DARKER THAN BLACK ―煉獄の扉―   作:オンドゥル大使

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第五十八話「追憶を損なう」

 

「おい、そいつ気味が悪い……」

 

 伊達男の声にB8は回収したドールが自らの頬をつねり、口元を引っ張っているのを視野に入れる。

 

「……笑顔の真似か……? そんな事をするドールも居るんだな。だが、ドールなんて所詮、MEで記憶を操作して改ざんして、人格を替えてやればいい。こちらの好みにな。自我が邪魔しない分、契約者よりも使い勝手はいい」

 

 伊達男は本気でそう思っているのだろう。

 

 しかしB8は彼女がそれだけのドールだとはどうに思えなかった。

 

「……どこかで……会った事があるか?」

 

「おい、B8。ドール相手に色気なんざ……」

 

「違う、わたしの……何かに関係があるような……」

 

 その時、不意に意識がぼやける。いつもの対価か、とB8は背もたれに体重を預ける。

 

「おい、対価か? なら言えよ。出来るだけ静かに運転するからな」

 

「……すまない。では……幻像の中に、潜っていくとしようか……」

 

 その時、隣に座った赤髪のドールがぎゅっと袖を引っ張る。それを関知しつつ、意識は薄らぎ、次の瞬間には大写しになったのは同じ髪色の娘の笑顔であった。

 

 ハッと面を上げ、月明りの差し込む寝室で今、自分は娘を寝かしつけているのだと体感する。

 

「……パパ?」

 

「うん? どうしたんだい?」

 

「んーん! 何でもない! ……でも、最近のパパ、変なんだもん。ガーネットもそう思うよね?」

 

 彼女の語りかけたのは紫色のテディベアだ。どこかで見た気が、と意識を割いていると部屋を覗き込んできたのは妻である。

 

「あら? まだ眠っていないの? ■■■。駄目じゃない。いい子にしないと」

 

 どうしてなのだろう。娘の名前と思しき部分だけ、ノイズが走る。

 

「でも、ママ。パパってば変なんだもん。最近は魔法も使ってくれないし……」

 

「パパの魔法は特別なのよ。いつでも使えるわけじゃないの」

 

 妻が月明りの差す娘の額をさする。それだけで彼女は安堵したように目をしばたたかせる。

 

「……ほら、寝なさい。眠いんでしょう?」

 

「……眠くないもん……っ」

 

「パパを困らせないで。あなた、明日から出張なのよね?」

 

「ああ、そうなんだ。わたしも、ようやく栄転が決まってね。明日から南米に――」

 

 そこまで口にして、自分は硬直する。

 

「どうしたの? あなた」

 

「パパー、何ー?」

 

 疑問を呈する二人に対して、自分は凍りついていた。継ぐ言葉を口にしようとして、何故だか嫌な汗が背筋を伝い落ちる。

 

 目を瞑れば、脳内で像を結ぶのは赤い眼をぎらつかせる青白い輝きを誇る怪物達。

 

 ――契約者……。

 

 しかし、何故。

 

 この幻像には関係がないはず。いや、そもそもこれは幻像なのか? 幻像がこんなに……すぐ傍にあるかのように振る舞えるか? 本当に捨て去った過去のように、明瞭に像を結ぶのか?

 

「パパー。魔法を使ってー。ガーネットが、見たいって言ってる」

 

「駄目よ、■■■。パパを困らせるもんじゃありません」

 

 諌める妻に対して、自分は動悸が収まらなくなっていた。早鐘を打つ心臓に、後ずさった途端、座っていた木造の椅子が転げる。

 

 怪訝そうにこちらを見つめる二人に、必死に手を伸ばそうとして自分は青白い光に包まれていた。

 

「……ランセルノプト放射光……」

 

 だが何故。

 

 これは対価のはずだ。

 

 対価の空間の中で、能力を使えるわけがない。

 

 だと言うのに、恩讐のように纏いつくこの感覚は。怨嗟の声のように自分を手離さないこのうすら寒さは。

 

 振り返る衝動に駆られ、仰ぎ見た月明りが一瞬にして赤く染まる。

 

 赤い三日月が浮かぶ空が反転し、自分の身体はジャングルの奥深くに位置していた。

 

「……これは……」

 

「しっ。何をうろたえている? B8、らしくないぞ」

 

 作戦の前線基地だと言う事を思い返すと共に、自分がどこに居るのかを思い知っていた。

 

「……ここは、南米だ……【天国門】が……」

 

「どうした? B8、お前はアタックの要なんだ。頼むから敵相手にうろたえないでくれよ」

 

「……敵……」

 

「そう、敵だ。来るぞ。……あいつら、カモだな。作戦区域に入った連中を抹殺する。油断するなよ……推測メシエコードを観測。……驚いたな。UB001のチームか」

 

 見た事のない機械で仲間が算出するのは戦場に割って入ったチームのメシエコードだ。高速で浮き彫りになる相手の姿を支えているのは樹の上に位置する少年兵であった。

 

 虚ろな瞳が、敵兵を見据える。

 

 青白い亡霊が地面を這い、敵の足元を通過する。

 

「……契約者が五名。……アンノウンが一名」

 

「よし、アンノウンから殺せ。B8、やれるな?」

 

 問いかけられて自分は戸惑う感情とは裏腹に駆け出していた。

 

 ランセルノプト放射光を身に纏い、瞬間的に質量を希釈。加速を開始させる。

 

 敵は背中合わせに陣取ったが何もかもが遅い。

 

 ドールが目したアンノウンは一人のアジア系男性であった。エメラルドの髪色を持つ女と連携を組んでいるが、あまりにもその動きは契約者らしくない。

 

 ――情を捨てきれていないな。

 

 瞬時に判断し、質量のない亡者のような腕がその男の首を絞める。

 

「黒(ヘイ)! ……この契約者……質量希釈の!」

 

 どうやらそれなりに自分は知れ渡っているらしい。締め上げた男は契約能力一つ使う事はない。

 

「……驚いたな、こんな内地に。ただの、人間か?」

 

 呟いた直後には相手のナイフが奔っている。常人ならば手首から先が落ちているが、瞬時に質量を消し去ったお陰で難を逃れた。

 

 距離を稼ぎ、次なる一手を打とうとしたところでその肩口にワイヤーが絡まっているのを感覚する。

 

 ハッと危機意識が鎌首をもたげたその時には、ワイヤーの膂力で巻き上げられ、距離を一挙に詰めた男が大写しになっていた。

 

 その手には逆手に握ったナイフがある。

 

 心臓を射抜いたかに思われた一撃であったが、自分は奥歯を噛み締める。

 

「……残念だったな」

 

 相手も馬鹿ではない。即座に飛び退り、ナイフをワイヤーに繋げて頸動脈を掻っ切ろうとする。

 

「……二手、三手を常に備えた戦い振り……。そして黒髪の、アジア系の男……。そうか、お前が音に聞く、黒の死神か」

 

「……だったなら、お前はここで死ぬ。例外はない」

 

 冷酷に徹した声音であったが、自分は喉の奥から笑い声を発する。

 

「……だが、一撃で殺し切れなかったのならば、残念だと言わざるを得ない。それとも、わたし相手に……契約能力を使うまでもないか。UB001」

 

「……そうね。あなたじゃ何度繰り返したって、黒は殺せないもの。今の手だって、何十回と見たわ。それ以上を求めていないのね。戦場に赴いている割には」

 

「……わたしは安全帯で戦っていたいのでね。契約者ならば当然だろう? 死地に自ら赴くのは合理性を廃している。勝てる戦場以外で戦うのは契約者ではない」

 

「……呆れた。契約者の悪い側面を煮詰めたみたいな、そういう相手なのね」

 

「……アンバー。俺が殺す。……白(パイ)を前に出そうとするなよ。別働隊が動いている可能性がある」

 

 殺気を剥き出しにした黒と呼ばれる男にアンバーと言うらしい女は落ち着き払って応じる。

 

「ここで決着はつかないと思うわ。相手の能力は質量希釈とそれによる加速。でも、本当はそうじゃない。気づいていないみたいね、その本当の能力を。自分でも封じているのかしら、MEでも使って」

 

「……挑発だけが上手い女だ。契約者は勝負がつかないのならば戦いはしない」

 

「そうね。黒、ここは退きましょう。どうやらここはハズレの戦線みたいだし。まんまと追い込まれたはいいけれどでも、お仲間はどう?」

 

 パチン、といつの間にか肉薄していた琥珀色の瞳の女が指を爪弾く。

 

 その瞬間、後方に位置していた部隊から断末魔が上がっていた。

 

 まさか、と振り返った自分の愚に琥珀色の女は邪悪に笑う。

 

「言ったでしょう? 決着はつかないって。ただ、後続部隊はちょっとだけ面倒だから潰させてはもらったわ」

 

 琥珀色の瞳が赤く煌めく。契約能力の行使にB8は凍りついていた。

 

「……後続部隊の位置取りはわたしでさえも知らない……」

 

「案外、それほど複雑な配置じゃなかったわ。あなたを前に立たせて他の部隊員はその時間稼ぎに乗じて撤退しつつも、こちらを蹂躙。……なかなかに人間らしい、非効率的な作戦だったし」

 

「……非効率」

 

「そっ、非効率。人間なんてそんなものでしょう? それとも、他に信じるものでもあったと言うのかしら」

 

 彼らは、否、知っている限りでは同朋達は、そこまで不義理ではなかったはずだ。しかし琥珀の眼の女は全てを悟ったように目を伏せる。

 

「……ひた隠しにされていたのね。あなただけアタッカーだとおだてられて、その限りある対価を支払って」

 

「……限りある対価……? わたしの対価は戦闘時に損耗しない。知った風な口を……」

 

「では知っていると言えば? 時間のあっちからこっちまで、私は見て来たのだもの。少しは……温情もあるのよ。契約者としてね」

 

「……馬鹿馬鹿しい。契約者が温情を吐くか」

 

「……そう。あなたはその対価が、誰かに与えられたものだとは知らないのね。MEによる記憶流入。偽りの対価を払い続ける事で、まるで特攻する爆弾のように相手へと際限なく投げ込まれる。その度に生き残るから、爆撃機を意味する“B”の呼称で呼ばれる」

 

 まるで自分の全てを知ったかのような論調にB8は肌を粟立たせる。

 

 このような感覚は初めてだが、精神干渉系の能力の可能性もある。こうして見ている景色が嘘偽りで、相手にとって都合のいい「幻像」である線も――。

 

「……幻像……?」

 

 そこでふと我に帰る。

 

「……ここはどこだ? わたしの……対価の世界か……? だがこんな幻像は今まで見た事がなかったはず。……あの月明りの木造の部屋で……娘と共に……」

 

「それは本当の記憶? でもだとすれば、あなたはその時既に――契約者だった」

 

 目の奥で明滅するのは青白い光。亡者の輝き。ランセルノプト放射光の色彩。

 

 だがまさか。自分は、否、この記憶は本当に、自分自身のものであるのか。

 

 疑った事などなかった。だが幻像のその先があったなど、今まで自分は一度として体感していない。

 

 ここはどこだ? その疑念に琥珀の瞳に薄緑色の髪をなびかせた女は応じる。

 

「ここは南米よ。【天国門】の真っただ中。そしてあなたは、組織の契約者。……可哀想に。仲間達と一緒に死んだほうがまだマシって顔をしているわ」

 

「天国戦争……。わたしは……そうだ。わたしの名前はB8。組織の一級のエージェント……。黒の死神、それに琥珀の女。お前達を殺せば……」

 

「だから、それはもう終わった事なのよ。あなたは天国戦争を生き抜いた。でも、同朋は皆死んだわ。私が先回りして殺した」

 

 断定口調にB8は膝を折る。

 

 どうして。自分の能力で負けた事など一度もなかったはずなのに。

 

「……読み負けた……」

 

「いいえ。よくやったほうよ。それとも、元の時間に一度戻る? あなたを利用する男に気を付けて。それと……娘さんを泣かせるものじゃないわ」

 

 囁きかけてきた女の挙動でようやく気づく。

 

 女と自分以外、時間が静止していた。

 

 黄昏色に染まった時間停止の中で自分は愚かにも周囲を見渡す。

 

「……何が起こって……」

 

「これはあなたの記憶に植え付けておく安全装置。あなたがいつかは……失ったはずの物に気づけた時に……後悔しない選択をするように。ここでは敵とは言え、契約者同士だもの。出会った事には意味があるはず」

 

「……何を。わたしは情けをかけられるいわれはない!」

 

 断じて質量希釈に入ろうとしてその肩へと女はそっと手を置く。

 

「それ、あんまり使わないほうがいいわ。限界が迫っている。あなたの対価は幻像を見る事じゃない。その契約能力はあなたをすり減らす」

 

「何を!」

 

 振り払った刹那には女は既に射程から離れている。

 

 全く読み切れない能力に翻弄されつつも、B8は最善策を模索していた。

 

 ――援軍は望めない。ならばどう動くのが最善か。

 

 夜のにおい。星が今日も流れゆく流転の夜空。ジャングルの鬱蒼とした濃厚なる芳香が鼻孔をつく。蒸したような空気が吹き付け、背筋に汗を滲ませる。

 

 B8は姿勢を沈め、女を睨み据えていた。

 

「……それでも戦わざるを得ないのね」

 

「……わたしは契約者だ。合理的に判断する。お前の言葉には、合理性がない」

 

「そう。でもいつかは分かる時が、来るといいのにね……」

 

 寂しそうに語った女へと質量希釈で一気に迫る。超加速でその首を手刀で刎ねる――そこまで脳裏に描けてから、不意打ち気味に女のビジョンが消え去る。

 

 全てが暗礁の闇の中に消失してから、B8は空を仰ぐ。

 

 流れていく星空。流星雨が南米の空を満たす。

 

 ――今日も契約者の命は流れていく。

 

 呆然と立ち尽くしたB8は空白の只中で声が響き渡ったのを聞いていた。

 

「パパ!」

 

 駆け寄ってきた赤髪の娘を抱き留める。

 

「ぎゅーっとしてね! 約束だよ!」

 

「……約束……だが、わたしは……」

 

 その手は血濡れに塗れている。こんな手で娘を抱けるものか。こんな人でなしで、どううやって娘を救えると言うのだ。

 

「……わたしは……」

 

「あなた」

 

 面を上げると妻が柔らかな慈愛の微笑みでこちらを見つめている。その眼差しを直視出来ずに、B8は顔を背けていた。

 

「……知っていたのか。君は」

 

「……契約者だって関係ないじゃない。だってあなたには、心があるもの」

 

「契約者は人間じゃない。理性的に物事を判定し、そして合理的に判断する。血筋でさえも無駄だと感じたのならば、それを清算するのも迷いなどない」

 

 その指先が娘の頬を撫でる。くすぐったそうにする娘の首筋へと、その手はかかっていた。

 

 ぐっ、と力を込めるだけでか弱い少女の身でしかない首の骨は折れてしまいそうになる。

 

 喉の奥から声が漏れていた。

 

「……パパ、何で……」

 

「パパは、想ってくれるほどの人間じゃなかったんだ。契約者だった。だから……」

 

 その時、ふと娘の手にあるテディベアが視界に入る。どこかで見たテディベア。どこかで見た、優しい嘘。

 

 その時になってようやく、娘の面持ちが露になる。

 

 直後、B8の喉から叫びが迸り、現実との境界線を溶かしていた。

 

「おい! どうした? B8。夢に浸っている時に声をかけると危ないかと思ってさっきから黙っていたが……悪夢でも見たか?」

 

 伊達男の声にB8は額へと手をやって粗い呼吸をつく。

 

「……ああ。酷い悪夢だ……」

 

「お前がそこまで言うのは珍しいな。もうすぐターゲットに追いつく。その時には能力の温存はやめて、一気に叩くぞ」

 

「ああ、一気に……」

 

 ――あなたの契約対価は違う。

 

 どうしてなのだろう。平時は幻像の言葉など聞き留めもしないのに。この時ばかりは、どこかで躊躇が生まれたのは。

 

 あの凄惨な天国戦争で会敵した相手。琥珀の瞳の女契約者と、そして黒の死神――。

 

 彼らと戦った記憶が蘇ったのは初めての事になる。だがそれこそが引き金とでも言うようにB8に疑念を抱かせていた。このままミッションを遂行する事こそが意義があるのだと信じて来んでいた脳内に切り込む何か。

 

 幻像が現実に割り入ってくる事などこれまでなかった。

 

 しかし、アンバーと名乗った女は。メシエコード、UB001の名称を持つ琥珀色は。

 

 自分の対価を「違う」と評した。

 

 それは何も意味のない事のように思えない。契約者は嘘つきだが、意味のない戯れの嘘はつかない。それは合理的な判断を阻害する。

 

 だから、アンバーの言っていた事実と自分の幻像の変化を符合させるに、何かが起ころうとしているはずなのだ。

 

 だが、それが何なのかまでは……。

 

「――来た。奴さん、こんな時まで車移動とはいいご身分だ。俺達が諦めたんだとばかり思っているんだろうさ。それに、お前の能力ならあの煉獄の契約者も退けられる。それはそこに座っているドールが証明だろう。相手のドールを籠絡するなんて、お前もやるじゃないか。さすがは天国戦争の生き残りだな」

 

 そう称賛を受けても、何もいい事のように思えない。

 

 自分が生き残ったのは結果論だ。

 

 時を操る契約者の気紛れであったのかもしれない。あるいは、この未来を見越しての判断か。

 

 B8は顔を覆い、やがて意を決してフロントミラーの向こう側を睨んだ。

 

 ここから質量希釈で車両をすり抜けて相手へと肉薄。

 

 出来るか、ではない。

 

 やるしかないのだ。

 

「……わたしは契約者だ。対価を恐れて戦わないのは合理性に反する」

 

 能力を行使しかけて、ふと袖を引かれる。

 

 見やると、赤髪のドールがこちらと目を合わせずに袖を引いていた。その瞳に映るものは虚無だとしか思えないのに、どうしてなのか、彼女の持つ紫色のテディベアにいつもの幻像がだぶる。

 

 頭痛を覚えたその瞬間には、B8は蹲っていた。

 

「おい? どうした? 何か精神的な攻撃でも……」

 

「いや、これは……。これは対価のはず。わたしにとっては何の意味も持たない、幻像だ。ただの……嘘偽りの記憶のはずなのに。夢のような……」

 

「……私はずっと待っている」

 

 ドールの紡いだ言葉にB8は目を見開く。

 

 そして、彼女の相貌が夢の中で目にする娘の幻と、一致していた。

 

「……マリナ?」

 

 問いかけた自分に対して、ドールは頷く。

 

「おい、何やってるんだ。相手は離れていく。こっちだってスピードには限度ってもんがあるんだ。さっさと能力を――」

 

 伊達男の口上が響いている間にも、B8はドールと目線を合わせていた。

 

 柘榴の赤を宿した瞳が薄く揺らいでいる。

 

「……お前は……真里菜……わたしの……娘……?」

 

「おい、幻像に縛られるな、B8。お前の任務はここで相手の組織の高官を潰す事だ。幻像に縋るなんてらしくないだろうに」

 

「……だが、この子はわたしの子だ……」

 

 間違いない。確信がある。いや、これまでも、幾度となくその面持ちを見てきたはずなのに。どうして今、それが確証へと変化したのか。

 

 時を巡る女の運命のいたずらか。あるいはここで気づくように仕組まれていたのか。

 

 ドールの身へと堕ちた娘と、B8は再会を果たしていた。

 

 ――だがこんな形――。

 

 B8は覚えず視線を背ける。

 

 娘はいつの間にかドールへと成り下がり、そして自分は南米の戦争で人殺しを重ねてきた諜報員。

 

 誰がこんな運命にしろと願ったのだ。誰が、こんな宿縁に縛られてくれと願ったのだ。

 

「B8! 感傷もいい加減にしろ! ここでの任務を忘れるな!」

 

 伊達男の怒声にB8は振り返り様に質量希釈で加速の手刀を見舞おうとして、それを助手席に座ったドールの観測霊に阻止されていた。

 

「……何を」

 

「ここまでか……」

 

 伊達男の舌打ちが滲む。彼の手にあった小型機械に視線を吸い寄せられ、次の瞬間には眩惑によろめいていた。

 

「……これは……」

 

「MEだ。お前の対価は、確かによく見る幻像じゃない。……これは重要機密だったんだがな。お前自身には教えるなと固く言われて来たんだが、本人が自覚すれば仕方ない。お前の対価は質量希釈に伴う、存在そのものの消滅だ。緩やかに進行するが、確実にその時は訪れる。それまではせいぜい消耗品として使わせてもらっていたんだが……ここで頭打ちが来るとは思わなかったよ。まさか、MEによる記憶の書き換えの齟齬に自力で気づくとは。だが、それは契約者には不必要な代物だ」

 

 車が急カーブし、横付けされる。後部座席のB8は低く呻いていたが、伊達男が運転席から出るなり、その首根っこへと機械を押し当てる。

 

「……せいぜい、ニューヨークの赤ずきんと相討ちでもしてしてくれよ。そうじゃないと割に合わなくってね。それにしたって、本当に居たなんて思いも寄らない。B8の娘、真里菜。まさかドールの身に堕ちているとは。だが、お前も邪魔だ。ここで……」

 

 伊達男が懐から取り出そうとした拳銃をB8は加速で弾き返す。荒い呼吸をついてB8はドールの少女を抱えて飛び退っていた。

 

 それに対し、伊達男が手を押さえて歯噛みする。

 

「……言っておくが! 戻れないぞ……そんな事をしても……。お前の質量希釈の対価はもう取り返しのつかないところまで行っている! 俺達に逆らうな。このまま契約者として、名誉ある死を選べ」

 

「……名誉ある、死……? 違う、わたしは……だってもう一度、娘に会えた。ならば、この命は……娘のために使わせてもらう」

 

 真里菜を抱き締める手に力を込める。

 

 伊達男は顎をしゃくり、使役するドールの観測霊を飛ばしていた。自分か真里菜かどちらでもいい、観測霊を取り憑かせる気だろう。だがそうはいかない。

 

「……質量希釈、再加速」

 

 コンクリートを蹴りつけ、質量希釈に身を任せてB8は躍り上がっていた。すぐさま廃ビルの屋上に至った身体を風が煽る。

 

 観測霊の速度で追って来られるほど、自分はやわに出来てはいない。

 

 伊達男は叫んでいた。

 

「……なぁ、B8。俺達も長い縁じゃないか。だって言うのに……お前はもう、亡骸を抱き締めて眠るって言うのか? 契約者として、合理的に、いつものように判断しろよ。ドールに、心は宿らない。そのお前の娘の似姿をしたドールは、ただ娘であった、という結果論のみに集約された人形だ。もうお前の幻像の中の娘のように振る舞う事もなければ、お前を父親だと、そう信じて慕ってくれる事もない。虚しいだけだぞ、B8……!」

 

「……だがわたしは……何度も幻像の中で、この子に救われてきた。ならば今度は、わたしがこの子を救う番だ……」

 

 その言葉尻に迷いがなかったせいか、伊達男は悪態をつく。

 

「ああ、クソッ……。俺達、いいチームだっただろうに……」

 

「……ああ、いい相棒だったと、思っている……」

 

 だがそれも全て、こうして決裂してしまえば、簡単に崩れる砂上の理論であった事が浮き彫りになっていた。

 

 伊達男はドールと契約者を「遣う」事に何の躊躇いもない。

 

 真里菜は、このままなら敵対組織のドールとして廃人になるまで追い込まれ、そして捨てられるだろう。

 

 そんな事は自分の残りカスのような欺瞞の心でも、耐えられそうになかった。

 

「……わたしの対価が間もなく支払われると言うのならば、余計に、だ。真里菜と過ごしたい……」

 

「……B8、言っておくが、ここでの裏切りは組織によって斬り捨てられるのと同義だ。組織はお前の情報を売る。それはニューヨークの赤ずきんに、だ」

 

 来ると言うのか。あの災厄の赤装束の契約者が。

 

 だが、それもよかろう、とB8は感じていた。

 

「……最後の障害になるのならば、構わない。殺すまでだ」

 

「……そこまで冷徹に判定出来るのに、俺とはもう組めないって言うのか……」

 

 契約者としての判断基準は揺るぎない。だが、それでも、もう組織の言う通りに動く気はさらさらなかった。

 

 この手にある。抱きかかえた体温を感覚する。

 

 真里菜の瞳は薄暗く、そして虚ろであったが、しかし、今はそれでもいい。ここにある娘まで裏切って、自分を欺きたくはない。

 

「……わたしはもう、誰の指図も受けない」

 

「後悔するぞ、B8。……いや、もう後悔している。俺は、お前に、この街に来させるべきじゃなかったとも」

 

 そうだ。それならば真里菜と出会う事も、契約者としての緩やかなる死にも気づく事はなかっただろう。

 

 特一級のエージェントとして、誉れある死を選べたはずだ。

 

 だが、B8の心はもう決まり切っていた。

 

「……わたしを追える者は、もう居ない」

 

 質量希釈を用いて風の中に溶け込む。

 

 加速して摩天楼を飛び回った自分を、もう追跡出来る存在など、どこにも居るはずがなかった。

 

 

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