朧気な体が、闇に揺蕩う。
何もない閉ざされた世界の中で、私は雲に乗るようにぷかぷかと浮いていた。
ぬるま湯に浸っているような、熱くも寒くも無い、一切の苦痛が存在しない世界。苦しみも悲しみも何もない。ただ己自身の存在と、微かな心地よさだけがあった。
まるで母の腹の中のように、羊水に沈むがごとく安心感だけが胸に渦巻く。このまま安らぎの中で永遠に閉じこもって。一切の全てを遮断したまま完結させる。
ああ、それはなんと、平和で素晴らしい事なのだろうか。
ここには温もりがある。痛みの伴わない温もりだけが。何も傷つかない世界が。
幸せしかない。
幸福感だけが存在する。
痛みはない。
苦痛はない。 絶望も、失望も、負の感情全てが存在しない。
『———おいで』
声が聞こえた。
甘くて蕩けそうな、慈愛に満たされた声が。慈しみを込めた愛の囁きが。私の耳元に触れた。
(……誰だ…)
ゆっくりと体が移動し、まるで海底の砂の中に溶け込むように、ずぶずぶと下へと沈んでゆく。
淡く痺れた脳髄で、ゆらりと浮かんだ疑問符。
私は、私を呼ぶ誰かが気になった。
全てが泡沫と化した世界の中で、なお私なんかを呼ぶのは誰なのか。
重く微睡みを覚える瞼を、無いに等しい力で持ち上げようとした。
『見ちゃ、だめだよ』
そっと、何かが目を覆った。
それは温かくこの空間のように安心感があった。まるで眠る赤子に子守唄を歌うように私に穏やかな安らぎを与えてくれる。そんな手だった。
よく分からないけれど、きっとこの手の主は私を思ってこうしているのだろう。
きっと外には怖い物があるから。見ちゃいけないものがあるから。こうしている。
何もないと思っていた空間は、ただ私が目を開けていなかっただけで本当は何かがあるのだろう。
この手はそんな何かから、私を守ろうとしているのだ。
私を傷付け、甚振り、壊そうとする—————そんな何かから。
なら、きっとこの手の言う通り私は何も見ない方が良いのかもしれない。
考える事無く、苦しむことなく、ただ眠り続ける。それが私にとっての幸福なのだろう。
それを理解したいま、私はもう何も言わない。何かを言う必要はない。
『——! やめろ…!』
声の主が、焦燥の声を出した。
この声は私を幸せにしようとしてくれている。この声は私を案じてくれている。だから、これの言う通りにしていれば、私は幸福になれるのだろう。この手の温もりは本物で、伝わる優しさに嘘はなかった。何もかもが私のためと用意してくれていた。
この空間も、この感覚も、全てが私のためにと、この世界の主が与えてくれた確かな愛。
憐れんでくれたのかもしれない。こんな私を、愚かな娘と微笑んで。
ただ私は、そうぼんやりと考えながら—————振り払う様に瞳を開いた。
「……?」
気づけば、私は縁側に座っていた。
急に体へ流れ込んでくる感覚。ひんやりとした夜の風も、心地いい木材の匂いも、地面に足を付く感覚も、全てが私の中に戻ってきた。
私は腕を見る。着流しを纏い、足には草履をはいていた。
空を見上げれば見事な満月が空に浮いており、不思議と心が洗われる。月に心を奪われていた私は、気付けば隣に一人の男が座っていた。
「…」
驚きはない。むしろ、この男がここにいることは、当たり前のように感じた。この人がいて、初めてこの場所は意味を持つのだと。
男は静かに、老木のような温かさを含んだ瞳で私を見つめていた。この人がさっきの声の主かと思ったが、違う。
あれはもっと黒いものだ。腐臭に塗れた、退廃する何か。よく見れば、この人の中にもあの黒いものが宿っていた。
これは、いったい何なのだろうか。
私は男を見上げた。顔はやせ細り、今にも倒れそうな白い肌。風が吹けば折れてしまう枯れ木のようだった。
「…っ」
見ているだけで胸が苦しくなる。まるで何かが風船のように膨らんで、心の中を圧迫する。恋する乙女のように熱く、けれどそれ以上の何かに心を馳せていた。
自分の唐突の感情に困惑する。この男に見覚えはない。この男の名も知らない。けれど、私は感じている。憂鬱を、悲哀を、憤懣を、尊敬を、苦痛を、憎悪を。そして、それらすべてを傾けても及ばない────愛情を。
自身の胸に宿った言いようのない激情の渦が、暴れまわるように私の中を溢れ出る。私は。知らず知らずの内に震えていた手で、ゆっくりと、男の袖を握った。
「…! な、んで…?」
袖を握る。たったそれだけで、私の両目から涙がこぼれ落ちた。先ほどまで感じていた感情の嵐が一瞬にして溶け、一つの感情へと変わっていた。
それは悲しみじゃなく、喜びだった。
ただ、何故かうれしくて、苦しくて、堪らなかった。
「く…っ、ぅ…」
迷子の幼子が長い年月をかけ、ようやく親を見つけたような喜び。そして、それ以上の安堵が胸の中が膨れ上がる。
ぼろぼろと涙が止まらない。恥ずかしくて、嗚咽を漏らすことはないけれど、涙だけは止まってはくれなかった。
目の前の男は何も言わない。ただ、私を優しく見つめるだけだ。それが受け入れてくれているように思えて、感情が張り裂けそうだった。
何故か分からないけれど、うれしさの感情以外にも何かがこみ上げてくる。先ほど袖を握る際に感じたこの感情は、そう。あえて言葉にするなら憧れだ。
私は何故かこの男に、一抹の懐かしさと、大きな憧れを抱いているのだ。
この男のどこに心を焦がしたのか分からない。けれど、単純なものなのだろう。きっと、生まれる前の私が抱いていたのだ。そして、それが私に受け継がれている。偽物である私に、ただ作られただけの模造品に。
(なら、それなら—————よかった。)
意味の分からない安堵。けれど、この憧れを私の胸に抱くことができたのなら、それでいいと思えた。贋作でも、私はもう一度、甘く呪われた誓いを思い出すことができたのだから。
私はするりと袖から手を離すと、縁側から立ち上がった。
「行ってくるよ」
砂利を踏み鳴らしながら、この屋敷の出口へ向かう。
男からの返事はない。その表情に変化はない。けれど、最後に私を見送ってくれたことが、とてもうれしかった。
※※※※
瞼を薄く開け飛び込んだのは、布を隔てて差し込む薄い光だった。
「……戻れた、か…」
小さく独り言ちる。けれど、私が再び日の光を見れているという事は、どうやら私はまだ死ななかったらしい。つくづく幸運なことだ。
誰かに救われたのか。みれば毛布を被せられ、挙句の果てには服まで着せられている。私自身、死を覚悟していたのだが、よくこんな怪しげな少女を拾い上げたものだと、自身の事ながら少し他人行儀に笑ってしまった。小汚い娘を拾い上げるようなもの好きは、いったいどんなお人よしか、それとも邪な何かか。
どちらにせよ、最低限礼は言わねばなるまい。私はその誰かとやらに大きな借りが出来てしまったのだから。私は重く感じる体を起こし、頬を伝っていた涙を拭きながら、なんとなく振り返ると
「…フ…っ…! …フ…っ…!」
大きく呼吸を乱しながら、小さく身を寄せる3人の家族がいた。
私より小さな少年は恐怖により洩れそうな悲鳴を両手で必死に抑え。母親らしき人は震える手で嗚咽を漏らしながら神へ救いを求め。父親らしき男は冷や汗を流しながら両手で小さな斧を握りしめていた。
彼ら全員が怯えるように。何かから逃げるようにそこにいた。
「いったい…」
何があったと続けようとしたが、私の背後から流れる光が強まったことにより、言葉を発することはなかった。
「〜〜〜〜っ! 〜〜〜〜!!?」
目の前の少年が、恐怖に堪えきれず悲鳴を上げた。男は息も絶え絶えで、女は壊れたようにぶつぶつと呟く。振り返った私の視線の先には、巨大な花の中心に百を超える目玉を持った化け物が、外界と遮断していた膜をめくりこちらを覗いていた。
「ギィィイィィイイ——————!!」
私達を見つけた化け物が、ぎらついた牙を開きながら咆哮する。口から粘液をまき散らし、私の鼻に甘い腐臭を漂わせる。
目覚めたばかりの私も状況を飲み込むには十分だった。すぐ側にいるのだ。可視化できるほどの邪悪を全身から洩れ立たせ、食欲と虐殺を主として作り上げられた怪物が。目に映るものを殺しつくす化け物が。
理解はできずとも納得はできる。彼らがこれほど怯えるのも無理はない。
これは悪鬼だ。醜悪を詰め込み、悍ましさを追求し尽した怪物の姿なのだ。
私は胃を掴み捻り絞られる気持ち悪さを覚えながら、近くにあった瓶を投げつけた。
コン、
「————?」
化け物にあたった瓶は、そんな滑稽な音を立てながら落ちていった。蚊に刺されるほどにも何も感じていない化け物は、しかし自身に当てられ転がる瓶に視線を向ける。
「にげろっ!!」
私は背後で怯える彼らに叱咤を飛ばす。全員で逃げるなら、化け物が気を逸らした今しかなかった。ただの瓶をぶつけただけで生まれたチャンス。こんな奇跡はもう起きない。けれど、心を恐怖に埋め尽くされた彼らに私の声は届かない。いや、聞こえてはいるのだろう。けれど、彼らの本能が、動くという行動全てを制限してしまっているのだ。
—————生き残る道筋が、急激に細ばるのを感じた。
(このままでは誰も…!)
そう一人悟った私は、震える男を殴りつけ、手に固く握られていた手斧を奪った。
こんな狭い空間では何もできない。せめて囮になるにも、時間を稼ぐにも、広い場所へ移動しなければ話にならない。
流れるように、私達を囲む布に斧を振り下ろす。布は革製で分厚かったが、ピンと張っていたおかげでこんな子斧でも孔は開けられた。私はそこから芋虫のように体を捻り出すと、重力に従い地面に落ちる。うまく受け身を取れなかったせいで膝を擦りむいたが、素直に痛がっている時間はない。私は馬車の中へ入り込もうとする化け物に向かって走り出し、背後から渾身の力を込めて子斧を振り下ろした。
「————」
「くっ…!」
ズン、と音を立てて振るわれた斧は、化け物の身体に入り込むことはなかった。
渾身の力を込めたというのに、傷どころか全身を覆うツタの一本すら切れていない。馬車へと入り込もうとしてた化け物の動きがピタリと止まり、前を向いたまま人体を無視した挙動で右腕を振りぬいてきた。
「———っつ」
膝を折り、身体を後ろに倒して振るわれた剛腕を紙一重で躱す。ツタが絡まっただけの歪な腕は、空気を巻き込みながら鼻先を掠り通過していく。化け物は花の頭をこちらに向け、その数多に蠢く眼球を私に定めた。どうやら中にいる彼らより私を優先と認定したらしい。化け物は足を振り上げ低体位の私を踏みつぶそうとするが、私は砂に塗れながら転がりそれを躱す。
私の身体があった場所に一トンの重りでも落としたような地揺れが起き、小さな砂が宙を舞う。私はそれだけで、こいつの攻撃を一度たりとも食らってはならない事を察した。
「はっ…」
逃げるように立ち上がり、眼前に化け物を見据えながら、止めていた息を一瞬で吐き出す。そうして再び息を吸うと、息を止め——————振るわれる剛腕を屈んで躱す。
「ギッ…!ギィ…!」
躱す、躱す、躱す、躱す。
遠慮なしに次々と放たれる必殺を、私は躱し続ける。ツタを大量に巻き付け肥大化した剛腕は、空気を押し退け、潰し、地面を抉り取った。それらすべてが、私に死を与えるべく振るわれ続ける。どれもこれもが体重移動も無い腰の引けたものだというのに、その一挙一動の全てが凶器。
いったいどこからそんな馬鹿力を出しているのか。まさに生物としての常識を超えた化け物だ。
一撃でも当たれば即死。そんな圧倒的不利のなか、私は未だ命を保っていた。乱暴に振るわれる攻撃を、全て慎重に躱し続ける。
振りぬかれた後の突風。一度踏み込むたびに揺れる大地。そこから生まれる恐怖をこらえながら、私は化け物の全てを見定める。一度でも恐怖に囚われてしまえば、私の命は潰されるから。
——————背筋が冷たい。
——————全身から噴き出す汗が鬱陶しい。
——————恐怖で足が嗤いそうになる。
死の乱舞の中、全神経を総動員させまともでは無い化け物の動きを見極め続ける。そんな神業を行い続けているのだから、当然削られるように精神と体力が疲弊する。けれど、私は一切を見逃さない、見逃すわけにはいかない。その挙動、仕草、醜悪な口から洩れる呼吸までの一切から、次の一秒を手繰り寄せる。
勘では避けない。全てを予想し、抗い続ける。千切れそうなほど細い一糸を、何度も何度も手元に引き寄せ続ける。
そうして稼いだ時間。急に化け物の動きがピタリと止んだ。
化け物から距離を置いた私は、突如として発生した時間で上がっていた呼吸を整える。正直言って、今止んでくれたのはありがたい。相手はどうか知らないが、こちらの体力は限界に近かった。
何度も深呼吸を繰り返しながら、ちらりと馬車の方を見る。彼らは、うまく逃げられただろうか。それを確認する時間も猶予も無いけれど、私ができるのはこいつを引き付け時間を稼ぐことぐらい。
あわよくば殺したいところだが、子斧であってもツタ一本ビクともしないのは予想外だった。それを多重に巻いたこいつの身体を、私では切り裂くことは出来ない。今ある魔力を使い全力で身体強化をしていても、せいぜい1本切断できたかどうか。
運よく生き延びたと思えばこの窮地。この運命を作り出した神がいるなら、是非とも地獄に落ちてもらいたいものだ。
自身の運の悪さに辟易とする私だったが、眼前の化け物が再び動きを見せたことで、余計な思考をシャットアウトする。さて、こちらは少しでも回復することは出来たが、向こうは何をしていたのか。
出来ればもう少し休みたかったと愚痴るも、相手は待ってくれない。化け物は苦しそうに喉元を抑えながら、数多の目玉を充血させた。
「ギ…グ、ギ、ィイイイイァァアアア″ア″ア″—————!!」
ぐぱぁ。
ギラギラの歯を開き、粘液を垂らしながら、咆哮と共にずるりと管のようなものを吐き出した。赤みがかったピンク色のその管は、呼吸するように口を伸縮させ、象の鼻のようにゆらりと動く。
「う…ッ」
より濃密な匂いが辺りに充満し、私の鼻を刺激する。胸焼けを起こしそうなほど甘く、気持ち悪い。まるで腐った魚を香水に漬けたような激臭だった。
私は思わず顔を顰め、腕を鼻に押し当てた。けれど、口から息を吸ってもこの匂いが消えることはない。鼻から吸わずとも、口から取り入れた空気が鼻孔の裏を刺激したからだ。堪えきれない私は咄嗟に自分の着ている衣服を掴み、己の鼻へと押し当てた。たとえ自分の匂いでも、他の香りを嗅がなければ吐いてしまいそうだった。
匂いに悶える私に化け物は管の口を向け、そこから液体を噴出させた。
空気中に飛び散る黄色味がかった液体。始めから嫌な予感を感じ取っていた私は、大きく跳ぶように左へ倒れ込む。しかし、撒かれた液体を完全に避けきることは難しく、数滴ほど背中に掛かってしまった。
——————————激痛
「いぃッ——!? ヅう、っ…ぁ"あ"!!?」
まるで無理やり針をねじ込まれたような痛みが脳へ走る。この痛みには妙な既視感を感じた。この痛みはそう、まるで炎で身を焼かれた時と同じ痛みだった。しかし、少し違う。止まらないのだ。体を焼かれた痛みではなく、焼かれ続ける様な痛みが、ずっと止まらない。赤く熱した鉄棒を、ずっと押し付けられている気分だった。
焼ける音を聞き視線を寄越せば、液体がかかった地面が泡を吹きながら蒸気を上げ溶けていた。
(あれが、もしまともに掛かっていたら…)
そう考えるだけでぞっとした。恐らくどころか耐えられない。確実に死ぬ。もはやこれは運がどうこうとかそういう次元の話じゃない。私は一瞬でドロドロにされるだろう。地面を溶かすほどの酸を吐き出すなど、ふざけるな。食らえば即死するほどの剛腕を有し、岩を溶かす程の溶解度を持った液体を吐き出す生物が存在するなど、どうなっているのだこの世界は。人間を生かす気があるのか。
愚痴を漏らしながら立ち上がり、痛みを食いしばりながら私は走る。あんなものまで持っているのなら、なお止まってなどいられない。潰されて死ぬか、溶かされて死ぬか。私はどちらも遠慮する。
「ギィイィィィイイイ!!」
逃走を開始した私の背を、化け物が追いかけてくる。植物のような見た目の癖に、熊やライオンのように襲い掛かるそれは、お前は何科なんだと突っ込みたくなる。しかし入れている余裕はない。焼かれた背中が空気が触れ、常に針を刺すような痛みを発し続ける。
化け物を連れ、目的もなく走り続ける。化け物は思ったより鈍足だ。けれど、少しづつだが距離を詰められている。私の体力もあまり持つ方ではない。いったいどれほど時間を稼げれば良いのか、酸欠になりつつある脳が隅でそう弱音を吐いた。
命を賭けた鬼ごっこ。これ程楽しくない鬼ごっこはない。捕まれば死ぬ。転べば死ぬ。生きている限り終わりは無く、死ぬ事でしか終わらない。とてもゲームと呼べるほど甘いものではない、今生初めての最低な鬼ごっこ。なぜ私の始めては最低の2文字が必ず付くのだ。私は呪われているのか。なら呪いを解いてくれ。もしも解いてくれたのならば、満漢全席を振舞った後にマッサージから部屋の掃除までの雑用を、文句無くこなして見せると誓う。
私は裸足で走り続ける。石が足の裏にめり込み涙が出そうになるのを歯を食いしばって必死に耐える。私を救ってくれた人よ、感謝している、ありがとう。だが服ではなく、靴も履かせて欲しかった。
やがて、私は壁に退路を絶たれる。行き止まりだ。この塀は私では越えれないし、左右はテントが邪魔で逃げられそうもない。斧でテントを割いて逃げる時間はない。あまりにも距離が近すぎる。割いてる間に捕まるだろう。
「はぁ………私の運はどうなっているのか。貴様も、私のような小娘なんぞ追いかけるとは、他に有意義な時間を過ごせなかったのかね?その大量の目を活かして読書でもすれば良い。それだけ有れば一度に十冊は読める。お前に脳があればの話だが」
「キィぃぃぃぃ!!」
「どうやら無かったようだな!」
否応もなく突進をくりだす化け物に対し、意味の無い皮肉をぶつけながらギリギリの所で回避する。化け物の巨体は背後の塀へ衝突し、その一部を破壊した。
ズンと辺りに衝撃波が渡り、波のように舞い上がった砂埃が化け物のタックルの威力を物語っていた。
化け物は荒々しくへし折れた堀を引き抜くと、その剛腕を持って全力で振りかぶる。
「────ぁ」
想像を逸した化け物の剛力とその手段に、私は瞬時に悟る。己の死を。
体勢は崩れた。走り続けたせいで足も動かない。私の様な小娘が今更どうにかできるような状況ではなくなってしまった。いや、それは言い訳に過ぎない。
一瞬でも思考が停止してしまったのだ。それがたった1秒であっても、相手の脳筋過ぎる戦法とそれを為せる力を前に、私は呆然となってしまったのだ。
なんとも間抜けな終わりだと思う。相手を見くびっていたわけでもないのにも関わらず、その足を止めてしまったのだから。
私はスローとなった世界の中で己の敗因を思う。己への後悔と嘲笑を向け、しかし今更何も出来ない。世界が緩やかに見えるようになったからと言って、私が速くなった訳では無い。疲労が無くなった訳でもない。私はこのまま死ぬのだろう。ここで、この場所で、ただのシミとなってその内臓を撒き散らしながら、無様に死ぬのだろう。
────いいのか?
脳内で過ぎる、己の声。
────このまま死ぬのか?
脳内で響く、心の声。
────救われたのにも関わらず、お前はこのまま死ぬのか?
救われたのに、救ってくれたのに、何も出来ないまま死ぬ。何もしないまま死ぬ。何も為さないまま、誰も救わないまま死ぬ。それは、私に許されることなのか?そんな自由が、傲慢が、私に許されるとでも?
────ありえない。
そんな事は許されない。まだ誰も救っていない。コイツをこのままにしておけば、きっと誰かを殺すだろう。さっきの親子も、走る間に見かけたテントに隠れる人々も、全てを全て眼前の化け物は殺し、潰し、血肉に塗れながら人々の希望を貪り食うだろう。そう考えるだけで憎しみに似た使命感が心臓を包み込むのを感じた。
許せない。そんな未来は許せない。ワタシが決して許容出来ない。
私は問う。自分に問う。贋作よ、偽物の英雄よ。お前はなんのためにココニイルノダ?
全身の血潮が沸騰し、撃鉄を打つ。熱した鉄を叩き火花が散るように紅蓮と染る視界。眼前に迫る死を前に、私は全ての魔力回路を起動。限りある魔力を注ぎ込む。
────願うことはただ1つ。
「トレース・オン」
私の義務を果たす。