復讐の炎がこの身を焼き尽くす前に   作:上光

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十年前、エスティア

 淡い光が視界を覆い、続いて一瞬の浮遊感。

 光はすぐに消えて、十分な広さをもった無機質な部屋が視界に入る。数秒前までいた部屋と同じつくりの、だが確実に異なる部屋。

 ウィルは先ほどまでミッドチルダ中央部のクラナガンにいたが、わずか数秒で西部のエルセア地方に移動した。

 鉄道でも数時間はかかる距離をこうも一瞬で移動できるのは、異なる空間を歪めて同期させる転送装置という魔法文明の利器のおかげだ。

 

 ウィルがたった今利用したような転送装置は、特定の場所に設置された転送施設間を行き来するためのもの。

 一方、次元空間航行艦船の転送装置は、PT事件でアースラがウィルや武装隊員を海鳴沖や時の庭園に転送したり、逆に船へと召喚したように、任意の場所に転送することができる。

 次元航行艦船が転送元と先の座標の相対的な変化、そして魔力素の偏移を観測できるだけの高性能なレーダが多数有しているからこそ可能な芸当だ。

 

 技術力の低かった旧暦の頃は、転送機能付きの次元航行艦船を建造するには船と同体積の金塊が必要とまで言われており、当時の管理局はベルカ崩壊以前から存在するロストロギアまがいの物をそのまま運用していた。

 管理局の部隊も今のように流動的に配属先が変わることは少なく、一つの世界の一つの地域に十年単位で腰を据えて活動するのが当たり前。運用できる艦船が少ない海よりも陸の方が発言力が高かったと聞く。

 

 

 転送施設から出ると、いまどき珍しく石畳でできた道がわずかに右曲がりの弧を描きながら前方に続き、道の左右には緑の広場、その先には広大な共同墓地が広がっている。

 

 ここはメモリアルガーデン。エルセア地方の共同墓地にして観光名所。

 管理局の中枢たるミッドチルダに、複数の次元世界から集まる人々のため、様々な文化に配慮した巨大霊園が新たに必要として、半世紀前に次元世界規模のコンペによって設計された。

 クラナガン市民や、管理局の局員の墓の八割はここにあると言っても過言ではなく、ウィルの父――ヒュー・カルマンの墓もそこにある。

 

 霊園は埋葬様式を始めとしてさまざまな要因でわけられており、エリア間はレールウェイで移動する。

 花壇や池が要所に配置され、霊園をただ墓石が並ぶ無機質な墓地ではなく光と色彩あふれる庭園へと変えている。礼拝所ですらコンペで選出され、後に管理世界中に名を轟かせた有名設計者のデザインだ。

 

 ウィルにとっては何度も通った道なので、道を確認することもなく景観を楽しみながら散歩気分で歩く。入場口は人も多く騒がしいが、数分も歩けば喧騒は枝に止まる鳥の囀りよりも目立たなくなる。

 空を見上げれば、思わず飛びたくなるような透き通った青空。雲量は二。空の青と雲の白のコントラストがはっきりとしている。

 

 ヒューの墓がある区画が見えてくる。その区画は、殉職した局員たちのためのもの。

 管理局には殉職者に対して、全ての手続きと費用を管理局が負担して墓を建てている。ヒューの墓もその制度で建ててもらった物だ。非常に簡素で飾り気のない、墓として最低限のもの。

 

 ヒュー・カルマン、と名が刻まれた墓石の前に立つ。ウィルの一人目の、そして実の父親の名前の刻まれた墓だ。

 

 ウィルがまだ四才の時に亡くなったため、どんな人物なのか、本当のところはよく知らない。

 もちろん経歴くらいは知っている。新暦二十八年に生まれ、五十四年に亡くなった。享年二十六才。本局武装隊所属で魔導師ランクは空戦AAA。

 生まれはミッドチルダ以外の管理世界。十代前半の頃に自分の親戚――当時士官であったレジアスのもとを訪れ、彼に入学と奨学金の手続きをしてもらって訓練校に入った。卒業後は陸士部隊でめきめきと頭角を現し、数年後本局の武装隊から勧誘を受ける。

 この時、ヒューとレジアスは大喧嘩をした。あくまでも地に足をつけて、一つの世界を守るべきであると唱えるレジアスと、任務の危険が小さい地上に必要なのは突出した戦力ではなく数であり、自分のように高ランクの魔導師は力を存分に発揮できる場所――危険な戦場で戦うべきだというヒューの主張がまっこうから対立し、そのまま喧嘩別れとなった。

 その後結婚して子供が生まれてからも喧嘩は続いていたが、妻を病気で亡くしたことをきっかけにして、レジアスと和解した。当時次元航行艦船付の武装隊に配属されていたヒューは、船が長期哨戒に出るとウィルの面倒をみることができなくなるので、その間ゲイズ家で預かってもらうために頭を下げたそうだ。

 よくよく考えてみると本局にも子供を長期間預ける施設くらいあるので、単にレジアスと和解する方便にウィルを使ったのではないかとも思う。

 

 こんな経歴を知ったのは、ウィルが士官学校を卒業してからのことで、それまでレジアスは――いや、レジアスだけではなく、ウィルの周りの人々は、ヒューのことをまるで英雄か何かのように語ってくれた。幼いウィルが自分のそばにいない父親のことを恨まないようにと、周囲が気づかったからだろう。今では聞きなれたレジアスの海への不満話も、幼い頃は一度も聞いたことはなかった。

 その結果、ウィルの中で、父は天下無敵のヒーローとして確立されていった。憧れであり、尊敬であり、もはや崇拝にも近かった。帰ってくる日を指折り数え、急な任務で帰ってこれなくなれば事件をひきおこすような悪に対して本気で怒ったものだ。

 父のことが、本当に、誰よりも、大好きだった。

 

 

 そんなヒューの最後の任務が、ロストロギア『闇の書』

 闇の書は、十年から二十年ごとに世界に現れて、多くの犠牲者を生むロストロギアだ。十年前に現れた闇の書の捕獲、または破壊のために、管理局は複数隻からなる艦隊を派遣した。戦いの果てに、闇の書とその主を捕えることに成功。

 ヒューの配属されていたエスティアは増援として派遣されたので、到着した時には争いはほとんど終わっていた。しかし先遣部隊は随分と消耗していたため、ほぼ無傷だったエスティアが捕獲した闇の書を保管することとなり――研究施設に輸送する途中に、闇の書が動き出した。

 エスティアの制御を奪おうとした闇の書を止めるために、管理局は他の艦船による攻撃で、エスティアごと闇の書を消滅させた。

 

 闇の書事件にかかわることになった艦船には、魔導砲アルカンシェルが装備されていた。効果範囲百キロメートル以上。範囲内に存在するものを、この世から消滅させる兵器。

 もしもエスティアの制御が完全に奪われることになれば、アルカンシェルによって近隣世界全てに滅びをまき散らす災厄と化しただろう。だからそうなる前に、エスティアは他の艦船に搭載されたアルカンシェルによって闇の書ごと消えなければならなかった。

 闇の書が艦の制御を完全に掌握するまでの間に、エスティアの乗員のほとんどは無事に退艦できた。退艦できなかった――しなかったのは、たった二人。エスティアの艦長であり、クロノの父の、クライド・ハラオウン。そして、エスティア付武装隊の隊長にして、ウィルの父、ヒュー・カルマンの二人。

 クライドはエスティアの制御が奪われ、アルカンシェルのチャージが完了するまでの時間を演算するために残り、エスティアが消滅するまでずっと、残り時間を周囲の艦船に送信し続けていたそうだ。絶対に他の艦船や世界が犠牲にならないようにという、執念にも近い念の入れ方だ。

 

 では、ヒューは何のために残ったのだろう。

 当時のヒューの部下に会って、尋ねたことがある。その人はクライドを連れて来て一緒に退艦するつもりではなかったのかと言った。別の人は艦長と一緒に死ぬつもりだったのではないかと言った。

 おそらくそんなところなのだろう。もちろん本人がいないので、真意は謎のままだが。

それに、そんな推測はどうでもいい。父が死んだという事実こそが、最も大切で普遍的な真実なのだから。

 

 ウィルはひざまずき、祈りを捧げる姿勢で父を偲ぶ。願うわけでもなく、誓うわけでもなく、ただ確認するために。

 目を閉じて、心の中にある扉にそっと手をかける。扉には文字が刻まれている。

 

 

                

 

 

 

 次元航行艦船エスティアは犯されていた。平和を守るという誇りを汚されていた。

 艦内には血管――樹の静脈のようなものが脈動し、莫大な魔力によって物理的に、魔術的に、機械的に、エスティアを蹂躙している。

 

 脱出艇に続く通路の途中でヒューは煙草を吸う。トレンチコートに似た形状のバリアジャケットをその身に纏いながら。

 エスティア付武装隊の最後の任務は、乗員たちを脱出艇まで誘導することだった。その任務は無事に果たされ、武装隊員もすでに退艦を終えた。

 ヒューがここに残っているのは、友人を――クライドを待っているからだ。脱出するためには、必ずこの通路を通らなければならない。

 もっとも、クライドは退艦せずに最後まで残ると、ヒューは予想していた。彼がそういう気性だということは、友人として、そして部下として理解している。

 万が一予想が外れ、彼が退艦するようなら一緒にヒューも退艦しよう。残るのであればヒューも付き合う。クライドがこのことを知れば嫌がるだろうからこっそりと。

 

 煙草の煙が肺を満たす。古くから主流の紙巻き煙草(シガレット)

 喫煙者に対するスタンスは管理世界ごとにさまざまだが、ミッドチルダでは年々風当たりが厳しくなっている。ヒューも子供の頃は、喫煙なんて健康を害するだけで、何の得もないものだと考えていた。

 そんな彼が初めて煙草を覚えたのは、クラナガンの地上部隊に配属された時だ。その部隊には珍しく喫煙者が多く、しばしば喫煙室がいっぱいになることもあった。配属されたばかりのヒューはそんな先輩たちと少しでもコミュニケーションをとろうとした。よく知らない人と一緒に戦うのは訓練校を卒業したばかりの彼には怖かった。

 手っ取り早くコミュニケーションをとるための手段として選んだのが、煙草だった。吸い方もよく知らないまま、適当な銘柄のものを買って喫煙室に入る時はどきどきしたが、それをきっかけに先輩たちと打ち解けることができたと思う。

 煙草ほど便利なコミュニケーションツールはないと思う。煙草を吸いながらする会話には、適度な間がある。会話のネタがつきれば、一服して間を開ければ良い。そうやって時間をあけるとそのうちに話すことも浮かんでくる。

 また、社会的に肩見が狭いもの同士の妙な連帯感も生まれるため、喫煙者同士は距離が縮まりやすい。なるほど、この魔法全盛の時代に宗教がなくならないのも、きっと似たような理屈なのだろう。どれだけ時代が経ても、人は誰かと繋がらなくては生きていけない。

 

 それが、海――本局武装隊に来てからは、ほとんど吸わなくなった。

 原因の一つは、環境の変化だ。海の喫煙者への対応は地上よりずっと厳しい。海の拠点や艦船は密閉された空間なので空気を汚すものを嫌う。小型の次元航行艦船では煙を出すタイプの煙草は完全に禁止されている。

 だがやはり息子ができたから、というのが一番大きな理由だろう。自分が顔を近づけるたびに赤ん坊の顔が歪んでいやいやと首を横にふるのはなかなか胸に突き刺さるものがあった。

 

 だから煙草は本当に久しぶりだ。吸わなくなってからも、未練がましく一本だけ持っていた、お気に入りの銘柄。たった一本をゆっくりと楽しむ。

 静かに吸い、味を楽しんで、心の中にあるもやもやとした嫌なものと一緒に吐き出す。

 追い出すのは、死への恐怖と生への渇望――今すぐに脱出艇に乗って、逃げだしたいという欲望。

 だが、ヒューはもう決めた。クライドを一人で残しはしないと。友人を残して逃げはしないと。

 

 それはクライドのためではなく、自分の誇りのための選択だ。

 

 

 最期の一服を楽しむヒューの前に、通路の向こうから何かが現れる。黒い不定形な塊のようであり、植物のようでもあり、多くの動物や人間を混合したようでもある、形容しがたい化物。それ以上に表現する方法はないが、この状況で出てくるのだから闇の書に関係したものだと断定しても良いだろう。

 つまりは敵だ。運命は人生の最期をのんびりとすごさせてはくれないらしい。

 

 ヒューは短くなった煙草を足元に落として、踏みつけて火を消した。

 煙草の先の赤い火が消え、代わりに、展開されたデバイスの先に赤い魔力刃が形成された。

 

 

 

 耳をつんざく不快な音が、休むことなく通路に響き続けていた。踏み込む足が鳴らす轟音、うなる剣閃が風を切り裂く音、互いの剣がぶつかり合い打ち鳴らす音。

 音が発生し、壁で反射する。発生、反射、干渉、残響。幾百の音色が重なり合い、溶け合い、一つの連続した和音となって通路に響き続ける。

 

 ヒューの短杖型デバイスの先端からは、緋色の魔力刃。槍というよりは薙刀のように、デバイスを振るう。その一挙手一投足は、人の限界を悠々と超えていた。

 静から動へ、(ストップ)から最高速(トップギア)への急激な変化。微塵も溜めが存在しない動きは、挙動からの行動予測を不可能にしている。

 魔力変換資質:キネティックエネルギーによる、自身の肉体の強制動作。肉体駆動(ドライブ)と名付けた、ヒュー独自の戦闘技術。肉体への負荷が大きいため、常人であればすぐに行動できなくなるが、長年鍛え続けた彼の肉体は、負荷に難なく耐える筋肉の鎧を纏っている。

 

 腕の魔力を変換すれば、目にも止まらない閃光の如き剣閃を。

 脚部の魔力を変換すれば、幽霊のごとく忽然と消えたと錯覚する急激な移動を。

 常に相手との距離を支配しつつ最大の威力を叩き込めるヒューは、閉所での近接戦闘では無類の強さを誇る。ついた二つ名は、ゴースト・ヒュー。

 

 彼と戦う化物は、姿の不気味さに反して、さして恐ろしい相手ではなかった。見た目通りの化物で、力も魔力もある。だが、技がない。

 力まかせに棒を振りまわす猿や、プログラム通りに正確無比に動作する機械など、経験に裏打ちされた戦闘技術の前ではただの児戯。

 

 ヒューにはこの化物が何なのか知る由もないが、これは闇の書の暴走によって現れた防衛プログラムの一部だった。今回蒐集された生物全てがまじりあった、生命のるつぼ、混沌のスープ――――闇の書の闇の、ほんの一欠片にすぎないもの。

 それは明確な意志などもたないにもかかわらず、目の前の存在を倒すための手段を模索する。

 選択した手段は、蒐集して闇の書に取り込んだデータから、最も強い者へと変化するという、極めて単純なものだった。

 

 不定形な化物が、明確な形をとり始めた。まずはおおまかに、樹を寄せ集めて作ったまがいものの人間へと姿を変える。そして樹から本物の質感を持った人間へと、少しずつ変化させる。

 樹のような手が変わる。ヒューの剣をさばくほどの、精妙な動きをする五指へと。

 樹のような足が変わる。ヒューの動きについていくほどの、力に満ちた脚へと。

 樹のような目が変わる。ヒューの行動を全て見切るほどの、主神のごとき瞳へと。

 樹のような体が変わる。ヒューの攻撃を受け止めるほどの、騎士甲冑を纏う身体へと。

 一撃を交わすたびに、人の形へと変わり、化物の動きが精彩を増していく。

 そして最後に、ツタを寄せ集めて作られた棒が一振りの剣に変わる。光沢のない灰の柄に白く輝く刀身。その武骨ななりを唯一彩るのは柄から刀身にかけてのスミレ色の装飾。

 

 その瞬間、照明が一斉に消え、周囲が暗闇に包まれた。

 残った光源はヒューの魔力刃の光。

 そして――

 

 対敵の剣、その装飾が動き、薬莢が排出される。膨れ上がる魔力が刀身を纏い、魔力は炎へと変換され、もう一つの光源となる。

 灼熱の炎は周囲を包む闇のとばりを吹き飛ばし、剣を振るう者の姿を凄絶に浮かび上がらせた。

 死神――天宮へと戦士をいざなう戦乙女のごとく、戦と死の気配を纏った美女。その姿は、これから訪れる避けようもない死を、ヒューの脳裏に刻みこんだ。

 だからこそ、ヒューはさらに一歩、前方の死地へと歩を進める。

 もとより死ぬ気。ならば、こちらも出し惜しみのない全力を。

 全身の魔力を、可能な限り運動エネルギーに変換する。方向は前方。限界を超えた肉体駆動(オーバードライブ)が、体そのものを弾丸と化す。

 だが、全霊をかけた一撃よりも、横薙ぎに振るわれた刃が炎の軌跡を描く方がなお早かった。

 

 

 気がつくとヒューは壁に上半身をもたれかけていた。激突の衝撃で吹き飛び、そのまま壁に当たったようだ。

 もしや勝ったのかと思ったが腹部の激痛がそれを否定していた。流れ出る血が臓腑を直接愛撫しているようで、きもちわるい。

 傷を手で押さえようとするが、両手はともに動かない。両足も動かない。限界を越えた肉体駆動の反動で両手両足の感覚がなくなっている。動くのは胴と首から上だけだ。

 首を下げる。バリアジャケットが切り裂かれ、腹部に大きな創傷ができていた。傷の大きさのわりに流れる血の量が少ないのは、斬られたと同時に炎で傷が焼かれたからだろうか。それでも少しずつ流れる血が血だまりを作り始めている。

 

(これはもう助からないな)

 

 冷静に自分の未来を理解する。

 今度は首を上げ、目の前に立つ女性を見上げる。その姿は樹をよせ集めたような化物ではなく、ひとりの女性だった。

 身を包む甲冑は禍々しい装飾がほどこされ、己の力を周囲に誇示していた。力に溺れた製作者の姿が透けて見えるようだ。だが甲冑を纏うその人は、意匠の醜悪な印象を打ち払うほどに美しい。

 

 彼女の胸をヒューのデバイスが貫いていた。良かったと安堵する。全霊を込めた文字通り命をかけた一撃。届かなければ立つ瀬がない。

 しかし彼女はそれをいとも簡単に引きぬく。傷口からは勢いよく血が噴き出すが、次第にその勢いは小さくなっていく。

 傷が治っているのか。だがこんな時間を巻き戻したかのように傷を治すなど、どんな治療魔法でも適わない。

 

 視線に気づいた彼女がとった行動はとどめをさすことではなく、引き抜いたデバイスを持ち主へと返し、そして名を尋ねることだった。戦った相手の名を知ることは自分のせいで死ぬ者のことを、自分だけは覚えておこうとすること。彼女がまさに騎士だということの証明。

 ヒューは自身の名を告げ、今度は自分からも名を尋ねる。それが騎士である彼女に対する礼儀だから。だが、ただ単純に、純粋に、全力を出してなお勝てなかった相手の名を知りたいと思ったからでもあった。

 

「ヴォルケンリッターの将……剣の騎士シグナムだ」

 

 その名乗りに驚愕する。ヴォルケンリッターとは、闇の書を守護する四人の騎士の名。

 だが、彼女は闇の書が暴れる艦の中に現れた存在。理由はわからないが、少なくとも他のどんな答えよりも信憑性はある。

 

 シグナムは問いを発する。ここはどこで、何が起きているのかと。彼女は現状をまったく把握していなかった。

 ヒューは正直に答える。どうせ、もうすぐこの船は消滅する。教えたところで何も変わらない。そして話し終えたヒューは、自分からシグナムに一つ頼みごとをする。

 

「話した代わりってわけじゃないけど、一つお願いがあるんだ。俺の右胸のポケットに端末が入ってるから、それを取り出してくれないか」

 

 少々怪しげな提案を、シグナムはためらわずに頼みを聞いてくれた。死にいくものへの慈悲だろうか。

 今回の作戦前、ヴォルケンリッターは人間ではなく、彼らには血も涙もないと聞かされていたが、どうやらそれは大きな間違いだったようだ。

 

 シグナムは頼み通りに端末を取り出す。続けて画面に触れて床に置くように指示。シグナムが触れると、端末が起動する。持ち主であるヒューが起動させていないので、それ以上の操作は受け付けず、待機状態の画面のままだ。

 その画面にはヒューと、彼が腕に抱きかかえられた子供が写っていた。

 

「これは?」

「俺の息子だよ。かわいい奴でね……死ぬ前に、もう一度顔が見たくなったんだ」

 

 ヒューの顔がほころぶ。しかし、シグナムの顔は対照的に険しくなった。

 

「守るべき者がいるのであれば、私と戦うべきではなかった。守りたい者は、傍にいなければ守れない」

「俺は守るために行動したんだよ。身体じゃなくて、心――誇りだ。友達を置いて逃げたなんて知ったらきっと失望される。情けないやつの息子だなんて思わせたくない。自分の生まれを恥じてほしくない。俺の命でウィルが自分に誇りを持てるのならそれで良い。心に信じるべき柱があれば、俺がいなくても立派に育ってくれるさ」

 

 シグナムは何も言い返さずに立ち上がった。

 

「私はもう行かねばならないが、介錯は必要だろうか」

「いらないよ。あまりにも痛くて、もう麻痺してきた。こうなったら、後数分、物思いにふけりながら人生の最後を楽しませてもらうよ。きみみたいな美女に看取られて死ぬのなら、なかなか良い死に方だと思うんだけど――」

「すまない……死に逝く戦士の願いは聞いてやりたいが、それはできない。私はヴォルケンリッターだ。闇の書に何がおこっているのかを知らなければならない。こんな状態は、我らにとっても異常だ」

「だろうな」

 

 シグナムはヒューに背を向ける。そして、歩み始めるが、数歩で止まる。

 表情に少しのためらいと恥じらいを混ぜ込み、かすかに赤めた顔で、シグナムは振り返った。

 

「闇の書の保管場所を教えてくれないだろうか。どこにいけば良いのか、皆目……」

「……意外とドジっ子なんだな」

 

 保管場所についても素直に教えた。倉庫はブリッジとは正反対。このままやみくもに歩き回られて、ブリッジのクライドの元に辿り着かれては困る。もしも彼女が保管されている闇の書の元にたどり着き、この異常を止めてくれれば万々歳だ。

 

 場所を聞いて去る彼女の後ろ姿を見て、笑いがこぼれる。見れば見るほど、話せば話すほど、彼女は人間のようだった。とてもヴォルケンリッター――闇の書を守護する役目を与えられただけの『プログラム体』とは思えないほどに。

 人間とプログラムの違いは、どこにあるのだろう――そんな疑問を抱いたが、その哲学的命題に答えを出すには残りの人生は短すぎるため、疑問はさっさと心の虚数空間に捨てた。

 

 視線を動かし、床に置かれた端末――その画面に写る画像をもう一度見ようとする。無邪気に笑うその幼い顔。親としてはたいしたことのできなかった自分を、無邪気に慕ってくれた息子の姿を。

 自分がいなくともきっと立派に育ってくれるだろう。レジアスは見た目通りに厳格すぎるところがあるが、悪を許さぬ正義の心を持っている。彼のもとでなら正しく育ってくれるはずだと信じられる。

 だからこそ、レジアスの教育を受けて成長したウィルが恥じずに名前を言えるような父親でありたい。たとえ自分が死ぬことで悲しませることになったとしても。クソのような親の元に生まれた自分のようにはならずにすむように。

 ヒューの行動はウィルのことを思うがゆえなのだろうか。それとも、自分が持てなかったものを子供に持たせようとする親のエゴなのだろうか。

 

「ごめんな。帰ってやれなくて」

 

 体の下には、血だまりができている。血を流しすぎたのか、妙に寒い。急激に力がぬけ、すべるように崩れ落ちる。血だまりの血がぱしゃりとはねる。

 もう一度息子を見ようとして、最後の力を振り絞って身をよじり、画面に顔を近づけるが、端末の画面は飛び散った血で隠れていた。

 

 残念だ。息子を放って死ぬ、勝手な父親に対する罰だろうか。いや、本当に罰なら、一目たりとて見ることはできなかったはずだ。一目でも見ることができたのだから、もうこれ以上は欲張るなということなのだろう。

 もう十分だ、これ以上は何もいらない。そう思いながらもさらに心にうかぶ一つの欲。

 

 ――できればもう一度、息子を抱きしめたかった。

 

「死にたくないなぁ」

 

 自分の口から出た言葉と、その欲深さに苦笑して、ヒューは目を閉じた。

 寒さはもう、感じなかった。

 

 

 

 

 ウィルは目を開けた。外界は閉じる前と何も変わらない。変わったのは内界。

 亡き父を思い出すことで、普段は扉の先に抑えている我が身に宿る炎を露わにする。

 身体の底から熱が湧きあがってくる。根から吸った水が葉脈にいきわたるように、熱は血流と共に体の末端にいたるまで、余すことなく遍く伝わる。

 この熱が怒りか、悲しみか、それとももっと別の何かなのか――ウィルにはわからない。

 メーターの限界を超えた速度をただ速いとしか表現できないように、度を越したこの感情はただの熱としか認識できない。

 

 熱は拡散せずに、明確な指向性を持って、訴えかける。

 グツグツと、煮え滾る、五臓六腑が叫んでいる。

 

 ――俺は十年前から、何も変わっていない

 

 それが確認できて満足する。プレシアが言った、「どんな思いも時間がたてばやがて薄れる」という言葉が、ウィルに不安を与えていた。もしかしたらウィルの感情も知らないうちに薄まっているのではないかと。

 だが確信が持てた。ヒューの死を理解した時に感じたこの激情は、十年たっても微塵も薄れてはいない。きっと、次の十年も大丈夫だ。次の次の十年も大丈夫だ。復讐を遂げるまで、ずっと大丈夫だ。

 何度でも何度でも何度でも、俺が死ぬか闇の書が滅びるまでずっと――

 

 心を落ち着かせるために、立ちあがって深呼吸をする。大きく背筋を伸ばし、わざとあくびをする。数秒もすると熱は再び腹の底に、扉の向こうへと消えていった。

 

 

 目的を終えたウィルは、墓石から離れようとして、もう一つやるべきことを思いだす。

 踵を返して、墓石の前にまたひざまずき、再び目を閉じて祈る姿勢をとる。今度は確認ではなく謝罪のためだ。

 

 ヒューは、きっとウィルが復讐することを望んでいない。息子が復讐に一生をかけようとするのを喜ぶ父親ではないと思う。

 だから復讐はウィルのエゴだ。父のためでなく、世界のためでもなく、ただ己がやりたいからやる。とんだ親不幸だ。

 同じような境遇のクロノは父の後を継ぐために管理局に入った。父の守った平和を自分もまた守り継いでいくために。それに比べてなんとあさましいことか。

 

 だがこうするしかない。こうする以外に考えられない。それ以外にこの思いを――()()を充足させる方法があるのであれば、誰でもいい、どうか教えてほしい。

 

「親不幸でごめんね。もしも嫌だったら……生き返って止めてみてくれ……なんてね」

 

 おどけるようにそう言ってから、立ちあがって墓石に背を向けた。

 冗談まじりのその願いはもちろん叶うことはなく、一陣の風が言の葉を、どこか遠くへと連れていった。


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