「どうですか?そろそろ落ち着けました?」
「……ぐすっ。う、うん、ごめんね綾崎さん。こんな風に泣きついちゃって」
「気にしないでください。私の膝なんかでよければ、いつでも貸しますから。好きなだけ使ってくれてもいいんですよ♪」
「うぅ、みんなが綾崎さんのことを"お母さん"って呼ぶ理由がやっと分かった気がする……こんなの勝てないよぅ……」
「ふふ、素直に甘えられるのはいいことですよ。ほ〜ら、もっとも〜っと甘えちゃいましょうね〜♪」
「うぅぅ、だめになっちゃうよぉ……溶かされちゃうよぉ……でも離れられないよぉ……」
あの後、寮監室に招かれたシャルは、その流れのまま彼女の膝に泣きついてしまった。
部屋に入ると直ぐにベッドに腰掛けた時は不思議に思って戸惑ったものの、膝上にブランケットを掛けて『さあ、どうぞ?』と言われてしまえば行くしかあるまい。事実行った、何の躊躇もなく。
あんなにも慈愛に満ちた表情で手を広げられれば、恐らく一夏であっても、織斑千冬であっても抗えない。だから自分は悪くない、そんな言い訳が簡単に出来てしまう。
ブランケットのかけられた彼女の膝はとても柔らかくて、強く抱き締めたら折れてしまいそうなほどに細いのに実際にはとても頼り甲斐があって……ぎゅーっと頭を抱き抱えられて頭を撫でられているともう本当に駄目になってしまう。
ストレスとか悩みとか全部吹き飛んでしまって、同級生にこんな甘え方するのは良くないと思って離れようとしても、彼女がこれでもかと甘やかしてくるので全く逃げられる気がしないのだ。
これこそ母性の暴力。
こんなことをされては、一生彼女から離れられなくなってしまう。
そう思わずにはいられないし、今現在そうなっているのが分かる。
それなのに、それなのに……
「んっ……今日も一日頑張りましたね。今だけは辛いことも悲しいことも全部ぜ〜んぶ忘れて、私に身を任せてください」
「……綾崎さんの鼓動が聞こえて、すごく落ち着く」
「大丈夫、大丈夫です。私はここに居ますから。私がこうして近くに居る間は、シャルさんの事は私が守ってあげますからね」
「うぅ……好きぃ……」
さり気なくとんでもないことを口走ってしまったが、この部屋には彼等2人しか居ないから問題ない。むしろこの空間だからこそ思考とか感情が滅茶苦茶になってしまっているまである、完全に色々と暴走している。
ただそれでも、彼女の仕草や言葉の一つ一つが死んだ母を思い出させて、シャルの心に張られていた氷を溶かしていくのだ。これくらいは許して欲しいし、彼女がそれを許してくれるのだから他の人間の許可などもう必要ない。
「ふふ、そう言ってくれると私も嬉しいです。そんなシャルルさんにはもっともっとご褒美しちゃいましょうか」
「あぁぁあぁぁ……」
もうだめで、おしまいだった。
世界の真理はここにあった。
彼女の膝と胸の間こそがこの世界に残された最後の楽園だった。
ここに居れば全ての負の感情から解放される。
ここに居れば全ての嫌なことを忘れられる。
もう何も怖くない、一生ここで暮らしたい。
全てを解き放って彼女の優しさに浸るのは、凄まじい安堵感があった。
お母さん、ごめんなさい……
僕にももう一人のお母さんが出来てしまうかもしれません。
でも、お母さんのことを忘れたわけじゃなくて、ただ僕がこの母性に抗えないというだけの話なのです。
むしろお母さんが居たからこそ、2人目のお母さんができてしまったというか、僕は悪くないというか、僕じゃなくてもみんなこうなるはずだというか、だから、だから……
「はい、シャルルさん?耳掻きしちゃいましょうか?」
「ま、待って……そんなのだめ……」
「ふふ、そうは言っても抵抗する気が無いのは分かってますよ?大丈夫です、頭の中真っ白にして、ただされるがままに私に身を預けてください」
「あ、あぁあぁあぁぁぁ………」
他人に耳の中を見られてしまうなんて、普通は汚れていないかとか気にしてしまうものなのだが、勿論どうにも逆らえない。強過ぎず、弱過ぎず、浅い所から深い所まで彼女の手によって遠慮なく暴かれていくのだが、それなのに自然と指の一本にも力が入らなくなるほどに骨抜きにされてしまう。
この間、僅か数分
しかしその数分で、意識は完全に飛ばされる。
真っ白になった頭の中に、甘い彼女の声だけが溶け込んでくる。
耳から入って、全身に巡って、身体の全てに染み渡る。
もう麻薬である。
彼女は麻薬だった。
彼女の全身は麻薬だった。
ここに着て偶然にもシャルは、その結論に行き着いてしまった。
「……ん、よく取れました。シャルさん、引き抜きますからね」
「あっ、あっ、あぁぁ……」
ゆったりと耳垢を取った綿棒が引き抜かれ始めると、それに呼応する様に身体全体が震え始める。ピクリピクリと跳ね上がるそんなシャルを見て綾崎はクスクスと笑っているが、その手を止めようとはしない。
「さ、ふーってしちゃいますよ。びっくりしちゃ駄目ですからね」
「まって、まって……!」
「はい、ふ〜っ……」
「ひぁあぁあぁっ!?」
無理だと、これ以上は本当にもう無理だと。
この締まりのない顔を見てどうか分かって欲しい。
これ以上情けない顔を見せたくないという最後のプライドを汲んで欲しい。
目で訴えかける。
最後の理性が歯止めをかける。
彼女の服をぎゅっと掴んでそれを伝える。
「な〜んて言いつつも、本当はもっとして欲しいんですよね?大丈夫ですよ、私はちゃんと分かってますから」
……はい。
「はい、じゃあ次はお耳のマッサージしましょうか。お耳の中に指を入れたり、塞いだり閉じたり、もみもみしたりしますからね」
どうやら今日が最期の日。
シャルはそうして亡き母を窓の外の青空に幻視しながら、途方もない快楽の中へと引き摺り込まれていくのであった。
「うんうん、やっぱり元が良いと違いますね。これからは毎日ちゃんと続けるんですよ?一夏くんに怪しまれたら私に命令されたとでも言って誤魔化して構わないですから。」
「う、うん!わかったよ、ありがとう!」
綾崎に存分に溶かされてしまった後、シャルは彼女にいくつかの化粧品を分けてもらっていた。
あの後なにが起きたのか……?
そんなことは今の時間があの時から2時間も後だという時点で色々と察して欲しい。
綾崎はすごかった、あの細くて白い指が両耳に入った瞬間の何とも言えない背徳感と快楽は多分もう一生忘れられないだろう。まるでよくない事をしている様な気分にさせられて、けれどそれがこれっぽっちも抵抗出来なくて、対抗したいとは思えなくて、結局最初から最後まで全部受け入れてしまったのだから。あれはもう罪にならない犯罪である。快楽の中で思いついた麻薬という表現はあながち間違いではないと、今でもシャルは思っている。
「……乙コーの化粧品の噂は聞いてたけど、やっぱり凄いね。これ高かったりしないの?」
「確かに一般的なものに比べて値は張りますが、それでも一般的な家庭の人にも手の届く範囲ですよ。それに私の場合は勝手に色々と送られてきますから、気にしないでください」
ズラリと並んだ大量の化粧品。
彼女はこれをシャルに分けると言ってくれた。
一夏と同部屋になることを危惧してそういった類のものを持ってこれていなかった彼女としては、これは本当に嬉しいものだった。
しかも分けて貰った物は乙コーの化粧品の中でもシャルが名前を聞いたことがあるくらいに人気のものばかり。常時品薄状態が続く様なものをこうして使うことができるなんて、1人の女性としても嬉しい。
……加えて、こうして彼女に化粧品の使い方を実際に教えて貰っていると、昔お母さんに初めて化粧の仕方を教えて貰った時の事を思い出して、それもあってこの時間はシャルにとって凄く楽しく感じられた。
「……さて、そろそろ私は夕食を作ろうと思うのですが、勿論シャルルさんも食べていきますよね?」
「え?綾崎さんが作るの?」
「え?ええ、そのつもりですが……」
そう言ってフラフラと車椅子から立ち上がろうとする彼女。
なぜそんな状態で当然のようにそんなことが言えるのか……
そういえばと思い返せば、亡くなった母も体調が悪いにも関わらずシャルの心配も他所に当然のように家事を行なっていたことを思い出す。
母というのは、どこもこんな感じなのだろうか?
思い出すとこんな姿でさえも何処か懐かしく感じるし、心が温かくなってしまう。
……けれど、
「だめ」
「え?」
「綾崎さんは座ってて、今日は僕が作るから。そんな身体で家事なんて絶対させないよ」
「で、でもいつもは……」
「絶対だめ!いいから座ってること!ほんとにだめだからね!?」
「そ、そうですか?そこまで言われては、我慢、しますが……」
その結果、母は倒れたのだ。
その時、シャルは大いに後悔した。
だから、もう二度と同じ間違いは犯さない。
……だからそんな悲しそうな目を向けられても絶対に屈しない。
ダメなものはダメなのだ。
いくらそんな上目遣いでねだる様にこちらを見てきても負けない。
心を鬼にしてでも、あの目に勝たなければならない。
シャルはこれでも料理には多少の自信があった。
今彼女の心の中に燃えたぎっているのは一つ。
少しでも彼女の負担を減らすこと……!
「よし、やるぞ……!」
……なお、この五分後に気になって彼女の様子をシャルが覗いてみたら、彼女は当然のように洗濯物を畳んでいた。いや、確かに料理よりはマシではあるだろうが、なぜジッと座っていることができないのか。
これがワーカーホリックという奴なのか。
それでも、洗濯物畳みなんて面白くなさそうなことを、見て分かるほどに楽しそうにしている所を見ると、そこまでは流石のシャルでも止めることは出来なかった。
彼女は本当に自分と同い年の女性なのか。
自分が大人になったとして同じことが出来るのか。
色々考えさせられることはあるが、こんな女性になりたいとは素直に思う。
(……一夏も言ってたけど、お嫁さんにするとしたら、男の人はやっぱりこんな人が理想なのかなぁ)
その言葉が綾崎に伝われば、一体彼女がどれほどのダメージを受けることになるのか。口に出されなかった事だけはなにより救いである。
「ぬわぁぁぁぁ!疲れたぁぁぁ!!」
「ふわぁぁっ!?」
「一夏くん……?」
あれから更に1時間程が経ち空も真っ暗になり、シャルの料理も完成に近づいた頃、一夏達は漸くドタバタと寮監室へと入りこんできた。
突然扉をあけてその場で倒れ伏した一夏の勢いにシャルは思わず驚いてしまったが、それまでベッドメイクを行なっていた綾崎さんが直ぐに近付き労っているところを見ると、やはり見習いたいと思ってしまう。
「あらら、これはまたお疲れですね。そんなに箒ちゃん達に絞られてしまいましたか」
「いや母さん、今日は私達のせいではない。あのラウラ・ボーデヴィッヒとか言う奴のせいだ」
「???ラウラさんですか?」
「そうなのよ。あいつってばいきなりやって来て『お前のことを教えろ!』って襲い掛かってきたの。良い機会だと思って私達も傍観してたんだけど……」
「やはりラウラさんは軍人なだけあって強さが桁違いでしたわ」
「結局、生かさず殺さず1時間ほどかけて甚振っていたな。15回ほど一夏がぶっ飛ばされた辺りでスッキリした顔をして帰っていったが……」
「くっそ!あいつ絶対許さねぇ……!!次は絶対ぶっ飛ばし返してやる……!」
床に這い蹲りながらそう宣言する一夏。
しかしそんな風に憤っていても綾崎さんに頭を撫でられれば酷くみっともない顔をするのだから格好もつかない。
「えっと、一応みんなの分も作ったんだけど……食べていくよね?」
「「「「もちろん(だ)(よ)(ですわ)!!」」」」
「そ、そっか。それならよかった」
お腹が減っていたのか凄い勢いで詰め寄ってきた4人は、シャルとしては普通に怖かった。
……けれどこの日、シャルはようやく本当の意味で彼等と笑い合えた気がした。
--おまけ--
「……綾崎さんは麻薬なのかな?」
「は?……あー、ついにお前も味わったのか、シャル」
「ごめん一夏。突拍子もないことを言ったのは僕だけど、何より何の否定もしない一夏に僕は今一番驚いてるよ」
「いや、まあなんとなく意味は分かったし、あの千冬姉があんだけ甘やかされてる時点でなぁ」
「あ、やっぱり織斑先生のお気に入りってそういう意味だったんだ。最初はてっきり操縦技術の話だと思ってたんだけど」
「いや、それもあると思うぜ。けどまあ、綾崎さんから操縦技術が無くても千冬姉を甘やかしてたんだろうなぁって確信もあるからさ」
「……ちなみになんだけど、弟の一夏から見て同級生に甘やかされてるお姉さんってどんな気分なのかな?」
「……流石に心配になるよな」
「あ、やっぱりそうなんだ」
「綾崎さんが男ならまあいい恋人候補が出来た〜って話にも出来るけどさ、綾崎さんもいつまでも近くに居てくれる訳ではないだろ?」
「まあ、少なくとも3年経ったらお別れだもんね」
「そりゃ千冬姉の私生活は普通に心配だし、綾崎さんが近くに居てくれると安心ではあるけど……」
「……一夏が綾崎さんと結婚したら、とか考えないの?」
「ぶっ!?だ、だからその話はするなって言ったろ!!」
「いやでも、一夏は綾崎さんみたいな人がタイプなんでしょ?」
「タ、タイプっていうか……普通に男として憧れてるだけだ。シャルだって同じ男なら分かるだろ?」
「ううん、僕としては綾崎さんは恋人っていうよりお母さんって感じがして……」
「お、お前もなのかシャル……」
「?取り敢えず、一夏は綾崎さんに恋心みたいなのは抱いていないってこと?」
「そ、それはまあ……その、今のところは無くても、そうなる可能性まで無いって言い切るのは違うというかなんというか……」
「滅茶苦茶名残惜しそうじゃん、全然言い切れてないじゃん」
「いやだって、そりゃそうなったら嬉しいのは男として当然……」
「篠ノ之さん達にはそういう事考えたりしないの?」
「は?なんでそこで箒の名前が出て来るんだよ」
「あぁ、なるほど……これが一夏の通常なんだね。つまり一夏にそうやって意識されている時点で綾崎さんは1歩、どころか10歩くらい先に行ってる訳だ。大変だなぁ、篠ノ之さん達も」
「あ、そういえばシャルは綾崎さんと何してたんだよ?」
「相談にのって貰ってただけだよ。ストレスとか、肌の手入れとか」
「……やっぱり男でも肌の手入れってした方がいいのか?シャル」
「化粧水くらいはしてもいいんじゃないかな、知らないけど」
「け、けど流石に俺が化粧水使ってる所を箒達に知られたくは……ぐぬぬ……」