「くぬぎ、またねー」
「ばいばーい」
「んじゃねーほっしー、ユッキー。また明日~」
とある日の夕刻。
都会とは言い難い、地方都市の更にちょっと端っこに寄った辺り、全校生徒数300名程度の、ありふれた公立高校の正門前。高校生という人生における最大の青春シーンを謳歌する数人のグループが、各々の予定を胸に丁度離散したところであった。
数人の人だかりから先んじて離脱を果たした華の女子高生。
名を
少しばかり珍しい姓に、相当に珍しい名を授かった一人の女性は、しかし素直に、そして明るく陽気に育った。
髪の色はやや明るめの茶。思春期にありがちな思考から彼女も逸れることはなく、両親から授かった艶やかな黒を好とせず、高校に進学すると同時に染めた。
背の高さは160センチに少し届かない程度。平均よりほんの少しだけ高い身長を持ったくぬぎは、体型で言うとスレンダーに類するだろう。女性らしさはあるが、豊満に実ったとまでは言えない体躯。
ただ、彼女自身は別に自身の体型に不満は持っていない。男女の関係やそういう見られ方に興味がないわけではないが、今は同性の気の合う友人と遊んだり趣味に没頭する方が楽しいお年頃だった。
運動神経、勉学の成績は可もなく不可もなく。口うるさいタイプの家庭でもないため、余程のポカをやらかさない限りは基本的に両親も寛大だった。髪を染めた時も同様、特に小言を言われることもなかった。これがド金髪などであれば、両親の対応も多少変わっていたかもしれないが。
友人は多い方。元来人付き合いは苦手ではなく、どちらかと言えばよく喋りよく動く方である。クラスでも分け隔てなく接し、教師含めた周囲からの評判は概ね良い方だろう。
総じて、一般的な家庭で生まれ育った一般的な女子高生。御手洗くぬぎへの第三者的評価は、詰まるところ凡庸の域であった。
「カラオケ行きたかったなー。でも今日はしゃーない! 急げ急げ~!」
そんな彼女は今、友人からの誘いを断腸の思いで断り帰路を急いでいる。正確に言えば、学校から自宅の間に存在する一軒の店への道筋を急いでいた。
御手洗くぬぎは、ちょっとした趣味を持っている。
それが、ライトノベル漁りとネットサーフィンであった。
いつからその趣味を持つようになったのかは、あまり正確に覚えていない。
父親がIT関係の仕事に就いていることもあって、物心ついた時からパソコンやインターネットといったものは割と身近に存在していた。後者の趣味はそこから自然的に手が伸びたと言っていい。
前者の趣味も、その環境が無ければ育っていなかったかもしれない。全国のアマチュアが挙って投稿する創作小説サイトに辿り着いたのも、ネットサーフィンが高じて、だ。
広く浅く興味の枝を張っていたくぬぎは、ネットの世界にもその食指を伸ばした。
顔も名前も年齢も知らない友人との気楽な語らい。人の創造物に読みふける快感。無論、学校の友達も大切に思っているが、大きく趣を異としたそれに惹かれるのは、多感な時期も相まってある種必然と言えた。
彼女は一方で、世間一般に言われるオタクという風貌ではなかった。
髪だって染めているし、スカートだってそこそこ短い。人並みにはお洒落に気も遣うし、割と誰とでも明るく話せるタイプである。輪の中心に居ることだって珍しくない。
確かにネットやラノベは趣味だが、あくまで数ある中の一つであって、それのみに傾倒しているわけでもない。
今風の言い方で表せば、くぬぎは陽キャで、ライトオタクだった。
今日は、そんな彼女が追いかけている小説タイトルの新刊発売日なのである。
「にっひひ、ぶち楽しみ~! アガるわ~!」
最新刊への思いを馳せ、思わず破顔する。
彼女が狙っている小説、元々はネット上にアップされた、アマチュアが書いたものだ。くぬぎがその物語に辿り着いたのは完全に偶然である。
何も文章の良し悪しが分かるほど精通しているわけではないが、子気味よく語られるストーリーとキャラクターは実に彼女の芯を捉えていた。
投稿サイトのユーザー間で地味に流行り始めたその小説は幾日かの連載を続け、出版に至った。そのおかげかせいか、作者はウェブ上での更新をほぼ停止し本の執筆に注力し始めたため、お金を払わなければ続きを読めなくなってしまったのだが。
ハードカバーに比べればライトノベルはまだ安いものの、それでも何かと出費の多い女子高生には無視出来ない値段ではある。なのでくぬぎは、書籍を買うのは本当に気に入った一部の物語に留めていた。
昨今、大体の作品はネット上で読める。わざわざお金を出して手元に残したいとまで思う作品は相当だ。だからこそ彼女はその新刊を待ち望み、友人とのカラオケよりも発売日での購買を優先するに至った。
ライトノベルを楽しむ上で、くぬぎは特定のジャンルに傾倒していない。
俺TUEEEもスカッとして楽しいし、チート無双系も同じくスカッとして好きだ。スローライフ系もストレスなくのんびり楽しめるから好きだし、悪役令嬢モノだって美味しく頂ける。成り上がり系の成長と爽快感も捨てがたい。
読んでいないジャンルは有るが、基本的に読んだジャンルに嫌いが存在しないのだ。
そのような世界を楽しむ中で、時には妄想に耽ることだってある。
ばっさばっさと敵キャラを薙ぎ倒すのも楽しそうだし、チヤホヤされるのもいい。無論、そんなものが現実には有り得ないということは分かり切っている。だが、想像するだけならタダだし何より自由だ。
気の合う友達とカラオケやショッピングに勤しみながら、トラックに轢かれる……のは痛そうなので無しとして、突如異世界に転移してファンタジーの世界で過ごすのもいいなあ、と考えてしまう程度にはオタクであった。
「おっし、着いた着いた~」
歩くこと十分少々。くぬぎは無事目的の書店へと辿り着いた。
彼女は割と表紙買いをしてしまうタイプなので、あまり長居はしない。してしまうとあれもこれもと目移りしてしまうからだ。お財布事情に限りのある未成年、一時の迷いで余計な出費を強いられるのは、たとえその先に楽しい未来があると言えど出来れば避けたかった。
「おー、平積みじゃん」
入店して程なく、比較的広いスペースに平積みされたお目当てを見つける。
ある程度刊行されているとはいえ、まさか平積みになっているとは。ちょっとした予想外に驚きながらも、自身が早くから気にしていた作家が世間から注目されるようになる、というのは存外に良い気分でもあった。
上機嫌で買い物を終え、くぬぎは書店を後にする。
繰り返すがこの時、彼女は上機嫌であった。
早く世界の封を切り、新しい物語に耽りたかった。
その足は自然と回転を上げ、普段ならば当たり前にするであろう周囲への警戒を怠った。
「う、うわっ!?」
「んぎゃっ!?」
結果、書店から無防備かつ勢いよく飛び出したくぬぎは、その前を通過しようとした自転車と派手にぶつかってしまう。
自転車に乗っていたのは大学生くらいの年代だろう。急に飛び出してきた女子高生を躱すことが出来ず、ブレーキも間に合わないままがっつりと衝突する。ガシャン、と派手な音が起こり、くぬぎは衝撃に身を任せるまま吹っ飛ばされた。
「いぃっだぁあああ……ッ!?」
衝突地点からいくらか吹っ飛ばされた後、盛大な尻餅をつく。自転車にぶつかった痛み、地面に倒れた痛み、それぞれがくぬぎを襲うが、幸いにして大きな怪我はなさそうだ。
「あぶな――――」
その言葉を発したのは、果たして自転車に乗った大学生か、たまたま通りがかった通行人か。吹き飛ばされた先、歩行者用通路から大きく外れたくぬぎの前に、今まさに青信号を通過しようとした軽トラックが襲い掛かる。
己の不注意が招いた、殺意マシマシのルーブ・ゴールドバーグ・マシン。
あ、これは死んだ。
そんな認識が芽生えるより前に、くぬぎの意識は刈り取られた。
「…………ふぁっ!?」
突如舞い戻る意識。
恐らく仰向けのままであろうその姿勢から見える空は抜けるほどに蒼く、眩しく。それはくぬぎが今屋外に居ること、書店に立ち寄った夕刻時より幾分かの時間が経過していることを意味していた。
「うん……うん?」
彼女の最後の記憶は、自転車に弾き飛ばされたところ。実際は更に突っ込んできた軽トラックとぶつかったはずであるが、幸か不幸かくぬぎにその記憶はない。自身に軽トラックが迫っていること自体を認識出来ていなかったからだ。
であれば、果たしてここは何処か。
気を失っていたのは確かであろう。事実、記憶は飛んでいる。まさか、路上で気を失って丸一日そのままというわけはあるまい。
そこまで考えて彼女は、自分が寝ている場所が随分と柔らかく、そして暑いことに気付く。
「……はー?」
上体を起こし、周囲を見回してみれば。
そこは灼熱の風と砂嵐が吹きすさぶ、砂漠のど真ん中であった。
「……???」
路上でもなく、自宅でもなく、病院でもない。
あまりに突拍子な、唐突な砂漠の登場に、彼女は。
「いや草」
現実逃避した。
リアルで口を突くことは恐らくないだろうネットスラングが思わずまろびでる。
「は? いやいやいや何? 意味わかんねーし! パないしょ! うわぶっ!?」
渾身の疑惑は、吹き荒れる砂嵐に飲み込まれる。
風に運ばれた砂が、大きく開けた口に舞い込んでくる。
くぬぎは今、どうしようもなく独りであった。
「もー! なんなんこれ! せめてもうちょっとさあ! あるじゃん!!」
ライトノベルを趣味としていたくぬぎである。いわゆる異世界転移というものに憧れもあったし、何なら一家言あるくらいだった。
確かにそういう欲求がなかったと言えば嘘になる。
冒険ファンタジーの世界なら、盗賊か魔法剣士あたりのシブい役回りをしてみたいなと夢想したこともある。
貴族の令嬢となって、何不自由ない贅沢を謳歌してみたいと願ったことも認めよう。
神様からとんでもないチート能力を授かって、人類の英雄となり魔王軍を相手に無双する夢を見たことも否定はしまい。
でもお前な。砂漠て。
普通ないやろ。考えろよもうちょっと。
彼女の叫びは、そんな感情を存分に爆発させたものであった。
「はー……どうすんこれ」
しかし、ここにはその声に応える存在は居ない。
見渡す限り砂、砂、砂。人間どころか生物一匹の気配すらない。
乾燥しきった熱風が頬を撫ぜる。眼に見える景色もそうだが、湿気とは無縁の気候もまた、ここが自身の与り知る現代日本ではないという現実を強烈に突き付けていた。
「……? う、うわ、お、あ!?」
絶望にも妄想にも浸る間もなく。
ズズ、ズズ、と。砂の大地が揺れる。
すわ地震か、と身構えたものはいいものの、ここには隠れる建物も捕まる柱もない。結局彼女は突然の揺れに成すがまま、身を委ねることしか出来なかった。
「…………あーはー?」
揺れの正体は何だったのか。果たして答えはすぐ目の前に出現していた。
自身のほど近く、砂の中から現れたそれ。
見たこともない……いや、正確には見たことはある。あまり直視する類のものではなかったが。
御手洗くぬぎは、虫が苦手であった。
恐らくだが、得意な女子というのは少数だろう。その辺りの感性について彼女は実に普遍的で、女性的だったとも言える。
小さなクモや野外で見かける虫の類もダメ。ゴキブリなんて見た日には大いに叫んで、すかさず父親に助力を請うたものだ。
そんな苦手とする存在が今。
自身の体躯よりも遥かに勝るスケールで、砂上に鎮座していた。
「おンギャアアアアアアアアアアアッ!!」
叫ぶ。
迸る嫌悪感を体外に放出するように、叫ぶ。
鳥肌が立つどころの話ではない。少しでも油断すれば戻してしまいそうだった。
砂から這い出たその存在は、全長で言えばくぬぎを優に超える。漆黒に近い色の体躯は直上の熱射を浴び、妖しく黒光りする様はいっそ神々しくもあった。黒く堅牢な外骨格に覆われた内側、うぞうぞと不規則に動き回る巨大な触手さえ目に映らなければ。
平たく言えば、人間のサイズを大きく超えたゴキブリが居た。
巨大なゴキブリはくぬぎの叫びなど歯牙にもかけない様子で、その目と触手をゆっくりとした動作で動かす。
普通の人間は蚊や蠅を鬱陶しいとは思うものの、それだけだ。
ゴキブリがくぬぎを見る目も、同じそれであった。
いや、まだ人間の方が蚊や蠅を食べようと思わない分、救われているのかもしれない。
眼前のゴキブリは、じわりじわりとくぬぎに近付いていく。そこに知性は感じられず、ただ目の前に捕食可能な餌が在る、程度の認識しか持ち得ていなかった。
「ふぇっぐ……ッ! あびッあぁ……!」
突如見知らぬ世界に放り出され、周りは砂漠、目の前には巨大なゴキブリ。
一瞬の内に折り重なった不可解な現状に対し、くぬぎの脳は完全にショートしていた。
死ぬ。
まったくもって訳が分からんが、とにかくなんかこのままだと死ぬ。
混乱した脳みそが導き出した唯一の答え。
ならば、逃げねば。
とにかく、なんか分からんがこの事態から脱しなければ。
しかして警鐘はガンガンに鳴るものの、肝心の身体が動いてくれない。度重なる混乱で彼女の四肢もまた、一時的な機能不全に陥っていた。
ドガンッ!
正真正銘の死を覚悟し、堅く瞳を閉じた直後。
やってくるはずの痛みと気持ち悪さは何故か訪れず、代わりに聞こえたのは形容しがたい爆音。
薄っすらと目を開けてみれば、その視界には。
巨大なゴキブリの横っ腹に派手にぶちかましを行った、巨大な蠍が居た。
「………………」
ここに来てくぬぎの脳は数瞬、完全な停止を迎える。
眼前で繰り広げられる突然の怪獣大決戦。
ギィギィと不快な大音量を奏でながら、超常の二体がぶつかり合う。
なんかもう、わけわかめだった。
「……は!?」
くぬぎ、リブート。
自身を標的としていた巨大なゴキブリは、今は割り込んできた巨大な蠍に首ったけだ。
逃げるなら、今しかない。
「んんんにゅぎゅああああああああああああ!!!」
くぬぎは走った。
叫びながら走った。
行先も分からないし行く当てもない。
そもそもこの砂漠に自分以外の人間が居るのかすら分からない。
しかし、今の彼女が取れる選択肢はあまりにも狭く、そして余地のないものだった。
「んんんぬああああああああ!! もうっ!!」
走りながら、叫びながら、彼女は今や用無しとなった高校のブレザーを脱ぎ捨てる。砂漠で走るには、この重たい服はあまりにも不必要だ。必要なのは、少しでも遠くに走るための体力のみ。
「な゛ん゛な゛ん゛も゛ぉ゛ーーー!!」
精いっぱいの叫びに、嗚咽が混じる。現状を鑑みれば無理からぬことと言えた。
砂漠故、走る速度はそこまで出ない。もとより運動に関して可もなく不可もなくのくぬぎだ。アスファルトを踏みならすには適したスニーカーも、砂の足場ではその性能を活かせない。
気合と根性とは裏腹に一向に小さくなってくれない巨大なゴキブリと蠍の姿を頻繁に振り返りながら、くぬぎは走る。
意味が分からない。
キレそう。
何なら今キレてる。
異世界は確かにちょっと望んだりもしたけど、これは絶対に違う。
私が望んだ世界はこんな馬鹿げたサバイバルアクションじゃないんだ。
「うおわあああああアアアアアン!!」
なりふり構わず、走る。
体力は限界に近い。ただでさえ日射を避ける装備もないまま真昼間の砂漠を全力疾走しているのだ。女子高生の少ない体力を加速度的に奪うには、環境が整い過ぎていた。
あ、これはもうだめかもしれん。
そんな絶望が早くも脳裏を過る中、くぬぎは見た。
揺らめく蜃気楼の向こう側、ぼんやりと聳える城壁を。
「…………!」
最早叫ぶ体力も残っていない。
しかし、壁があるということはそこに文明があるということ。
「…………ッ! んぬゥ!」
あそこに行けば、生きる道がある。そう信じるしかなかった。
元の世界に帰りたい。
エアコンの効いた部屋でごろごろしたい。
ふかふかの布団で眠りたい。
この世界をチョイスした神が居るのならぶん殴りたい。
ただ、何よりも、死にたくない。
崩れ落ちそうになる下半身を精神でねじ伏せ。
生きる希望を背負って。
くぬぎは走った。
異世界でどん底に落ちる陽キャライトオタクJKとかいう設定がポップアップしたので。
何となくの構想はあるので気が向いたら続きます。