DARKER THAN BLACK ―煉獄の扉― 作:オンドゥル大使
「……死んだか?」
泥人形が屹立する。紅は近づいてくるそれに対し、息を切らせ、呼吸を詰めていた。
ほとんど挙動せず、その場に立ち竦んだまま相手の接近を許す自分に対し、疑似ゲートの契約者の声が響き渡る。
「諦めるのなら、潔いほうがいい。そのほうが随分と合理的だ」
「……ふざけるな。私は、ここでは死ねない」
泥人形が腕を振るい上げた刹那、振るったクナイで相手の腕を根元から掻っ切る。積極的な応戦に出るのにはしかし、もう身体が限界を迎えていた。
見渡した視界の中には泥人形は十体以上。それでも何か、効果的な戦術を講じるだけの頭もほとんど残っていない。
時間感覚の失せた濃霧の中で、紅はもう駆け抜けるだけの体力も残されていなかった。
だからせめて接近し、攻撃してくる相手への応戦のみが自分の耐久力を見越した戦術だ。
しかしそれではあまりにも手数が足りない。
如何に緩慢な動きとは言え、相手は十体以上。それも契約能力によって生み出された存在ならば、こちらも能力を振るうしかない。
だが性根尽き果てた自分に、どこまで抵抗の意思があるだろうか。
闇雲に刃を振るうのは無駄であると判定したのが、かなり前のように感じる。
応戦の刃のみをしかし、振るい落とすのはそれも難儀だ。相手は一体でも欠ければ即座に精製される。減らない敵を相手取って勝てるような能力ではない。
無限の持久力を誇っているわけもなく、紅は呼気を張り詰めさせていた。
敵対する相手への攻撃は最小限に。それでいて相手の弱点を心得た一撃を。
分かっている。もう手なんてほとんど残されていない。それどころか悪化する一方だ。だが戦局の悪化を理由にして逃げに徹するのもまた体力の無駄。
この疑似ゲートからは逃げ出せない。そもそもゲートから出る手段なんて確立されていないのに、どうやってこの能力を突破すると言うのだ。
手段もなく、ましてや展望もない。
かと言って状況は悪くなる一方。
手を打たなければならないのに、この濃霧では観測霊の一つも見られない。恐らく外部からの干渉は限りなく不可能なのだろう。
「そろそろ参ったとでも言えばいいのに。強情な契約者だ。体力も精神力も限界だろう。泥人形はお前の四肢を引き千切るくらいのパワーはある。死ぬ時はそれほど苦痛はないはずだが?」
「……ふざけるな。まだ……死ねない」
「死ねない? 死にたくないでも、死ぬわけにはいかないでもなく? 誰かに依拠する理由をでっち上げるのでもなければ、合理的判定を無視した感情論に持ち込むわけでもない。お前が言っているのは先ほどからちぐはぐだ。死ねない、と言うのは感情論と理性を天秤にかけた結果に訪れるような言葉だ。何かのために死ねない、何かを達成するまでは死ねない、とでも言うように。理由合っての言葉のはず。それは何故だ? 契約者の言うような言葉ではない」
「黙っていろ……。お喋りの寿命は短いぞ」
「短い? 可笑しな事を言う。もう何時間もこの能力を行使している。どうやら一度発動すれば自力で切れないと言う対価は大きかったらしい。何せ、対価は命だからな。契約能力としては最上もいいところだろう。制御も出来なければ、発動時のパターンも取れない不完全な代物だがね。それでもこのニューヨークを舞う赤ずきん一人を巻き添えに出来ただけでも、かなりの戦果か。さぁ、次はどの手に出る? どうやったところで、疑似ゲートを観測霊は突破出来ない。お前の仲間を頼ろうにも、誰もこのゲートの中には入れないんだ。そしてお前は死ぬ。揺るぎない。諦めて、泥人形に身を預けろ。そうそう惨い死に様にはならないはずだ」
「……私は誰も信じちゃいない……」
「確かに。契約者ならば誰かを信じると言う回路が不明だ。それは合理的ではない。何者かの意図を頼るのも、ましてや思考を慮るなど、最も正反対の位置にある思考回路であろう。……ならば何故、諦めない? それがこの場では最も効率がよく、そして合理性に満ちた判断のはずだ。これ以上の力の浪費も、ましてやこちらとの勝負も意味がないのは分かっているのだろう? なのに、何故――まだ立ち上がる?」
こちらを見据えた泥人形達に紅はその瞳を赤く輝かせる。身に帯びたランセルノプト放射光を棚引かせ、泥人形の腕を斬り払った。
――そうだ。誰も信じていないのなら、何故まだ足掻く? 何故、まだ立ち向かう?
「……それでも私は……」
「不合理を捨て、そして契約者としての合理性に走ったほうが楽だと言うのに、可笑しな契約者だ。何時間も観て来たが、ここまで非合理に走る契約者は居ないだろう。一体何が、そこまで駆り立てる? 言っておくが、疑似ゲートの外で人々が手をこまねているなど幻想だぞ? 誰も、この疑似ゲートには頓着していないかもしれない。それどころか、破壊を企てている可能性だってある。分かるか? お前はこのゲートと心中するかもしれない。だと言うのに、まだ何を信じる? 何を寄る辺にするって言うんだ?」
――ああ、そうだ。
「……誰も信じないほうがいい。誰かを信じたって、自分を託したって……結局、この世は一人きり。この世の最果てのようなこの場所で、私は……独りで死んでいく」
「そうだ。だから諦めればいい。その臓腑を引き千切って噛み締め、そして啜ってやろう。それが似合いの結末のはずだ」
諦めればいい。そうなのだろうか。いや、きっとそうなのだろう。
疑似ゲートの中で、この契約者の捨て身の能力と共に死んでいく。それが自分の運命。帰結する場所……。
……でもそんなの――。
「……私の終わりじゃ、ない」
泥人形へと紅は青白い燐光を帯びて駆け抜けていた。
クナイを前に振り翳す。
泥人形の顔面に亀裂が走り、五体が同時に頭部を砕かれて地に伏す。しかしすぐに代わりが補填されていた。
これがこのゲートの理。
これが相手の契約者の、能力。
膝を折ってもいい。諦めたって、誰も文句は言いやしない。
それでも……。
「私は、私に……失望したくない」
「失望? 契約者からは縁遠い感情だ。誰かに頼らないのならばそれは自分だってそうだろう? 欺き、欺瞞の中に自分を置く。それが契約者だ。必要とあれば自我さえも騙し切る。それが契約者だろう?」
「そうかもしれない。……いや、きっと、そうなのだろう。だが、私は……単純な話だ。ここで膝を折って、お前に負けて……それで終わる私自身が、許せない……!」
睨み上げた紅の眼差しに天より声が投げられる。
「愚かな。契約者らしく、合理的に自分の命まで判定すれば楽だと言うのに」
「……その通りなのだろうな。だが、私に在るのはたった一つの命そのもの。だったら、この命に唾を吐くような真似だけは、決してしない。それは私がここに居る理由でもある」
クナイを構え、泥人形達と向かい合う。相手の契約者の声が絶対者の響きを伴わせる。
「それは破滅の道だ。どちらにせよ、お前は死ぬしかない。これはもう決定事項だ。ゲートの奇跡に頼るか? それとも、この場で、起こるかどうかも分からない、偶然の積み重ねに何かを見るか?」
「……黙れ。私は、私自身だけを決して、裏切らないだけの話だ」
「ならば死ぬがいい。疑似ゲートを破る術はない。我がこの能力は無敵だ」
その瞬間、紅は何かがゲートの濃霧を破って泥人形の眼前に転がり落ちたのを目にしていた。
それは球体のカメラである。
ケーブルが外から繋がれており、ハッとして飛び退った紅は次の瞬間、燐光を帯びたダーツが殺到したのを関知していた。
「……まさか、外からの介入? お前の、仲間か……?」
信じられない論調の相手に紅はどちらとも言わない。恐らくこのダーツの攻撃は以前会敵した契約者の能力だろう。しかしクナイを交差させ、泥人形を見据えた自分に相手は恐れ戦いたのを感じた。
「……こんな、限りなくゼロに近い勝算を、お前は見ていたと言うのか……。それは合理的ではない」
「……合理的じゃないかもしれない。だがこの世に、奇跡はきっと、あるのだろうな」
身を沈めて駆け抜け、転がってきたカメラの繋がる先へと紅は能力を行使していた。
「……カメラを焼くのか……?」
「違う」
カメラは融解させない。ただ、この道が有効ならば、徹底的に利用してやる。その心持ちで放った能力の実行に際し、泥人形が背後へと迫る。
振り返り様に一閃を放ち、紅はうろたえ気味な相手の声を聞いていた。
「あ、あり得ない! 勝算の少ないほうへと流れる契約者など……! そんなものはあり得ないはずだ!」
「……何を動揺している? 身体を失い、命を失う覚悟を持った契約者のそれではない。お前のその恐れこそ、契約者の合理性からは最も縁遠い代物のはずだ」
言い当てられた不実か、あるいは虚勢か、相手は声を張り上げる。
「馬鹿な! 恐れだと? そんなものは存在しない! そうだとも……恐れてなどいないさ。ただ……あり得ない事をする契約者が、あまりにも愚かしいだけだ! 愚か者を、平常心では見られないものでね!」
しかし相手の動揺は泥人形達を鈍らせる。泥人形の足先が溶け、その腕からは明らかに膂力が失われていく。
この疑似ゲートは相手の契約者の精神に連動している。
紅は天上を仰ぎ見ていた。
「……どうした? 愚かしければ殺すといい。簡単なはずだ。そんな事も出来ないのか? ――それとも、もうそんな勇気も湧かないか? それは契約者としての死と同義だ」
こちらの挑発に相手は声を上ずらせる。
「な、何を嘗めた事を……! その身に刻ませてやる! その愚かしさ、契約者としての間違いを! ……どうした! 何故、泥人形達が思うように動かない……ッ!」
「……契約者の能力はその素質以上に相手との読み合いの途上にある。お前の契約対価は命のみかと思っていたが、そうでもないようだな。契約者としての精神的な死、それこそが対価であった」
「馬鹿な! 精神の屈服だと? ……そんなもの、訪れるはずが……!」
だがその声音に反して泥人形達は次々と瓦解していく。契約能力を制御出来ていないのが、青白く明滅する濃霧から窺えた。
「……なら、お前を道連れにする。それくらいは可能なはずだ。戦意喪失だとしても、それくらいは……ッ!」
確かにその程度ならば最後の一滴を絞り尽くせば可能だろう。紅は息を詰め、疑似ゲートの外へと視野を移す。
「どうした? ……やはり仲間を当てにするか! それは契約者ではない!」
「……私は誰も当てにはしない。だが、戦いに使えるなら有効利用するまでだ」
既に手は放った。後は発動するかどうかは運任せ。
紅はクナイを携える。泥人形達が最後の抵抗とでも言うように再構築され、呻き声を上げながら近づいてくる。
――あとは、我慢比べか。
胸中に呟き、紅は駆け抜けていた。