どうでも良い話だな」
「僕にとってはそうじゃない」
平田は目を逸らさない。
オレは拒絶するようにキツく平田を睨みつける。
「オレは、基本他人を信用していない。もちろん平田。お前もだ。
話を信じさせる根拠がないから無闇に話せない。
手を離してくれ」
いつかの堀北のような、にべもない、突き放した態度。
だが、平田は手を離すことはなかった。
「君がどんなに突飛な事を言っても、僕は信じる。僕は君の味方だ」
「それをオレが信じられないんだ」
「僕は君に過去を打ち明けた。そして、在り方を示した。それでもまだ、信用できないのかな」
「嘘を吐くな。お前はまだオレに打ち明けていない話がある。そんな人間の言うことは信じられないな」
図星を突かれ、平田は動揺を隠しきれなかった。
瞳の奥にある、深い闇。
そして、乾いた笑いを漏らす。
「……君は、とても厄介な人間だ」
「な、関わり合いたくないだろ?手を離せ」
「そうやって拒絶してきたんだね」
平田の手に力が籠る。
それが痛いほど伝わってくる。
「分かった。全てを打ち明けたら、君は僕を信用してくれるのかな」
熱いほどの視線。
絶対に離さない、と訴えかけてくる。
「……さあな」
オレは、居心地の悪さをあえて隠さず、取り敢えず聞く気はあることを示すために腰を下ろした。
平田はそんなオレの態度に、一度ホッと息を吐いた。
そしてゆっくりと手を離し、顔を伏せる。
「ーー僕の友人は飛び降り自殺を図った。その話にはまだ続きがあったんだ」
平田は、一度言葉を切り、目を瞑る。
罪の告白。
再びあの時の自分を受け入れることは、そう簡単にはできない。
今後も自分は、打ち立てた信念と現実の差に悩み続けることになる。
彼に信用してもらうため、というのは建前なのかもしれない。そう、平田は思い始める。
本心は、自分の心を少しでも軽くするため。
彼なら、きっと公平な判断を下してくれると。余計な慰めは言わないだろうと。
それでも、彼は構わないのだろう。
彼には話すべきだ。
平田は全てを打ち明ける決心をし、目を開いた。
「彼が飛び降り自殺を図ったことで、一連の騒動は全て終わった。重たい犠牲を払って、学校から虐めはなくなった。そう、思ってたんだよ」
「……まさか」
「あの事件の後、僕は人間の底知れない闇を見た」
当時のことを鮮明に思い出し、平田は殺意に身を震わせた。
「新しい虐めが起きたんだ。信じられなかったよ。彼らは反省していなかった。倫理観も麻痺してしまっていたんだろうね。傍観者であり続けた人も、加担するようになっていた。杉村くんがいなくなった分のカーストが一つ下にズレただけだった」
感情を抑え、息を吐きながら独り言のように呟き始める。
「僕は許せなかった。そして同時に失望したんだ。誰も彼もが、カーストというたった三年で崩れる板に縋りつく猿に見えた。だから、僕自身が動かなくてはいけない。そんな強迫観念に囚われて、僕は、ある行動を起こした」
平田は顔を上げる。感情を手放したような、諦めたような。そんな表情だった。
「分かりやすく言えば、恐怖で支配しようとしたんだ」
「……平田が、か?」
「簡単な、話だったんだ。彼らは最下位を求めている。それなら僕だけが上に立ち、残りの生徒を全員最下位にすれば解決じゃないか。あの時の僕は、そう信じて止まなかった。揉め事が起これば間に入って、両者に同じだけの制裁を与えた。苦痛を、恥辱を与えた。そこに差なんてなかった。静寂に保たれた平等を作り上げた」
「そんな事、できるのか?」
「僕は特別喧嘩が強いわけでもないけど、本気で人を殴れる人はそういないから。本気で拳を振るっても、殴り返してこれる相手はいなかった。ーー恐怖は、人を縛る良い道具なんだ。拳だけじゃない、様々な暴力を僕は駆使して恐怖で統制した。案外、簡単だった。結果的に一つの学年を、僕は壊したことになるんだろうね」
自慢するでもなく、ただ、平田は自分の手を何度も握っては開く。
なるほどな。
あの場を凍てつかせるような乱暴な雰囲気は、虐めを撲滅するために学年を支配しようとして手に入れたものだったのか、とオレは納得する。
「僕はきっと、まだどこかで他人を見下している節があるんだろうね。集まれば愚かになる脆弱で臆病な奴らだって。ーーそれを君に見透かされていた」
そんな事件が起きれば、人間不信に陥っていてもおかしくない。むしろ、他人に対して失望し切っていない平田は、根が善人よりなのだろう。
しかし、平田は別に慰めが欲しいわけではないはずだ。
これは既に消化し終えている話。
平田は前に歩き始めている。
「お前は、全てが間違いだと。そう思っているのか?」
オレの質問に、平田は息を詰まらせて、それから儚げに笑う。
「確かに僕にはあの時の後悔がある。でもね。全てが間違いじゃない。
厳しさでクラスを統制することも、時には必要なのかもしれないって。
今のクラスの惨状を見て、思うようになったんだ」
ただの後悔では終わらせない。今後のためにも進展を促しておいた。
「これが、僕の全て」
平田は真摯な態度で、罪を受け入れる。
そして、彼の中に形作られた信念は一つの強固な芯となり、オレの前に立ちはだかる。
つい、顔を逸らした。
欲しい情報は手に入れられた。
つまり平田はやろうと思えばクラスを完全に制御し切れるわけだ。
もちろん本人は余程のことが無い限りするつもりはないだろうが、一つの選択肢として視野に入れる事が出来るのはありがたい。
「お願いだ。理由を教えてほしい。それ次第だったら、僕は君の助けになれるかもしれないから」
オレは平田の言葉に心を揺さぶられたみたいに、平田を見つめ返す。
奥底を覗く。覗かれる。
何かに思いを巡らせ、暫く黙考する。
そして、徐に口を開いた。
「茶柱が……この、試験で。結果を、出さない、と」
だが、あの話を思い返し、無意識に呼吸が不規則になっていく。
これは予期していなかった。
帰りたくない。戻りたくない。
意味のない言葉が脳内を巡り、蓄積されている。
傍に立ち、見下ろす自分は、呆れたように首を捻った。
話を続けろ。
他の人が来るかもしれない。
早く終わらせろ。
そう何度も強く命令し、自分の体を取り戻す。
初めに手の感覚から戻ってきた。
じんわりとした温かさに、平田が安心させるようにオレの手を握っている事に、漸く気が付いた。
一度深呼吸をする。
そして、オレは平田に騙る。
「オレの親は、政治的に少し発言力の強い人間なんだ。そして、オレがこの高校に入学することを、断固として認めてはくれなかった。オレは過干渉な親から逃げるために、この高校に入学した」
余計なことは言わず、慎重に言葉を選んでいく。
「オレの親は、退学させるよう学校に直接訴えているらしい。だから、あとはオレが首を縦に振れば、いつでも退学にすることができる。その事情を、担任の茶柱は知っていた。それを、利用したんだ。どうやらAクラスに並々ならぬ執念があったらしい。オレに本気を出すよう迫り、もし試験で結果を出さなければ、簡単に退学に追い込むことができる。そう脅してきた」
平田は、茶柱の教師としてあるまじき行動に、ショックを受けたように息を呑んだ。
「オレは退学したくない。
だから、この勝負に勝たなくてはならない。
妥協は許されない。
常に最善の手を打つ必要がある。
徹底的な、完膚無きまでの勝利。
(力を持っていながら、それを使わないのは愚か者のすることだ)
帰りたくない戻りたくない。
あの場所は、あの言葉は、もうウンザリなんだ。
お願いだ、平田。……助けてくれ」
咄嗟に手を振り払い、口を塞ぐ。
堰を切ったように溢れた最後の言葉は、予定していたものとは全く違った。
反響する言の葉。
それを、頭から追い出すために、余計なことを口走った気がする。
ただ、協力を乞うつもりだった。
これじゃあまるで……。
チラリと平田の様子を窺うと、彼はどこか嬉しそうだった。
「そういう、ことだったんだね」
……トラブルはあったが、リアル感が出て逆に良い方向へと進んだようだ。
安堵の息をこっそり吐く。
心音は漸く落ち着いていく。
「教師が生徒を脅すなんて、与太話にも過ぎるよな。別に信じなくていい」
「ううん。信じるよ」
「そうか」
オレの素っ気ない態度に、平田は苦笑いした。
「本当だよ。何故ならね、君がないと恐れていた根拠が、実はあったんだ」
「……どういうことだ?」
「僕はね、茶柱先生にあるお願い事をされていた」
「お願い事?」
「君をバカンスの間、気にかけて欲しいって」
「……監視役か」
やはり、あの指導室には先客がいたらしい。
まさかとは思っていたが、平田だったとはな。
「まあ、そういう事だったんだろうね。終業式の日だったかな。僕は君のことで茶柱先生に相談していたんだ。何か身体的もしくは精神的に問題がある生徒なんじゃないか、という話を聞くために。その時に頼まれたんだ。先生だけではずっと気にかけている余裕はないからって」
「特に何の問題もない生徒だったろ?」
「茶柱先生は何も知らないみたいだった」
「まっさらだからな」
「……君にもっと信用されるために頑張るよ」
「頑張れ。応援している」
「堀北さんがどうしてあんな態度を君に取るようになったのか、その一端が分かった気がするな」
「オレの言葉の九割は戯言だからな」
「でも一割は本音なんだよね」
そう言って笑顔をオレに向ける。
平田が眩しすぎて、オレが消えかねない。
「僕は綾小路くんが手を抜いたということを茶柱先生に密告する気はないよ。それでもダメかな」
「オレが安心できないんだ。平田は悪くない」
「……じゃあ、この試験が終わったら、綾小路くんが犯人ではなかったことを皆に伝える。それだけは譲れない」
平田は強気に妥協案を出した。
オレとしては誤解を解かないままでも良かったんだが。
「……オレがスケープゴートになったのは堀北の苦肉の策だった。既に慰謝料としてポイントを貰っており、オレは痛くも痒くもなかった。リーダーを当てたのは堀北。防御したのも堀北。そう説明してくれ」
「堀北さんが聞いたら怒りそうだな……」
「泣いて喜ぶだろ」
ははは、と呆れたように笑う平田。
「平田。そろそろ帰らないと皆に怪しまれるんじゃないか」
話すべきことももうないだろう。
立ち上がろうとする。すると、オレの両腕を掴み、彼はそれを阻んだ。
「ーー最後に、これだけは言わせて欲しい」
そう前置きをして、真っ直ぐとオレを見据える。
「僕は、君を助けたい。
何が起きても味方でありたい。
それだけは、信じてほしい」
直視できないほど、憐憫と慈愛の含んだ瞳。
その愚直で誠実な言葉は、オレの心に確かに突き刺さり、血が溢れた。
受け取ったら、壊れる。
そう、誰かが囁いた。
出来ることなら拒絶したかった。
釘を打たれているような頭痛が襲う。
だがきっと、今後のことを思えば、突き放し過ぎるのもマズい。
少しは心を許している所を見せた方が良い。
達成感がなければ人は中々動かない。
オレは諦めて、本心を晒すフリをして応える事にする。
「……信じて、みたい、と思っていたい」
息を呑む音が聞こえた。
「ああ信じるさ」と淀みなく答えるつもりが、随分ぶっきらぼうな返事になってしまった。
これは、セーフだろうか。
少し不安になり、恐る恐る顔を上げると、平田はパッと顔を輝かせていた。
「そっか、ありがとう!」
そして感激したようにオレに抱きついた。
つい身を固くしてしまったが、平田流スキンシップなのだろう。
男に抱きつかれる趣味はないぜ、と格好良く肩を押したかったが、普段引きちぎっている空気を、今だけは読むことにした。
目的は達成できたわけだしな。
平田の過去を探り、そして自らが庇護対象になることで彼をコントロール下に置く。
ミッションコンプリートと言っても過言ではないはずだ。
元々オレは、自分が動かなくとも勝手にクラスポイントを上げる装置として、光るものがある堀北を成長させた。だが、茶柱のお陰で自力で動かざるを得なくなった。いや、正確に言うと、茶柱がオレを試験に参加させたお陰で、試験の結果を堀北に委ねることが出来なくなったのだ。現状の堀北に任せれば、大きな勝ちは難しいが、堅実に試験を終えられる。だが、それをオレは許せない。全ての勝負に完璧に勝たなくてはいけない。そんな強迫観念に囚われて、妥協ができない。
堀北は自立した存在としてオレの制御下では動かし辛い道具になってしまったので、オレはもう一つ道具を欲した。白羽の矢に立ったのは、平田洋介及び軽井沢恵だった。
櫛田から、軽井沢には少し変わったものを感じる、と言う話を聞いていたため、彼女には何か問題があるのだろう、と予測立てていた。加えて、浮ついた話が一切ないカップル、というのは少し怪しい。Dクラスにいるという時点で、平田にも問題がある。
つけ込む隙は幾らでもあった。
幸いオレは、弱い立場の人間だった。
演技ではなく本当に色々厄介なモノを抱えている。
それを利用すれば、平田洋介という人間は、簡単に食いついてくるはずだ。
平田は自分の信念に従ってオレを助けるつもりで、己の真の姿を打ち明ける。そして、全てを曝け出した相手を、無意識的に特別な存在へと昇格させてしまう。手の届く範囲の人間を平等に見る、という信念に矛盾が生じていることに気付かない。
使えるモノは、例え自分の弱点であっても使わないとな。
……ん?にしてもなんか抱きついている時間長くないか?
まあ、いいか。
サッカー部って皆こうらしいし。
□
五日目の夕方。
事態は動き出した。
金田がついにBクラスのリーダーの証拠を掴んだのだ。
予定よりすこし遅かったが問題はないだろう。
Dクラスから追放されてから、常に彼を尾行していた。
リーダーのカードをカメラで撮り、成果を龍園に渡しに行く。
オレは龍園の位置を既に把握していた。だから、金田が通る道を逆算し、オレは待ち伏せした。
突然現れたオレに、金田は身を固くした。
当然だ。
金田は今、大事な写真を持っている。
夕闇に紛れ、顔もよく見えない相手に、恐怖する。
「Bに潜り込んだスパイ、だな?」
オレは若干声を変えてそう確認する。
金田は警戒心をあらわに、何も言葉を発さない。
「オレはDクラスの人間だ。旨い話があるんだ。少し聞いていかないか?」
甘い蜜を垂らす。
勿論無視を決め込むこともできるが、金田は黙って立ち竦んでいる。
つまり、聞く気があるということだ。
「BとDは対Cクラスで同盟を結んでいる。だから、友好の証として、お互いのリーダーを伝え合っているんだ」
話が見えてこないのか、首を傾げる金田。
「オレは、それを突き崩したい。もし契約を破ってDクラスがBクラスのリーダーを当てれば、どうなる?」
「同盟は破棄になりますね」
「ああ、そうだ。対Cクラスの包囲網は剥がれ、むしろDクラスはBクラスに睨まれて今後の試験で大きく不利になる。信用は崩れ、どのクラスとも組むことはできなくなるだろうな。だが、オレレベルの人間にはBクラスのリーダーが誰か、その情報は下りてこない」
金田は今、Dクラスの生徒が一之瀬と何か話し合っていたことを思い出しているのだろう。そして目の前の男の話の裏付けとして、勝手に認識する。二つの事柄を結びつけた自分の優秀な脳内を自負してしまう。
「なるほどね。この証拠が欲しいんですか」
「ああ。偶然、お前がカードを撮っていた所を目撃した。だから、こっそり尾行していたんだ」
「そちらのメリットがわかりませんね」
「メリット?復讐だよ、復讐」
「……?」
先とはガラリと雰囲気を変えるオレに、金田は眉を顰めた。
「オレはあいつらが許せない。オレを下着泥棒の犯人に仕立て上げ、蔑ろにした。報いを受けるべきだ。そうは思わないか?」
オレは無表情で、だが瞳に怒りを秘め、金田に迫る。
彼は少し怯んだように後退った。
「ですが、Dクラスにポイントを渡すマネにもなる」
「Bクラスのポイントが減るのは好都合じゃないか?確かにDは結果的に50ポイント得ることができる。だが、CとDとの差は歴然だろ?オレに濡れ衣を被せるようなバカな奴らだ。上がるなんて大層なことを出来るはずもない」
「それは龍園氏が決めることです」
「おいおい金田。お前は龍園さんがいないと何も考えられないバカなのか?お前の頭蓋骨に窮屈に収まっている脳味噌に聞いてみろよ。BとDの同盟関係を崩せる、最大の一手。それは、金田。お前の手にかかっているんだ」
煽るような言葉。
彼の中に燻る、顕示欲を引き摺り出す。
「金田。お前は価値がある人間だ。あの結束力の高いBクラスから、リーダーの証拠を手に入れたんだ。オレにはできなかった。だから、こうして金田に委ねるしかない」
金田の横顔が強張る。
甘言。認められているという充足感。
「頼む。オレの願いを聞いてくれ」
彼は額の汗を何度も拭った。
感情を、利益を、欲求を、天秤にかけ続ける。
「……復讐という感情は一見すると愚かだけど、どの感情よりも強い。分かりました。これはCクラスの利益のため」
そして、漸く頷いた。
こうしてBクラスは知らぬ間に、150ポイントを失うことになったのだ。
予測だが、最終的にはAクラスは150〜200ポイント、Bクラスは0〜50ポイント、Cクラスは50ポイントと結果を残すだろう。
金田のような性格であれば、恐らくこの事を龍園にすぐには伝えず、試験が終わった後、自身の手柄を報告する。だが、結果発表でDクラスが高い成績を叩き出せば、愚策だったと思い知らされる。咎められることを恐れ、最後まで報告しない可能性の方が高い。
ーーつまり龍園は、DクラスがBクラスを当てた事を知り得ない。
□
「堀北。体調は大丈夫か?」
ほぼ全ての工程をやり遂げて、残るは伊吹にカードを渡すだけとなった。
少しだけ緩んでしまった気を引き締め、周りに気配がないか確認しつつ、釣り糸を垂らしている堀北に話しかける。
「問題ない、といえば嘘になるけれど、順調に快復しているわ。平田くんが軽い仕事ばかり回してくれたおかげね。それに、何人かには気付かれてしまったから、そのまま手伝って貰ったこともあった」
他人に頼る、という高等技術を既に実践しているのか。成長スピードどうなってんだ。
「あなたこそどうなの」
「アイムファインセンキューって感じだな」
「そう」
「伊吹に聞こえるように、須藤が犯人だった話はできたか?」
「ええ、問題なくね」
須藤の演技力にかかっていたが、堀北のドヤ顔を見るに、どうやら杞憂だったらしい。
「須藤くんがあなたのことを心配していたわ」
「そうか。これが他クラスのリーダーだ」
オレは折り畳んだ紙を堀北に手渡しする。
彼女はそれを開き「Bクラスまで……」と驚きを隠せないようだった。
「あとは、伊吹にカードを渡すだけだ。念のため伊吹がリタイアしたかどうか見張っていて欲しいんだが、平田にお願いできるか?」
「分かったわ」
オレは手を出して、カードを渡すよう催促するが、中々彼女はカードを出さなかった。
「何が不満なんだ」
「いいえ。ちょっと悔しいだけよ」
「自分の策だと不十分だったことがか?」
「それもあるけれど、こんな簡単なことも見抜けなかった自分の不甲斐なさに少し落胆しているの」
「別に気に病む事じゃない。次に繋げればいい」
誰かに見られるとマズいので「いいからさっさと渡せ」と目で脅す。
それでも彼女はしらばっくれる。
「ところで綾小路くん」
「なんだ」
「カードを渡す条件があるわ」
「はいはい堀北はすごいな賢いな」
「バカにしているの?」
「褒めて欲しかったんじゃないのか?」
「虫唾が走るわね」
久しぶりに氷点下の鋭い睨みをオレによこす。
それからペースを乱されたことに憤慨した様子で、咳払いをした。
「教えて欲しいことがあるのだけど」
「オレのスリーサイズはお高いぞ」
「櫛田さんと繋がってる、なんてバカなマネはしてないわよね」
場の空気は一瞬で凍った。
オレは彼女を見下ろす。
だが彼女も強気な視線を外さない。
「面白い冗談だな」
「答える気はない、ということね」
「推理ショーには付き合ってやってもいい」
「ロジックが大好きなあなたには悪いけれど、これは直感よ。須藤くんの暴力事件で、あなたは私を試すようなマネをした。その理由を考えている時に、ふと、そう勘付いたの」
「女の勘ってやつか」
「ええ」
「もしかしてオレは今窮地に立たされているのか?」
「それはあなたが決めること。真実を話せば私はカードを渡すし、ダンマリを決め込むようなら、私が直接伊吹さんにカードを投げつけるわ」
「……カードを投げつけるメリットを是非教えて貰いたいものだな」
「ムカつくからよ」
「なるほど?」
オレに感化されてしまったのか、彼女は最近よく冗談を言うようになってしまった。
さて、どうするか。
堀北はこの状況でオレが本領を発揮できないと踏んで、核心を突いてきた。普段であれば、のらりくらりと躱されることくらい、容易に想像できてしまうからだ。事実、オレの頭は過去最高に回っていない。精々、浮気がバレて慌てふためく残念な男レベルが限界だ。
だがな堀北。
一つだけ方法があるんだよ。
そう。
バレることを予測しておいて、予め台本を用意しておけば何も問題はあるまい。
抜かったな堀北。
「あーそうだな。あれだ。あれ」
「何かしら」
ま、その肝心の台本の内容を焦って忘れてしまうことは考慮に入れてなかったけどな。
どーしよう。
認めていんだっけ。ダメなんだっけ。
くそ、こんなのただのリンチだ。
東大現役主席がIQ3に数学バトルを仕掛けるようなものだ。
IQ3は数学と算数の違いも理解できないんだぞ。舐めるなよ。
オレは悪いスライムじゃない。
「というか、堀北がカードを渡さなかったら窮地に立たされるのは堀北だろ」
「何も話さないつもりなら肯定と見做すけれど。あなたと櫛田さんは繋がっている。今後はそう考えて私も動くことになる」
「黙秘権って言葉を知ってるか」
「沈黙は肯定よ。あなたには私の推論を否定できるような材料がない、と私が勝手に解釈するだけ」
「確かに……」
肩を落とすオレに、堀北は怪訝な目を向ける。
「……あなた本当に綾小路くん?」
「お前がこの状態のオレに勝負を仕掛けたんだからな?せめて介錯してくれ」
諦めたオレは砂利の上に座り、足を伸ばした。
ずっと立ちっぱなしは体に悪い。
「あなたは櫛田さんと何か契約をしている。違う?」
「メリットがないな」
「そうね。でも何か不測の事態が起こった。そう考えることもできる。例えば、櫛田さんの本性を図らずとも知ってしまった、とかね。もしくは彼女を私のような手駒にしたかった、クラスに損害をもたらす存在の手綱を握りたかった、とか。色々考えようはあるわ」
「頭いいな」
「私が知りたいのは一つだけ。Aクラスに上がる邪魔をするつもりがあるのかどうか。もしあの約束が破られるようなことがあれば、あなたの策を信じることが出来なくなる。それは分かってくれるわよね?」
堀北はリールを弄りながら、そう問う。
確かにその通りだ。
疑念を払わずに、リーダー指名を完全に任せることはできないだろう。
段々と調子を取り戻し始めた頭を回転させていく。
「オレは櫛田の手綱を握るために策を講じている。今はその最中だ。むしろ邪魔をされると櫛田を制御しきれなくなる。お前は安心して道を歩けばいい。途中の石は退かしてやる」
「その上から目線をやめて欲しいものね」
「事実だろ?」
「事実にはさせないわ。私の道にある石は私の手で退ける。本当は腹を割って協力したいのだけど。まあ、あなたはそれを嫌っているようだし、今のところ無理強いは出来ないわね」
堀北はため息を吐く。
「オレの話を信じるのか?」
「平田くんに泣き付いたんでしょう?あなたがそこまでして櫛田さんの思い通りに事を運ぼうとするような人間には思えないもの」
「待て。どこまで平田から聞いた」
もしオレが凡人並みのプライドを所持していれば、ここで発狂していてもおかしくなかった。
「詳しくは聞いてないわ。男同士の絆が芽生えたとか何とか言ってた」
「一体どんな伝え方をしたんだ……」
オレは痛みを訴えるこめかみを抑える。
だが冷水を浴びせられたように、辺りの輪郭をぼんやりと掴めるようになってきた。
のっぺりとした白黒写真のような風景から、徐々に色を取り戻していく。
フルスロットルで脳内スロット777を叩き出し、ジャラジャラコインを模した言葉たちが溢れ出る。
「ま、ここでバレれたのはこっちとしても有り難かったかもしれないな。一つ頼み事がある」
筋道をなぞる。
そうだった。
オレはむしろ勘付いてくれることを堀北に期待していたのだ。
……いや、勘付いた、というのは違うか。
まあいい。問い詰められた場合は素直に認めて頼み事をする。
それが最善の手。
糸が緩みなくピンと張った。
「頼み事?」
「残したポイントにプラス50をして、実際の残高をクラス全員に偽って欲しい。できるか?」
「櫛田さんを騙す、ということね」
「ああ。オレは三つのクラスのリーダーを当てている。だが、Cクラスにだけ当てられてしまった。そう誤認させたい」
「龍園くんが櫛田さんに接触すればすぐバレてしまうような嘘よ」
「どうだかな。龍園がどこまで裏を読めるかにかかっている」
曖昧な返しに、堀北は顎に手を当てて思案する。
いつの間にか釣り糸は切れて不格好に弛んでいた。
下流の方から「よっしゃあ!」と須藤の喜びの雄叫びが、やがて届いた。
確か魚をモリで捕まえる班だったか。
「……まあ、いいわ。ただ、一応あなたの話がデタラメかどうか見極めるために、龍園くんの居場所を教えて貰っても良いかしら」
彼女は地図を見せる。オレは龍園の恐らくの居場所を幾つか指し示す。彼女はペンでマークしていった。
「ポイントは全て私と平田くんと池くんが管理している。池くんにはどう説明するつもり?」
「それはお前が考えてくれ。今のオレには無理だ」
「なんて頼りがいのない発言かしらね」
「信頼してるぞ、という遠回しのデレが伝わらないとはまだまだだな」
「は?」
堀北をおちょくるのは櫛田とはまた違ったスリリングがあるな。
にしても、裏櫛田と堀北はどこか似ている部分がある気がする。
だからこそ櫛田も堀北に執着しているのだろう。
二人が今後どうなるのか。
堀北は櫛田とどう向き合うのか。
気になる部分もある。
閉じ込めていた好奇心が久方ぶりに「よお」と顔を出した。
が、そんな話は、どうでも良いな。
邪魔になるようだったら潰すだけだ。
再び無為な好奇心をしまいこみ、オレは堀北からカードを受け取った。
平田に関しては櫛田同様プロットから暴走しました
プロフィールが悪いよプロフィールが