DARKER THAN BLACK ―煉獄の扉―   作:オンドゥル大使

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第六章「紅柘榴の幻像はたまゆらに漂う…」(前編)
第四十九話「戦域を奔る」


 ――ああ、魔女様。あなたに聞いて欲しい事があるのです。

 

 恭しく口にした自分に魔女は人間の骸で作り上げた樹の上で首を傾げる。

 

 ――あら、何かしら。この漆黒の森が嫌になった?

 

 いいえ、と私は否定する。むしろとても心地いいくらいだ。ここに居るのは、自分と魔女と、そして黄金のイルカだけ。

 

 それ以外はとても静謐に守られていて、そしてとても穏やかな時間が流れている。

 

 だから、とても邪魔なのだ。

 

 ――魔女様。あなたはどれほどの命を摘んだのです?

 

 ――そんな事を教えて何になって? ああ、でも死神なら、気にはなるのかしら。

 

 魔女はとてもずる賢くそして警戒心が強い。

 

 一度として、骸の樹の上から降りては来ないのだ。彼女は絶対者のように、骸の樹から命令する。その声はどこか、眠りに誘われるように耳触りがいい。

 

 はい、と私はわざとらしく応じる。

 

 ――魔女様も、世を追われて?

 

 ――勘違いをしないで、世俗の死神。貴女のような低俗な存在じゃないの。わたくしは自分からこの世を絶った。それは必要ないからなのよ。

 

 その言葉を私は深く問いかける。

 

 ――必要ない、とは?

 

 魔女は艶やかな指遣いで煙管を掲げる。ぼやけたような炎を浮かび上がらせ、紫煙をたゆたわせていた。

 

 魔女はどこかため息混じりに口にしていた。

 

 ――わたくしには伴侶も要らない。友人も、ましてや理解者なんて。だから同じように肩を並べようとする者は皆、葬った。それは邪魔だからなのよ。わたくしの目線に立とうなど傲慢の一言。

 

 ですが、と私は言ってのける。

 

 ――金色のイルカは、あなたの事をよく知っていると。

 

 ――でもあのイルカだって人間じゃない。ただのよく喋る、他人の真似事だけが上手い紛い物。いい事を教えてあげる、死神の子よ。あのイルカはとても狡猾だけれど、それでも一つだけ、弱点がある。

 

 それをまさに聞き出そうとしていたのだ。

 

 私はわざと愚鈍を演じる。弱点? と首さえも傾げる。

 

 ――ええ、そうよ。……彼は、あまりにも人を知り過ぎた。だから、逃れられない。わたくしとも貴女とも違う。彼だけは、俗世の鎖に囚われたまま。そう……ヒトであろうと願った憐れな動物は、同じ動物によって裏切られた。彼を殺す術は、その立派な鎌ではないのよ。彼を殺すのは、『名前』。

 

 ようやくそれを聞き出せる。私は恐れさえも抱いた様子を演じつつ、その一つを聞かなければならない。

 

 そうでなければ――私は彼を、殺せないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この子の名前はガーネット」

 

 そう口にした少女は紫色のテディベアを掲げていた。

 

「まだ持っているの? そろそろ縮れて来たんじゃない?」

 

「そんな事ないよ、ママ。この子、まだまだ私と一緒に居たいって言ってる!」

 

「でも、お手入れの方法くらいは覚えておかないと。ほら、こうして針に糸を通して……」

 

「いやっ……! 針なんて可哀想!」

 

 テディベアを抱えて部屋の中を駆け回る娘と妻に、深い安堵を覚えながら、そっと諌める。

 

「……あんまりママを困らせるんじゃないよ。確かにその子、ちょっとぼろくなってきたんじゃないか?」

 

「ボロイなんて酷い事を言うのね! パパは!」

 

 娘からの糾弾についつい後頭部を掻いて弱ってしまう。

 

「参ったな……。でも愛着があるのはいい事だが、きっちり面倒も看てあげなければ。貸しなさい。魔法をかけてあげよう」

 

 その言葉に赤茶けた髪を二つ結びで揺らす少女は跳ね回る。

 

「やった! パパの魔法!」

 

「うんうん。……魔法をかけてあげる時には優しく囁くんだ。大丈夫、大丈夫だよって……」

 

 テディベアを抱えて、そっとその背中を三回叩く。そうしているうちに娘は飛び込んできていた。

 

「おいおい……魔法がかけられないじゃないか」

 

「ううん! いいの! パパの魔法、あたしにもかけて!」

 

「これはお人形さんだけにしかかけられないんだ」

 

「じゃあ、あたし、お人形さんになる! ガーネットと同じ、テディベアがいいなー!」

 

「やれやれ……。お転婆に育ってしまったね」

 

「笑い事じゃありませんよ、もうっ。言い出すと聞かないのはあなた譲りなんですから」

 

 妻もそう言いながら微笑ましい光景に口元を緩めている。

 

 そう、ずっとこんな時間が続けばいいのに。そう考えてモーニングコーヒーに口をつけようとしたその時、不意に彼は娘へと視線を振っていた。

 

 ――自分が娘だと思っていた少女の相貌が影に塗りたくられている。

 

 狼狽して立ち上がったその時には、振り返った妻の顔も黒く消し去らされていた。ノイズが走り、彼女らの声を掻き消す。

 

 頭部を押さえて後ずさった彼は、呼吸を荒立たせていた。

 

「どうしたの、あなた」

 

「パパー、どうしたのー?」

 

「……違う。何だこれは……こんなものが……。わたしは……何なんだ、この光景に……」

 

 逃げ出そうとしてぷつっと景色が途切れる。

 

 今の今まで家族団欒の家だと信じていた場所は、冷たい風の逆巻くビルの屋上であった。

 

 彼は、ああ、と噛み締める。

 

「……対価か」

 

 呟くと、ようやく現実味を帯びてきたニューヨークの夜景に通信域から声がかけられた。

 

『……いつものか。今回は長かったな』

 

「少しの間、醜い様子を見せて悪かった。今はもう何ともない」

 

『……お前の対価、傍から見ているほうがきついよ。……それ、かつての思い出なんだろう?』

 

「いや、どうだろうな……。本当にあった事なのか、あるいはこの脳細胞が生み出している都合のいい幻覚なのか、それは定かじゃないんだ。ただ――契約者は夢を見ない。だからこれは、わたしの追い求める、幻像なのかもしれないな」

 

『夢じゃなく、形のない幻想か。契約者らしい感傷だな』

 

「感傷も契約者っぽくないさ。……ターゲットは?」

 

 尋ねると、観測霊がビルを這い回る。鉄を触媒にした観測霊はこのニューヨーク新市街地において、追跡に適していた。

 

『……現在、南に逃走中。よくやるもんだ。お前から逃れようなんて。対価は払ったんだ。いつもの、使えるな?』

 

「ああ、滞りはない。……行くぞ」

 

 そう口にすると共に、彼は青白い燐光を帯びる。全身を押し包む光を纏い、その躯体がビルの谷間を駆け抜けていた。

 

 光を棚引かせ、彼の肉体が何倍にも引き上げられた加速度を携えてビルからビルへ、車両から車両へと、亡者のように薄らいだ身体が転移していく。

 

『……肉体重量の軽減による瞬間加速……。かなり強力な能力だが、対価があまりにも不釣り合いじゃないか。契約者らしくない幻影に囚われるなんて』

 

「そこまでじゃないさ」

 

 そう応じてターゲットの車両を見据える。車両のボンネットを蹴り上げ、一気に直上へと躍り上がっていた。

 

「追いついたぞ」

 

『よくやった。そのまま後部座席に居るターゲットを抹殺。それで事足りる……いや、待て……。何だ、このノイズは……。迫って来るぞ! “B8”! 契約者だ!』

 

 コードネームを呼ばれ、彼――B8はニューヨークのビルの谷間を潜り抜け、ワイヤーを巧みに操ってこちらへと迫って来る相手を車両の上で待ち構えていた。

 

「……契約者……」

 

『こいつは……。気を付けろ、相手はあの、ニューヨークの赤ずきんだ』

 

 詰めた声音と何度も聞かされてきた渾名に、B8は姿勢を沈め、ゆったりと相手と対峙する。ワイヤーを手繰り寄せ、そのまま武装を投擲してきた赤い影にB8は半身になってそれをかわし、迫り来る敵へと契約能力を行使する。

 

 即座に身体が半透明になり、自重を軽減させて風のようにビル街を飛び交い、中空でニューヨークの赤ずきんと交錯する。

 

 真正面に捉えた相手は思ったよりも年若い。

 

 少女の相貌に大写しになったB8はそのまま加速を実行しようとして、絡み付こうとしたワイヤーを関知する。

 

 肉体重量をさらにマイナスさせ、相手の射程を潜り抜けようとしたが、その時には敵が手を伸ばしていた。

 

 ――必殺の間合い、と瞬間的に察知したB8はその手を掴み上げ、そのまま捻り落とそうとして、ランセルノプト放射光を相手は帯びる。

 

 契約能力行使の前に、B8は自重をさらに軽減させ、音もなく車両の背の上に載っていた。

 

 ニューヨークの赤ずきんはしかし、ここで逃すつもりはないらしい。

 

 トラックの荷台に飛び乗り、相手はクナイを逆手に握り締める。

 

「……契約者なら、すぐにでも決着を、か……。分かりやすくっていい」

 

 構えたB8に相手は跳躍していた。しかしその程度の速度ならば、切り抜けるほどでもない。

 

 肉体の比重をさらに差し引き、ほとんど重さのない次元に達した身体が超加速する。

 

 思いも寄らぬ速度であったのだろう。燐光を纏いつかせて背面に迫った自分に対して、赤ずきんとやらの速度は劣っていた。

 

 そのまま首の骨を折ってやろうと首根っこを引っ掴んだが、直後に発したランセルノプト放射光の輝きに習い性の身体が飛び退る。

 

 これまで数多の契約者を下してきたが、この契約者は触れるだけでも危険。

 

 そうなのだと判ずれば、後は戦い方も手慣れている。

 

 走行する車両に佇んだ自分に、相手はワイヤーを操ってクナイを叩き込もうとするが、その射線は既に読めている。

 

 駆け抜ける速度で跳躍し、すぐさま加速度をかける。

 

 重さがないのなら、速度は自由自在だ。

 

 まるで無重力のように浮き上がった肉体が下降の加速度を引き受ける。しかし、身体にかかる負荷はほとんど感じない。

 

 重力さえも振り切れるだけの速度を誇る能力を発揮し、B8は赤ずきんの眼前に立ち現れていた。

 

 相手は即座にクナイで斬り払うがその一閃を避けるまでもなく、手首を掴み上げる。

 

「……未熟な契約者だな。この程度のスピードと技量で、わたしに敵うとでも思っていたか」

 

 重量を軽減していても、肉体自体の強さは健在。このままへし折ってやろうと腕を引き上げたところで、イヤホンから通信が放たれる。

 

『……B8、ここまでだ。ターゲットが勘付いてルートから外れた。今回は赤ずきんの相手よりもターゲットを優先しろ』

 

 その命令にB8は逡巡さえも浮かべず、赤ずきんを蹴りつけて後退する。そのまま車両へと背中から着地し、キッと睨み上げて言いやる。

 

「……命拾いしたな」

 

 今は頓着している間も惜しい。

 

 再び加速に入り、風さえも味方につけてB8はオーダーを聞き届ける。

 

『……ターゲットは新市街地の東へと入った。……これはちょっと厄介だぞ。相手はどうやら赤ずきんの側の組織のバックアップを受けているらしい。安全圏まで向かおうとしている』

 

「そんな暇を取らせない。一瞬で始末する」

 

 そうと断じたB8はまるで弾丸のように瞬間加速を己にかける。車両の一部を足掛かりにし、標識を蹴って新市街地を抜けていく速度はそうなのだと引き絞られた矢の如く。

 

 相手の心の臓へと突き立てられる時以外を求めていない、戦闘兵器としての自己を確立し、B8は辛うじて、こちらの作戦範囲内に収まっている目標車両を視野に入れていた。

 

「……まだ間に合うな。このまま後部座席を貫いて、一気に決める」

 

 武装はない。だが、B8には誰よりも速い肉体と、そして重量を限りなくゼロに出来る能力がある。

 

 暗殺と偵察、どちらも得意とするこの力と性質は他のエージェントの追随を簡単に許さない。

 

 身を沈め、標的車両までおよそ百メートル以内。これならば有効射程だ。

 

 自分は相手を射抜く弓矢。そうなのだと規定して、B8が加速に入りかけた、その時であった。

 

 次々に視界へと入るニューヨークの夜景を恐るべき速度で突き抜けていく観測霊を目にする。

 

 こちら側の観測霊ではないな、と感じたB8は顎をしゃくっていた。

 

 友軍の観測霊が波打ち、相手の観測霊を遮断する。

 

「悪く思うな。こちらは十数体の観測霊を持っている。ただ一体の観測霊で、わたし達に勝とうなど……」

 

 そこまで口にしてから、B8は弾け飛んだ鮮烈なイメージに眩暈を覚えていた。

 

 ――パパの魔法!

 

 イメージが脳内で脈打ち、B8は膝を折る。

 

 その一瞬の隙が明暗を分けていた。

 

 標的車両が道を折れ、完全に捕捉範囲外へと離れていく。再び追おうとしたが、どうしてなのだか、追跡の気概が起きない。

 

 何よりも、今、脳内でスパークした幻像がまだ視界の中で燻っている。

 

「……何が……赤ずきんの側の、観測霊に、何かが……」

 

『B8? どうした? 異常があるのならば報告しろ。……幸いにして、まだ枝は生きている。今宵を見失っても勝機はある。今は退き上げろ。相手も攻撃してくる気配がないのならば余計にな』

 

「……ニューヨークの赤ずきん……口ほどにもない。問題なのは……奴の、受動霊媒だ……。わたしの対価に干渉した」

 

『お前の対価に? ……おい、幻想にこだわり過ぎると……』

 

「分かっている。囚われる奴を何人も見てきたとも」

 

 深呼吸し、幻想を振り払う。

 

 やはり相手の観測霊に何かがあるのか、B8は撤退する赤ずきんの観測霊の行方を眼で追っていた。

 

「……わたしの過去に関係があるのか……? あの幻想の中に居たのは……娘と、妻と……テディベア……紫色の……」

 

 しかし今は頓着している場合でもない。

 

 何よりも標的を逃したのだ。今次作戦は失敗である。

 

 B8は質量を変位させ、風の中に己を流し込んでいた。

 

 ランセルノプト放射光を散らしながら、肉体が掻き消えていく。

 

 直後には、その姿は影も形もなかった。

 

 

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