DARKER THAN BLACK ―煉獄の扉― 作:オンドゥル大使
「そろそろ終わりだな」
告げられた言葉に紅は泥人形に突き立った刃が刃毀れしたのを感じていた。そのまま泥人形の手が力任せに払われ、地面を滑る。
「……ここまでよくやったさ。この能力相手に立ち回るとは、思いも寄らなかったよ。だが、それも終わり。この完璧な空間において、お前は邪魔でしかない。我が能力は無敵だ」
紅は咳き込みながら天上を見据える。濃霧でまるで一寸先さえも窺えない白の闇に閉ざされた空間。それがこの疑似ゲート。しかし、それは「本物の」ゲートとは違う。
「……私は本物の【煉獄門】に入った事がある」
「何かの自慢か? それとも誇示か? いずれにせよ、そんな経験があったところで……」
「だから、分かる。本当に物理法則の狂った空間に投げ込まれるよりも、まだここには……希望の一つが取り残されているのだと。あの場所は異様だったが、ここは違う。ここは所詮はお前の作り上げた疑似的なゲートに似た密閉空間だ。お前の言葉が聞こえるのがその証拠」
「……だから何だと言う。言っておくが、ここに居る絶対者としてのこちらに、干渉する術はない。人格は取りこぼされた残りカスだ。疑似ゲートを適切に運用するための」
その言葉に、やはり、と紅は冷笑を浮かべていた。
「……何故、嗤える……? 狂ったのか」
「いや……私の無謀な策が、ある意味では功を奏したのだと、確信したんだ。ここはお前の契約能力の中。契約者の能力を解除する術は共通して一つ。契約者本人の死でしかない」
「……馬鹿な。もうこの世に居ない相手を、殺す術など……」
「いや、契約者はこの世に居るから、契約能力を行使出来る。それを私はよく知っている。あの世に行ってまで契約能力を行使出来る相手は存在しないのだと。……だからこの疑似ゲートを構成するのは凡庸な物質でしかない。本物の【煉獄門】では物理法則も、時間の流れも意味を成さないのかもしれないが、ここならば出来る。私の能力を、ゆっくり……じわじわと行使する事が……」
紅の体表をランセルノプト放射光が纏いつく。それに対し泥人形達が手を振るい上げて咆哮した。
「熱を操る程度の能力で何を!」
「……そうだ。熱を操る程度の能力。しかし私の能力はただ一つ……熱力学の法則を打ち破る事が出来る。熱は常に高いほうから低いほうへ……という法則を。熱量を一定に留め、相手へとそれを放つ……。今回は密閉空間だからうまく行ったが、本来はうまくはいかない。それは人間の体内に対してこの策を弄するのはまるで不可能だからだ。熱の蓄積なんて。でもここは疑似ゲート、そして契約者の能力そのものだ。なら、この作戦は可能だった」
「何を……何を言っているんだ! この契約者風情が!」
紅の瞳が赤く輝く。
その瞬間、ぴしり、と空間に亀裂が走った。相手の契約者は狼狽する。
「これは……疑似ゲートが……臨界点を迎えて……」
「そんな事はお前からしてみればあり得ないのだろう。お前はこの疑似ゲートを本来の【煉獄門】と同義だと考えていた。だが実際には……限りある人体に近い代物であった。物理法則は適応され、閾値を超えた熱を与えられた疑似ゲートは熱応力によってゆっくりと、破裂していく。その数値が不明だったが……何時間も勘付かれる事なく、ある一定の熱を与え続ければ到達可能だった」
「……まさか。この疑似ゲートで最初から、戦い続ける気なんてなく……!」
「当たり前だろう。こんな場所で死ぬまで戦ってなんていられるか。閾値を超えた熱を逃がそうと思えば、どこかでこの疑似ゲートを開くしかない。しかし、お前はこうも言った。この疑似ゲートは最早制御不能であると。ならば、定義付けられたこの空間そのものに対して、緩やかな熱をくれてやれば、やがて崩壊が訪れる……」
「そんな……そんな遠大な真似、ただの一契約者が出来るはずが……! いつまで熱を与え続ければいいのか分からない策ではないか!」
「……だが成功する見込みはあった」
こちらの強気な言葉に比して疑似ゲートの内側から次々と泡沫の割れる音が響き渡る。やがて崩壊の途上を辿る空間は有限だ。有限であると、そう定義したのは契約者と言う存在そのもの。
ここがもし、本当にゲートの中なら、こんな無謀な事は出来ないが、相手はこうも言った。
これこそが契約能力なのだと。
「……死んでまで契約能力を行使する事は出来ない。これは契約者なら誰でも知っている事だ」
「貴様ぁ……ッ!」
泥人形達の躯体に青白い光が宿り、一斉に加速度をかけて向かってくる。紅はクナイを逆手に握り締めたが、最早ほとんど刃の冴えはない。こうやって相手に向かい合っているだけでも意識が途切れそうだ。
それでも、ようやく見えた勝利の軌跡。
ならば無駄にするわけにはいかない。
紅は雄叫びを上げて泥人形へと刃を軋らせる。しかし最期の時を感じ取った相手は容赦を知らない。泥人形が切り裂かれながらこちらの肉体を吹き飛ばす。大仰に咳き込んだ紅は肋骨がいくつかやられたのを感じ呻いたが、そのような隙さえも与えてくれない。
即座に直上で拳を固めた泥人形へと浴びせ蹴りを与えて飛び退ろうとして、既に体力は限界を迎えているのだと悟る。
姿勢を崩した自分へと泥人形が羽交い絞めを加えてくる。薄れゆく意識の中で紅はぴしり、と疑似ゲートが今にも砕け落ちそうなのを感じていた。
相手も終わりを直感すればこその強硬策なのだろう。
だがここで折れるわけにはいかない。ここで潰えるわけには、いかないのだ。
「……死ぬのはお前だけだ……」
自身の体表から熱を放射し泥人形の肉体の融点へと達する。ぼろぼろと砕け落ちた泥人形から逃げ延びようとしたが、既に背後に回っていた泥人形に頭部ごと押え込まれる。
「負ける……ものか……。そうだとも、たとえお前の思い通りに……この疑似ゲートが崩壊しようとも……。勝利者なんて存在しない! 死ぬのは貴様も同じだ! MA401!」
泥人形の膂力によって意識が遥か彼方へと遠ざけられていく。
今だけは、意識の手綱を手離すわけにはいかないと言うのに、それでも指先から遊離していく感覚に、これが、と紅は直感する。
――ああ、ここが、これが死か。
そうだと認めてしまえば容易いもので、紅は自我を消失点の向こう側に置いて行っていた。
網膜の裏で赤い影が明滅する。今際の際に見る幻影か、と紅は感じていたが、その像があまりにも明瞭なものだから、ハッと脳細胞の一滴で見据える。
振り返った赤ずきんの相貌が、笑みに歪んでいた。
――じゃあ私が、もらっていいよね?
「……死んだか」
MA401の肉体が虚脱する。
彼はしかし相手の思惑通りに疑似ゲートが崩壊の途上にあるのを感じ取っていた。まさかこんな策に気づけないとは、と意識の内奥で歯噛みしたが、もう心配は要らない。勝利者は決した。
「……貴様の負けだ、MA401……契約者としての勝利者は、こちらのほう――」
「――じゃあ、この身体は、私がもらうね」
「……MA401? ……いや、違う。お前は……誰だ?」
からからと笑うMA401の肉体の内側から、何かが視線を向ける。
ランセルノプト放射光の輝きがひときわ強く煌めき、その瞳が赤い光を湛えた瞬間、全てが決していた。
「……時間です。退いていただきたい」
エリック西島の通達にミシュア達は奥歯を噛み締めていた。
――結局、何も出来なかったのか。
そう感じた途端、ジキルが歩み出る。
「……まだこの戦いは終わっていない。そうでしょう?」
「契約者は黙っていてもらいたい。あなた方に対しては発砲も許可されている」
「これは怖い。しかし我々は協力関係です。そちらの銃弾はニューヨーク市警に向けられたものだと判定出来る」
「……そんな事……」
息を呑んだミシュアにジキルはウインクする。
「……本気で言っているのか。PANDORA法に照らしても契約者との戦闘におけるイレギュラーは認可されている。何が起ころうと、それは戦闘行為の途上でしかない」
「そこまで傲慢に成り果てますか?」
「……口にするだけ無駄だ。疑似ゲート破壊装置を」
「……いえ、それが……」
顎をしゃくって強行させようとしたエリック西島に部下が当惑した様子で機器を調整する。
「……どうした?」
「……疑似ゲートを……正しい形で捉えられません……。あれを!」
部下が指差した方向へと全員が目を向ける。逆巻いていた疾風が流転し、明らかに風向きが変わったのが一般人である自分にも分かる。
「……観測霊までも……」
ジキルが絶句する。観測霊がどうなったのか、問い質す前にエリック西島が手を払っていた。
「ええい! 何をしている! せっかくのゲートだ、我々が確保するのが第一条件のはず!」
「しかし、疑似ゲートは観測出来ません……。形象崩壊していきます!」
「形象崩壊……? MA401か!」
忌々しげに放たれた言葉と共に、ガラスの砕ける音に似た音響が鳴り響き、疑似ゲートが頂点からゆっくりとほどけていく。
青白い胎動の光を薄らげさせ、空気中へと溶けていくのが分かった。
「……疑似ゲートが……崩壊した……?」
「そんな事が……。まさか……!」
エリック西島が部下へと目配せするが、部下は頭を振る。
「……星が流れたようです。疑似ゲートの契約者の死亡を確認……」
「……MA401は……」
砕け落ちていく疑似ゲートの中心地で、一体の泥人形が屹立している。成人男性の身の丈の三倍はあるであろう巨躯を誇る泥人形が背の低い人影を掴んでいた。
「……あれが、契約者殺し……?」
ジャンの問いかけのような語調に応えられないまま、泥人形が不意にこちらへと振り返る。
ミシュアは息を呑んでいた。
「……泥人形の頭が……」
融け落ちている。そのくぼみが風船のように膨れ上がり、ぱちんと軽い音を立てて頭蓋が砕け散っていた。
泥人形が横たわる中で、赤ずきんの契約者のみが佇む。
「……総員、照準! MA401だな……?」
エリック西島の号令にPANDORAの機動隊員達がアサルトライフルを構えるが、その瞬間、全員が同じタイミングで銃を取り落としていた。
「これは……熱い……」
銃に接触していた地点がみみず腫れを起こしている。しかし相手は装甲服に身を包んだ機動隊員だ。そんな相手に、一瞬で高精度な能力の行使を行ったと言うのか。
慄く視界の中でミシュアは、伏せ気味のその立ち姿へと拳銃を向けていた。
誰もが固唾を呑む中で、ミシュアだけがニューヨークの赤ずきんと向き合う。
「……動くな。お前は……」
その瞬間、僅かに垣間見えた唇が呼吸を紡ぐ。
その言葉にハッとしたその僅かな隙を突いて、赤ずきんは逃げ出していた。
ワイヤーを伸ばし建築物を足掛かりにして逃亡する。
「逃がすな! 包囲しろ!」
「し、しかし……武器を持てる者は一人も……」
PANDORAの武装戦闘員でさえも無力化するだけの力。それに対しエリック西島は悪態をついていた。
「クソッ! ……重要な契約者を逃がした。この責は負っていただきますよ、ニューヨーク市警の」
それを呆然と聞いていたミシュアへとジキルが肩を叩く。ようやく我に帰り、言葉を反芻していた。
「……今は……今はって、どういう……」
「レディロンド? 大丈夫ですか?」
慮るジキルにミシュアは頭を振る。
「……いえ、大丈夫ではないのかもしれない。MA401、お前はまた……私達から逃げおおせた。この絶望の途上にあっても。一体何が、契約者であるはずの……」
建築物を飛び越え、ようやくPANDORAの追っ手を撒いたその後ろ姿にブルックは声を投げる。
『……やれやれ、冷や冷やさせるなよ、紅。今回ばかりはやられたと思ったぞ?』
しかし彼女は振り返らない。それに対して怪訝そうに言葉を重ねる。
『紅? 今回は確かに相手が悪かったが……何かあったのか?』
その時になってようやく、紅は驚愕の面持ちでブルックへと振り向く。その瞳がこちらの姿を捉えた時、彼女は意外そうに声にしていた。
「……ブルック? 私は……」
『熱膨張を応用してのゲートの破壊なんて思い浮かぶかよ。まぁそれもこれもあれが偽物のゲートだから成し得た業なんだろうが……』
「偽物のゲート……。でも、私は……もう一度会えた。……また、あの時と同じ……」
『……紅? 何を言っている? 意識が混濁しているのか?』
「……何でもない。長時間戦い過ぎた。休暇をもらう」
『……それは勝手だが、組織への報告書の提出義務がある。やれるんだろうな?』
「心配しなくっていい。私は……どうせ逃げられないんだと、分かった」
紅は赤ずきんのコートを折り畳んで仕舞い、ワイヤーで地面へと降り立つ。その背中へとブルックは再三の言葉を放っていた。
『……グレイも! ガーネットも心配していた! ……それは忘れるな。俺もだ、紅』
紅は片手を上げ、確かに応じたようであったが、それが伝わったかまでは分からなかった。
寝入っているアリスに配慮して部屋へと音もなく戻った夜都は、まずコーヒーメーカーの抽出から始める。
すると高いびきを掻いていたアリスが不意に目を醒ましていた。
「……ヤト?」
「……ただいま」
「……あんたさぁ、何やってたの? 新市街地ではえらい被害でさ。何か、今までとは違うゲートが出て来たって言う情報が飛び交っていて……」
「何でもないから。ちょっと寝させて。寝不足なの……」
こちらの言葉にアリスはそれ以上を重ねず、ふんと鼻息を漏らす。
「……まぁいいけれどね。いつも通りの時間に、コーヒーが飲めるんなら」
きっと問い質したいに違いないのだが、自分の声が切迫していたせいだろう。アリスはロフトの二段ベッドで毛布を被りながら手を差し出す。
そのあたたかな手へと夜都は触れてようやく、ああ生きている、と実感していた。
「……ねぇ、ヤトー。あんまし遠くに行かないでね」
「何それ。どこにも行かないよ。……ううん、違うな。私はきっと、どこにも行けない。……あの日から、ずっと……」
「ヤト?」
「何でもない。はい、アリスのコーヒー」
差し出したマグカップにアリスは怪訝そうにしながらもコーヒーを啜り、それから口にしていた。
「……うん、いつも通りの味。ちょっと安心したわ。もしかしたらよく分かんない事に巻き込まれているのかもって、ガラにもなく心配していたから」
「アリスらしくない。本当に……ガラにもない事を言う……」
呟いた夜都は自分の分のマグカップを掴み、コーヒーを口に含んでふと、こぼしていた。
「……私のコーヒーって、こんなに……味がなかったっけ……」
それとも、と夜都は目を伏せる。
「……ああ、払ったんだ。――対価を」
第五章 了