DARKER THAN BLACK ―煉獄の扉― 作:オンドゥル大使
迫ってきた黒服相手に、紅は身を翻す。
銃弾をレインコートで弾きつつ接近し、その横合いを抜けた。
射程を抜ける刹那に放った熱放射で黒服達が昏倒する。その手首に巻かれていたのは、時間の止まった腕時計であった。
「……全部ちょうど九時間前で止まっている……」
『時限爆弾か?』
「いや、ただの時計だ。何かが仕掛けられている風でもない……」
しかし、何だ、と紅は周囲を見渡す。ここまで無警戒なものなのか、と踏み入った施設を確認していた。
『しかしこの施設、何だって言うんだ。ニューヨークの歴史館なんて、趣味が悪いな』
「指定した奴に言えばいい。……ガーネット」
顎でしゃくるとガーネットの光の観測霊が駆け抜け、扉の先で待つ数名の黒服を関知していた。
こちらがそれを認識した直後に扉が蹴破られ、アサルトライフルの銃弾の雨嵐が襲いかかる。
紅はコートを立てつつ応戦し、地を這う一撃を投げていた。
地面すれすれを滑空するクナイがこちらのワイヤー操作で不意に起き上がり、黒服の肩口を射抜く。
それと共に放たれた熱放射が拡散し、黒服達が装備したゴーグルを眩惑していた。
視界を潰された相手へと肉薄し、紅は迷いなく頸部を焼き払う。
断末魔の叫びが木霊する館内にはいくつもの歴史的資料が寄り集まっていた。
『ニューヨーク新市街地の歴史、か。煉獄門が最初に出現した時の記録もある』
壁に配置されていたのは新市街地の歩みであった。
ある日を境にして出現したゲートの存在。そしてそれに伴い旧市街地の解体と、警察組織の再編成。南米へと送られていった青年達や若人の命は儚く消え、彼らをニューヨークの街は歓迎しなかった。
国のために命を尽くした彼らをニューヨーク新市街地はイレギュラーと判定し、そして断罪した。
「……契約難民を拒んだこの街の歴史……」
「――そう、そして数多の可能性を摘み取ってきた、罪ある者達の忌むべき歴史でもある」
カツン、と上層階より降りて来たのはラフな衣装を身に纏った女であった。
ジーンズに野球帽を被っている。
特徴的な緑色の長髪を結い上げ、琥珀の瞳がこちらを見据えていた。
まるで憐憫の色を含んだかのように、あるいは羨望のようにも取れるその瞳に紅は音もなくクナイを携える。
「接触を図ってきた組織の長か」
「誤解しないで欲しいのは、あなた達に何も喧嘩を吹っかけようとか、そういう気はないって事なのよ」
「どうだか。SPを雇っておいてよく言う」
「それも誤解、って言うのは無理があるかぁ。私が雇ったんじゃなくって、世話好きの仲間が、ね。このニューヨークで契約者に会うのは危険だって言うもんだから、ちょっと頼っちゃった。でもまぁ、煉獄の契約者相手じゃ、それは意味のない事だって、ハッキリと分かっていたけれどね」
どこか達観を浮かべる相手に紅はいつでも熱放射を撃てるように周囲へと目線を配りかけて、その視界を急に閉ざされる。
抗いようのない眠気に駆られ、紅は膝を折っていた。
「これ、は……」
『紅、何が起こっている?』
「蝙蝠は眠らなくってもいいから、って言うのはちょっと違うかもしれないけれど、人間にとって抗えない欲求の中にあるのは、食欲と睡眠、でしょう?」
琥珀の女の踊るような物言いに、既に罠が張られていたのだと理解した紅は四方八方へとワイヤーを振るっていた。
調度品や展示品を薙ぎ倒し、クナイが捉えた生き物へと熱放射を撃ち込もうとして、想定よりも早くに眠りの欲求が訪れているのを感じ取る。
しばたたく視界の中で指先が青白い燐光に押し包まれていた。
――これは契約能力だ。
そう断じていても、抗えない眠りへの欲求に紅は舌を噛んで持ち堪えようとするが、ほとんど眠りの淵に入っている肉体が弛緩する。
「眠いって言うのは、人間にとってどれくらい耐え難いのかなぁ。分からないよね、私も彼の契約能力の範囲内に入るのは嫌だもの。強いがゆえに、対象を一体しか取れないけれどでも、これは本当に強力。知っている? ニューヨークの赤ずきんさん。どれだけ疲れ知らずの悪魔のような契約者でも、あるいは夢なんて見ない契約者でも、眠りって言うのはほとんどの場合、平等に取るのよ。変に聞こえるかもしれないけれどね。だって、契約者は夢なんて見ないもの。ただ合理的に判断するだけ。……でも、あなたは少し……違うわね」
「だま……れ……ッ!」
琥珀の女へとクナイを投擲するが、その時には既に相手はどうしてなのだか、自分の背後へと立ち現れている。
「瞬間移動の契約能力か……!」
「ちょっと違うかなぁ。時のあっちからこっちまで、私の能力を看破出来る契約者ってそうそう見ないもの。でも、あなたって不思議ね。……あの地獄みたいな戦争の生き残りであるB8と会って来たんだ? ……あなたが殺してあげたのはでも正解だったみたいね。少しだけ未来が明るい方向へと向いたもの」
「分かった風な口を……利くな!」
頭上へとワイヤーを投げ、自身を宙吊りにする。そうすると先ほどまで強烈であった眠気がハッキリと晴れていた。
「……射程が割れちゃったか」
紅はワイヤーで相手の契約能力の射程距離から逃れ、そのまま大きく取られた洋館風のエントランスへと降り立っていた。
中央部に向けて二股の階段があり、どちらかからしかこちらへと降りられないこの位置取りならば、と確証した直後、首裏に湧いたプレッシャーの波に身を横っ飛びさせていた。
その直後には空間を押し潰し、牙を軋らせる青白い光が獣の形状を取っていた。
ごり、と空間ごと喰らった赤い眼光の獣がすっと二つの足で立ち上がる。
異常発達した牙に、人間とは思えない野性をはらんだ気配。それだけではない。常に体表を覆うランセルノプト放射光がその女がこの世では別の存在なのだと引き立てていた。
「……獣の契約者……」
「女の子なんだから、そんな呼び方はしないでもらえないかな? 彼女、そうじゃなくっても傷つきやすいし」
しかし琥珀の女の言葉とは裏腹に獰猛に吼え立てる獣の契約者に紅は戦闘本能を走らせていた。
「……よく言う」
瞬時に相手が迫る。空間をまるで無視したような超加速はB8の質量希釈を想起させたが、それとはまた違う。
これは純粋な「火薬庫」としての膂力であろう。
あまりに素早く、そして野性をはらんだ瞳が差し迫ったせいか、紅は咄嗟にクナイを振り払ったが、それを相手は冷静に回避してみせる。
――本能だけで生きているわけじゃない。
確信すると共に次手へと繋いでいた。輪の形状に組んだワイヤーが獣の契約者の足元を取ろうとする。
それを阻んだのはまたしても強烈な眠気であった。
集中力の途切れは紅の一瞬。だが、それだけで相手からしてみれば好機であったらしい。
飛び退り、体勢を整える相手に紅は呼気を荒くしていた。
「どう? これでも天国戦争の生き残りの二人。私達の組織――イブニングプリムローズの一員なんだから」
「……手練れ、と言う事か」
ぐるる、と唸る獣の契約者へと琥珀の女は歩み寄ってその背を撫でる。
「この子はペクスター。眠りの契約者のほうはジミー」
「何で名前なんて教える」
「この子達を忘れて欲しくないから、かな。明確な理由としては弱いかもしれないけれど」
紅は姿勢を沈め、ジミーと呼ばれた眠りの契約者を探ろうとするが、どうしてなのだかその気配さえも感じさせない。
様々な閲覧品の中やその裏側も熱探知で探ってみせるが、それでも、だ。
どうしてなのだか、相手の熱が辿れない。
この空間に居ないのか、とまで考えたがそれはあり得ないだろう。
琥珀の女は、限定的な能力だと言っていた。契約者の能力は限定すればするほどに、戦局は狭まる。
万能な能力などほとんどない。
どこかで制約があるはず。そう考えて策を巡らせるが、琥珀の女はどこか不可思議に首を傾げていた。
「……何か、あなたって不思議よね。黒(ヘイ)にちょっとだけ似ているかも。ワイヤー使うところとか」
「……黒?」
「知らないか。……うん、まぁ知らないほうがいいかもね」
『待て、お前達。イブニングプリムローズと名乗ったな? ……組織のサーバーで検索した。それは敵対組織だ。契約者ばかりで固めた、テロリスト達……』
「そう呼ばれているんだ? まぁどっちにしたって、私達に好意的なわけがないよね、組織が」
「どういう狙いだ? 何のために私達に接触をはかった?」
「誤解しないで欲しいのは、ニューヨークの赤ずきん、それにMA401さん。あなたには近々、重要な責務がある。それを教えるために……少しだけ対等に話し合いたかったの。だから彼女達は護衛かな。私だけじゃ、殺されちゃうかもだから」
「かもではない。……ここで殺す……」
そうと決めた双眸を向けた紅に琥珀の女は嘆息をつく。
「やっぱりかぁ……。何だか、あなたって本当に、黒に似ているね。内側にもう一人居るのもそっくり」
まさか、と紅は目を戦慄かせる。
――この女は、否、この契約者は、「どこまで」知っている? こちらの構えが鈍った一瞬の隙をついてペクスターと呼ばれた獣の契約者が躍り上がっていた。
跳躍からの渾身の一撃の重さが赤いカーペットを捲り上がらせ、砂礫が舞い散る。
そんな中で紅はクナイを投擲していた。
だがペクスターはそれを眼前で握って止め、あろう事かクナイを粉砕してしまった。
しかしワイヤーは生きている。契約能力を叩き込もうとして、またしても眠りの眩惑だ。
こちらの注意を的確に削ぐ事に特化したもう一人の契約者相手に、紅は先ほどから狙いを逸らされ続けていた。
「……随分な事だ。私を殺したければ何度も契機があったはず。なのに、どうしてなのだかお前らは……それを逃し続けている」
「だーかーら、殺し合いが本心じゃないんだってば。ニューヨークの赤ずきんさん? あなた、自分で思っているほど、その能力が低くない事、そろそろ勘付いているんじゃないのかな?」
「……どういう……」
「熱源操作の能力。一点に熱を留める事も出来れば、熱エネルギーの原則を叩き壊すほどの能力も誇る。それは応用が利く、極めて珍しい能力なの。だから私は、あなたの力を見込んで、勧誘に来たの」
「勧誘、だと……」
琥珀の女は茶目っ気たっぷりに微笑んでみせる。
「だって、あなたの力は……私が見てきた限りではこれから先のこのニューヨークを変える――それほどまでの力になる。だからその未来へと最短で行き着いてもらうために、私達はちょっとだけあなたに荒療治を行う。ペクスター、追い込んであげて」
その言葉にペクスターが掻き消える。轟と空気が震え、ペクスターの末端発達した巨大なる腕が紅の首を刈らんと薙ぎ払われていた。
咄嗟の習い性の防御で致命打は避けるが、それでもめきりと筋肉が軋んだのを感じ取ったその直後には、純粋なるパワーで吹き飛ばされている。
ギリギリのところでワイヤーを張り巡らせ、制動をかけるも、ペクスターは跳躍の予備動作すら見せずに肉薄する。
舌打ち混じりにクナイを投擲するも、相手の反応速度が遥かに上。
今度は指と指の間に挟まれて無力化されたかに思われたが、本懐は別だ。
「……張り巡らせたワイヤーの支点はこの吊り天井を支えている柱に通じている。この意味、さすがに獣でも分かるんじゃないか?」
相手が獣の闘志の中に僅かながら垣間見えさせた理性がこちらの好機となっていた。
ランセルノプト放射光を纏い、紅は柱を融解させる。
極端に強度を失った柱が瓦解し、歴史博物館が直後には倒壊の危機に襲われていた。
降り注ぐ砂礫と粉塵の中で紅は倒れ伏した黒服の中に混じっていた人影を見つけ出す。
的確に背筋へと入り込んだクナイより熱放射で脊髄を焼いていた。
断末魔の叫びが迸り、眠りの契約者が事切れる。
「……死んだフリか。古典的だが、自分にも眠りの暗示をかけられるのならば有効だな」
死亡確認の際に契約能力で死の淵まで昏倒すれば、誤魔化すのは不可能ではない。
ペクスターがその瞬間、自分を蹴りつける。空気を割る音が連鎖し、肉体が壁に叩きつけられていた。
肺の中の酸素が根こそぎ奪い取られ、無呼吸に陥った視界がブラックアウトしたその刹那には、ペクスターが壁伝いに蹴り上げ、その腕を大きく引く。
直後には、何倍にも肥大化した拳が迫っていた。
紅は口元から血を拭いつつ、ワイヤーで上昇して逃れようとするが、殺意に溺れた敵の眼差しに、ここでは逃げられないと判ずる。
何よりも、崩壊の只中にあるこの歴史博物館で、どちらかが死なない限りはいたちごっこだろう。
獣の契約者は口元から唸りを棚引かせつつ、拡大化した眼窩で睨んでいた。
「……怒っているのか? 契約者が、仲間を殺されて」
その挑発は充分であったらしい。壁面を殴りつけて岩石を取り出し、ペクスターはこちらへと放り投げる。
怒りに駆られたとしか思えない行動に紅は地面へと降下して振り仰いでいた。
その掌に岩石を宿したペクスターが両の手で岩を砕き、細やかな岩の散弾が一斉掃射される。
逃げ場のない地面で紅は飛び退ってワイヤーを絡み付かせていた。
逃げ惑うだけでは勝てない。そうは分かっていても真正面からの殴り合いでは勝てる気がしない。
しかし思案するだけの時間も惜しい。
ここは相手の隙を見出して一瞬でケリをつけるしかなさそうだ。
紅が姿勢を沈めてクナイを携えるのを、どこか他人事のように琥珀の女は見つめていた。
どこか不自然なほどに、彼女の周囲だけが崩壊するようには映らない。
「殺すんだ? でも、そんな事したって一緒。赤ずきんさん、未来を変えたかったら私と来て。契約者の未来のために」
「……契約者に未来なんてない」
「でもあなたは、人間として生きている。恩情なんてない、ただの殺戮マシーンとして生きるのは簡単なのに。……それは思い出が大事だからでしょ?」
「……私はお前達には与しない」
「強情だなぁ。……でも、その心の強さが、何より大事なのかもね。あなた、人間のメンバーが居るでしょ?」
『……おい、紅。この女、どこまで知って……』
「その人、危ないよ。ちゃんと見てあげてね。そうじゃないと……私が見てきた未来の中では死んじゃう事もあったし」
「……グレイが?」
――だがどうして今? その疑念が突き立った隙をペクスターは逃さなかった。
脚力を強化し、一気に肉薄する。小手先の格闘術ではなく、軋ったのは牙。
首筋に噛み付いてそのまま引き裂くつもりだろう。その牙が至る前に、紅は手を打っていた。
直上へとワイヤーを数本、結界のように並び立たせる。
そのうち、一本でもいい。ペクスターの肉体が触れた支点を用い、熱放射を試みる。
だが、反応速度で遥かに勝る相手には一手及ばない。
ペクスターは深追いをせず、琥珀の女に付き従っていた。
「バイバイ、ニューヨークの赤ずきんさん。また会いましょう」
「待て――お前はどこまで……!」
一歩踏み込んだ紅の一瞬――琥珀の女の気配は完全に途絶えていた。
『見失った……? そんなはずは……俺も見ていたと言うのに……』
困惑するブルックを他所に倒壊寸前の歴史博物館を紅は脱出経路を辿っていた。
予め当たりを付けておいた通路を駆け抜け、ちょうど抜け出た直後に建物は瓦解していた。
『……紅。一応聞くが、顔見知りか?』
「いや……知らないはずだ。だと言うのに向こうは私を……いや、私達を知っている風だった」
『俺もそれは驚きだ。俺達の活動はこの新市街地がメインのはず。……他の組織に当たるほど、表立って活動しているつもりはないのだがな。組織に問い合わせてみよう』
それはブルックの仕事だとして、紅は奇妙な感覚を覚えていた。
「……どうしてグレイの事まで……契約者でもドールでもないのに」
『分からんな。だがグレイがこの一件……爆弾魔ロギーで危ない橋を渡っているのは確かだ。それを制する目的でもあったか……? グレイを探す。紅、お前は別ルートで合流してくれ。グレイの時計に仕込まれている発信器を辿れば難しくはないはず』
その言葉に紅はふと、違和感に囚われる。
「……腕時計。九時間前にぴったりと揃った……」
『どうした? 何か分かったのか?』
「……いや……。何も、私達は分かっていないのかもしれない。だがそれでも……」
前に、進むしかないのだろう。