DARKER THAN BLACK ―煉獄の扉― 作:オンドゥル大使
第三十九話「彼方を歩む」
――あら? あなたが死神?
開口一番、漆黒の森の魔女は問いかけていた。
私は金色のイルカと共に魔女へと傅く。彼女は麗しいかんばせと、常に微笑みを浮かべた余裕を崩さないまま、私達を見下ろす。
――謙虚な事ですこと。わたくし相手に、顔を伏せる術を知っているなんて。
イルカの教えてくれた事だ。魔女は気に食わない事が少しでもあると相手を飴細工に変えてしまうのだと。
私は死神だからそんなものにかかるかどうかも分からないけれどでも、機嫌を損ねるのは嫌だった。
せっかくこの漆黒の森で棲まわせてもらうのだ。せめて、関係性はフラットにしたい。
――死神の割には綺麗な顔をしているのね。もっと残忍な眼をしているのだと思った。
いえいえ、魔女様。私はとても残酷なのです。
私は何人も手にかけてきました。もう数えるのも馬鹿馬鹿しいほどに。その中には、確かに、意義のある友情もあったのです。
でも、月明りが差すとどうしても駄目で……自分を抑えられなくなるのです。
――ふぅん。だから月も星も、何もかもが見離したこの森に来たと言うわけ。死神にしては綺麗なものが嫌いなのね。
綺麗なものには全て背を向けてきました。私は綺麗なものや、美徳にはことごとく愛想を尽かされて来たので。
でも、と一つだけ口にしていた。
私はもう、命の綺麗さを、首筋を辿る鮮血の眩しさを。頬に落ちた濡れた髪を、もう感じる事はないのでしょうか。
そう尋ねると愚問ね、と魔女は応じる。
――貴女はもう綺麗には成れないのよ。この穢れた森の中で、獣達に塗れ、美しさとは正反対の醜い者達と共に踊るだけなの。このわたくしのように。
でもあなたはとても美しいではありませんか。
こちらの返答に当たり前でしょうに、と魔女は鼻を鳴らす。
――醜い者達を束ねるのには、美しくなければならない。覚えておきなさい。気高さとは、美しさの上に立つのよ。
矜持を語った森の魔女はうねった木々の玉座より私達を見下ろし、カモシカのような麗しき四肢を投げ出し、そして泥のような侮蔑を吐くのだった。
――でも、そうね。貴女、とても悲しい眼をしているのね。とても……美しい者達から眼を背けたとは思えない、まだ純粋を湛えた、水晶の瞳を。
追い込んだ獲物はそれほどの敵とも思えない。
元々、逃げる相手を追うのはさほど難しい事でもなかった。新市街地を抜けていく相手を先回りし、紅(ホォン)はブルックの声を聞いていた。
『紅、敵の契約者の能力はまだ不明だ。油断をするなよ』
「そんな事、言われるまでもない」
投げたワイヤーの網にかかった敵影へと降り立ち、紅はその背中へと声を投げる。
「……もう逃げられない。組織に追われて、この街から逃げおおせると思えない事だ」
紅はクナイを逆手に握り締め、相手へと飛びかかる。それを弾き返したのは敵の銃剣であった。
跳ね上がった相手の挙動に、まだ生にしがみつく執着を感じる。
紅の首筋を掻っ切らんと迫った一閃をクナイを引き上げて防御し、その異様な相貌に目線を向けていた。
縫い目の浮かんだ皮膚、それに死んだ魚のような濁った瞳。
「……ニューヨークの赤ずきん。おれを殺すために来たか」
「組織からの抹殺指令を受けたからに過ぎない。お前だからと言う特別なものもない」
「……そういう淡白なのも、契約者らしくていい」
『紅! 時間をかけるな! 能力の発動前にケリをつけろ!』
空よりかけられた声に、言われるまでもないと感じつつ紅はクナイで相手の胸元を斬りつける。
どこか人間味を失ったかのような青白い皮膚をしている男より、鮮血が滴る。
切断面を触媒にして、紅は能力を行使していた。
熱操作で薄皮一枚の傷を致命傷のように錯覚させる。思い通り、呻いて膝を折った男へと止めとばかりに紅は駆け抜けていた。
その頸動脈を裂いて確定なる死を。そう断じた一撃が奔る前に、男の身体が青白い燐光に包まれる。
「……能力の行使前に、潰す」
こちらの速度に比べれば相手の能力発動は随分と遅い。このまま押し切る、と覚悟を決めた紅は不意に発生した濃霧を感じ取っていた。
いつの間に霧が、と視線を僅かに外した瞬間、男の姿が濃霧に溶ける。
「……目晦ましなんて」
「目晦ましではない」
断じた論調に紅は声の方向にクナイを投擲するが、何もない空を裂くばかりであった。
「……消えた?」
だがそんなはずがない。それに、自分から離れたのならばすぐさま察知出来るはずだ。だと言うのに、妙な感覚が付き纏う。
次第に深くなっていく霧の中で紅は濃い人影を見出す。
そこか、とワイヤーを投げて絡め取るが、直後に人影は消え去っていた。
しかし質量を捉えた感覚は居残っている。
「……どこへ」
逃げ切るための能力とも思えない。紅は周囲の気配に神経を尖らせたが、それでも先ほどの男の姿が視界に入らない。
「……この霧は何だ。まるで……」
「――そう、この霧はゲートだ」
不意打ち気味に背後から発せられた声に振り返り様に一閃を交わす。しかし、男の姿はない。
「ニューヨークの赤ずきん。MA401、お前も知っているはずだ。ゲートの中では、通常考えられないような事も起こる。こうして理解出来ない事象でも」
「何を言っている。お前はここまで追い込まれて、そして情けなくも能力を行使した。その時点で、お前に勝ち目はない」
「勝ち目はない、か。確かにおれの能力は、お前の能力の足元にも及ばないだろう。それほどに、おれは欠陥品だ。契約者としても、な。だが、こうやってお前を永遠の輪廻の中に落とし込む事は出来る」
霧の至るところから男の声が反響する。どこに相手が居るのか、把握する事も難しくなってきた。
紅は即時の決着を望み、相手の気配の察知を目指すが、それでも感じるのは徐々に曖昧になっていく気配だ。
おかしい、と思い始めたのは数秒前になら明確に感じられた相手の気配が、この濃霧の中に溶け込んでいる事だ。
――どこにでも居るし、どこにも居ない。
脳裏に浮かんだ考えに、馬鹿なと一蹴する。
ここは新市街地の一角。どこまで逃げおおせても百メートル圏内に相手が居るのなら、容易く決着をつけられるはず。
しかし紅は、男の気配が凝結し、黒々とした影になっていくのを目にしていた。凝った影そのものの男に、紅はクナイを逆手に構える。
「……そこか」
駆け出したのは能力の掴めなさに翻弄されている部分も大きいからだ。だから絡め取られる前にこの謎の空間を脱する。
身を沈め、風を切って疾風となって紅は凝った影の首筋を切り裂いた。
だが、影にはまるで手応えがない。首がころんと落ち、確殺を感じ取った直後にはまたしても濃霧の只中に佇んでいる。
紅は周囲を取り囲む男の気配に狼狽していた。
影が次々と屹立し、それぞれに声を響かせる。
「お前はどこまでもおれを殺せない」
「永遠に、このゲートから出る手段はない」
「ここはゲートだ。通常起こらない事が起こる」
反響する声音に紅は両手を交差し、次なる一手に備える。相手が自分を殺しに来るとしても確実に射程に入らざるを得ないはず。ならば、懐に潜り込んできた刹那に熱操作を叩き込めばいい。
そう感じていた紅は真正面から漂ってきた男の影に掴みかかっていた。
瞬時に熱放射で脳幹を焼くが、それでも相手の気配は途切れない。それどころか、時間が経つにつれて増えていく。
殺し切れない相手の増加に紅は息を詰めて周囲を見渡す。
黒々とした影が一つ、二つ――。
数えていくうちにも増えていく。
「……この能力は……」
「分からないのか、MA401。ここはゲート。現象に理由はない」
「馬鹿げた事を。ゲートに入った覚えはない」
ふふっ、とせせら笑う声が幾重にも聞こえてくる。
「それが、間違いなのだよ。……おれの契約能力は、疑似ゲートを生み出す事。それはこういう事態に陥る事を、完全に理解しての行動だった」
「疑似ゲート……? だがゲートではないのなら、突破は可能なはず」
「MA401、もうそろそろ分かり始めて来ているんじゃないのか? ここから逃げる事も、ましてやおれを倒す事も出来やしない。ここはゲートだ。いくら偽物とは言え、ゲートから逃げる術を契約者は多くは知らないはず」
「お前の能力の延長線なら、契約者を殺せばいいはず」
「分かっていないな。これは奥の手なんだ。……おれ自身、どうやってこの能力を切るのか、まるで見当がつかない。だから、一度として契約能力を行使しなかった。おれの対価はこのゲートを生み出した以上、この空間に捕えられる事。そして、逃げる術はおれでさえも知らない。つまり、お前はおれの中で永劫に彷徨う」
「……契約者の能力なら、解除方法はある。本体を潰せばいい」
「はて、本体とは。ではお前には分かるのか? ――おれの本体が」
いくつもの影が佇み、地表から生み出されていく。それぞれがランセルノプト放射光を帯びた相手の契約者であるのならば、全て潰せば終わりであろうか。
あるいは、と紅は考えてしまう。
相手の言う通り、本当に終わりがない――無間地獄の中に、自分は追い込まれてしまったのか。
追撃するはずの相手の罠にかかったなどという馬鹿な話もない。
紅はゆっくりと歩み寄ってくる影へと疾走し、その頭部を引っ掴んだが、直後にぼろぼろと崩れていく。
「泥人形……?」
凝視したその時には人形は崩れ落ちている。紅は構え直して周囲を確認していた。
濃霧でほとんど視界は遮られた形の中で、形状をまともに帯びない泥人形の影が嗤う。
ケタケタと声が反響する中で紅はどの対象を攻撃すべきか惑ってしまう。
「……構わないとも。いくらでも攻撃するといい。どうせ、このゲートの中ではおれも自分を制御出来ない。何が起こってもおかしくはないのが、ゲートだ」
「……それは本物のゲートの話だ。契約者の真似事じゃない」
紅は駆け抜けて手近な相手の首根っこを押え込んだ。熱放射で焼き切るが、相手はまたしても泥人形だ。
ぼろり、と頭部が砕けて泥がぐずぐずに融ける。
「……どうやら本当に分かっていないようだな。ここに至った以上、お前もおれも、この地獄より逃れる術はない。おれも自分が分からないし、お前はもっとだ。もっとこの地獄を味わうがいい」
「……無敵な能力だとでも言うのか」
その言葉に周囲で揺れる泥人形が肩を揺らして嗤う。
「可笑しな事を言うな。契約者なら分かっているだろう? 無敵などない。だが、これを無敵と呼ぶのならば、そうなのかもしれない。おれにはもう、元に戻る事は出来ないが、これで負けはなくなった。ならば、勝利すべきはおれのほうだ」
からからと泥人形達が嘲笑する。
紅は舌打ちを滲ませ、相手へと最接近してその心臓にクナイを突き込む。だが手応えが人のそれではない。
またしても、対象は泥人形。
ぼろぼろと崩れていく相手に紅は歯噛みして背後に迫っていた気配にクナイを払う。
今度こそ、と期待したが首筋にクナイを突き込まれた姿勢のまま、泥人形は銃剣を大きく振るい上げる。
紅は熱操作で泥人形を突き飛ばし、弾き返す勢いで相手の手首から先を掻っ切る。
だがそれも致命傷ではない。
「……どれもこれも……偽物か」
「違うな。どれも本物だ。このゲートの中に、本物も偽物もない。ただおれの能力はことごとくを巻き込む。お前だけじゃないとも。このゲートに干渉する、全てだ。さぁ、どうする。仲間の救援でも待つか」
「救援。冗談を」
誰も信じちゃいない。誰も当てにしていない。
紅はクナイを構え直し、泥人形達に向かい合う。
「――最後の一つになるまで、殺し尽くせばいい」
その言葉と共に、地を蹴っていた。