DARKER THAN BLACK ―煉獄の扉― 作:オンドゥル大使
想定外の事は起こるものだ、と口火を切ったのはグレイのほうからであった。
夜都はいつものモーニングを頬張りながら視線を流す。
「……今日の朝刊は最悪だな。三流ゴシップにばかりかまけて。だが、コミックの出来は最良だ」
「どういう意味」
「……組織はとある港町でごろつきに任せていた契約難民を奪取された。これは失態だと、上のほうがお怒りらしい」
「契約難民……」
「知っているだろう? 先の天国戦争で南米から流れ着いた、国籍も、ましてや帰るべき祖国も奪われた者達……契約者の成れの果てだ。せっかく天国戦争に従事したって言うのに、彼らの待っていたのは祖国からの裏切りと、そして永劫消える事のない追っ手からの恐怖。皮肉なもんだ。天国戦争では英雄の働きをしても、終わってみれば残飯以下の扱いを受ける」
『グレイ。その情報筋が確かなら、契約難民が一人、奪われたと?』
頭上の止まり木より声が振りかけられる。グレイは朝刊を捲りつつ、何でもないかのように応じていた。
「そうだ。それも国家が後々、威信をかけて取り戻したいレベルの契約者だった……と言われている。詳しい話は僕にも降りてこないんだ。相当、上はなかった事にしたいらしいがそうもいかなくなった。……紅(ホォン)、それにブルック。近いうちにニューヨークが戦場になる。その時に用意出来る事はしておけとのお達しだ」
「……死んでも自己責任だと?」
「そこまで人でなしではないと信じたいが……案外その程度の認識なのかもしれない。任務が回って来ればこれに送る」
煙草のパッケージが差し出される。夜都はそれを受け取ってからコーヒーに口をつけていた。
「……契約難民。この国が向かい合わなければならない、政策問題か」
「彼らの処遇をどうするのかはこの国にあるようでない。今や各国諜報機関はトーキョーの【地獄門】にかかりっきりだ。この国にあるのは、彼らの飯の種を確保するだけの懐の深さだろうが、やはりと言うべきか、それは厳しい内情がある。だからこそ、僕らのような木っ端エージェントに話が回ってくる。ある意味では万々歳。ある意味じゃ、これ以上とない悪手だ」
「……一流のエージェントは皆、トーキョーに?」
「それも詳しい事は言えないとの事で。まぁそれもそうだろうね。どこにどれだけ組織が注力しているのかなんて明かせるわけがない」
秘密主義の組織らしいやり口だ、と夜都は感じてからコーヒーを呷っていた。グレイは時計を気にして立ち上がる。
「……もし、この街が戦場になっても冷酷になれるように……いや、この指示は野暮か。契約者に、そんな情はない」
グレイが充分に離れてから夜都はパッケージを開く。中に入っていたのはメモとポケベルであった。
ほとんど玩具に近いが、だからこそ逆探知の可能性は低い。
『紅。お前は少しだけ警戒をしておけ。前回の【煉獄門】関連もある。思いも寄らない契約者が接触してくる可能性だってあるんだ』
「分かってる。でも、組織は何を考えて? だって契約難民は、ほとんど旧市街地に集まっているようなもの。今さら重宝するという事は、その契約者……」
『詮索はお勧めしないな。お前のやれる事は敵性契約者の排除と、そして不用意な接触は危険だと断ずる事だ』
要はいつも通り、人間の尊厳は捨ててただ魂を刈り取る死神に徹しろという事なのだろう。
夜都はトレイを返し間際にブルックへと言いやる。
「言われるまでもない」
蝙蝠が飛び立ち、遠くの空を目指す。
「おーっ、ヤトちゃん! 今日も可愛いね!」
「もうっ、あんたは! ヤトも迷惑だよねぇ?」
「め、迷惑なんて……そんな事ないですよ……。私なんかによくしてもらって……あ、モーニング、今日も美味しかったです」
「お! そりゃあよかった! ヤトちゃんくらい素直な子ばっかりだといいんだが……最近、調子が狂うってもんでねぇ……」
店主の困り顔に夜都は問いかける。
「……何かあったんですか?」
「いや、まぁ……客を無下には出来ないんだが……。ちょっと身なりがね、あれな女のお客さんが居て……。ヤトちゃんと同じモーニングを頼んでくれるんだが……どうにも」
「あんた! お客さんの選り好みはしない! だろう」
「まぁ、うちのがこれだからあまり大きな声じゃ言えないんだが……怪しくってね。いつもヘッドフォンをしていて、不愛想だし……」
「あんた! 口よりも手を動かす!」
「あー、はいはい。そういうわけなんだ。ま、素直が一番って事だな!」
店主の言葉繰りに夜都は探りを入れていた。
「……もしかして、今、その辺に居ます?」
「いや、ヤトちゃんにクレーマーの処理まではやらせられないよ。……いやまぁ、クレーマーでもないんだけれどね」
手を振る店主に手を振り返してから、夜都は周辺にそれらしい影を探していた。案外すぐに見つかったのは赤いヘッドフォンをしている女性である。
店主が僅かに言葉を濁したのは見ればよく分かる。
痩せぎすの身体に、ぼろきれのような服装は浮浪者と見紛うだろう。しかし、不自然に感じたのは女性に近づいた途端に感じた芳香であった。
「……香水の匂い……」
清涼感のある香りはまるでその第一印象とは正反対だ。柑橘系の香りだと感じた夜都は、それとなく歩み寄り、そっと声をかける。
「あのー、もしかしてあなたも、ここのモーニングが好きなんですか?」
ヘッドフォンで声を遮断しているかに思われたが、女性はこちらに気づき向き直る。
その段になって、どこか及び腰に女性は後ずさる。
「……こんな近くまで近づくなんて……」
心の奥底から驚愕している様子の女性に夜都は微笑みかける。
「あの……何かおかしいですかね……」
困惑して頬を掻いていると、女性はその手に握り締めたホットドッグを凝視する。
「……あの話は本当だったんだ……。本当に……分からないのね」
「あのぉ……大丈夫ですか?」
「あ、うん……大丈夫……。こうやって誰かと喋るのもその……久しぶりで……。何だか変な心地。こんなの私の人生にはもう……訪れないんだと思っていたから……」
どこか憔悴した様子の女性に夜都は愛想よく近づく。
「ここのコーヒー、私も大好きなんですよ。美味しいですよね」
「美味しい……。ああ、うん。そっか……美味しいってこんな感じなんだ……」
まるで言葉の一つ一つが欠如しているかのような女性に夜都は話を振っていた。
「私、最近ニューヨークに来たばっかりで。だから、この新市街地で分かりやすいところに美味しいお店があって、ラッキーだなぁって」
「ああ、あなたもそうなのね……。私もこの新市街地はこの数日で訪れたばっかりだけれど……思ったよりも発展しているのね。あんな戦いがあった後だから、アメリカはもう駄目になっちゃったんだと思ってた……」
「……確かに戦争はありましたけれど、でもそれは市民には関係ないですよ。南米はでも……消えちゃいましたけれどね」
軽い調子で笑いかけた夜都に女性はどこか、表情を決めかねているようであった。
「……不思議な感じ。何だかあなた、私を見ても怯えないのね」
「怯える要素がないですよ。私は鷺坂夜都。日本から来ました」
手を差し出すと女性はホットドッグを片手にどこか困惑して、やがてトレイに乗っている紙ナプキンで手を拭いていた。
「その……私、汚いから……」
「気にしませんよ。何だか、こうやって不意に同じモーニングを頼む人が現れて、ちょっと運命かも」
「運命……。そっか。運命って、こんな単純なものでもいいんだ……。ありがとう。えっと……サギサカ……」
「夜都でいいですよ。異国で出会った人だからでも、こっちは何て呼べばいいか……」
「ヤト、ね……。英語が上手いのね。私は……シーク。シーク・リューミュラ」
「シークさん……でいいですか?」
「あ、うん。大丈夫……。すごく久しぶり……。こうやって他人と……普通に喋れるなんて……」
シークはその特徴的なネコ耳のヘッドフォンを持ち直し、握手に応じる。
「……ユニークなデザインですね。ネコ耳ヘッドフォン」
「あ、うん。……御守りみたいなものかな。これがあれば、私は真っ当になれるって……」
「誰かからの贈り物ですか?」
「贈り物……なのかな。分かんないけれどでも……これがあるから、私は平気。多分、何でもない……」
どこか不安定な論調だが、夜都はあえて言及せずに尋ねる。
「シークさんは、新市街地は見て回りましたか?」
「あ、いや……まだ来たばっかりで……」
「じゃあその、私でよければご案内します! ……あ、ちょっと出過ぎちゃいましたかね?」
微笑んだ夜都へと、シークはどこかやつれた頬で笑みを形作ろうとする。
「……ううん。何だか……他人の事が分からないのは……これだけ充実していたんだなって……そう思っただけ。ヤトの案内、楽しみかも……」
「じゃあ、行きましょうか。あ、でもまずは……」
トレイを指差した夜都にシークは不器用に頷く。
「うん……。モーニングを食べてから、ね……」