澄みわたる秋晴れの青空が夕色に染まり始める。
恵まれた天気の下、一同は心行くまで行楽を楽しんだ。
回れていないアトラクションや夜間限定のイベントも残っているが、はやての体力を考えるとこのあたりが限度。今が楽しいからと無理をして翌日体調がすぐれないとなっては、せっかくの良い思い出もくすんでしまう。
そのことを伝えると、はやては一つのアトラクションを指差した。
「最後はあれに乗りたいんやけど、ええかな」
指の先にそびえ立つのは、このテーマパークで最も大きなアトラクション――観覧車。
小さなゴンドラに乗せられて、円の軌跡に沿いながら天高く上昇し、再び地に戻ってくる。移り変わる景色を楽しむための構造は、どこか象徴的で概念的ですらある。
乗り込む時、係員がはやてが乗るのを手伝おうとする。が、それをやんわりと断ってウィルは自分ではやてを抱えあげる。ウィルはそのまま乗り込むと、はやてを自分の膝の上に乗せた。
「……へぁ?」
呆気にとられたはやての、間の抜けた声。突然のことにシグナムたちも思わず固まるが、その間にもゴンドラは進んで行くので、文句を言う余裕もなく慌てて乗り込む。
結局、ウィルの正面にシグナム。横にヴィータ。斜め前にシャマルが座る。そしてはやてはウィルの膝の上で後ろから抱きすくめられている。
「な、なぁ、なんでこんな乗り方したん?」
尋ねるはやての顔は、夕焼けに照らされていることを抜きにしても赤い。
「五人で普通に座るのは、ちょっと狭そうだったから……って理由じゃ駄目かな。それとも、嫌だった?」
「別に嫌やないけど……」
観覧車は少しずつ地上を離れる。地面にいる人々が小さくなるにしたがって、周囲が静かになっていく。
はやてはウィルに抱かれて座っている。常日頃から鍛えているウィルの体はお世辞にも柔らかいとは言えないが、無機物とは異なる暖かみがあった。添えられた腕ははやての小さな体躯を、情感を込めて包み込んでいる。
異性に抱かれているということへの恥ずかしさは次第にはやての中から消えていき、両親を亡くす前のことを思い出したはやてはゆっくりとウィルに体重をかける。背から伝わる熱が少し恋しくて、暖を求める子猫のように体をさらに寄せる。
暖かさに包まれたまま、はやてはゆっくりと瞳を閉じた。
地上から切り離された個室の中、はやての寝息がかすかに聞こえる。
「寝ちゃったみたいですね」
シャマルが葉の触れ合い程度の声で囁くと、シグナムも声を落として首肯する。
「お疲れだったのだろう。頂点につくまではそっとしておこう」
ゴンドラは座席とフレーム以外が透明になっていて、差し込む夕日の赤でゴンドラが満たされる。
「みなさんにお聞きしたいことがあります」
暖かな静寂をやぶったのは、声を落としつつも硬質的な硬さを持ったウィルの声。
「なんでしょうか?」
首をかしげながらシャマルが質問の先をうながす。
「あなたたちは、いつまではやてのところにいるつもりですか?」
「それは――」
いきなり突き立てられた問いに、シャマルは答えあぐねているようだった。
シャマルがもちまえの優柔不断さを発揮してあれこれ思案しているうちに、その隣のシグナムが何を当たり前のことをという顔で答える。
「無論はやてがその生を終えるまでだ。その気持ちは皆も変わらない」
「グレアムさんが戻って来いって言っても?」
彼女たちははやての財産管理をしているグレアムおじさんから派遣されて、日本にやって来たと聞く。それが事実であれば、そのグレアムおじさんの判断次第では、自分の意にそわずとも帰らなければいけなくなることもあるはずだが。
「グレアム? ……誰だ――ッ! 何をするシャマ、痛っ!」
シグナムの肩にシャマルの手がのせられている。スキンシップのように見えるが、指先に尋常ならざる力が込められている。
シグナムが余計なことを口にしている内に答えが組み立て終わったのか、シャマルが答える。
「たしかに、グレアムさんから戻ってくるようにと言われれば帰ることになるでしょう。でも、たとえそう言われたとしても、できる限りはやてちゃんのおそばにいたいと思っています。はやてちゃん一人置いていきなり帰るなんてそんなことできません」
シャマルとシグナムの奇妙なスキンシップに驚かされつつも、ウィルは話を進めることにした。
「あなたたちが来る前に、はやてに家族にならないかって提案したんですよ。結局ことわられましたけど、そのことは知っていますか?」
「はい……そちらのご養子にと」
「こちらからも、一つ聞いて良いだろうか」
先ほど掴まれていた肩をさすりながらシグナムが問う。
その隣では、シグナムがまた変なことを言わないだろうかと、シャマルがひやひやとしながら横目で見ている。
「貴方はなぜ、はやてにそこまでしてくれる?」
問われたウィルは少し考えて口を開く。
「なんらかの形で恩を返したかったから……ってだけでもないんでしょうね。でも、はやてが好きだからっていうのも、少し違います。もちろんはやてのことは好きですけど。……あえて言うなら、違うなって思ったんです。こんな良い子が不幸になるのは違うって。だから自分のできる範囲で幸せにしたいと思った……そんなところでしょうか」
「それだけなのか?」
「行動する理由なんて納得できないってだけで十分じゃないですか? それでですね、いろいろと決まりがあって俺がこうして海鳴に来ることができるのも、後半年か一年か……いつまでもは遊びに来ることはできないんです。まぁ、士郎さんや桃子さんははやてに親切ですし、なのはちゃんやすずかちゃんみたいな友達もいますから、あんまり心配はしていません。唯一気がかりだったのは、あなたたちのことです」
さらに一歩踏み込んだ問いかけに、シャマルとシグナムが動揺したのが、ウィルにもわかった。けれども、わざと気付かなかったふりをして先を進める。
「俺はあなたたちが何者なのか知りません。グレアムさんのところから来たという言葉をはやてが信じている以上、それが真っ赤な嘘だとも思えません。それでも、やっぱり不安だったんです。たとえば……はやてはちょっとしたお金持ちみたいですから、それを狙う人がいてもおかしくないかな、とか」
途端、シグナムが腰を浮かせ、声を荒げる。大切な誇りを汚されたという憤怒だ。
「我らをそのような盗人と疑っていたのか!! たかが金で我らが主を――むぐっ! むぁにをふる、ふぁまふ!」
「も、もう、シグナムったら! 大きな声なんか出したら、はやてちゃんを起こしちゃうわ」
隣のシャマルが手を伸ばし、急いでシグナムの口を押さえていた。押さえるというより、むしろ頬を指先で締めあげている。顔は笑っていたが、なに余計なこと言おうとしてんだこのやろう、という半ば恫喝めいた気色が混じっていた。
ウィルはため息一つくと、目の前の光景をスルーして再び口を開く。
「あなたがたにも事情があるのは、見ていると何となくわかります。時々、この人たち明らかにカタギじゃないなって思うこともありましたし。だからこっちに来るたびにあなたたちのことを観察していました。あなたたちがはやてにとって良くない人であれば、やっぱり養子にならないかと説得しようかと思っていたんですが……」
はやての栗色の髪にそっと指を通す。さらさらと指の間をこぼれる髪が、夕日に照らされる。
「今のはやては幸せそうに笑っているんです。あなたたちを捨てて俺のところに来てもらって、今より良い顔で笑ってくれるなんて、とてもじゃないけど自信ありません。だからはやてを連れていくのは諦めます」
一緒に暮らしてくれる新たな家族と、ようやくできた同い年の友達たち。
大切な人たちと引き離してまで自分のところに来てもらおうというのは、ウィルのただの独占欲でしかない。
「はやてのことをこれからもよろしくお願いします」
そう言って、ウィルは頭を下げた。はやてを抱きしめているので首から上を動かしただけの会釈だったが、それだけの所作に全霊をこめた。
その時、ウィルの隣から声。
「お前さぁ」
観覧車に乗ってから一言も話さなかったヴィータの呆れたような声。いや、声だけではなく表情、全身を使って心底呆れたと表現している。
「ほんっっっとにめんどくさい奴だな。そんな理屈こねまわして身を引くくらいなら、一緒にいたいって素直に言えば良いじゃねーか」
「……年をとると、それだけじゃ動けなくなるんだよ」
「十五かそこらの子供がよく言うよ。あたしにはただ一人で賢ぶってるようにしか見えねーよ」
ヴィータの言葉の剣が、強がっていたウィルの心にぐさりと突き刺さる。
「……でもヴィータちゃんは、俺よりは年下だろ?」
「馬鹿言うな。あたしの方が年上だっての」
「そうなの!?」
ウィルはヴィータの姿を上から下まで見て、それでも納得がいかずに首をかしげる。
「ヴィータちゃん……いえ、ヴィータさんはおいくつなんでしょうか?」
「秘密……ってか、わかんね」
「それは……もしかして何か悪いことを聞いた……のかな?」
ヴィータは横目でウィルを睨む。
「ともかく、そういうことはちゃんとはやてが起きている時に話せよ。こんなところで、寝ているうちにすまそうとすんな。はやての幸せは、はやてに決めてもらえば良いんだ」
「でも話し合うことになれば、はやては俺のところに来るかもしれないよ。ヴィータちゃんは、はやてがいなくなっても良いの?」
「あたしたちからはやてを奪えると思ってんのか? ちゃんと話し合っても、はやては絶対にあたしたちを選ぶ。お前なんかに負けねーよ」
ヴィータの言葉は正論だ。眩しすぎるほどの理想論だ。はやてに選んでもらう――それは正しい。でも、どちらかを選ぶ行為は、きっとはやてを傷つける。選んだ方よりも、選ばなかった方を見て心苦しめるような子だから。
でもそれらは全てウィルの頭の中のこと。ウィルが勝手に想像したはやての内心にすぎない。
そして、たとえそれが当たっていたとしても、はやてのことははやてに決めさせるべきではないか。
それとも、はやての気持ちを考えて身を引くというのは建前で、実は本気で説得して、その上で自分が選ばれないことが怖いのか。
考えれば考えるほど思考の糸は絡まる。
「何が正しいのか、わからなくなってきたよ」
「ほんとに馬鹿だな」
ヴィータは聞きわけのない生徒に諭すように語る。
「正しいとかじゃなくて、やりたいようにやれば良いって言ってんですよ」
ヴィータの理屈は単純明快だ。情理の絡み合った複雑怪奇な結び目を、一つ一つ解いていくのではなく、自分の願いという剣で断ち切る。
ウィルの頭にある言葉が蘇る。先生のもとで治療を受けていた時に、先生が語った言葉。
――迷った時はただ心から湧き上がる衝動、欲望に任せれば良い
ニュアンスは違うが、その言葉も根っこは同じだ。
「……わかったよ、降参だ。次に来た時から、はやてを説得することにするよ。俺と一緒に来てくれってね。でも良いのかな? 俺のいるところは医療技術が進んでいるから、もしかしたらはやての脚も治るかもしれない。これは結構強力な説得材料だよ」
にやりと笑うウィルに、ヴィータは不敵な笑みを浮かべ真っ向から睨み返す。
「上等だよ。だったらあたしたちは、脚が治らなくたって、そんなの関係ないくらいこっちの方が幸せだって思わせるだけだ」
ヴィータの宣言にシャマルが続く。
「わ、私だって頑張ります! はやてちゃんが幸せだって思えるように!」
「なら、俺もいろんな方法で説得しますよ。タイムリミットまで半年か一年か……それだけチャンスはあるってことですからね。俺の家族になることのメリットを論理的に伝え、時には感情に訴えてでも――泣き落としくらいは平気でやりますよ、俺は」
少し楽しそうに笑いながら睨み合い、そんなやり取りをするウィルたちを見て、シグナムは腕組み姿勢でふっと笑う。
「やれやれ、時には考えない言葉の方が有効なのだな。だが、ヴィータの言うとおりだ。主はやてのご意向を無視して考えるなど、騎士たる―― 「シグナムはもう黙ってて」 ……はい」
なんだかおかしくなって、ウィルは笑った。その振動で寝ていたはやてがびっくりして起きる。
そんなはやての体に手をまわし、後ろから抱きしめた。突然の抱擁に驚き目を白黒させるはやて。そんなに密着するなとヴィータの怒号が飛び、あまり無礼なことはとシグナムが立ちあがろうとして、ゴンドラが揺れる。
ウィルがはやてを膝に乗せたのは、後ろ向きな感情からだった。これで別れと思い定めていたからこその抱擁。これから遠くへと旅立つ子を、親が惜別の思いと共に抱きしめるような。
でも今の抱擁は違う。はやての熱を確認するため。離したりはしない、きみたちに渡したりはしないという意思表示だった。
その後、みんなで夕日に染まる街並を見て、再び地上に戻って来た。あんまり中で暴れないでくださいと係員に叱られた後、帰る前にみんなでグッズ売場のぬいぐるみや土産を買いこみ、うきうき気分でバスに乗った。
はやてが突然苦しみ出して倒れたのは、そのバスの中だった。
外はすでに日が沈み、街には人工の光が灯っている。
ウィルは病院の電話機で月村家に遅れる旨を連絡し、受話器を戻す。ため息を一つ吐き、シグナムたちのもと――海鳴大学病院のロビーへと戻った。
はやての検査が終わるのを待つ彼らは、全員が椅子に座ったまま。誰も一言も発しない。
深海に沈み込むような消沈と行き場のない苛立ちが伝わるのか、三人の周囲には人払いの結界でも張られているかのように誰も近付かない。ウィルだけがその中に入って行き、結界を構成する四人目になって、さらに誰も近寄らなくなる。
まだ医者から何かを告げられたわけではない。
たいしたことないのかもしれない。いや、ないに決まっている。
あまりに突然のことに重く考えすぎているだけで、きっと一日遊び回った疲れが何か悪い方に出てしまっただけだ。
そんな何の根拠もない希望的観測を口に出そうとする前に、脳裏によぎるバスの中でのはやての苦しみ様が空虚な妄想を打ち砕く。
やがて、白衣を着た女性がウィルたちのもとへと歩いて来た。
はやての主治医である、石田先生。シグナムたちはもちろんのこと、ウィルも居候していた頃に幾度かはやての通院に付き添ったので面識はある。
彼女ははやての検査が終わったことを伝えると、一同を病室へと案内した。
「みんな、心配かけてごめん!」
ベッドで上半身を起こし、両の掌を顔前で合わせて、上目づかいにウィルたちを見ているはやての姿。病院に着くまで狂態ともいえる痛がりようは性質の悪い白昼夢だったのかと思えくる。
「はやて、大丈夫? もう痛くない?」
ヴィータはベッドにすがりつくようにして、問い続ける。ウィル相手に啖呵をきった人物と同じとは思えない、外見相応の子供の顔。
問われるはやては笑顔で、痛みを我慢しているようには見えない。
「うん、もうなんともないよ。ちょっと大げさに騒ぎすぎてしもた。バスの人らにもえらい迷惑かけてしもて……ああ、恥ずかしいわあ」
と、恥ずかしがっているようなことを口にしながらも、その表情は口よりさらに雄弁で、ぬぐいきれない怯えが刻まれていた。
それが先ほどのことは夢ではないと教えてくれる。今は痛みがないのは本当のようだが、次の痛みがいつ襲ってくるのかはわからない。その恐怖はいかばかりか。
それを押し殺して、周囲に心配をかけまいとふるまう健気さと優しさは、もはや痛々しい。
「今日はもう遅いし、何かあった時のために今日一日は病院にいてもらった方が良いでしょう。明日もう一度検査をして、それで何もなければ退院しても構わないと考えています。ただ今後しばらくは診察の頻度を上げた方が良いかもしれませんね。少し相談したいので、シグナムさんとシャマルさんはついて来ていただけますか?」
「俺もついて行って良いですか?」
二人を伴って病室を出ようとする石田先生の動きが、背中に投げかけられた嘆願で止まる。それも一瞬のこと。振り返った時の顔は笑顔。
「ええ、良いわよ」
笑みは渇いていた。
「命の危険……ですか」
肯定も否定もなく、ただ呆気にとられたシャマルの言葉に、石田先生はうなずいた。
「はやてちゃんの下肢は何年も前から原因不明の神経性麻痺で動かせませんでしたが、それでもこれまでは安定していたんです。ですが、六月の検診から少しずつ変化が表れ始めました。最初は誤差かとも思える程度だったのですが、先ほどの検査結果では、麻痺している範囲が二週間前の検診と比べて大幅に上へと広がっていました。これが一時的なことであれば良いですが、もしもこのままのペースで広がり続けることになれば、数ヶ月で一部の内臓器官が機能不全に陥ります。そうなれば――」
「原因はわからないんですか!?」
「ごめんなさい。こちらもできる限りのことは調べているのですが……症状はわかっても、その原因がどこにあるのか、まったくつかめないんです」
石田先生は泣きそうになるのをこらえながら、話す。だが、その様子も平静を欠いたシャマルには見えていない。
「そんな! そんなことって――」
「シャマル」
一言、ただ名を呼ばれただけでシャマルの動きが止まった。シグナムの静かな一喝には、普段のどこかズレている彼女とはまるで異なり、巌にも似た威圧感があった。言霊の向けられていないウィルと石田先生の呼吸さえ止まるほどだ。
シャマルは平静を取り戻し、石田先生に頭を下げる。
「すみませんでした、お話を続けてください」
石田先生からは、今後の診察スケジュールや、再度痛み出した時の対応が語られる。だが、肝心の原因がわからないため、これからも検査を続けることしかできない。重い沈黙が室内に満ちたまま、話は終わった。
部屋から出た後、三人とも無言。それぞれが隣の二人に構う余裕はなく、告げられた真実といかようにして向き合うかを考えていた。
三人の間に会話らしい会話が生まれたのは、階段に到着してから。はやてのいる上階に上がろうとするシグナムとシャマル。しかしウィルは立ち止まって二人に声をかける。
「時間が押しているので、今日はもう帰ります」
ウィルが帰るはずだった時間はとっくに過ぎている。だからこれは事実の確認に等しい、当然の言葉。
にも関わらず、二人の心には憤りが生まれる。はやてに命の危機があると知らされたのに一人さっさと帰ろうとするウィルへの苛立ちは、やつあたりとわかっていても抑えられない。
睨むような二人の視線にウィルは微笑みを返す。笑みというにはあまりにも歪んでいる、無理に作ったと一目でわかる顔だ。
「そして、遅くても一週間以内にはやてを迎えに来ます」
「なっ!? ……それは、はやてちゃんの説得を始めるってことですか?」
「違います。説得ではなく、俺の故郷に連れて行きます。この一大事に、何度も何度も行き来して説得してる余裕なんてないでしょう。手遅れになる前に診察しないと。卑怯な言い方になりますが、はやてが大切なら賛成してください」
ウィルはそれ以上何も言わず、深々と頭を下げて階段を下りて行った。
残されたのは見ていて悲しくなるほどうろたえるシャマルと、腕組み姿の――服にしわができるほど、手が腕を強く握りしめているシグナム。
「どうしよう。このままだと……」
シグナムはシャマルの問いかけにも何も返さない。昇り階段に片足をかけたまま、眉を寄せ目を閉じている。一目見ただけでわかるほどの苦悶の表情だった。
魔法技術のある世界で診察を受ければ、はやてのリンカーコアが何かと魔力の経路が繋がっていることは一瞬で判明する。
魔法技術のない世界の少女があまりにも巨大なリンカーコアを有していて、正体不明の魔力パスが繋がっている。これに疑惑を覚えない者などいない。
追及されれば闇の書とのリンクがあることもすぐにばれる。そうなれば、はやてを待ち受けている運命は――
時間にして数分。ゆるやかに開かれたシグナムの目には、氷の冷徹さと決意が宿っていた。
今更ウィルに言われるまでもない。はやては大切な存在だ。だからこそウィルの提案は受け入れられない。
シグナムは念話でシャマルに語りかける。呪いを紡ぐように暗い声色で。
『主を脅かすものは消さなければならない。たとえそれが主とどのような関係にあろうとも。これまでもこれからも変わらない。だというのに、我らは主の好意に甘えて、己の本分と使命を忘れ、怠惰な幸福を享受してきた』
『……どうするつもりなの?』
はやてを管理世界に連れて行かせるわけにはいかない。取り得る選択肢は二つある。
一つはウィルが再び来るまでに、はやてを連れて逃げること。数日の猶予があれば、逃げる準備は可能。しかしそれは友を失くし家を追われる、あてもない逃避行だ。とても耐えられるものではない。
ならばもう一つの選択を。
『彼にはここで死んでもらう。シャマルはザフィーラに連絡してくれ。決断に時間をかけすぎた。私もこれから彼を追いかけるが、ここよりも主の家の方が月村に近い。それから、闇の書を持ってくるように、と』
『蒐集するつもり!? でもそれは、はやてちゃんに禁じられて――』
『ここで彼を討ったとしても、主はやての病が治るわけではない。ならばもはや、闇の書に頼るしかない』
ウィルに全てを話し、協力を得るという方法もあったのかもしれない。
だが、彼個人がどれだけ善良そうに見えても、今日したばかりの説得し合うという約束を破って連れて行こうとする彼を、心の底から信用することはできない。
もちろん、はやての命の危機は約束を破るに足る事情だ。だからこそ、闇の書の主というそれ以上の事情がでてきた時に、管理局の局員である彼がどのように動くのかまで信用できない。
『シャマル、お前にも協力してほしい。私は決めることはできても、深く考えることはできない。お前の知恵が必要だ』
『……わかったわ』
シャマルはすぐさま状況を整理する。
『ザフィーラに闇の書を持ってきてもらうのはやめた方が良いわね。ウィル君の実力は未知数だから、戦闘の邪魔になる要素は排除しないと。代わりに私が家に戻って、闇の書を持って来るわ。シグナムはザフィーラの加勢に向かってちょうだい。ヴィータちゃんには何も伝えず、このままはやてちゃんのそばにいてもらいましょう。何か起こっていることに気付いていても、あの子ははやてちゃんを放っておきはしないわ……こんなところで良いかしら』
『十分だ。いつも世話をかけてすまない』
『……あなたにお礼を言われるなんて、はやてちゃんが主になるまでは考えられなかったことよね』
『そうだな。我らはみな変わった。主が変えてくだされた』
シグナムははやての病室の方へと顔を向けた。向けただけで、何も言わない。
これから約束を破る自分たちに、語る言葉などない。
ザフィーラは念話を受けるとカーペットから体を起きあがらせ、獣から人間へと姿を変えた。
ガラス戸を開けて裏庭に出て、夜空へと飛びあがる。昼とはうってかわって外は冷たく、風がザフィーラの白髪をかすかに揺らす。
ウィルが他の次元世界との行き来のため、月村家の敷地に建設された転送施設を利用していることは、はやてから聞き及んでいる。直線距離では病院よりも八神家からの方が近い。先回りは十分にできる。何も問題はない。
時間がないからと事情は詳しく教えてもらっていない。それでもこれは将たるシグナムの命であり、主の為の行い。反する道理はなく、これまで通りに従えば良いだけ。
だと言うのに、めったに表情を出さないザフィーラの顔は、この時ばかりは苦々しげに歪んでいた。
彼にとって、これほどまでに気のりしない戦いは初めての経験だった。
ザフィーラが月村家に向かった直後、八神家の裏庭で影が動く。
小動物程度の大きさの影はまばたきほどの時間の後に消え去り、代わりに一人の人間が立っていた。
その人物はザフィーラの後を追うように、空へと飛びあがった。月の光で浮かび上がるその顔には、空に浮かぶ細い三日月よりも、なお寒々とした仮面。
ウィルは病院の入り口でタクシーを拾い、月村邸まで行くように頼むと、静かな車内でこれからの予定を考え始めた。
夕暮の暖かさはどこに行ったのか、外気もウィルの心も冷たくなっていた。
観覧車で交わした約束を反故にすることに罪悪感はある。だが、命の危険があるのに、何度も説得するなどと悠長なことをする気にもなれなかった。
ウィルの頭を占めているのは、どうやってはやてを管理世界に連れていくかということだけだ。
正式に手続きをおこない、渡航許可が下りるのを待つのは時間がかかりすぎる。なのはの短期留学も、彼女が魔導師の才能を持っているという点を加味された上で、審査に一ケ月を必要とした。
病気だからという理由だけで管理外世界の住人を連れて行けるわけがない。その前段階としての養子だったが、そのための審査に何ケ月必要とするか。
確実と迅速を期すのであれば、非合法なルートを使わざるをえない。問題は非合法なルートに繋がる友人や伝手は、ウィルの交友関係にはたった一つしか存在しないことだ。
そのただ一つの例外に思いを馳せた瞬間、山道に差し掛かったタクシーの前方に白い流星が落ちた。
けたたましいブレーキの音を響かせ、横滑りしながらタクシーが停止する。
流星の正体は、停止した車から二メートル離れたところに存在していた。
白髪に褐色の肌をした偉丈夫。秋も深まるこの時期だというのに、上半身には薄手の藍衣のみ。両手両足に手甲とブーツの銀の輝き。金属製のそれらは、どちらも只人が身に着けるようなものではない。
彼は微動だにせず車を――その中のウィルを睨みつけている。
『降りろ』
ウィルの頭に声が響く。念話、すなわち魔法。つまり相手は魔導師だ。
財布から紙幣を取り出し、運転手に渡す。
「お釣りはいりません。急いで引き換えして、ここから離れてください」
「あ、あんた、外に出る気か?」
人のよさそうな運転手は、異常な事態に怯えを見せている。それでいて車から下りようとするウィルを心配している。優しい人だ。
市民に安心を与えるのは局員の務め。世界が変わってもそれは変わらない。いつも仕事でやっているように笑みをうかべる。
「大丈夫ですよ。さあ、俺が降りたら振りかえらずに、急いで街に戻ってください」
言われた通りに元来た道を下っていくタクシーを見送りつつ、ウィルは二つのデバイスを展開し、バリアジャケットを纏う。
目の前の魔導師が何者か、ウィルには皆目見当がつかない。実はこの地球にも固有の魔術師がいたのか、管理世界を利用している犯罪結社や、管理外世界への干渉を嫌うテロ組織という可能性もある。
ウィルが考えている間に、突如周囲の空間が色を変えた。こことよく似て異なる空間を作り出す魔法――結界魔法。その結界の内部にただ二人だけが取り残される。
魔法構成はミッド式ではなくベルカ式。それもウィルのような近代ベルカ式ではない。聖王教会の騎士たちの中でも、一部の筋金入りが使うような古いベルカ式に酷似していた。
「戦意満々って顔だけど、お互い人間同士なんだ。まずは話し合わない? そのためにできれば名前と目的を教えてほしいんだけど、どうかな?」
「名乗ることはできない。ただ、お前の魔力を蒐集させてもらう」
返答と同時に、物理的な影響を及ぼすほどに空気が張り詰める。
だが、ウィルが意識を向けていたのは、相手の構えではなく、放たれた言葉。
魔力の蒐集
一般の局員が聞いても首をひねるような単語。ごく一部の者――特にウィルにとっては、どうしても聞き逃すことのできない単語。
ウィルの瞳が、暗く深く沈む。心の底、瞋恚の炎を閉じ込めた扉が、ゆっくりと開き始める。
同刻、自室で勉強をしていたなのはは、ほんのかすかだが魔法の気配を感じた。気のせいかとも思ったが、やはり気になって部屋を出た。そのまま裏口からこっそり家を出ようとして、靴を履き替える直前に足を止める。
わずかばかりの躊躇の後、なのはは振り向きながら、声を張り上げる。
「お兄ちゃ――」
「なんだ?」
振り返ったらすぐ目の前に立っていた恭也に、なのはは心臓が止まりそうなほどに驚いた。呼ぼうとした恭也は、いつの間にか後ろに立っていた。
「え、えっと……」
ばくばくと鳴り続ける心臓を押さえながら、なのはは感じた気配のことを伝える。と、恭也は腕を組んで思考し始める。
「方角や距離はわかるのか?」
「えっと……多分、山――すずかちゃんのお家の方。距離ははっきりとはわからないけど、街よりは向こうだと思う」
「少し待て」
恭也はなのはの肩に片手を置きながら、もう片手で携帯を取り出すと、電話をかけ始める。会話の内容を聞いていると、忍にかけているとわかる。
やがて電話を切ると、恭也は真剣な目でなのはに向き直る。
「ウィルはまだ海鳴にいるらしい。あいつは携帯を持っていないから、こちらから連絡をとることはできないが、何かあったのなら気づくはずだ。だとすれば、なのはが行く必要はないが、それでも行くか?」
恭也の射抜かんばかりの瞳を見返しながら、なのははうなずいた。
「わかった、行っても良いぞ」
「ほんとに!?」
「ああ。それで、どうやって行く? 必要なら車を出すが」
「飛んで行くつもり」
「わかった。だが、本当に何かが起こっているようなら、その場に飛びこむ前に忍に状況を連絡するんだ。そうすれば、管理局からの応援も期待できる」
恭也はその頭に手を置き、なでた。
「場所がわかれば、俺と父さんも車で近くまで行く。何かあったら頼ってくれ」
頭から手を離し、同じ手でなのはの背を押した。なのはは恭也の顔をしっかり見ると、力強くうなずいて裏口から飛び出る。流れるようにデバイスとバリアジャケットを展開し、空へと飛びあがった。
見送る恭也の背後には、いつの間にか士郎が立っていた。恭也と士郎は視線を合わせ、口元に笑みを浮かべる。なのはが一人で行こうとせずに、恭也に声をかけようとしたことが、二人には嬉しかった。
「これで何もなかったら少し恥ずかしいな」
「茶化すなよ、父さん。それじゃあ、車を出してくれ。結界とかいうのが張られているなら俺たちが行っても無駄になるが、それでもいざという時のために現場の近くで待機しておいた方が良い」
士郎はため息をつきながら息子を見る。
「わかった。だが、お前もいい加減免許くらいとれ」
「考えておく」