悪意の種   作:メスザウルス

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一話

 

 月明りだけが照らす森の中を、裸足で歩む。

 

 「はぁ…はぁ…」

 

 怪しげな聖職者たち、三勇教の信者たちに殺されそうになった私は、何とか彼らの猛攻を振り切り、悪意に侵された地より這いずり出すことができた。

 

 思えば幸運だったのだろう。召喚された場所が古い聖堂であったために、辺りにはステンドグラスがあった。どれもこれもが劣化によってひびが入っており、突き破って外へ跳び出すには子供の力でも容易に行えた。外には塀が並んでいたが、外壁もボロボロで、ちょうど眼前に子供だけが抜けられる穴まであった。

 

 時間帯も深夜に回ったくらいだろうか。

 

 塀を潜ったすぐ傍には、人の手が入っていない獣道が存在しており、おかげで今はこうして夜闇に紛れ追手から逃げることができている。

 

 九死に一生とはまさにこの事を言うのだろう。

 

 あの男が私の処分を配下の者たちに任せたのが決定的だ。もしあの男に慢心など無く、神経質なほど用心深ければ、私は確実に助からなかっただろう。

 たらればを言えばキリはないが、それでも私を殺す人間があと一人多ければ、どうなっていたか分からない。

 

 生まれて始めての幸運が、私の命を救った結果だった。

 

 しかし、何も良い事ばかりではない。

 無傷のまま聖堂から脱せたら良かったのだが、今は全身の四割に火傷を負っている。

 やはり即席の、それもたった一本の大剣だけでは盾には不十分過ぎた。

 剣はこの小さな体を覆えるほどの幅と高さがあったが、それでも私が投影したのは中身などあって無いような贋作以下の代物。豪炎の渦を防げるわけもなく剣は壊れ、炎は私の半身を焼いた。

 

 おかげで右腕や左足、さらに左目を焼かれた私は、こうして激痛を噛みしめながら冷たい風が吹く夜の森の中を全裸で歩いている。

 靴も靴下も下着も無い。こんな体験なかなかできるものではないだろう。こうして己の状況を鑑みてみれば、最低な気分になった。

 

 左腹部から足首までを焼かれたせいで、ただ歩くだけなのに全てがつらい。夜風が火傷を負った腕や顔に当たり、剥き出しにされた神経に氷を当てたような激痛が走る。風で飛ぶ砂が傷口に入って気持ち悪く、乾いてべたつきだした組織液が鬱陶しい。

 こうして挙げていったらキリがないほど私の身体はぼろぼろだった。

 

 そして、傷においては火傷だけではない。

 

 ————————ギチギチギチギチ

 

 唐突に、私の身体から数多の剣が微細な振動で蠢くような音が鳴り、ほどなくして背中や腹、肩や火傷を負った腕から、数本の直剣が肉を突き破り生えるように出現した。

 

「うっ……!? ぐ…ぅっ…!」

 

 貫かれる痛みに喘ぎ、小さな体を必死に抑え込むように体を曲げる。

 

 突き破った肉の隙間から溢れる血液が流れ落ち、一瞬にして褐色の肌が鮮血の赤で彩られた。

 

 私は奥歯を噛みしめ、額に脂汗を滲ませながら、己の中身を押さえつける。

 

「ふぅー…っ、ふぅー…っ」

 

 大きく息を吸い、吐き出す。深呼吸を何度も繰り返し、熱を上げ暴走する回路を抑え込む。

 これは私の特性。私の魔術の根幹の部分が暴走を起こし、このように意図せず体内から出現してしまっているのだ。

 

 身に過ぎた力を使用したがために、その身を滅ぼさんとする。いわゆる代償。

 

 しかし、たかが一本。 何の変哲もない凡平な剣を投影しただけでこれほどの反動とは思いもしなかった。それもこれも、このような不完全な肉体で召喚されたからなのだろう。

 

 この体は、あの気の知れない信者たちが作り上げたもの。従来の召喚に独自の技法を加えた歪な術式により生成された肉体だ。本来の受肉した体より効率が悪く、魔力で構成されている霊体より便利じゃない。

 ただお互いの、悪い部分だけを詰め込んだような出来の悪い体。それに加え、重度の火傷に魔術行使による副作用。

 

 身寄りはなく、助けを求めることもできない。

 いつ倒れてもおかしくないような状態で、何も持たない夜道。

 この道の先に何があるのかすら判別もついていない。

 考えつく限りの最悪を詰め込んだような状況で、はたして私は助かるのだろうか。

 

 「…けど、まだ……まだ、っ」

 

 誰もいない暗闇の中で、自身に言い聞かせる。

 

 このままでは失血死するかもしれない。

 火傷を負った箇所が化膿するかもしれない。

 出血や組織液の流し過ぎで、脱水症状になる危険もある。

 もしかしたら、獣に襲われ食われるかもしれない。

 

 けれど、そんな中でも死ぬわけにはいかない。

 

 せめて何でもいい。

 ただでは死ねない。私が生まれたなら。

 この胸に巣食う感情が、まだ死ぬなと叫んでいるから。

 ただ死ぬだけだなんて、認められない。

 

 生きなければ。

 生きなければ。

 生きなければ。

 

 生きて、生きて、そして———義務を果たさなければならない。

 

 朦朧と歪む意識で私は歩く。

 誰も助けに来ない夜の中を。

 感覚は鈍いが、皮を剥がされた痛みは鼓動と共に強く感じた。今はそれだけが私が生きている証明だった。けれど、今ではそんなこと微塵も気にはならない。

 

 ————この身を焼いた以上の熱が、私の胸の中で渦巻いているから。

 

 この思いが何なのか。この感情はどこから来るのか。私の中で渦巻く義務とは、いったい何を指すのか。

 何も理解できない。分かる事など、今は何もない。

 この世界の事も、私自身も。

 だがコレは、きっと私にとって大切なもので、そして約束なのだ。

 甘く呪われた契約なのだ。

 果たさなければならない願いなのだ。

 

 湧き上がる思い。意味の分からない強迫観念。

 そんな幻想に突き動かされながら、

 

 ———ただひたすらに、私は足を進め続けた。

 

 

※※※※※

 

 

 この世には、世界を破滅へと導く“厄災の波”というものがある。

 

 それは災害であり、その名の通りの災厄。空が不気味なワインレッドへと染まり、辺りに悪鬼羅刹の魔物たちが生まれ、人々を殺し、蹂躙する。そんな悪意によって形成されたような天災のことだ。

 恵みなど一切ない。ただこの災害は破壊と混沌を辺りに撒き散らし、空と大地を血で染め上げる、まさに悪夢の日だ。

 

 この世界には、四聖勇者と呼ばれる勇者たちが存在する。

 

 槍の勇者。

 剣の勇者。

 弓の勇者。

 盾の勇者。

 

 以上の四名が、世界の破滅を防がんと動き、そして災厄の波を押し退け続けた、聖なる武器に選ばれた伝説の勇者たち。圧倒的な力をもって、理不尽な波から人々を救った英雄たちだ。

 

 槍の勇者は魔物たちを刺し穿ち。

 剣の勇者は迫りくる敵を斬り捨て。

 弓の勇者は目に映る悪に風穴を開け。

 盾の勇者は仲間を含めたすべてをその身をもって守りぬいた。

 

 彼らは圧倒的な超自然現象を前に、逃げ出すことなく立ち向かった。蹂躙され、犯され、殺される、そんな運命から人々を救い続けたのだ。

 そんな勇者たちは、時を超え、世代を変え、この世界に住まう人々の伝説となっている。

 彼らの伝承を、彼らの武勇を、感謝の念と共に途絶えることなく人々は歌い続けた。

 ああ、かの勇者たちあらば、災厄は来ず。我らに救いは訪れん。

 

 勇者は代々選ばれる。

 かの武具の意思によって。

 そして今代の勇者たちもまた、聖なる武具に選ばれた者たちだった。

 

「……」

「尚文様、そうおぼつかない表情をしてもどうしようもありませんよ。 いえ、気持ちは分かるのですが…」

 

 四聖武器の1つ、盾の聖武器に選ばれた勇者。岩谷 尚文。

 彼はいま、適当な岩に腰を下ろし、足に肘を付け訝しんでいた。その目は細く冷たいものであり、まるで値踏みするような表情だ。

 そんな彼に軽く注意をするのは、紅茶色の髪を背中まで長くした美女、ラフタリアであった。タヌキのような耳としっぽを持った亜人と呼ばれる彼女は、戸惑いながらも尚文と同じ方向へ視線を向ける。

 そんな彼、彼女の視線の先には金髪が輝くの幼き少女。青いリボンが特徴のフリル姿をした少女がいた。その背には鳥類と思わしき翼を生やしており、一見してラフタリアと同じ亜人に見える。

 

「……ラフタリア、お前はこんな馬鹿げた話を本当に信じられるのか?」

「いえ、…でも」

「ごしゅじんさまー、おなかすいたー」

「だまれ。 いいか、少なくともオレたちの旅路には食い物がいる。なのに、まさか全ての食料を無断で平らげる奴が、何一つ曇りのない顔で「腹がすいた」と言うんだぞ?」

「それはそうなんですけど…」

 

 さすがに擁護しきれないのか、ラフタリアの口調は澱んでいる。尚文は現在、宝石商人の依頼で除草剤を届ける依頼を受けている。何故かはわからないが、早急に、それも大量に必要という事で、必要な分だけ買い揃え荷物を馬車に積み向かっていたのだが、ここで異常事態が発生した。オレの目の前にいる少女、フィーロが全ての食材を食いつくしてしまったのだ。

 もちろん、普段そんなことは起きない。フィーロは足りない分は自分で食ってくる。つまり、もともと魔物であるこいつはそこいらにいる魔物なり果実なり食って勝手に腹を膨らませてくるのだが、何故か今回に限りオレたちの食料にまで手を出した。

 事の理由を聞いてみれば、どうやら近くに魔物も食える物も無く、仕方なく手を出したのだという。まったくもって信じられない話だが、よくよく考えてみればオレが積んでいた食料の全てというのは、あくまで人間にとっての全部だ。本来のフィーロはオレの二倍はでかい。そんな体でさらによく食うのだから、辺りに食える物が無ければ馬車の食料に手を出すのは仕方がなかったのかもしれない。

 

(……今後はそれを踏まえて食料を積んでおくか? いや、そうすると余分に積むものが多くなり、商業をするのに必要なスペースが———)

 

「ん…? すんすん」

 

 フィーロの食料事情について考えるオレを他所に、フィーロは辺りを見回しながら何度も鼻を鳴らした。どこか忙しないその姿に、ラフタリアが声をかける。

 

「フィーロ、どうかしましたか?」

「…食い物でも見つけたんなら行ってこい。オレ達は荷物を纏めて———」

「ごしゅじんさま、血の匂いがするー」

「なに?」

 

 若干元気をなくしたオレの言葉を遮りながら、無視できない内容を漏らすフィーロ。口調や声色から冗談のように聞こえるが、これはこいつの素だ。ただあるがままの事実を、オレに伝えただけ。てんとう虫でも見つけたように、本人はなんとも思っていないだろう。

 それにしても、血の匂いか。

 という事は、オレたちの近くで抗争があったか、逃げてきた何かがいるということ。

 

「場所は?」

「んーっとねー、あっちの方。たぶん少し走れば着くよ」

「尚文様…」

「……魔物同士の争いならいいが、人の可能性もある。———ラフタリア、荷物を見ていろ、確認だけでもして来る」

「はい!お気を付けてください」

 

 ラフタリアは嬉しそうにうなずいた。いったい何がそんなに喜ばしいのか分からないが、オレはそれに触れる事無くフィーロに跨ると、指示を出して森の中へと突入する。

 フィーロは速い。オレが育てたからなのか、他のフィロリアル以上のデカさと速度を持っている。事実、元康とのレースで魔法による妨害を受けながらも身体能力と気合で打ち勝ったほどだ。才能としても申し分ない。

 

 森の中を全力で疾走するフィーロ。整備されていない道の上で、まだらに散った木々を避けながら、景色が線でしか捉えられないほどの速度で踏破する。まるでオレ自身が風になったと錯覚するほど、その速度は尋常ではなかった。

 

「もうすぐだよ、ごしゅじんさま」

 

 前を見ながらフィーロは言った。そしてその言葉通りに、三秒も無くして目的の場所へ到着する。

 

 「っ……!?」

 

 たどり着いたのは、何ら変哲の無い場所。先ほど駆けてきた森林と大した違いがあるわけでもなく、ただ雑草や芝生が生えただけの、何の変哲もない森の中。特別な地形というわけでも、特別な何かがあったわけでもない。ただ、異常なものは存在していた。

 

 —————まるで悪魔の手から隠れるように、一人の子供が倒れていた。

 

「…ごしゅじんさま」

「じっとしていろ」

 

 フィーロは怯えたように尚文を呼んだ。普段の彼女では考えられないほど青白い声だった。

 しかし、それも無理はない。恐らく、目の前にいる子供は無残という言葉も形容しがたい死に方をしているのだから。

 

「……」

 

 オレはフィーロに指示を出すと、ゆっくりと盾を構えたまま少女へと近づく。可能性としてあり得ない話だが、オレはある国では犯罪者として知られている。どこかの馬鹿がオレを嵌めるために作った罠かもしれない。爆発などされたらオレはともかくフィーロが危ない。

 

 オレは注意深く、茂みに隠れた子供の死体を見つめる。

 草木の隙間からしか分からないが、白髪が特徴の褐色の少女だった。

 

 オレは少女を隠していた草木まで歩みより、危険がないか確認する。そして何もないことを確かめると、茂みを足で退かしながら、丁重に、割れ物を扱うように優しく、怯えるように隠れていた少女をゆっくりと平地まで動かした。

 

「…っち」

 

 鼻につく濃密な血の匂いと、口の中でウジ虫が湧くような居心地の悪さに、惨殺された死体の前で耐えきれず舌を鳴らしてしまった。

 召喚される前までは何かの死など経験したことなど無かったが、それも多くの魔物と戦い、波を経験してからは、多少の血などなんとも思わない。殺し殺されは、すでに何度も経験している。

 目の前で死ぬ奴はいた。オレの盾が間に合わず、魔物に食われた奴がいた。

 だがそれでも、これはダメだった。これだけは、オレ自身にとって耐えきれるものではない。この少女が受けた苦しみは、痛みは、到底オレでは測り知ることなどできないから。

 

 オレは少女の傍で膝を立て、注視する。

 

 はっきり言って、吐き気がするような殺され方だ。

 

 全身におびただしく広がる火傷と、剣で貫かれたような数多の刺傷があった。皮膚は爛れ、赤く膨れ上がった場所に付けられた創傷は、見ているだけで痛々しい。

 何か身元の分かるものでもと思ったが、少女は服を着ていなかった。一切、何も身に付けていなかった。

 

 攫われたのか、卑劣漢にでも襲われたのか。

 

 少女は整った顔をしていた。火傷で半分は爛れているが、それでも成長すれば美人になることは想像に難くないほどに。なら、どこぞの悪党に攫われても理解はできる。使役しているオレが言うのもおかしな話だが、奴隷なんて言う制度があるような世界だ。命の価値なんかオレがいた世界より低いし、当然人攫いや盗賊なんかの悪党もそこら中にいる。

 しかしこんな考察は無駄だ。結局は憶測の域を出ない。この少女が攫われたのか、事故によってこんな場所まで来てしまったのか。結局何も分からない。

 だがそれでも、この少女が負っている傷は、確実に人の手によって付けられたものだ。

 

 「っ馬鹿が…」

 

 ここまでの事を、人間は出来てしまうのか。

 やはり、こういう奴はどこにでもいるのか。

 

 分かっているはずだった。いや、実際に知っている。今も味わっている。人間の醜さを。そのヘドロのような害意の味も。オレは何度も何度も舐めさせられ続けてきた。誰よりも、オレは邪悪というものを知っている。だが、それでも、ここまでか。

 

 ここまで——————悪意に塗れた奴が居るのか。

 

 その事実に、内心で虫唾が走る。

 オレ自身、大した人間ではない。勇者と名乗ってはいるが好きでなったわけではないし、自分を良い人間であると思ったことなど一度もない。どちらかといえば、オレは確実に悪だろう。

 

 オレは人の善悪を問うつもりはない。どうでもいいから。そんなものを問いても、聞いても、一銭の金にもなりはしない。無駄な感傷に囚われていては、次の波で生き残れない。

 だから、オレは決して同情はしない。

 

「フィーロ」

「んー?」

「馬車に戻ってスコップを取ってこい。こいつを埋葬する」

「まいそうってなに?」

「いいから取ってこい。それと、ラフタリアには何も言うな。何か聞かれたら適当にごまかせ」

「うん。ごしゅじんさまがそう言うなら、そうするね。でも、フィーロおなかすいたー」

「後で作ってやるから早くしろ」

「はーい!」

 

 先ほどまでの怯えなど無かったかのように返事を返すフィーロ。彼女はオレの指示に頷くと、ドドドと地面を鳴らしながら走って行った。よくこんな場面を見て腹を鳴らせるなと思ったが、やはり鳥と人間では価値観も感覚も違うのだろう。しかし、フィーロは気持ちの切り替えが早いだけで、決して何も感じていないわけじゃない。事実、オレが声をかけるまで一切言葉を発しなかった。

 少なくとも、あの食いしん坊で能天気な鳥でも、多少の同情は覚えたのかもしれない。

 

「よっと」

 

 決していい気分にはなれないが、それでもこの場をラフタリアに見られなかっただけでも良しとしよう。あいつは多少甘すぎるところがある。いろいろと見切りをつけているオレですら最低な気分なのだ。きっとこいつを見たら、体調を悪くするに違いない。これからまた馬車の移動がある。事が祟って体調を崩されても厄介だ。

 

 オレは手を両膝につき、軽く声を出しながら立ち上がった。

 

 とにかく、せめて墓を作るなら立派とは言わずとも目印になるものは必要だろう。フィーロが戻ってくるまでに時間はあまりないが、それでも何もしないで座っているというのも効率が悪い。

 オレは適当な大きさの岩でも探しに行こうとした時、

 

 

 —————何かがオレの足を掴んだ。

 

 

「な…っ!?」

 

 いきなりの事で全く反応ができず、むしろ驚きの声を上げる尚文。しかし彼は足を掴まれた以上に、その表情には形容し難いほどの驚愕に染められた。

 尚文の足を掴んだのは他でもない。先ほどまで力なく横たわっていた少女だったのだから。

 

「ひゅー…っ、ひゅー…っ!」

 

 少女は今すぐにでも灯が消え去りそうな程、表情は青く苦しそうだった。燃え尽きた灰に再び火を灯そうと必死に空気を送るように、呼吸を繰り返していた。しかし、それほどの瀕死の状態にもかかわらず、足を握る手には想像以上の力が込められていた。

 

「お、まえ…」

 

 尚文は驚愕する。あり得ない事実を前に言葉を紡ぐことができない。

 この少女は先ほどまで死んでいた。それを確信していた。確認も取った。

 なのに生きている。オレは何もしていない。しかしこの少女は、何の因果かその命をまだ失ってはいなかったのだ。

 

「ぁ…が、…っ」

「喋るな。———飲め」

 

 オレは直ぐに気を取り戻すと、懐から回復のポーションを取り出し、栓を開け少女の口へと持っていく。まさか生き返るとは思っていなかったが、それでもこの少女は重体だ。呼吸していること自体が奇跡に近い。いや、事実奇跡なのだろう。

 

「———っ…げ、っぇ…っ! エホッ…ゲホッ…!」

 

 オレは少女の口の中にポーションを注ぐが、こんな弱り切った体では何かを飲み込めるはずもない。少女は苦しそうにポーションを吐き出してしまった。

 

「…っくそ」

 

 思わず悪態をつく尚文。彼はポーションを駄目にされたことに苛立ちを募っているのではない。眼前で再び命が消えかけている事実に焦燥感を抱いているのだ。

 せっかく生きているのに、奇跡が目の前で起こっているのに、このままではこいつは死んでしまう。しかし、少女の弱った体では自発的に物を喉に通すのは難しい。乱暴に飲ませ、もしも肺へと入ってしまえば、直すどころか止めを刺してしまいかねない。

 それに、いくらポーションとはいえ限度がある。最上級のポーションならば掛けるだけで治せそうなものだが、オレが持っているのは量産品の低級ポーション。効果などたかが知れている。

 飲ませるタイプではなく、傷に塗る物もあるが、はっきり言ってヒール軟膏は応急処置程度の効果しかない。所詮気休めだ。こいつの命を繋ぐには何としてでもポーションを飲ませる必要がある。

 

「力の根源たる盾の勇者が命ずる。理を今一度読み解き、彼の者を癒せ。『ファスト・ヒール』」

 

 試しにオレが使える回復魔法をかけるが、やはり大した効果にはなっていない。傷が深すぎるんだ。

 

 町まで行けば教会へ行って上位の回復魔法をかけられるが、町まで半日はかかる。それまで生きていられないだろう。それに、フィーロが引くあの乱暴な馬車に重体の少女が乗れば、最悪死ぬかもしれない。

 

「尚文様―!」

 

 どうこう考えていると、声が森に響いた。

 まさかと思い声の方向を見れば、ちょうど草むらから巨大な影が飛び出してきた。

 それは、フィーロに乗ったラフタリアだった。

 

「尚文様…!これは、いったい…!」

「説明はあとだ。ラフタリア、来たからには手伝え。フィーロ、お前はあとで話を聞かせてもらうからな」

「えー、なんでー?」

 

 フィーロから降りたラフタリアが、オレと反対側に位置取る。彼女は少女の上から下までを観察し、次第にその表情を悲痛に歪ませていった。

 

「…っ、なんて惨い…」

「感傷は後に回せ、今はこいつだ。見ての通り弱り切っている。治すためにポーションを飲ませたいが、それも難しい。」

「なんとか、ならないのでしょうか?」

 

 ラフタリアは縋り付くような目でオレを見る。正直に言って、こいつに対してラフタリアができることはなにもない。そして、それは今のオレも同じだ。

 だがこのガキは弱っている。自分の力で生きることは出来ない。誰かが手を差し伸べなければならない。

 何か、方法は無いだろうか。無理やり飲ませるのは仕方がないとして、それでもうまく飲み込めるように誘導してやる必要がある。しかし、そんなうまい方法があるのか?

 道具もなく、知識もない。チューブのような管があれば直接胃に流し込めるが、そんなものを持ち運んでいるわけもない。オレは勇者であって、医者ではないのだ。

 

 いったい何がある。この少女に対してできることは何かないか。こういう緊急時に、元の世界のオレたちは、いったいどうやって乗り切った?

 

 つらつらと元の世界の事を思い浮かべる。電気ショックや心臓マッサージ。意識の無い者への応答や意識レベル。あとは自動車免許で習った……ああ、そう言えば、アレがあったか。

 オレはちらりとラフタリアを見る。彼女は不安げな表情を浮かべながら、首を傾げた。

 はっきり言って、こんなガキにここまでしてやる義理はない。だが、このまま死なれれば目覚めも悪い。どちらにせよ、今は緊急時。即座に決断を下さなければならない。

 

「チッ…悪いがクソガキ、お前を生かすにはこれしか思い浮かばん。だが命を救ってやるんだ、あとから恨みは聞かないからな」

「尚文様…?」

「ラフタリア、お前に頼みがある」

 

 オレはもう一本。懐に入れていたヒールポーションを取り出す。皮とコルクで詰められた栓を開けると、それをラフタリアに渡した。

 

「あ…えっ…?」

 

 そんなラフタリアは、尚文のいきなりのお願いに戸惑いながら、急に渡された瓶を受け取る。

 彼女は瓶と尚文を交互に見ていると、尚文の背で何かを見つけた。黒くてツノの生えた、小さな人影。

 それを見た瞬間、嫌な予感が電撃のように駆け抜けた。

 

「そう怯えなくてもいい。お前に頼むことは難しい事じゃない。こいつにポーションを飲ませてほしいだけだ、」

 

 違う意味で怯えるラフタリアをよそに、端的に尚文は続ける。

 語られた内容は、何も難しいことはない、ありきたりなこと。けれど、ラフタリアの心は何も安心できなかった。

 

 湧き出た汗が頬伝い地面に落ち、知らず知らずのうちに固唾を飲みこむ。

 心底申し訳なさそうな表情をする尚文とは対照的に、彼に似た黒いシルエットは笑っていた。

 今思えば、あれは悪魔だったに違いない。

 あの幻覚は、逃げろと叫ぶ自分が見た、最後の通告だったのだ。

 

 ラフタリアは決意も定まらぬまま、尚文に告げられた。

 

「————口移しで」

 

 ラフタリアの瞳から、光が消えた瞬間だった。

 





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