温もりを感じた。
この身は絶対的な庇護の下にあり、脅かすモノはどこにも存在しないのだと感じられる暖かな。母の胸に抱かれるような。父の背に負われるような。安らかな呼吸。幸福。沈む。体を丸めて。溶ける。胎児の夢。ゆだねて。
それは誕生に似ていて、死にも似ていて。自我の喪失だった。
炎が熾った。
途端、湧き上がる灼熱がこの身を奮い起こす。
あの日からいつも身体の底でくすぶり続けていた、身を焦がすような篝火が、意識を覚醒させる火花となる。
わずかに目覚めた意識に連動して、肉体が駆動し始める。動き始めた肉体は意識を深みから引きずり出す。ずっとここにいるわけにはいかない。自分にはやるべきことがある。やりたいことがある。だから安らぎを引き剥がそうとしたその直前――
カーテンから漏れる光が、寝覚めたばかりのウィルの目を焼いた。部屋の奥深くまで差し込む光が朝を告げる。
見慣れた部屋だった。ウィルが寝ているベッド。コンピュータ内蔵型の多目的デスク。デバイスに用いるパーツがケースに収められて並ぶ棚。殺風景だからと義姉が持ってきた小鉢の観葉植物。物心ついた頃から暮らしてきた、ミッドチルダのゲイズ家。その二階にあるウィルの部屋だった。
着ている服は、八神家に世話になった時に買ってもらいそのまま管理世界に持って返ったパジャマだ。
寝ぼけているのか。頭はぼんやりとしていて、物事を深く考えられない。
「いかないと」
つぶやいて、ウィルは扉を開けて外に出る。廊下を歩き、階段を降りる途中
「おはよ」
階下のリビングから、声をかけられた。視線を向けると、八神はやてがウィルの方を向いてにっこりと笑っていた。
「朝ごはん、もうすぐできるから、ちょっと待っててな」
そう言うと、はやてはスリッパのぺたぺたという音を響かせながら、小走りにキッチンの方へと歩いて行く。
階段からは、リビングとダイニングが見下ろせた。
犬の姿でカーペットに寝そべるザフィーラと、そこに背を預けながらホットミルクを飲むヴィータ。
キッチンではレジアスの妻が食事を作り、ダイニングではシャマルとはやてが食事を運び、いち早く食卓に座るレジアスは小難しい顔をしながらニュースに目を通している。リビングのソファには、風呂あがりなのかかすかに湯気を立ち上らせているシグナムと、寝ぼけ眼でソファに身を深く沈めるオーリス。そして――――
彼らはそれぞれ、最後に起きてきたウィルに声をかけてくる。
何かがおかしいと思いつつも、何が間違っているのかがわからない。目の前に広がる光景は、幸福感とともにウィルの心の中にすっと入りこんでくる。
ウィルが階段を降りると、タイミング良く「みんな、ご飯できたでー」とはやてが声をあげ、全員食卓に向かい始める。
食卓には、一般家庭に置かれるにしては大きく、十人分の朝食が並べられている。
「ウィル、まず顔を洗ってきたらどうだ?」
なつかしい声が聞こえた。
ウィルの視線は、声の主――ソファから腰をあげた男に吸い込まれる。
短く刈られた、ウィルと同じ赤髪。服の上からでもわかる、鍛えあげられた肉体。隣に座るシグナムが小さく見える背丈。若々しい父がそこにいた。
「……父さん」
「ん? どうした?」
微笑む父の顔。それがきっかけとなった。
ウィルは目の前にいる父という存在を受け入れることができない。なぜなら、父が存在しているということ自体が、今のウィルの否定に繋がるから。
『In order to prevent mental pollutant, unauthorized attak to master's mind has been restricted.(精神汚染を除去するため、許可なき精神干渉を制限します)』
頭の中にデバイスの音声が響く。頭――というのはウィルの認識にすぎない。意識そのものへと警鐘が鳴らされた。
同時に目の前が真っ暗になる。視覚だけではなく、あらゆる感覚が失われている。思考汚染を検知したグレイスが、外からの影響を遮断し、インストールしていたプログラムを起動したのだ。
起動したのはシンクロナイゼーションプログラム。
魔法プログラムではなく、脊髄に埋め込まれたヒューマンマシンインタフェースを通して神経に作用するこのニューラル・プログラムは、スカリエッティがヴォルケンリッターの在り方に着想を得て即興で作り上げた手慰みの一品だ。
ライトハンドに保存されているウィルの人格や記憶に関するデータを、逆に脳へと送信することで双方の同期をとるという、ただそれだけのプログラムには、記憶移植をおこなうプロジェクトFの技術が用いられていると聞く。
ただし、生み出したばかりの無垢な人間に情報を移植させ、自身の記憶と
健常な状態で起動しても、一瞬の間に様々な記憶が走馬灯のようにフラッシュバックしては消えていくのを感じるだけだ。
だが、もし使用者が正常な状態でなかったら。たとえば今のウィルのように、思考への干渉を受けているのであれば、現状認識とフィードバックされた記憶の差異が異常を浮かび上がらせ、本来の記憶を戻す呼び水となる。
はやてが自分の足で立っていること、ウィルの家族とはやての家族がともに暮らしていること、死んだ人間が生きていること。様々な差異を認識した時、ウィルの脳は外部からの干渉をはねのけて、ここに至るまでの経緯を思い出す。
自分が何をしでかして、何をするためにここにいるのか。
ここが闇の書の中なら、この肉体はただのイメージにすぎない。自分の姿を再定義。
平和な夢の象徴である凡庸なパジャマを捨てて、戦いに臨むための黒いバリアジャケットを纏う。それにともない、生身の腕は金属の義手へと変化する。
現実と同じ姿で虚構の父の隣を通りすぎ、食卓のそばに立つはやてのもとへと歩み寄る。
突然姿を変えたウィルを怪訝そうに見るはやてに、ウィルは
「ごめん」
深々と頭を下げた。
「ふぇっ? ……えっ、なんで……?」
はやての顔は見えないが、声色には困惑が多分に含まれている。
「ずっと騙してきて、ずっと黙ってて、ごめん。何も教えずに、痛さと怖さに耐えさせ続けるだけで、ごめん。はやての大切な人を傷つけて、悲しませて、ごめん」
「なんのこと――」
「この夢みたいな世界にいた方が、はやてには幸せなのかもしれない。戻ったって、もうシグナムさんも、ザフィーラも、ヴィータちゃんも、シャマルさんもいない。その足だって動かなくなって、また自分の力では動くこともできなくなる」
顔をあげて、二本の足で立つはやての、とまどいで揺れる双眸を正面から見つめて、告げる。
「でも、俺ははやてに生きていてほしい。闇の書をこのまま放置したくない。だからこの夢の世界を捨ててくれないか」
「やめろ」
誰かがウィルの右腕をつかんだ。
声は背後から。振り向けば、すぐそばに銀髪の少女が立っている。先ほどまでの団欒にはいなかった、初めて見る顔。
ここが闇の書の中である以上、正体は検討がつく。
「お前が管制人格なのか」
「やめろ。主をこれ以上苦しませるな」
少女はウィルの問いかけには答えず、言葉を重ねる。その声は警告や忠告というよりも懇願に近い響きで、今にも涙を流しそうな顔をしていた。
彼女がはやてにこの夢を見せたのだとすれば、その意図は明らかだ。
だから夢から覚ましたいウィルを実力行使で排除するつもりなのではと身構えたのだが、管制人格は言葉を重ねるだけで何もしてこない。
「力づくで止めようとしないんだな。お前も本当はわかっているんだろ? こんなのはただの安楽死だ」
管制人格は悲しそうに首を横に振るばかりで答えない。
その時、空間に大きく亀裂が走った。
「あ、あ……そうや。私はさっきまでジェイル先生のところにいて……それで、グレアムおじさんが……」
はやての足から力が抜けて、その場に倒れこむ。
ウィルは管制人格に掴まれた腕を振りほどき、はやてに駆け寄ると、崩れ落ちる身体を受け止める。
腕の中のはやては、焦点の合わない瞳で虚空を見て、先ほどまで身体を支えていた二本の足は力なくだらりと弛緩している。
空間がガラガラと音をたてて崩れていく。穏やかな風景というテクスチャが剥がれた後に残ったのは闇だ。何もない、絶望のような闇が広がっている。
管制人格はのろのろとはやてのそばに寄ると、膝をつく。
「主にこんな悲しみを味わわせる必要などなかった。せめて最後くらいは、夢の中で安らかにすごしてほしかったのに」
諦めを口にする管制人格に、ウィルが抗議を口にしようとしたその時、腕の中のはやてがかすれた声で囁いた。
「私なら大丈夫やから」
はやては弱々しく微笑んで、身体を起こそうとしたが、力が入らないのか身じろぎにとどまる。
ウィルは腕にほんの少し力を入れて、はやてと管制人格の目線が合うように背を起こす。
「前にも会うたことあるよね? あの時は、夢の中やったけど」
「それも思い出してしまわれたのですか」
「うん。あなたが私にこれを見せてくれたん?」
管制人格は控えめに首を縦に振る。
「……最後はせめて幸せな記憶をと」
「ありがとな。ずっとこうなったらええって思い続けてた、このまま続きを見ていたいって思うような、素敵な夢やった。そやけど、ここまででええよ。せっかくウィルさんが起こしにきてくれたんやし、お寝坊さんなところを見せるのはかっこわるいしな」
管制人格は眉を歪め、やがて苦しげに目をつぶって、うなだれる。
わなわなと肩をふるわせ、絞りだすように声をあげる。
「ですが、術が……何もないのです。こうなってしまっては、闇の書は破壊によってしか止まれない」
伏せられた顔。嗚咽がこぼれ、涙は目元から鼻筋を伝って床に落ちる。
「私は無力だ……! ナハトヴァールに身体を利用され、主を逃がすことも暴走を止めることもできない!」
はやては管制人格の伏せられた顔に片手を差し伸ばし、そっと頬を包み込む。
「ごめんな」
「なぜ、主が謝るのですか」
「私、あなたになんて声をかけたらいいのかわからへん。今何が起こってるのかも、あなたが何を言ってるのかも、ちんぷんかんぷんや。あなたたちの主やっていうのに、ほんとに情けない」
「……それは私たちが隠していたからです。主に非はありません」
「でも、きっと気づくことはできた」
はやては手を伸ばした姿勢のまま、今度は自分が顔を伏せる。
「ずっと気にしやんようにしてた。見やんようにしてたら、いつまでも幸せなままが続くと思ってた。……そんなわけないのにね。私が止まってても、周りは……世界は動いていて……そんなこと知ってたはずやのに」
はやては顔をあげる。もう一方の手も管制人格の頬に添えると、両の手に力を入れて、管制人格に前を向かせる。
「だから、聞かせてほしい。闇の書のこと。私の知らないところで、みんなが何をしてたんか、してくれてたんか」
はやては、身体を支え続けるウィルの方を見て微笑んだ。その眼には力が宿っている。自分が何をするべきか理解している者の瞳だ。
「もちろん、ウィルさんも。みんな、もう隠し事はなしにしよ」
はやての優しさに心をうたれたことは何度もあったが、その能力に感銘を受けたのは初めてだ。
あれだけ心を傷つけられたばかりなのに、記憶が戻ってほんのわずかの間に、他人のことを気にかけながらも成すべきことと向き合った。その明敏さは非凡どころではない。
きっとはやて自身が言うとおり、彼女は周囲の嘘に気づくことができたのかもしれない。周囲に遠慮して無意識に思考のレベルを落としていただけで、いずれはリンディやグレアムのような者たちと同じフィールドに立てるほどの才覚を持つ存在なのかもしれない。
自分の腕が、そんなはやての身体を支えていることに感謝した。
もし見ているだけで触れていなければ、能力にばかり目をやって、はやてのことを賞賛するだけで、気がつくこともできなかったに違いない。
抱き止める腕から伝わる、わずかな震え。それは彼女がこれまで戦いに無縁だった十歳の少女にすぎないという証。どれだけ聡明で優しくとも、このままでは死ぬとなれば怖くて当然だ。
「そうだな。まずは説明が必要だ」
現状を把握してもらうためだけではなく、彼女の恐怖を取り除くために。
ウィルはニューラル・プログラムの一つを起動。中にある意識体の体感時間と外で流れる時間の流れを可視化する。中の時間表示が一秒二秒と時を刻んでも、外の時間表示は変わらない。
今こうしている間も、外では戦いが続いているのだろう。
だけど、これは夢だ。現実とは体感速度が違う、意識の世界。
現実で戦っている人たちに申し訳ないが、少しだけ夢の中で話をさせてもらおう。
「少し長くなるけど、積もる話を一つずつ片付けていこうか」
事情を説明しよう――となったは良いが、どこから始めたものか。
闇の書について説明するにしても、その構造を説明するには魔法の知識が、引き起こした事件を説明するには次元世界の歴史と社会の知識が不可欠で、当のはやてはそれらの知識がまったくない。
これが教室であれば、まず基礎知識からとなるのだけれど、いくら闇の書の内部が時間感覚が数十倍に引き伸ばされた特異な空間とはいえ、あまりに迂遠な説明で時間を費やすのは外で戦っている者たちに申し訳がたたない。ましてや説明の仕方で悩んで時間を浪費するのはもってのほかで。
結局、はやてに密接に関係している事柄から話した方が良いだろうと、はやてが倒れ、ウィルとヴォルケンリッターが初めて戦ったあの日を起点として、時系列にそって説明することになった。
無意識の枷が外れたはやては、渇いた大地に水が染みこんで行くかのように、人並み外れた理解力で知識を吸収するだけでなく、遠慮せずに質問してくることもあった。
その内容が管理世界に関係しているなら引き続きウィルが応え、魔法や闇の書の構造については管制人格が応える。そんな役割分担が自然となされたこともあり、説明はスムーズに進行し、ついに先程の闇の書が暴走を始めたところにまで到達した。
「親しい者同士の戦いを目撃したことによる興奮、とまどい、逃避、絶望……そのような精神の乱れが、かろうじて均衡を保っていた体内魔力に影響を及ぼしました。闇の書に選ばれるほどの巨大な魔力が、負荷をかけられ続けて弱っていたリンカーコアと魔力パスを傷つけたのです。防衛プログラムが主に生命の危機が迫っていると判断したのも無理からぬ状況でした」
興奮すれば脈拍は増加するし、汗も出る。血圧が高い人ならさらなる負荷で血管が傷ついたり狭心症を引き起こすこともある。魔力でも同じようなことは起こり得る。
「防衛プログラムは御身を守るため、肉体と精神を闇の書の内部空間へと移して保護したのです」
「そんで、あなたは入ってきた私に夢を見せてくれたんやね?」
「防衛プログラムに主を害するつもりがなくとも、暴走が始まれば行き着く先はたった一つ。それなら……せめて夢をお見せすることで、主が安らかにその先へ逝けるようにと」
申し訳なさそうにうつむく管制人格に代わり、ウィルが語り始める。
「暴走が起きてしまった以上、元の状態に戻すことはできない。だから先生は一か八か、防衛プログラムの破壊を前倒しで実行することにした」
計画の具体的な内容をウィルが知らされたのは暴走が起きてからだ。
突入までの短い間に教えてもらったのは概要程度で、詳しく説明することはできないのだけど、と前置きをしてから話し始める。
「闇の書は内部にウイルスプログラムが侵入した状況だと、転生後にウイルスがついてくるのを嫌って、なるべく駆除を優先させるみたいなんだ。だから、ウイルスを送り込むことで転生を一時的に封じる。もちろんそのままだといずれウイルスが駆除されるだけだ。そこで、ウイルスと一緒に魔導師を送り込んで、内部の魔力回路を破壊する。同時に外部から魔導師による攻撃をしかける。そうしてリソースをあちこちに割かせることで、防衛プログラムに駆除されるより早く、ウイルスが防衛プログラムを破壊できる環境を作り出す――ってのがおおまかな内容」
「なんか簡単そうやけど、それでほんまに倒せるん?」
計画の中身は至極単純だが、内側に忍び込ませるウイルスはスカリエッティが闇の書に合わせてカスタマイズした特別性を、外側から攻撃する魔導師は管理局の精鋭部隊を用意する手はずになっていた。
だが――
「今のままでは無理だ。俺のせいで予定よりずっと早く暴走のトリガーが引かれてしまったから、準備が全然足りていない」
ウィルが持ち込んだウイルスは、スカリエッティがこれまでに制作していたものを組み合わせた即興の品。それでも、管理局の艦船を掌握できるほどの代物だ。
外側で戦うのはリーゼ姉妹。周辺海域を捜索している管理局の部隊や、他のラボから駆けつけてくれたトーレたちも加わって、相当の戦力になっているはずだ。
それでもまるで足りない。どちらも必要量の半分程度にしかならず、奇跡でも起きなければ破壊は不可能、とスカリエッティは評していた。
「だけど、破壊はできなくたって、足りない戦力でも隙を作り出すことはできるかもしれない。ほんのわずかでも防衛プログラムを食い止めることができれば、その隙にはやてが管理者権限を奪取できるかもしれない。俺たちはその可能性にかけた」
目標を元の計画よりもずっと下げて、それでも成功する可能性はほとんどないのだから笑えない。
それもこれも自分の軽率な行動が元凶だ。罪悪感に身を焼かれながら、ウィルは説明を再開する。
「まず始めにとりかかったのは、管理者権限を持つ真の主になるために必須のプロセス、蒐集の完了だ。そのために必要な魔力の調達には、生き残ったヴォルケンリッター、シャマルとザフィーラに協力してもらった」
はやては自分を救うために家族が命を捧げたことを知り苦しそうに瞳を閉じたが、すぐに目を開け、「続けて」と話の先をうながす。
「たとえ暴走中でも、蒐集の完了は内部のシステムに大きな変化をもたらすはずだ。その瞬間を狙って闇の書に介入して、ウイルスと俺を闇の書の内部へ送り込んだ」
「ウィルさんと一緒に入ってきたっていうウイルスは、もう働いてるん?」
「まだだよ。起動させるのは内側の準備を整えてからだ。その準備っていうのが……はやて、きみの説得だ」
どれだけウィルたちが小細工を弄しても、結局のところ管理者権限を得るには、得た管理者権限をもって防衛プログラムを切り離すには、闇の書に選ばれた主たるはやてが動かなければならない。
もしもはやてが生きることを望まなければ、失敗だ。
はやてを説得できても、防衛プログラムだけでなく管制人格までもおかしくなっていてはやての命令を聞かなければ、失敗だ。
はやてと管制人格の協力を得ても、蒐集が完了したとみなされてなければ、失敗だ。
それらのすべてをくぐり抜けて、ようやく管理者権限を賭けた戦いを始めることができる。
「権限さえ手に入れば、防衛プログラムを破棄することもできる。そうなれば、はやては無事に戻って来れて、破棄した防衛プログラムは集まった魔導師たちで集中攻撃するなりアルカンシェルで破壊するなり、倒す方法はいくらでもある……と、ここまでが俺たちの計画の概要なんだけど、おかしなところはあるか?」
と、はやてから管制人格へと視線を移動させつつ言う。
管制人格は唖然とした、もしくは信じられないといった顔でウィルを見返す。
「あまりに確率の低い、しかも推測に推測を重ねたような作戦だ。お前はそんな作戦のために命を賭けたのか」
「他に方法はなかった。それに失敗した時の保険はかけてある。一定の時間が経っても闇の書が暴れ続けているようなら、凍結魔法で闇の書を封印する手はずになっている。俺が成功しても失敗しても、闇の書はここで終わりだ」
凍結封印魔法を行使するために、グレアムが開発した専用デバイス『デュランダル』
本来使うはずだったリーゼ姉妹は今頃防衛プログラムと戦っているのだろうが、デュランダルそのものは転送施設に残ったウーノかクアットロあたりが、駆けつけてきた管理局の部隊に渡しているはずだ。
リーゼ姉妹から魔法の手ほどきを受けたクロノ、もしくは卓越した技量を持つリンディであれば、デュランダルを使うこともできるだろう。
「だが、失敗すればお前は命を落とすことになる」
「俺が引き起こした暴走だ。俺が命を賭けなくてどうする」
くい、と袖を引っ張られた。
「ウィルさんは……できるって思ってたん?」
上目遣いに見つめるはやてに「もちろんだ」と、応えようとして。嘘をつくことができずに、首を横に振った。
「無理だと思っていたよ」
スカリエッティがウィルを指名した理由は、説得が成功する可能性を少しでも上げるためだ。
はやてが説得に応じなければ、内部にいる人間は闇の書ごと命を落とすことになる。守護騎士を除けばはやてと最も親しい人物、ウィルの命が賭ければ説得に応じる確率は上がる。
でも、それがどれほどの意味を持つのだろう。
傷ついたばかりの少女が傷つけた自分の言うことを信じてくれる。
信じて、辛いことばかりの元の世界に戻ろうとしてくれる。
そんなのはありえないと、そう思っていた。
「思いつく限りの言葉を使って、時間が許す限り説得し続けるつもりだったけど……はやてがもう戻りたくないと思うなら、それも仕方がないと思っていたんだ。その時は、一人で寂しい思いはさせないでおこうって……騙してた俺なんかじゃ不満かもしれないけど、せめて一緒にって――」
はやての平手がウィルの頬を打って、暗闇に小さな音が響いた。
十歳の少女の、運動不足の細腕。普段から痛みになれているウィルにとっては、なでられるに等しいはずなのに、その衝撃は頬を通って背筋を痺れさせる。
「痛い」
「うん。私も今、痛かった」
「ごめん」
「うん。みんなで生きて戻れたら許したげるから」
目尻をわずかに濡らす雫をぬぐえば、先程までの悲しみに満ちた顔はどこへ消えたのか、はやてはにこりと笑顔を浮かべた。
「でも、これでだいたいわかった気がする? 今の状況は、お外に出よう思ても過保護なお父さんが家から出してくれへんって感じなんやね。お父さんを気絶させれたら早かったんやけど、お父さんはすごく強くて、子供とお母さんと近所の人たちが一緒になってもびくともせえへんと」
「え、ええ……おおむねその通りです」
管制人格がユニークな比喩に面くらいながらも首を縦に振るのを見ると、はやてはさらに深まった笑みで。
「だから、家の中と外で騒ぎ立てて気をそらしてるうちに、鍵とかハンコとか、そういうのを見つけて家を出て離婚調停にって――それが今の目的なんやね。それで、今のところうまくいきそうやの?」
「理屈に際立った齟齬はありません。騎士に分け与えていた魔力が戻ってきたことで、蒐集は完了しています。防衛プログラムに大きな負荷がかかれば、その隙に権限を奪取することも可能でしょう。ですが――」
計画を肯定しながらも、管制人格の顔は決して明るくない。
いくら計算式が正しかろうと、変数に入力する値が間違っていれば、求める値は出てこないのだ。
「理屈を実現するための力が不足しています。防衛プログラムに隙を作るのなら、奴が戦闘のために用いる私の顕現体を追い込まなければなりません。申し上げにくいのですが、外で戦っている魔導師の魔力を合わせたところで――」
その時、周囲に広がる真黒な闇が大きなうねりをあげ、足元が激しく揺れ動く。
はやてを守るように強く抱きかかえながら――もっともこの空間で物理的な行動を取った所で何の意味も持たないが――茫然と立ったままの管制人格を見上げ、声をあげる。
「何が起きた!?」
管制人格は立ち尽くしたまま、虚空を見上げていた。焦点のあっていない瞳でここではないところを見ながら、驚愕をわずかに混ぜた声で答える。
「外の連中が防衛プログラムの魔法を逆手に取って、私の顕現体に損傷を与えたようだ」
闇の帳を銀幕代わりに、ウィルたちの周囲に外の光景が投影されていた。
あれほどの衝撃があった後では、一度外の様子を確認しないことには話に集中もできないだろうと、管制人格が見せてくれた。
闇の書の内で感じられる時間は、外の数十分の一といった塩梅なので、投影された映像はほとんど動かず、静止画のようだ。
闇の書から五百メートルは離れたところに、三十人ほどの人影がある。
大半は管理局の武装隊だが、その中にはなのはやフェイト、クロノ、リーゼ姉妹など、見覚えのある者も混ざっている。
茫然と周囲を見回していたはやての瞳から、急に涙があふれた。
慌てるウィルと管制人格に、はやてはなんでもないと首を振って答える。
「ごめんな。こうして見たら、みんなはほんとにいなくなってしもたんやなって、実感がわいてきて……」
はやてのそばにいた四人の守護騎士。シグナムとヴィータは暴走した闇の書に立ち向かって、呑まれて消えた。シャマルとザフィーラは主を救うためにその身を捧げて消えた。
別れを告げる猶予も離別の覚悟もなく。ある日突然親しい者が消えたと告げられる。その辛さを身をもって理解しているウィルは、腕に抱くはやての頭を撫でようと。
しかしその彼らが消滅することになった原因はウィルであり、彼らの消滅はウィルの望みでもあり、そんな自分がはやてを慰める資格などあるのかと躊躇し。
「ご安心ください、我が主。騎士たちを復活させることは可能です」
管制人格の言葉に、ウィルとはやては同時に顔を跳ね上げた。
「我らはプログラム体――魔力によって構成されていた存在。残存魔力の量からいえばおそらく一度きりになるでしょうが、再度召喚することは可能です。騎士は夜天の書の頃にすでに構築されていましたから、防衛プログラムを切り離した後でも十分に」
「ほんまに……? ありがとう! ……えっと、そういえば、あなたの名前まだ聞いてなかった」
「夜天の書と一体化している私に、個別の名はありません。ただ、管制人格とお呼び下さい」
形の良い眉をしかめるはやてに対して、ウィルといえば管制人格の言葉に衝撃を受けて茫然自失。
「ヴォルケンリッターは、復活できるのか。そうか……考えてみれば、当たり前か」
言われることを為すことばかり考えて、その事実に思い至っていなかった。それともわざと目をそらしていたのかもしれない。
「お前にとっては、都合が悪かったな」
「二人で納得してやんと、私にも教えて。ウィルさんはみんなが戻ってきたら困ることがあるん?」
告げるかどうか一瞬迷って、隠し事はなしと言われたことを思い出し、口を開く。
「俺の父さんのことは前に話したよね」
「――――っ!」
それだけで推測できたのか、はやての表情が凍りついた。
「前回の闇の書事件で、なんだ。それからずっと、俺は闇の書を憎んで生きてきた。いつの日か、闇の書の尖兵であるヴォルケンリッターを倒して、闇の書を滅ぼせればって思っていて……でも、みんなで遊園地に行ったあの日までは、あの人たちがヴォルケンリッターだったなんて、知らなかった」
知らなければあの人たちをただ好きなままでいられたのに。知らなければヴォルケンリッターをただ憎いままでいられたのに。
ずっと憎んできた仇だと知った今も、彼らへの好意は消えていない。でも好意が残っていても、憎しみは消えてなくならない。
それらは異なる次元に属するパラメータであるがゆえに打ち消しあってはくれず、間に挟まれたウィルに負荷をかける。
「今日、シグナムさんに言われたんだ。父さんを殺したのは自分だって」
「だからシグナムと戦って……でも、その、ほんまやの? シグナムがウィルさんのお父さんを……」
「烈火の将の言葉は真実です」
言いよどむはやてに答えたのはウィルではなく、管制人格だった。
「私は闇の書の中枢たる管制人格だ。防衛プログラムのせいで動きを封じられていても、外を見ることはできる。このように――」両腕を広げ、周囲に投影された映像を示しながら 「今も、昔も、ずっと見続けてきた」
その意味を測りかねていたウィルに、管制人格が告げる。
「あの日、闇の書は管理局の船の大部分を侵食していた。だからこそ、私はあの場にいたお前の父親の最期も見ていた」
そして管制人格は語り始めた。
誰にも知られることなく、船とともに消え去ったはずの、父の最期を。