DARKER THAN BLACK ―煉獄の扉― 作:オンドゥル大使
第二十八話「名前を問う」
漆黒の森に入ろう。
そう口火を切ったものだから、金色のイルカは仰天していた。
――どうしてだい? 森に入ったら、戻って来られないかもしれないんだよ?
でも私はそのために来た。やっぱり森の前でこうやって話して時間を潰していても仕方ないだろうと。
イルカは難しい顔をした後に、じゃあ、と提案する。
――僕と一緒に入ろう。そうじゃないとこれはおかしいじゃないか。ここまで話を聞いてくれたのに相手が身勝手に進むなんて。
そんなものだろうか。私は元々、話をしてくれと頼んだ覚えもない。
ただ、お喋り好きなイルカの四方山話に付き合っていただけだ。もしかしたら、根底には漆黒の森に入るべきか、という迷いがあったのかもしれない。
だが、それを吹っ切ったのは何よりもイルカの話す者達の悲惨なる結末であった。
誰もが困惑を抱え、誰もが迷いを振り切れないまま森に入り、そして帰らぬ人となった。
だから、私には好都合だと思えたのだ。
もう誰も、鎌にかけなくても済む。それが彼との話で保障された。
無論、彼にはそんなつもりは毛頭ないだろう。自分を引き留めるための話で不幸になるなんて思いも寄らないに違いない。
イルカは漆黒の森への入り方をレクチャーする。
――森には主が居るんだ。
これまでのイルカの論調とは違う、重々しい声音に私は反応する。
今までそんな話は彼の口からはされなかった。
――僕とその主は……ちょっと決裂していてね。こじれた仲なんだ。だから、僕は案内人は出来るが、森への永住権だとか、あるいは主の説得だとかは期待しないで欲しい。彼女は変わり者なんだ。
彼女、と言われて私は足を止める。
――ああ、言っていなかったね。漆黒の森の主。それは長い長い時間を生きてきた、孤独の魔女。太陽の光を必要としない、殉黒の女性。彼女が支配しているんだ。漆黒の森には、既に彼女と言う先人が居るわけさ。これは君を出来れば引き合わせたくなかったのもある。
どうして、と私が問うと、イルカは当惑していた。
――だって、森の魔女はとても、とても好きなんだ。孤独の最果てに居るかのような……悲しい眼をした人間がね。
『いいか? 紅(ホォン)。今回の相手は組織の裏切り者だ。すぐにでも処理しろ』
摩天楼をワイヤーで伝いつつ駆け抜ける夜都へと、ブルックの声がかかる。電線を媒介する受動霊媒の青白い光を視野に入れつつ、夜都は一足飛びで躍り上がり、赤いレインコートを翻しながら急降下する。
逃げに徹している相手の車上に降り立ち、夜都はランセルノプト放射光を帯びていた。
ボンネットへと熱伝導を行い、車を急停止させる。黒煙を上げつつ、逃走用車両から這い出た相手に、夜都はクナイを突きつけていた。
「……組織は裏切り者を決して許さない」
切っ先に長身の男が震撼する。そのサングラスの奥で戦慄いた眼差しに、ここで終わる程度か、と予感した、その時であった。
「……お前の力を見せてやれ、契約者」
振り返ると同時に肌を粟立たせたのは殺気。
膨れ上がった熱量が黄昏色の輝きを帯びて瞬間、視界を埋め尽くしていた。
黒い外套を身に纏った少女が相貌を上げる。太陽の恵みを知らないかのような白磁の肌に、赤い瞳が煌めいた。
青白い輝きを纏った指先にエネルギーの凝縮体が流転し、夜都が離脱を決めたその直後には、陽電子の砲撃がレインコートを貫いていた。
あまりの熱量にぐずぐずに融けたレインコートは防御にもならない。
発射された攻撃に対して回避も儘ならず、夜都の姿は橋から落下し、そのまま河へと没していた。
汚れた河川の中で、夜都は咄嗟に伸ばしたワイヤーを手掛かりに何とか流れに逆らう。
引っ張り込んだワイヤーの膂力で河川敷に上がったが、それでも肩口を焼いた光条に歯噛みする。
追撃の挙動に入ろうとして、夜都は橋を無数の車が固め始めたのを目にしていた。
恐らく予備の逃走部隊であろう。相手の目論見通りに事が運んだという証明に、夜都は舌打ちを漏らす。
「……してやられた……」
どの車に乗ったのかまでは分からない。だが、自分はここで確実に、失態を晒した事だけは確かであった。
そのやり場のない怒りに、夜都は拳を固め、壁を殴りつけていた。
「契約者の身辺警護をつけて正解だったでしょう? ムッシュ」
そう口にされて、長身の男は神経質にネクタイを締めていた。
「……まぁな。だが、あんな契約者が追ってくるなんて思いも寄らない。……あれが例の?」
問いかけると運転手はミラー越しに微笑む。
「ええ。ニューヨークの赤ずきん。煉獄の契約者です」
「冗談じゃない。わたしはME技術の一部を貴君の企業に売ろうとしていただけだ。それも正当な手続きで」
「ですが、それが組織には癇に障ったのでしょう。彼らのネットワークはかなり手広い。このニューヨークだけではないと、判断すべきでしょうね」
「……まさか、PANDORAか?」
詰めた声音に運転手は、まさか、と笑う。
「PANDORAはほとんど形骸化している。彼らが動くのは、所詮は後の祭りというもの。契約者を顎で使っているのは、恐らくは別組織でしょう」
安堵の息をつき、男はそれにしても、と隣に座っている少女に目配せする。外套の少女は面を伏せたまま、こちらを一顧だにしない。
「……気味が悪いな。契約者と言うのは、往々にして」
「何がお気に召しませんでしたか? 能力は折り紙つきですよ。その契約者……LG891はね」
「手から陽電子砲を放つなんて間違いなく人間ではないのは分かる。その強さも、な。だが、こんなものが隣に座っているなど……怖気が走る」
「我慢してください。彼女らはビジネスと、そして己の生存権のために我々にその能力を売ってくれているのです」
朗らかに笑う運転手は契約者の事を自分よりも幾分か知っているようであった。それにしても、と額に手をやる。
「……どこから情報が露見した? そこからの洗い出しのはずだ」
「案外、筒抜けなのかもしれません。どこぞに契約者かドールでも配置して、御社の中身は全て、とでも」
「それこそ気味が悪いと言う話だ。何でもお見通しの存在だと。……神でもあるまいに」
「あるいは、その神の座すら彼らは掌握しようとしているのかもしれない」
おぞましい事実だ、と男は背筋を凍らせる。
「……しかし、それにしたって契約者と言うのは便利に尽きる。使ってみて初めて分かったが、自由意思がないのか?」
「自由意思がないのはドールですよ。彼女らは契約者。契約者は常に合理的に判断する。事の次第に関して、感情論を差し挟む余地はない」
「……情にほだされない、完璧な殺戮機械か」
「そう言うものでもありません。現にオーダーに見合った価格帯であったはずでしょう?」
「……まぁな。契約者はこの額で買えるのか」
「今回だけの特別料金ですよ。契約者の値段は本来、そんな簡単には判定出来ない」
運転手は静かに新市街地を抜け、旧市街地へと道を折れていた。
「……歯がゆいな。組織から逃げるのに高跳びも出来んとは」
「空の上なんて格好の的ですよ。船もそうだ。契約者一人でも追撃されれば逆に逃げ場がない。ほとぼりが冷めるまで、ここは静観が望ましいでしょう」
旧市街地は浮浪者がそこいらで歩いており、身なりの整っている自分とは大違いであった。
「……少しの間とは言え、掃き溜めに住む事になるとは……」
「まだマシでしょう。墓の下がお望みですか?」
「……まさか。まだ死ねんよ」
その時、不意に車が急停車する。何かあったのか、と辺りを見渡すと、コートを着込んだ見上げんばかりの大男と、それとは対照的な小娘がこちらを見据えている。
少女のほうは奈落へと続いているかのような瞳をしており、服装はぶかぶかのベージュのコートを羽織っていた。
「……この二人は……」
「追加プランですよ。LG891だけでは心もとない、と思いまして。契約者とドールです。ドールについての説明は……要りませんよね?」
「……受動霊媒か。別段、初めて見るわけではないが……」
「ドールの名前はエミリー。この大男はスチュアート。二人ともビジネスにおいては腕利きですよ」
スチュアートと呼ばれた大男は顔もフルフェイスで覆っているため、全く表情が読めない。エミリーはその黒髪をおさげにしている。東洋人風の顔立ちだが、ドールに国籍などあるものか。
「……わたしはただ単純に、組織の追っ手から逃げおおせたいだけだ。追加プランだと……聞いていないぞ」
「おや、そうですか。でしたら、元々の金額通りなら、LG981はここまでのはずですが? それとも、契約者の守りもなく、この旧市街地で生き残れるとでも?」
やられた、と感じる。陽電子砲の契約者の強みを自分はもう知ってしまった。それどころか、これだけでは足りないと思っていたところに別働隊の契約者とドール。渡りに船とはこの事としか言いようがないが、それでも代償は払わなければならないだろう。
「……いくらだ」
「一億」
断言された論調に男は絶句する。
「ふ、ふざけるな! 契約者とドールに一億など……!」
「何を勘違いを? 一人につき一億ですよ」
思わぬ提示金額に男は正気なのか、と目線を振り向ける。運転手は読めない笑みで応じていた。
「それくらいの価値のある人選です」
「……待て、待ってくれ……。三億で……では生き延びられなかったら意味がないだろうに。破格が過ぎる」
「それはお互い様でしょう? この三名で生き残れなかったら、それこそ破格が過ぎるというもの。それくらいの一流エージェントですよ」
分かっている。元々は組織から逃げて企業に横流しをしようとした自業自得。そこに損得勘定を持ち出したところで、結局は集約されるのは金の話になってくる。
「……この陽電子砲の契約者の実力は分かった。だが、他二名は得心がいかん。それほどに強いのか」
「能力をお見せする事は出来ません。旧市街地はそうでなくとも契約難民の溜まり場だ。少しでも能力を見せれば、すぐにどこかへと情報が漏れる。彼らはあくまでも、あなたに絶対の忠誠を誓っている。そう言う風に出来ているのです」
運転手の言葉繰り通りならば、これ以上とない待遇に違いない。だが、契約者とドールを信じて、ならば身の破滅を免れるのか、と言えばそれは確証のない。
「……いいんですか? あなたを追ってきたのはニューヨークの赤ずきん。彼女は絶対に、獲物を取り逃がさない。一度でも目を付けられればそこまでなのです」
「……まさか。あの契約者は死んだんじゃ……」
「あの程度でやられるタマなら、今頃この街で一二を争う契約者と呼ばれているはずがありませんよ。絶対に追撃が来ます。その時に、死なないように保険を掛ける。彼らは最適のはずです。あなたは絶対に死なない」
運転手の言葉に滲む自信に、男は三者三様へと目線を振っていた。スチュアートは手袋に覆われた手を差し出す。恐れていると、運転手は促していた。
「握手ですよ。あなたを守ると彼は誓っている」
「……契約者と握手なんて……」
「ですが、あなたの命はこの三名に握られたも同義。今さら握手の一つや二つ、減るもんじゃないでしょう?」
確かに言われればその通り。男はおっかなびっくりにスチュアートの手を取り、軽く握り返していた。
エミリーへと視線を流すが、彼女の眼にはまるで最初から自分など映っていないかのようであった。
「……ドールの扱いなんて……」
「ご心配なく。既にプログラムされてあります。要求される動作は確実に」
男は二人を見比べ、やがて後部座席に腰を下ろそうとして、隣に座る少女に慄く。
「……逃げ場がないのはここも同じじゃないか……」
「組織が切ったのはあの赤ずきんのカードです。彼女さえ殺せば、組織からの追撃は一旦はやむでしょう。あなたが生き永らえるリミットがあるとすれば、それはこの三名が赤ずきんを殺すまでの時間に他ならない」
男は額に浮かんだ汗を拭い、三名へと視線を振る。
「……信用、出来るんだろうな?」
「ご安心を。仕事に関しては一級品ですよ。それに、あなたはいい買い物をした。我が企業へと情報を流してくださったのは賢い判断だ。我々は契約者の価値を高く見ている。それはあの凄惨を極めたとされる天国戦争において、契約者の兵士の可能性にいち早く気づき、ビジネスとして成り立たせた実績を鑑みてくれればいい」
――要は死の商人だろうに。
しかし男は今さら、そんな抗弁さえも許される領域ではない事を思い知る。
「……衣食住は」
「彼らが保証してくれます」
「……あんたはもう現れないのか?」
「あまり顔を合わせるとこちらも狙われてしまう。最低限度で行きましょう」
契約者二人と、ドール一体と暫くは寝食を共にしろと言うのか。無理だと言い捨ててもよかったが、それは即ち自分の死だ。
言葉を信じるのなら、あの赤ずきんの契約者に狙われた時点で命がないのだと言う。それならば少し我慢するくらいでいい。今はせめて細く長く……。
「……分かった。だが……せめて全員の能力を知っておきたいのだが……」
「書面でも能力を明かすのは契約者にとっての弱点になります。LG891の能力だけでは不満ですか?」
「……正直に言えば。陽電子砲を撃つなんて目立つ能力だ。いくら攻撃力が高くても……」
「それならば、ご心配には及びません。彼女の能力は正確に言うのならば、陽電子砲を撃つ、ではないのですから」
まさか、あの攻撃さえも本来の能力の一部に過ぎないとでも言うのか。改めて恐ろしい相手の隣にいたのだと、男は震撼する。
「……わたしは契約者でない。その落差はどうする? 彼らは……それこそ怜悧に、合理的に居られるかもしれないが、わたしはそうではないのだぞ」
「それも、杞憂というものです。案外、契約者との生活はストレスの少ないものになりますよ」
この運転手と会話したところで覆るものはなさそうだ。男は三人を見渡し、そういえば、と車上の少女へと言葉を振り向けていた。
「こちらの……名前を聞いていなかったが……」
「ああ、彼女の。名前は――」