DARKER THAN BLACK ―煉獄の扉― 作:オンドゥル大使
第二十一話「秩序を講じる」
後部座席で地図を読み込むヨハンソンを、ミシュアはミラー越しに窺っていた。
「……旧市街地の地図はあまり当てにはなりませんよ。誰も、この混沌とした街を見ない事にしたいんです」
「それは分かりますよ。誰だって暗部を覗きたくはない。ですが、これも仕事に必要ですので」
にこやかに応じた喪服の淑女にミシュアは少し毒気を抜かれた気持ちであった。契約者との一進一退の攻防や、そもそも【煉獄門】関連についての進捗が遅々として進んでいない現状を憂えば、畢竟、腐りもする。しかし、彼女はこちらの胸中などどこ吹く風と言う顔で地図を穴が開くほどに注視していた。
「……窓の外を見たほうがまだ情報になると思いますけれど」
「ご忠告感謝します。……なるほど、確かに。窓の外のほうがよっぽどですね。パトランプを。事件です」
思わぬ提言にミシュアが困惑していると、不意に道を横切った影があった。明らかに堅気ではない黒服姿に、反射的にミシュアはサイレンを鳴らす。
相手は逃げ去って行ったが、ミシュアは拳銃を確かめて外に出ようとしていた。
「……ここでお待ちください。ジャン、怪しい者達が居る……。旧市街地の……」
「ここは三丁目ですね」
「……三丁目だ。黒服の諜報員らしき男が道を横切っただけだが……偶然とも思えん」
『課長。どうやらビンゴみたいですよ。……少年君がさっきから窓の外をそわそわと。動きがあるのは間違いなさそうです』
これは織り込み済みの事象か。あるいは彼女を招いた事によって起きた案件か。いずれにせよ、ミシュアは拳銃の安全装置を外し、静かに壁沿いを駆けていた。
「……相手は諜報員か……それとも契約者か……」
『星のスペクトル反応は送られてきていません。今のところは、ですが』
パトカーのサイレンに反応して逃げたという事はやましい事がある反証になる。いや、旧市街地では誰しも警官など相手にしたくはないか、と思い直して、ミシュアは無線に吹き込んでいた。
「……やはり、旧市街地の殺しに関係が?」
『分かりませんよ。ただ、現着までに時間があるにも関わらず、ここでってのが気になりますね。俺は……少年君を見張っています。課長はそちらの女性を』
「ああ。ヨハンソンさ――」
絶句したのは彼女がパトカーから降りていたからだ。制止の声を出そうとして、ミシュアはこちらに勘付いた黒服に身を潜める。銃声が劈き、ヨハンソンを狙っていた。
「逃げて!」
咄嗟に叫んだ瞬間、ヨハンソンは指を振る。途端にその姿は青白い燐光に包まれていた。まさか、と息を呑んだミシュアは黒服達の銃弾がヨハンソンを通過しているのを確かに目にする。
ヨハンソンの瞳が赤く煌めき、いくつかの火線が咲いたがどれもこれも彼女の身体を突き抜けていくばかりだ。
「……契約者……」
「レディロンド。あなたは隠れておいたほうがいい。ここは私がお相手しましょう。見たところ、特に武装のない、諜報員風情でしょうが」
黒服達が異国の言葉を吐き、銃弾を絞ったが頭蓋を撃ち抜いたはずの正確な照準は、契約能力の行使によって無効化される。
「……物質透過……。物理エネルギーの無効化……」
「そこまで珍しい能力でないつもりなんですがね。これを見るとみんな恐れるから困る」
黒服の一人が化け物め、と吼えたのが分かった。異国の言葉でもそれだけはハッキリとしていた。
ヨハンソンは地面に手をつく。その瞬間、壁に使っている建築物にまでランセルノプト放射光の青白い光が伝播し、預けていた体重を透過する。よろめいたミシュアはヨハンソンのアイサインに瞬時の判断を下す。
――彼女の能力は物質透過。ならば。
壁越しに黒服へと照準し、矢継ぎ早に一射する。
その弾丸がいくつかの壁を通過し、黒服の一人の肩口へと突き刺さっていた。よろめいた相手は散り散りになり、旧市街地に逃げ込んでいく。
「……ジャン。彼女らは契約者だ」
『……こっちでも確認済みですよ。少年君、車から出ないで……!』
『これでも僕は君よりも十は長く生きているんだけれどね』
ジョシュアと名乗った少年の声が無線越しに聞こえると同時に、ジャンの手を離れたのが察知出来た。
車に戻ろうとしてヨハンソンに呼び止められる。
「レディロンド。ジェッツの判断には彼の意思が関係しています。そちらを尊重していただきたい」
「……どういう……ジェッツ……?」
「……失礼。我々、偽名を使っておりました」
何の悪びれもなく言われたものだから、ミシュアは困惑して言葉を失う。ヨハンソンを名乗っていた女は恭しく首を垂れる。
「私の名前はジキル。無論、これもコードネームですが」
「コードネーム……。まさかどこかの諜報部の……!」
銃口を向ける。その行動にジキルと名乗り直した女は肩を竦めていた。
「……その対応は困る」
「どういう意図がある? あなた達は何者なんだ」
「我々は契約者集団、ズヴィズダー。この国で発生する契約難民に関する事件を追うために、祖国より遣わされたエージェントです」
「祖国……どこの国の!」
その時、出し抜けに響いたのはこの場に似つかわしくない、日本の祭囃子であった。誰が、と追及する前にジキルは胸元から携帯電話を取り出す。
「失敬。私だ」
『ジキル。黒服を追いたい。物質透過で相手への最短距離を』
「了解。透過範囲は?」
『一丁目北東部から三丁目の南西にかけて。半径五十メートルほど。こちら風向きは北風、弱風。標的の足を奪う』
「承知した。……まったく、人遣いが荒い」
ジキルは青白い光を棚引かせ、そのまま地面に手をつける。すると旧市街地の大部分の建築物が透過能力の虜に陥り、ランセルノプト放射光を内奥より滾らせていた。
「……こんな広範囲の契約能力の行使……」
『ジキル。標的を確認。膝を撃ち抜く』
何が起こったのか。それを追及する前に男の呻き声が耳朶を打つ。どうやら壁の向こうで黒服の誰かが足を取られたらしい。思わぬ挙動と立ち振る舞いに仰天するミシュアを他所に、ジキルはこちらへと歩み寄る。
構え直し、警戒を走らせたこちらに彼女は一瞥も向けずに後部座席に買い込んでいたスプレー缶を取り出して振っていた。何をするつもりなのかと固唾を呑んで見ている間に、ジキルは壁へとスプレー缶を吹き付け、抽象画を描き始めていた。
「……それは?」
「失礼、馴染みのない方には申し訳ないのですが、これは対価でしてね」
「対価……という事はやはり、あなたは……」
「ええ、契約者ですよ。言ったでしょうに。まぁ、一言二言で信じないほうがいいのは慎重でよろしいのですが」
ジキルはスプレー缶を消費するのに余念がなく、こちらへと振り向きもしない。ミシュアは拳銃を一旦は下げ、ジャンへと無線を繋いでいた。
「……ジャン。そちらはどうなっている」
『どうもこうも……少年君の手から放ったダーツが……何かこう、ビュンって! すげぇ速度に加速して……どっかに突き刺さりましたよ』
「……それがジョシュア……いや、ジェッツ氏の能力か」
「ええ、ジェッツの能力は投げた物体の超加速化。彼は好んでダーツを用いますが、何でもいいんですけれどね」
スプレー缶がようやく尽きる。それをからからと音を立てて確認してから、ようやくジキルは振り向いていた。
「……さて、対価は支払い終えました。質問には答えましょう、レディロンド」
壁に描かれたのは天使を模したかのような抽象画だ。何かテーマでもあるのだろうか。
「一つ、あなた方はどこの国の諜報機関なのか」
「……名乗りましたよね? ズヴィズダーだと」
「それは国家を名乗った事にはならない」
手厳しい、とジキルは肩を竦め、旧市街地の向こう側を見据える。
「それは私に聞くよりも、あちらに聞いたほうが早いのでは? ちょうど一人、足をやりましたので」
指し示され、ミシュアは警戒を張り詰めつつ、路地を駆け込んでいた。
裏路地の一角で足を貫かれた形の黒服が呻いている。どれほどの速度のダーツが撃ち込まれたのかはまるで分からない。膝より下の筋肉を完全に引き裂かれており、血溜まりが広がっている。
ミシュアは拳銃をその背に突きつけ、詰問する。
「……どこの国の諜報部か」
「……お、教えるかよ……」
「黙秘するのは勝手だが、この国ではそのような有り様でいつまでも居られるとは思うな。直に旧市街地の人間も集まってくる。その時に命があるとは思わない事だ」
こちらの脅しに黒服は歯噛みして応じていた。
「……米国特殊諜報部……」
紡がれたその名称にまさか、とミシュアは慄く。
「この国の? ……だがならばこちらから逃げる意味が分からない。協力を仰げばいいのに……」
「協力だと? ……ニューヨークの連中は皆、【煉獄門】に魂を持って行かれた人間ばかりだ。誰が信用出来るものか」
なるほど。内々の裏切りも加味すればニューヨーク市警すら敵に回すと。だが、そうなってくるとより疑問なのはジキル達の所在であった。
この国の諜報部が管轄している案件に対し、明らかな敵意を持っている彼らは一体、何者であるのか。
その疑問に応じるかのようにゆっくりと歩み寄ってきたジキルは口元に優雅な笑みを浮かべている。
「何か、分かりましたか?」
「……この国も信用ならないという事が」
「それは結構。まずは自分の足場を疑う事です。……が、さてどうします? この旧市街地に赴いたのは、国家の威信をかけた重大事項ではなく、頻発している殺人事件の究明のはず」
「……分かっています。すぐにでも、現地警察がやってくるかもしれない。この男を確保します。手を」
「了解しました。レディロンド」
「……茶化さないでいただきたい」
黒服の武器をチェックし、その拳銃と無線に用いていたイヤホンをミシュアは手にしていた。
今も通信網が飛び交い、情報が錯綜する。
『……こちらP1、パッケージの確保に失敗したとの事だが、応答を求む。相手の規模と組織の推測を述べて欲しい』
『こちら、B3、……対象は旧市街地へと逃げ込んだ模様。このまま作戦続行の是非を仰ぎたい』
「……集団が動いている……? それも、結構な規模で……?」
だが旧市街地で動けるのはたかが知れているはず。そう考えると、この黒服達は恐らく実行部隊だ。
いわば使い捨ての駒か。警察から逃げなければならないのは、嗅ぎ回っている事を悟られないためと、組織の構成員を割らせないため。
「……にしても、何を目的に……」
「レディロンド。それは回答が出来る」
ジキルの言葉振りにミシュアは胡乱そうな眼を向けつつ、通信機を懐に入れていた。
「……答えていただいても? 何のために、あなた方は動いているのかを」
「それは交換条件次第ですね。現地警察とは何です? この殺人事件とやら、ただの殺しに片付けるのには難しいようですが?」
どうやらこちらの手の内も明かさなければならないらしい。ミシュアは嘆息をついて、黒服へと肩を貸していた。
「手伝いますよ」
ジキルが手を貸そうとするのを、黒服が恐れ戦く。
「……結構です。これくらいは自分で出来ますので」
「契約者に手伝われたくない?」
くすくすと笑うジキルに訝しげな視線を流しつつ、ミシュアは車の後部座席に黒服を乗せていた。
ジキルが窺う眼差しを送るので、助手席を顎でしゃくると、彼女はようやく乗り込んでくる。
「……まずは現地警察とやらから。ニューヨーク市警は一枚岩ではないのですか?」
「……旧市街地は契約難民で溢れています。内情までは不明ですが、恐らくは南米の天国戦争に従軍したとされる難民の数は旧市街地の半数を超えるとされており、それらの起こす事件をニューヨーク市警はいちいち解決するような暇はありません。これは単純に、マンパワーの差だと言えます」
「つまるところ、新市街地の事件だけでもいっぱいいっぱいなのに、旧市街地までは見ていられないと?」
癪な言い回しだが首肯するしかない。
「……そこで元々、旧市街地に住んでいた人々の中でも、腕に覚えのある人間達が作り上げたのが自警団……つまり、現地警察、と我々が渾名する存在です。しかし、彼らもまた、旧市街地に拘泥する市民には違いありせん。中には元警察官のキャリアを持つ人間も居るとの報告がありますが、だからと言って市民を裁いていい理由にはならない……。現地警察と言うのはそういう……厄介者の事を総称してもいるのです。私刑同然のやり口で契約難民を恫喝する者も居ると聞きます。だから、警戒しなければならない」
「なるほど。敵は各国の契約者や諜報員だけではなく、元々の市民も含まれているわけですか」
「……市民同士の衝突を避けるのが鉄則ではあるのですが、如何せん、そこまで手は回りません。そうでなくとも、表では連日、【煉獄門】がランダムに出現し続けている……。この状況でどう足掻いたところで、旧市街地の事件は後回しにせざるを得ないのですが、それでも死体が上がればパフォーマンスでもニューヨーク市警は動かなければならない。それが連続殺人ならば、なおの事」
「状況が見えてきましたよ。要は、市民同士の暴走を止めるべく奔走するあなた方が、しかし各国の威信をかけた諜報合戦に巻き込まれてもいる。にっちもさっちも行かないところに、まさかの連続殺人。そりゃ、猫の手も借りたくもなる……そこで我々へとお達しがかかったわけですか」
認識は早いが、まだ不完全でもある。
「……現地警察を取り締まれないのは単純にニューヨーク市警が嘗められているのもあるのですが、しかし、今回のような殺人事件だと、誰が、どのような方法で、と言うのは愚問でもあるのです。契約者絡みの犯行なら、何でもありですから」
「現地警察がジャッジする前に、こちらで判定を下さなければ一方的なリンチになりかねない……。大変ですね、なかなかに」
「だからこそ、早急に現場に向かわなければならない。……これより、現着を急ぎますが、よろしいですね?」
「ああ、そんな事を。私達の目的と利害が一致しない可能性を汲んでの事ですよね? 無論、構いませんよ。私達も決して、そちらの都合などお構いなしに、と言うわけでもありませんから」
思わぬ返答、と一瞬だけ感じていたが、要はあちらの危機にこちらも一蓮托生になるリスクを背負わせるのならば、こちらがちょっと譲歩したくらいでは釣り銭が返ってくるぐらいだという判断だろう。
要領よく、自分達を利用する腹積もりなのは明白であったが、それでもミシュアは割り切ってアクセルをかけていた。
「……向かいます」
「どうぞ。しかし、ニューヨークの街並みも壮観ですね。旧市街地――かつての大都市の表通りがこうして裏方に回る事になるとは」
その視線の先にあったのはニューヨークを象徴するシンボルビルであった。旧市街地は廃れたとは言え、それでもかつての栄華を覗かせる。それを見ないように蓋をしているのは身勝手な理論に映るに違いない。
苦渋なる選択に、ミシュアは歯噛みして無線に吹き込む。
「……天文部に報告を。観測霊で探りを入れます」
「それはこちらへの配慮ですか? 別に構わないのに」
「いえ……契約者絡みの事件とこの殺人事件、どこで点と点が繋がらないとも限りません。観測霊で同時に捜査したほうが、ともすれば早くに決着がつくかも」
「なるほど。……面白いですね、レディロンド。合理的な判断です」
まるでそれ自体を嘲笑するかのような響きに、ミシュアはハンドルを切っていた。