長閑な夏の午後、カイジはカウンターに肘をついて中空を眺めている。ぼーっとしているように見えるカイジではあったが、その頭の中では少々厄介な火種が燻っていた。それは勿論、アテナからの妙な頼まれ事である。
あれから数日経ったが、カイジはその依頼を実行する気にはほとんどなれなかった。灯里に何気なく伝えるといったことも未だしていない。それゆえか、初めてアリスに出会った日以来、まだ一度も合同練習に参加していなかった。よく分からない後ろめたさから、なんとなく参加しづらかったのである。
「なあ水無・・・・」
「なんですか?」
カイジはカウンターの隣に座る灯里に尋ねる。
「お前ってさ・・なんか悩みとかある・・・?」
「悩み、ですか……うーーん」
悩みを探すのに頭を悩ませている時点で、深い悩みは無いのだろうとカイジは推測した。
灯里は「まだ日は浅いですが……」と零してから、満面の笑みでこう付け加えた。
「ネオ・ヴェネツィアの溢れだす素敵の中には、私が気付かずに通り過ぎていったものがいっぱいあると思うんですっ。だから……これから私はどれだけその素敵に触れられるのかなって」
「・・・・・・・・・・」
「それだけが悩みですっ!」
「う・・・・!」
ヤメロヨッ・・・・・!
ソンナ目デ見ナイデクレ・・・・・・!恥ズカシイダロッ・・・・!
――カイジはふと思った。世界中の人々が皆灯里のような人間であったなら、憎しみや争いのない平和な世界になるのだろうと。そして、その代償として世界が、悪寒が走り、全身隈なく鳥肌で埋め尽くされてしまうような気味の悪いお花畑になっていただろうと。
しかし、そんな思考も一瞬で通り過ぎカイジは灯里から目を逸らす。
ダメだっ・・・・振っておいてなんて返したらいいかわからねえ・・・・っ!
だって完結しているっ・・・すでにこいつの中ですべて完結しているのだものっ・・・!
そりゃあ無理さ・・・・・・!
っ・・・・社長っ・・・!どうしてこういう時にいねえんだよあいつ・・・・!
カイジは汗を流しながらカウンターに手をついて目をギュッと閉じた。行き場のないやるせなさと、骨盤の辺りからむずむずとせり上がってくるふわふわした小っ恥ずかしさがカイジを苛んだ。
と、突然脱力したカイジは、居住まいを正して真顔でぼそっと呟く。
「――ってんのそれ・・・?」
「??」
「もしかして・・・・それって狙ってんの・・・?」
「狙ってるって何をですか?」
「そのぬるま湯みたいな台詞とか・・・・天然じみた言動すべて・・・・狙ってんの・・?」
「はひ……?」
カイジっ・・・・! 土足・・・・っ!
履き潰した土足で他人の家、否、寝具の上を歩きまわるような、そんな愚問・・・・・!
普通は出ない・・・! 出ないのがコモンセンスっ・・・!
しかしっ・・・頷ける・・・! 頷ける過ぎ去りし日々っ・・・・!
哀しきギャンブル狂いに・・・・洒落た昼下がりの会話など無理なのである・・・・!
「あとこの際だから訊くが・・・それって地毛・・?」
追い打ちっ・・・! 弱者に鞭うつ様な追撃っ・・・!
これには灯里っ、怯んだ表情・・・! が、しかしカイジっ、至って真顔・・・!
微動だにしない表情筋を携えてっ・・・地雷原を踊り歩く・・・・っ!
悪魔っ・・・悪魔に等しい所業っ・・・!
「あ、あの……これは地――」
「ぷいにゅうっ!」
これまでの度重なる灯里の発言でバーサーカーと化したカイジに、遂に正義の鉄槌が振り降ろされる。その鉄槌は真っ白な肢体を擲って、愚劣漢の後頭部を襲った。
「へぇあっ・・・・・!」
「アリア社長っ!だ、大丈夫ですかカイジさん!」
「・・・・あ、ああ・・・・いきなり何すんだよこのデブっ・・・!」
うら若き乙女の内園を蹂躙しておいてそれはないだろうカイジ。灯里は灯里でどこまでお人好しなのか、カイジの心配をしている。
後頭部から飛び上がったアリア社長はカウンターの上に仁王立ちになり、愚劣漢へ短い前足を突き付けた。そして、非難の鳴き声をつらつらと並べ立てる。
「ぐっ・・・・・だって水無がっ・・・!」
「ぷいにゅっっ!」
「うっ・・・・・・それにしてもっ――」
「にゅ」
「クソっ・・・・・!」
「??」
一方が説教をし、他方が子どものように言い訳をするという一見普通にみえる光景だが、御覧の通りである。そんなシュールな状況に灯里は、何が起きているのか全くもって理解が追いつかない。頭の上にはクエスチョンマークが円を描いて羅列していた。
「ぷいにゅうっ、にゅう」
「っち・・・・・・水無、さっきのは忘れてくれ・・・・」
「にゅうっ!」
「くっ・・・・・変なこと言ってすいませんでしたっ・・・・以後気をつけますっ・・」
「えっ……?あ、あのぉ、はい」
「ぷいにゅ」
灯里は頭を下げるカイジにとりあえず返事をしたが、結局なんなのかさっぱり分からないようであった。アリア社長は一件落着を見届けると、デッキに降り立ち最後に「にゅっ」と鳴くと静かに去っていった。ハードボイルドだぜアリア社長。
・・・・・・・・・・・・・・・
その後、一通りの業務を終えると、カイジは閉店の準備に取り掛かった。カイジの不躾な発言以降、特に気にしたそぶりもなく笑顔を絶やさず働いていた灯里は、つい先ほどアリア社長と買い物に出かけていた。
看板を下ろし、一息つく。カイジは2階のデッキへ向かうと煙草を吸い始めた。水平線を眺めながら、今日は何処へ行こうかと考えるカイジ。前回は比較的幅の広い運河を抜けたから、今回は少し難易度をあげて生活用水路に挑戦してみようと決めた。
それでも焦る必要はないからな・・・・5隻以上は横並びできるような水路にするか・・・
カイジは合同練習に参加しない代わり、一応一人でゴンドラの訓練をしているのであった。これはコツコツという概念をどこかへ振り落としてきたカイジにとって、日進月歩ではあるものの大きな成長であった。
煙草の火を消すと階段を下りて練習用のゴンドラへと乗り込む。
よし・・・いくか・・
操船部へ立ちゆっくりとオールを漕ぐ。これまでの練習は着実に実になっており、相変わらずのへっぴり腰ではあるがゴンドラは順調に進んでいく。カイジは最初に出合った水路を横へ折れた。
おいおいっ・・・・今のターンいいんじゃねえか・・・・
曲がり角を折れる度自画自賛を欠かさないカイジ。いつになく上機嫌だ。しかし、そういう時に限ってアクシデントはつきものである。
角を曲がる際、掛け声を上げ注意を喚起するのがゴンドラ業界のルールなのだが、カイジは曲がることに集中し過ぎており、ほとんど声を掛けなかった。最初の数回はすれ違うゴンドラがおらず、問題はなかった。が、中心部に近くなり交通量が多くなった曲がり角で、カイジの不注意から直進するゴンドラと衝突してしまったのだ。
ほとんどスピードが出ていなかったお陰か、双方にこれといった実害はなく、カイジが謝ってその場は過ぎたのだが、気分的には最悪であった。いままで順調に来ていただけに、この一回の躓きがカイジに大きくのしかかってきたのである。
そんな気分のまま何度目かの角を曲がった際である。先の衝突から声を上げることだけに気をとられたカイジは、曲がった先の水路が手に余るほどの幅しかないことに気づかなかった。
うっ・・・・・・まずいっ・・・この狭さは無理だ・・・・・
目の前の水路は2隻がかろうじて通れる程度の幅で、よく見ると少し先にゴンドラが停まっている。これでは素人同然のカイジに通ることはできない。どうするべきか悩んだ挙句にほとんど試したことのないバックをしようと、カイジは後ろを向いた。
「だから言ったじゃないですかっ……遠くを見ないと駄目だって」
「え・・・?」
突然カイジに声をかけたのは、遊歩道に立つアリスであった。アリスは学校帰りだろうか、茶色のブレザーにスカートという出で立ちである。
アリスは、欄干に手をかけて少々こわばった表情で続けた。
「こ、この前言いましたよね、視野を広く保たないと……その、うまく漕げないって」
「・・・・・・」
「な、なんですかっ?」
カイジは、制服に緑髪というショッキングなアリスの風貌に一瞬固まっていたが、はっとすると、誤魔化すように笑って返答した。
「い、いや別に・・・・えっと・・・ルイスキャロルだっけ・・・・?」
「アリスです」
ちょっとした冗句のつもりだったのだが、涼しく返されるカイジ。
「それなんだが・・・・もう手遅れだ・・・」
カイジは手を振って細い水路を見返った。そうしてもう一度アリスの方を向く。
「で、バックをしようなって・・・・ハハハ・・・」
「それじゃあしてみてください」
言葉の端々から感じられる侮蔑感と、遊歩道と水路という文字通りの上下関係に少なからず怒りを覚えたカイジであったが、遠くにチラリと見えたゴンドラに焦り、すぐさまバックの体制に入った。
・・・くそっ・・・全然戻っていかねえ・・・
カイジは、徐々に迫ってくるゴンドラに焦って遮二無二漕いでみたが、ゴンドラは木の葉のように回転するばかりである。そのうち舳先を水路壁にぶつけ、身動きが取れなくなってしまった。
「くっ・・・・・・・・・うわっ・・・!?」
最終的に焦燥を通り越してやけくそ気味になったカイジは、ただ突っ立っているだけであったが、突如揺れ出したゴンドラに体制を崩してしゃがみ込んだ。しゃがんだまま、再度振り返ると、遊歩道にいたアリスがゴンドラへと乗り込んで、カイジに手を差し出している。
こいつ・・・飛び乗ってきたのかよっ・・・・
カイジは驚きながらも「悪いな・・」とアリスの手を掴もうとした。
「ち、違いますっ!オールを貸して下さいっ!」
「え・・・?」
「はやく退かないと迷惑になりますよっ」
「あ、ああ・・・・」
カイジはオールを渡すと、躄りながら荷台部分へと押しやられるように移動した。と、すぐにゴンドラが動き始める。今の今までふらふらと頼りなく揺れていた船体が、水を得た魚のように整然と水の上を滑っている。ゴンドラはあっという間に元の水路へと戻った。
「おおっ・・・・!すげえ・・・・」
「……」
「やっぱりすごいなお前っ・・・!ハハハっ・・・!」
「どうも……」
「ペアのレベル超えてるって・・・!ホントっ・・・・!」
窮地を脱したからか安心して饒舌にアリスを褒めるカイジ。アリスはオールを握り締めて、俯きながら少し赤くなっていた。それに気づいているのかいないのか、カイジは尚も褒め続けていたが、アリスが黙りこくっていたので、礼を述べてオールを受け取った。
「・・・じゃあそこの桟橋で・・・・」
「……」
カイジは黙っているアリスを乗せて、近くの桟橋まで漕いでいった。桟橋の横にゆっくりとゴンドラをつける。
「ホント助かったよ・・・それじゃここで・・」
「あ、あのっ」
「なに・・・?」
降りようとしないアリスに怪訝な表情で問いかけたカイジ。
「……まだ練習続けるんですか?」
「ああ・・・戻るまでが練習だからな・・・」
「そうですか……」
「・・・?」
「でしたら……その」
っ・・・!まさかこいつ・・・指導するとか言い出さないだろうな・・・
「れ、練習に付き合ってあげてもいいですよっ」
うっ・・・・・的中っ・・・・!
「……どうでしょうか?」
どうもこうもそんなもん・・・・・・く・・っ!
圧倒的上目遣いっ・・・! 小動物的っ・・・!
リスっ・・ハムスターっ・・オコジョ・・・っ!
そんな小動物的な愛くるしさっ・・・!
これにはカイジといえどもお手上げっ・・・! お手上げの棒立ちっ・・!
断れないっ・・・! そんな非人道的行為に手は染められないっ・・・!
「お願いしますっ・・・」
カイジっ・・・敗北っ・・・! 唯々諾々のイエスマンっ・・・!
だがそれでいい・・・!
「!……そうですか。それじゃあ見てるので漕いで下さい」
「・・・・」
「目線に注意してくださいねっ」
「あ、はい・・・」
アリスの所作に異議を申し立てられなかったカイジは、初心者にも易しいというルートで会社まで漕いで行くこととなった。
カイジとアリスを乗せたゴンドラは、夕暮れの町をゆっくりと進んでいく。
・・・・・・・・・・・・
「――背筋を伸ばしてくださいっ」
「――力が入りすぎです。もう少しリラックスです」
「――どこ見てるんですかっ!水面見てても進みませんよっ」
「――それさっき教えましたよね、ふざけてるんですか?」
数メートルおきに飛んでくるアリスの檄を、殊勝にもその都度しっかりとした返事をするカイジ。ただ、それは操舵に集中していて、いちいち気に障っている余裕がないともいえた。
「この場合はどうすればいいんだ・・・?」
「何言ってるんですかっ、避けなければぶつかるだけです。さっさと避けてください」
「いやしかし・・・この狭さはまだ・・・」
「やってみなきゃ分かりません。さ、早く」
「っ・・・やりゃあいいんだろっ・・・!」
アリスと出会った時ほどではないが、カイジにとっては狭いといえる水路の途中に、一隻ゴンドラが停まっていた。そこへゆっくりと向かっていく。近づくにつれ手が震え、腰も引けてきた。それに呼応するかのように舳先が揺れて、ゴンドラは小さく蛇行し始める。
まずいっ・・・これじゃあぶつかっちまう・・・・
「カイジさんっ、深呼吸」
「・・・・」
カイジは言われた通り、大きく呼吸をして気を落ち着けた。まだ手は震えて腰は引けていたが集中しなおすことはできた。揺れる舳先の方向が、対面のゴンドラから少しずつ離れてそのまますれ違っていく。
「気を抜かずに」
「・・・」
船体とカイジが立つ操船部が停まっているゴンドラの横を通ると、あとは一息に抜け出た。
よしっ・・・・!
そのまま狭い水路から比較的大きい水路へ抜けると、カイジは嘆息してゴンドラを水路の端へ停めた。
「ふぅ~~っ・・・・」
「やればできるじゃないですか。及第点です」
「ああ・・・抜けられるとは思わなかったぜ・・・」
「ふふふ、挑戦しなければ分からないこともあるんですよ」
「・・・・・・その通りだな」
カイジはそう言うと、再びオールを漕ぎ始めた。そうしてすぐ近くの桟橋へ舟を付ける。アリスは不思議そうな顔をしてカイジへ問いかける。
「……?練習は終わりですか?」
「さっき言っただろ、会社に戻るまでが練習だって・・・ちょっと休憩だ・・・」
カイジはゴンドラを降りると広場を指差した。夏の長い日も姿を潜め、辺りは紺碧の空の下、薄暗くなっていた。オレンジ色の街灯に照らされた広場にはテラス席が設けられている。
「いろいろ教わったお礼も兼ねて少し奢ってやるよ・・・・・・少しね・・」
「あ、はい。それじゃあご馳走になりますっ」
「少しだからね・・・うん・・・」
いちいち釘を刺す甲斐性のないカイジではあったが、その頭の中にはアテナの依頼が浮かび上がっていた。出来ればではあるが、ここで少しでも悩みの種の部分を明らかにしておきたい、その為には少し話しておく必要があったのだ。
アリスという女の子は、会って間もないとはいえ明らかに普通の女の子である。確かに初めは生意気な子供だと感じ、大人気ない対応をしたこともあった。しかし今日接してみて、若干マセた嫌味な言動が滲み出ていたものの、他はその辺の子供と変わりが無いように感じた。
そう思うと少し気が楽になった。普通の子であるならば、悩みだって高が知れているだろう。
大方・・シングルになれないとか・・・・好きな人ができたとか・・・・
そんなとこだろ・・・・正直オレの出る幕じゃない・・・・
ヤミからトゴ・トジュウで借りてるとかなら話は別だが・・・・・んなわけねえか・・
広場のテラス席は涼をとりに来た人々で賑わっていた。
2人は空いた席に腰掛ける。
「本当にいいんですか?」
「え・・?あ、ああ・・・・」
「それじゃあわたしはこれ、お願いします」
カイジは給仕を呼ぶと注文を伝えた。給仕が去っていくと、アリスに向き直る。だが、初めの一言が出てこない。
何から話せばいいんだよ・・・
今や灯里や藍華は黙っていても勝手に喋るので、適当に返事をしていればいいのだが、年下の普通の女の子とは何を話していいかまったく分からない。
カイジはしどろもどろになりながら「時間大丈夫なのか・・」と小声でつぶやいた。
「まだ大丈夫です。寮ですからあんまり遅くなるとまずいですけど」
「そうっスか・・・・今日は学校帰りか・・?」
「はい、ミドルスクールに通ってます」
「ふぅ~~ん・・・・へぇ~~・・・ふーーん」
「な、なんなんですかそれ?」
「い、いやいやっ・・・・・えーーと、学校は楽しいか・・・?」
「楽しくはないですよ。勉強するところですから」
今までどおりの口調ではあったが、アリスの表情に一瞬翳が差したように、カイジには感じられた。
「勉強は確かに楽しくないが・・・それでも友達と駄弁ったりとか・・・なんかあるだろ・・」
「ありません。私忙しいので」
「・・・」
忙しいって・・・・あるかそんなこと・・・ガキの分際で・・・・
いや・・・・もしかしてこいつ・・・・
「友達いねえの・・・?」
「……でっかい失礼です」
図星だったか・・・・・ん・・・・?
ああっ・・・・!まさかそこかっ・・・!?悩みの本質・・・根っこは・・・っ!
・・・・いやまてよ・・・しかしこいつには煩いのが2人もいる・・・・
違うのか・・・?
・・ダメだ・・結論を急ぐ必要はねえ・・・
そこで注文しておいた品が届いた。カイジはサイダー、アリスは紅茶がついたパンケーキセットである。
「えと……それじゃあ頂きますっ」
「ああ・・・」
アリスは黙々とパンケーキを口に運んでいる。小さな口を一生懸命動かしている様子はやはり小動物を想起させた。
カイジはタバコを吹かしながらそんなアリスを眺めていた。すると、パンケーキを半分ほど食べ終えたアリスは、フォークを置いて真剣な顔つきでカイジへ問いかけた。
「あ、あのっ……どうしてARIAカンパニーに入社なさったんですか?」
「え・・・?なんだよ藪から棒に・・・」
「藍華先輩に訊いても教えてもらえなかったんです。灯里先輩は知らないみたいだし……」
「あ~~・・・水無には言ってなかったかもな・・・・」
「それで……すごく気になるんです。なんでカイジさんのような方が、ARIAカンパニーにいらっしゃるのかなって」
「・・・・・」
カイジは束の間逡巡したが、話そうが話すまいが問題なんてあるはずがないと考え、だったらと経緯について話すことにした。
「じゃあ話すが・・・その前にサイダーのお代りだな・・・」
新たなサイダーを受け取ったカイジは一口飲むと、タバコに火をつけた。向かいに座るアリスはそわそわしていて、早く早くとカイジを急かしているようである。
カイジは苦笑すると、もう半年近く前になるその日の話を始めた。
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・
・・・・・
「――日本には……、地球には帰りたいとは思わないんですか?」
一言も口を挟まずに黙然と話を聞いていたアリスは、カイジが口を閉じるとそう尋ねた。その表情は真剣そのもので、カイジの話を疑っている様子はない。
「いまさら戻ったところで・・・・なにも覚えてねえしな・・・・」
「……でも、もしかしたらなにか思い出すかもしれませんよ?」
「まあな・・・・万が一帰れる機会があるんだったら」
――そのときは帰るつもりだ・・・
最後の一言は喧騒に紛れてアリスにはほとんど聞こえなかった。2人はまた黙り込む。
アリスは残りのパンケーキを口に運びながら考えた。
まったく知らない土地に記憶喪失で放り出された時、自分ならどうするだろうかと。家族はおろか頼れる友達、知人の類は全く居らず、どう生きていけばいいのか。しかし、最低限の衣食住すら満たされていない状況なんて想像すらできなかった。
そう考えると初めに声をかけられたARIAカンパニーで働くのも無理はないですね……
アリスはそう思うと同時に、今の自分は恵まれているということを心の片隅で感じた。そしてその感覚は、なぜだが分からないがほんの少しの鈍い痛みを伴っていた。
「キャロルはなんでオレンジぷらねっとにいるんだ・・・・?」
「アリスで結構ですよ……ゴンドラ部にいるときにスカウトされたんです」
「ふぅ~~ん・・・・部活とかは入ってたんだな・・」
「いけませんか?ゴンドラに乗るのが好きなんです」
「悪くないけど・・・へぇ・・・・」
アリスはいつの間にか、カイジに対して臆せずに話せるようになっていた。初対面のときに感じたような危うさや怖さなどは、もうほとんど感じていなかったのだ。それは指導したことや今打ち明けられた話によって、自然とアリスが心を開く形となったからであろう。勿論、そのことにアリス自身は気づいてはいない。
「オレはARIAカンパニーしか知らないけど・・・・ほかの会社ってどうなの・・・?」
「どう、というのは?」
「ほらっ・・・・あれだよあれ・・・・」
そう言ってカイジは、照れたような顔をして右手の親指と人差し指で丸を作った。それを上下に揺らして「これこれっ・・・」などと言っている。
「……聞いて損しました」
「冗談だってっ・・・冗談冗談っ・・・ハハハ・・」
「はぁ……」
「しかしオレンジぷらねっとって最大手なんだろ・・・?人も多そうだし、何より面倒そうで――」
「そうなんですよっ。本当に面倒なんですっ!」
アリスは机を叩いて喰い気味に身を乗り出す。
「えっ・・・・?何いきなり・・・」
「す、すみませんっ」
頬をうっすら赤くしてアリスは俯いた。
「ま、まあ賑やかで楽しそうではあるが・・・オレには向いてなさそうだ・・・」
アリスは下を向いたまま少しの間黙っていたが、そのうちぽつぽつと話し始めた。
「……楽しくなんかありませんよ。人が多いとそれだけで相互に監視し合っているみたいで、気が休まらないんです」
「なるほど・・・・それは分かる気がするな・・・」
「放っておいて欲しいんです……私はただゴンドラに乗りたいだけだから」
「お、おう・・・・」
「それが仕事にできたら素敵だなって、それでオレンジぷらねっとに入ったんです。なのに……」
「・・・・・合ってねえなら辞めちゃえば・・・・?」
「……っ」
そうだ、なんで私は今の会社に拘っているんだろう……?辞めたっていい筈なのに
他にも水先案内店はあるんだし……学校を卒業してからでも遅くないのに……
しかし、それはできないとアリスは頭を振った。スカウトしてくれた人や、気にかけてくれているルームメイトのアテナ、それになによりあの2人に要らぬ心配をかけてしまう。それはどうしても嫌だった。
視界が滲んでいく。このまま下を向いていたら涙がこぼれてしまいそうで、アリスは目を拭うと顔を上げた。
「お、おい・・・大丈夫か・・・?」
「はいっ……あの、カイジさんはなぜゴンドラを練習しているんですか?」
「え・・・・?」
「分かっているとは思いますけど、男の人はウンディーネにはなれないですよね。それなのにわざわざどうして……あんなに頑張って練習しているのかなって」
「ハハハっ・・・そりゃ決まってんだろ、恩を返すためだよ・・・少しでもな・・・っ!」
「……」
アリスはまっすぐカイジを見つめた。
相変わらず広場は騒がしい。日が完全に落ちて、一層賑わいだした。そこらじゅうからグラスを酌み交わす音が聞こえてくる。人々は何かを忘れるため、捨てるために笑い合っているようであった。
カイジは続ける。
「さっきも話したが・・・ここにオレがいられるのはアリシアさんのお陰だからな・・・その恩は逆立ちしたって返せねえ・・・だから出来ることは少しでもやらなきゃならねえんだよ・・・・っ」
「……」
「ゴンドラもその一つってことだ・・・・」
カイジは笑いながら話してはいるが、その目は確かな光を宿していた。アリスの心が再び鈍く痛む。
「……つらくはないんですか?藍華先輩から聞きました、その、カイジさんがよくゴンドラから落ちてるって。……絶対つらいと思いますっ、嫌になると思いますっ」
アリスは胸の痛みを吐き出すように、そして自分に言い聞かせるように、語調を荒げて言った。
「な、なんだよ・・・・・ていうか、そんなに落ちてねえよっ・・・!まだ十回くらいだろっ・・・・・」
「……」
「ま、まあ・・最初は辛かっ・・・いや、辛いというか面倒だったな、致命的に才能がないと思ったし・・・・・第一オレは乗るのはいいが漕ぐのは大して好きじゃないしな・・・・・」
「……」
「だが・・・それでも・・・・・・そうだっ・・!さっきアリス、言ってたろ・・・とどのつまりそういうこと・・・」
「はい……?」
「――やってみなきゃ分からない・・・挑戦してみなきゃ分からねえって・・・」
「……っ!」
「そりゃそうだっ・・・そんなもん神様にしか分からねえ・・・やらなきゃ唯の絵空事だ・・・・だからオレは練習してんだよ・・・人並みに漕げるようになって、ARIAカンパニーの役に立つためにな・・・」
「そう……ですか」
「ハハハっ・・・・使い物になるのはまだまだ先だけどな・・・っ!」
広場の喧騒が遠くなる。アリスは、目を見開いたままゆっくりと俯いた。膝の上に置かれた拳を見つめる。それは無意識に硬く握られていた。その小さな拳へ、ふと涙が滴った。
アリスは涙を堪えようと、軋む心を抑えようと、ぎゅっと目を瞑った。しかし涙は、とどまらず次から次へと溢れてきた。
――自分はやってみたのか、挑戦してみたのか。答えは簡単だった。
全然ですっ……私、何もしてこなかった
ただ、甘えていただけでした……こんなに恵まれているのに……
アリスはやっと気が付いた。自分が殻に篭っていただけだったことに。他人に敬遠されているのではなく、自分が敬遠していたことに。
問題は全部私の中にあったんだ……
でっかいお馬鹿です私……他人の所為ばっかりにして
本当に簡単なことであった。皆、自分と同じようにゴンドラが好きなのだ。だから水先案内店で修行しているのである。だったら共有すればいい。歩み寄って共有すればいいのだ――灯里や藍華が自分にそうしてくれたように。
まだ遅くないよね……
アリスは、目の前であたふたしながら心配しているカイジに目をやった。涙で滲んだ視界はキラキラとしていて、嘘のように綺麗であった。
大丈夫。決してまだ遅くない。皆、踏み出してくれていたのだ。
アリスは微笑んだ。それなら、その踏み出す一歩は…
……今度は私の番ですっ!
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・
・・・・・
ぺた・・・ ぺた・・・
ぺた・・・ ぺた・・・
「カイジくん、ありがとうっ」
「あ・・・・?遅れてきて早々なんだよ・・・・」
先日、アテナと話した喫茶店で、またもやアテナを待ちながらかき氷を食べているカイジ。今日は、合同練習をサボって来ていた。そこへ先日と同じように遅れてやってきたアテナは、開口一番カイジへお礼をかましていた。何のことだかカイジには分からない。
「何って……おとぼけや屋さんだね、カイジくん」
「はあ・・・?」
「もうっ、アリスちゃんのことよ。すっかり元気になったのっ」
「え・・・・?そうなの・・・・?」
「うん、この前の夜、私にいっぱい話してくれたの、アリスちゃん。それでカイジくんのことも話してた。泣いちゃって申し訳なかったって」
「あ、ああ・・・」
「それで最後に素敵な笑顔で、――自分が間違ってましたっ、これから頑張りますって、そう言ってたの」
「へ、へぇ・・・・・・よかったじゃん・・」
「うんっ」
カイジはアテナの幸せそうな顔から目を逸らして、あの日の夜のことを思い出していた。
・・・・・・・・・・・・・
ええっ・・・・・!なんで泣いてんのこいつ・・・・っ!?
カイジが柄にもなく真面目なことを喋り、鼻の下を人差し指で擦って照れていると、アリスが突然、嗚咽を漏らし始めたのだ。
「お、おい・・・・?」
そう声を掛けてみたが、俯いて涙を零しているだけである。これは自分の所為なのか、いやそんな訳ないと考えたカイジであったが、どう考えても泣かせる相手が自分しかいない状況である。
「ちょ、ちょっと・・・・どうしたっての・・・?」
やべえっ・・・・意味不明っ・・・・
カイジの言葉に反応したのだろうか、アリスは涙でぐしゃぐしゃの顔をゆっくりと上げて、カイジの顔を見つめた。完全に号泣しているアリスに取り乱すカイジ。
「え・・・?な、なんでっ・・?どうしてっ・・・?」
すると、アリスはその涙で赤くなった目を細めて、静かに笑った。
「ふふふっ、私、分かりましたっ……何でカイジさんが慕われているのか」
「は・・・?」
「でも負けませんからねっ……今日は奢っていただいて、ありがとうございました」
「うん・・・・?」
「それじゃあ、門限もありますので私はこれで……さようならっ」
「あ、ああ・・・・・さよなら・・・」
アリスはそれだけ言うと長い髪を振り乱すように小走りで帰っていった。
そうか・・・・あいつもやっぱ変な奴だったってことか・・・
カイジは座ったまま呆然とその後姿を見送っていた。
・・・・・・・・・・・・・
「――くん、カイジくんっ」
「えっ・・・わりぃ・・なんだ・・?」
「私、これから予約が入ってるからもう行かなくちゃいけないの」
「あっそう・・・」
「だからここは私が払っておくね」
「いや、いいよ・・・・余計なお世話だ・・・」
「ううん、これはお礼なの。アリスちゃんの悩みを解決してくれたお礼」
「・・・・」
「だから受け取って。また時間があるときにでもちゃんとお礼するわ」
「いや、ホントいいってそれは・・・今日の分だけでいいからっ・・・」
「ふふふっ、じゃあまたね。本当にありがとう」
そう言うとアテナは喫茶店を出て行った。
カイジはほとんど溶けてしまったカキ氷を下げてもらうと、もう一つ注文して、すぐにたいらげた。最後のカキ氷代を払って外へ出る。突き刺すような日差しは容赦なく、蝉の声も相変わらずである。
会社への道のりを歩きながらカイジは頭を捻らせた。
アリスの悩みを知るために、あの夜で、とりあえず第一段階は終えたと思っていたのであったが、いつの間にか解決していた。結果的にこれで万歳ではあるものの、カイジにはしっくりきていなかった。
分からねえ・・・・結局悩みってなんだったんだよっ・・・・
しかし、カイジの疑問もその光景でどこかへ消えてしまった。
多分友達関連だと思うんだけどな・・・・・・ん・・・・?
そこには、いつものように合同練習をする3人の姿があった。3人とも笑っていたが、アリスは特に眩しい笑顔でオールを漕いでいた。
・・・・・まあ、もういいか・・・・
カイジはニヒルに笑うと、こちらへ気付いた藍華に怒鳴られて渋々練習に向かうのであった・・・・・。
第11話 終・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・