水先案内録カイジ:ARIA×賭博黙示録カイジ   作:ゼリー

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よろしくお願いします。


      後編 ~感謝~

 ネオ・ヴェネツィア中が祝祭ムード一色のこの日、伊藤カイジは朝から最悪だった。

 奈落の底のようなこんな気分になったのは、アクアにきてから初めてだろう。とはいえ、これは当然の帰結とも言えた。

 アリシアに拾われARIAカンパニーに身を寄せることとなった当初は、余計な思考をさしはさむ余地が無いほどに見るもの触れるものすべてが新しく、またそれゆえに生活に追われているといった状況であった。それが徐々に慣習となり、心にある種の余裕が生まれてくるまでに一年、アクア暦では半年ほどの時を要した。この期間に生まれた多くの出会いが、カイジの性質を緩やかに変えていった。が、それが昨夜一変した。心の余裕は隙を生み、生活への奔走は思考を停止させていたのだ。結果、訪れたものは不安、焦燥、懐疑。カイジは出口の見えない迷路に嵌ってしまったのである。

 しかし、先ほどの通り、これは当然の帰結である。前後脈絡なく唐突に別世界へ放り込まれておいて、一切悩まずに生きることが出来るであろうか。過ぎ去った現実がどんなに過酷なものであっても、懐かしまずにいられるであろうか。無論である。ただ、この状況下で悩むことが明白であるのと同様に、その答えもまた明白であった。的を外れた瑣事に憂う必要などなく、それはカイジの意思一つにかかっているのだが……。

 なんにせよカイジはその答えを見つけられずに、この日、亡者のように彷徨うこととなる。

 

 

 

 ヨロ・・・   

        ヨロ・・・

 

 早朝、ARIAカンパニーを出たカイジは、重たい体を引きずるように河岸沿いを当ても無く歩いていた。時間帯からか、普段は地元民や観光客が足繁く通るこの遊歩道も、人影はほとんど無い。カイジは時々とまっては海のほうを眺め、また歩いた。頭の中は昨夜のまま一行に進展していなかった。

 そのまま歩き続けると、舟の火送り会場でもあるサン・マルコ広場へと出た。夜は賑わうであろうこの場所も、まだ閑散として静まり返っている。カイジはしばらく広場の入り口に呆けたように突っ立っていたが、頭を去来する数々の煩悩を整理しようと、腰を落ち着ける場所を探した。丁度座るのに適した段差が目の前にあり、そこへ腰をおろす。カイジは気にも留めていなかったが、そこはサン・マルコの獅子の彫像の下であった。

 

いまさらだが・・・・

大体において・・・どうしてオレなんだ・・・・・

なぜオレにこんな理不尽なファンタジーみたいなことが起きた・・・・?

今までたいした疑問を持たず過ごしてきたが・・・・何なんだこの境遇・・?

これは夢なんじゃ・・・・・・

・・・・・・っ! ・・・ちげーだろっ・・・そうじゃねえ・・・今考えるべきはそこじゃない・・・

 

 この現実が夢でないことはカイジが一番良く分かっていた。そして、混乱した頭でも考えていることが本質から遠ざかっているということも理解できた。それでも、湧いて来るような様々な想念に悩まずにはいられない。

 

くそっ・・・眠いな・・・・

 

 ともあれ、しばらくは考え込んでいたカイジであったが、昨夜からの睡眠不足が祟って、うつらうつらとし始める。時々、頭を振って眠気を払い落とそうとしたが、周りに人影が無く静かであったため意図せず睡魔に襲われた。

 

 

 ――夢を見ていた。

 カイジは石畳の広場にいた。すぐ近くには何人かカイジに背を向けて立っている。それは背格好から45組の連中をはじめ、遠藤、坂崎、一条や利根川、そしてあの兵藤だと思われた。カイジは思わぬ人物たちとの再会に、なぜ彼らがここにいるのか疑問さえ抱かずに懐かしさから声をかけた。しかし、誰もカイジの声に反応しない。不安になり、何度も名を呼ぶが振り返るものはいなかった。

 ふと、目の前の景色が瞬時に切り替わる。そこは、帝愛の地下強制労働施設、E班23人部屋であった。部屋には誰もおらず、中央にはチンチロで使用する丼とサイコロが置かれていた。カイジは壁に背を預け一人ぽつんと座っている。すると、突然出入り口のドアをノックする音が響いた。――開けないでくれ、カイジはなぜかそう願いながらドアのほうへと顔を向ける。音が止むとドアノブがゆっくりと回り扉が開いた。そこには灯里が立っていた。灯里は部屋に入ってこずに座るカイジをじっと見つめていたが、眉を寄せて淋しそうに笑うと、ドアを閉めてしまった。同じように、ネオ・ヴェネツィアで出会った人々が続々と現れて、カイジをじっと見つめては消えていった。

 ――そしてまたノックの音が響く。もうよしてくれ、そう叫ぼうにも声が出ず、ドアから目が離せなかった。現れたのはアリシアだった。アリシアもやっぱりカイジを見つめると、一瞬悲哀のこもった顔をしてから、申し訳なさそうに笑った。その顔が余りにも儚く感じられ、なんとか声を上げようとしたが、ドアはゆっくりと閉まっていく。カイジは立ち上がってアリシアのほうへ走っていったが、無情にも目の前でドアは閉じられてしまった……。

 

 

 はっとして目覚めるカイジ。サン・マルコ広場はいつの間にか休日の喧噪で溢れかえっていた。祭りの影響か、観光客だけでなく地元の人々も大勢見受けられる。

 カイジは、愕然と辺りを見回した。そして、自分が夢を見ていたことに気がつく。動悸が激しく体中汗まみれであった。

 

「ハァ・・・ハァ・・・」

 

 肩で息をしながら気持ちを落ち着けようとするが、今しがた見た夢が、まざまざと脳裏に蘇ってくる。それは、なにか決定的な喪失感ともいうべきものをカイジに植えつけた。

 

ううっ・・・・変だぞオレ・・・・・・

しっかりしろ・・・・しっかりっ・・・・! この感覚はダメだっ・・・

落ち着けっ・・・今はとにかく無心になることだ・・・・

 

 カイジは頭を抱えて、地下の光景を払おうとした。が、うまくいかない。数時間程寝たことで、気分とは裏腹に疲労は幾分か取り除かれていた。気を紛らわすためにも、少し歩こう、そう決めてカイジは立ち上がった。そして、サン・マルコ広場を抜け、来た方向とは逆、街の中心部へと歩いていった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 細長く切り取られた路地の空はカイジの心を映すかのような曇天模様。すれ違う人々は対照的に皆笑顔であった。無心に努めるカイジは、飛び込んでくる人々の笑顔によって改めて祭りの雰囲気というものを感じた。加えて、とうてい参加できるような心持にないことを悟る。

 目的も無く路地から路地へ、広場から広場へと無造作に歩き、以前はその美しさに嘆息した街並みを無感動に通り過ぎる。大運河沿いまで足を進めると、軽食を出す喫茶店が目に入った。こんなときでも体は正直なもので、昨夕からろくに食べていないカイジは、食欲は無かったものの空腹を感じた。そのまま一度通り過ぎたが、結局戻って少し早い昼食をとることにした。

 店内は閑散としており、一組の観光客らしき連れ合いとトランプに興じる老人数名がいるばかりである。カイジは奥のテーブル席へと腰掛けた。適当に注文すると、肘を突いて組んだ拳の上に頭を乗せた。大きく溜息をつく。

 

くそっ・・・ちらつきやがる・・・・

・・・・・・・・・

・・・・・っ!

憐憫っ・・・・

 

 ここまで無心でやり過ごそうとしたカイジではあったが、こびり付いた幻は払おうとすればするほど意識を苛んだ。そしてその幻は新たな迷妄を呼ぶ。

 

現実的だ・・・・あの光景は・・・・

実際あり得るんだっ・・・・オレの過去、境遇、身の上を知れば誰だって・・・・

憐れむ・・・! いやそれだけならまだいい・・・軽蔑・・そうだ軽蔑する・・・・っ!

・・・・ご免だっ・・・・憐憫も軽蔑も・・・!

 

 カイジが辿った落魄の軌跡。それは確かに誇れたものではないだろう。当時においてさえ真っ当とは言えない生き方、(いわん)やこのネオ・ヴェネツィアにおいてをや、誰も想像すら出来ないだろう。しかしながら、これもまた現状において、わざわざ頭を悩ます問題ではなかった。それでもカイジはのめり込んでしまう。

 夢の中でカイジに投げかけられた憐憫、そして、それから導き出された自らを卑下する感覚は、カイジの心にずっしりと腰を据えてしまった。ウンディーネたちの笑顔が崩れ去る様子が目に浮かぶ。あの夢はその合図。それほど遠くない未来を暗示する象徴のようにカイジには感じられた。

 

「大丈夫ですか、顔が真っ青ですよ」

「えっ・・・・? あ、いや・・・」

 

 料理を運んできたウェイトレスはカイジの顔をみると心配そうに声をかけた。カイジは取り繕ったように笑って誤魔化すと、礼を言って下がってもらった。

 

くそっ・・・バカかオレは・・・・・・・!

知られるおそれ・・・? あるわけねえだろっそんなこと・・・・・!

・・・大体こんな絵空事・・誰が信じるっていうんだ・・・

オレが隠し通せばっ・・・万が一にも漏れるなんてことは・・・・

 

 そこまで考えると、カイジは食事に手をつけた。空腹ではあったが、味がほとんど感じられず半分ほど残して店を出た。そうして再び、街中をふらふらと歩き始めた。

 

 トボトボと歩きながら暗澹たる思考が錯綜するカイジではあったが、心が踊るような瞬間もあった。それは店を出て大運河沿いを歩いている際、ゴンドラを漕ぐアリシアの姿を見かけたときであった。凛とした佇まいの中にも優雅さを失わない洗練された漕ぎ姿は、カイジの視線を奪い釘付けた。闇夜にともし火を見つけたようなそんな感覚が体中を巡る。   

 が、しかしそれも束の間、ふとアリシアの顔がこちら岸を向くと、すぐさま目を逸らして急ぎ足で歩く。追っ手を恐れる逃亡者よろしく気付かれたか不安になるが、結構な距離が気休めになった。カイジは途中、横手の路地へそそくさと入り込むと歩調を緩めた。

 

・・・・っ!

・・・なんだってんだ・・・・逃げる必要がどこにある・・・・?

 

 独りよがりな思考と今の反射的な行為が助長、表面化させたものは、カイジにとって余りに痛烈なものであった。それはカイジの感情に反するものでありながら、訴えかけるもの。端的に言ってしまえば虚偽であった。

 

分からないが・・・確かなことは・・・

オレは隠している・・・・・ということだ・・・

隠してのうのうと生きている・・・・・自分で無かったことにして・・・

 

何だよそれっ・・・・卑怯じゃねえか・・・・

調子よすぎる・・・・・・っ

 

 ARIAカンパニー初日、カイジは過去を喪失させた。しばしば心を惑わせる郷愁を感じ、それとは知らずにしても、現状において散々痛めつけらることとなる過去を無かったことにしていたのだ。それが今、カイジを混乱させる無益な枷となっていた。

 

だからって・・・どうすりゃいいんだよ・・・・

くそっ・・・・!

 

 その思考自体が徒労であることなど夢にも思わず真剣に悩むカイジ。ネオ・ヴェネツィアにおいて自分ひとりが薄汚れた存在であり、この街の人々と共に生活を送ることなどおこがましい限りなのではないかと錯覚してしまうほどであった。

 アリシアを見かけた瞬間に覚えた嬉しさも今は霧散して、時折、壁に手をつくようにして、カイジは再び街を彷徨いだした。

 

 昼もとうに過ぎて、街を流れる空気はより濃密になり息苦しさを感じさせるほどであった。カイジは額から鼻筋を伝って滴り落ちる汗も気にせず、ひたすらに歩みを進める。しかし足跡は思考と同じように意味も無く踉蹌(ろうそう)としていた。

 やがて、静かな路地を抜けて水路脇の遊歩道に出た。すぐ隣には水路を挟んで広場があり、出店が立ち並んで賑わいをみせていた。はっとして周囲の様子に目を向けるカイジ。卑下を伴った思考に没頭していて、自分がどこをどう歩いているか判然としておらず、それだけにこの騒々しさにはひどく驚かされたのである。そして、間の悪いことにこの喧噪はカイジの記憶の底に眠っていたある瞬間を掘り起こした。

 じんわりと胸に広がっていくあの時の感覚。それはカイジが地下から一時的に開放されて味わった都会の喧噪であった。今となっては過ぎ去って久しいあの瞬間も、広場の喧噪によってまざまざと思い起こされたのだ。

 

うっ・・・・・・!

 

 カイジは、心に浮かんだ情景を追い出そうと目を瞑って頭を軽く振った。

 

ダメだっ・・・・やっぱり無かったことになんて出来るワケねえんだ・・・・っ

本当に記憶喪失ならまだしも・・・・有るべきものを破棄っ・・・

そんなの歪むに決まってる・・・・っ!

答えがこれっ・・・・ふとしたきっかけで思い出す・・・過去を・・・・っ!

 

 とにかくここを離れようと、カイジは遊歩道を通り過ぎ近くの路地へと駆け込んだ。そこで立ち止まらずに、汗を流しながらひたすらに歩き続ける。なるべく祭りの気配を感じない方へと足を運び、路地を進んでいく。喧噪を離れて静かなところへ、一目散に。

 やがて疲労を感じ、カイジは痛感する。東京とネオ・ヴェネツィア――相容れぬ二つの街であっても、そこかしこに面影があり、過去から逃れるすべは無いのだと。目の前の薄暗い路地が訴えかけていた。座り込んで時間を浪費していたあの都会の片隅、借金取りから息を切らして逃げ回った雑居ビルの間、難攻不落のギャンブルを攻略しようと頭を捻って歩いた夜の歓楽街、すべてはお前の過去(もの)なのだと。

 

「・・・・・・・」

 

懐古に始まった迷妄は輪を描くようにふたたび懐古へと還った。

 

くそっ・・・くそお・・・・・っ!

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 少し早くなった日没を控え、ぽつぽつと晴れ間がのぞき始めた。徐々に空気も涼やかになり、街の活気も一段と熱を帯びてくる。

 対照的にカイジは、慄然と川沿いを歩いていた。通り過ぎていく街の風景や嬉々として歩く人々の姿に目もくれない。その顔には、先ほどまで表れていた強迫的な焦燥や卑下、不満に取って代わり、ただ一つ恐怖が色濃く刻まれていた。昨夜、霹靂の如く自身を襲った懐古が紆余曲折を経て原点に戻った今、カイジは最も恐れていたものを目の当たりにしていたのだ。

 散々苦しめられた迷妄や過去の幻影は隅に押しやられ、露になったもの――すなわち、猶予と処遇である。結局のところ、カイジはこの二つから逃れたいがために、今日一日敢えて苦しんでいたに過ぎなかったのかもしれない。

 

オレはいつまでここに居られる・・・・・

明日か明後日か・・・いや今日の夜かもしれない・・・・っ

 

また放り出されるのかっ・・・・・?

ここへ来たときのように理不尽に・・・・脈絡なく唐突にっ・・・?

くそっ・・・! オレはいつだってそうだ・・・・誰かの手のひらの上で弄ばれるっ・・・

どんなに藻掻いても結局もとの木阿弥・・・堕とされるっ・・・・!

ふざけろっ・・・・許されてたまるかよそんな横暴・・・・っ!

一度ならず二度なんて・・・・・・

 

ぐっ・・・・・・

まだ戻されると決まったワケじゃないだろっ・・・・喚いたって仕方ない・・

それにあれだけ懐かしさを感じておいて・・・ガキみたく駄々こねてちゃ救えねえ・・・

・・・昨日からちょっとおかしいぞオレ・・・・・

怒って喚いて事態が好転するわけじゃねえだろ・・・・

 

 憤怒という安寧に耽溺するのは易しい。猶予や処遇がもたらす恐怖を怒りで塗りつぶすのは楽ではあったが、それで解決しないことくらいカイジは嫌というほど味わってきた。ただ、この恐怖に打ち克つすべは、いかに雑多な艱難辛苦をなめて来たカイジであっても持ち合わせていなかった。

 

 そして、それは唐突に訪れた。

 いつの間にか膨れ上がった人の流れの中、押し流されるように歩いていたカイジは、ふと、本質に触れた。昨夜、デッキの上で出るはずだった疑問が、迂遠に迂遠を重ねてついにカイジの念頭に上ったのだ。

 

 

とどのつまりオレは・・・・どうしたいんだ・・・・?

 

 

 人の流れの終着点、サン・マルコ広場に図らずも行き着いたカイジは、この単純明快な疑問をある種新鮮な気持ちで受け取っていた。

 この地で過ごしてきた時間の中で、時折カイジは過去に触れる機会を幾度か持った。その度に、自身と真剣に向き合わずに出した答えは、“帰る”に限られていた。現状の生活に追われていたカイジは、気楽に安易な答えを出すことをためらう必要などどこにもなかったのだから、当然である。そうして、その結論に対する省察などは後回しにしていたのだ。しかし、今は違う。懐古に端を発し不安、焦燥、懐疑といった迷妄と戦ったあげくに(ひら)けたのは恐怖。つまり、今のカイジにとってこの疑問に答えるということは、そのすべてを背負った上で捻り出す難産そのものであったのだ。

 

オレは・・・結局・・・・

っ・・・・!

 

 何かの刺激によってカイジの意識は現実に引き戻された。閉塞していた耳目が復活し、周囲の混雑に驚く。

 

え・・・・? いま何か・・・・・・

っ・・・・ここはサン・マルコ広場か・・・・いつの間に・・・・

ああ・・・そういや祭りだったな・・・

 

 そして舟の火送りのメイン会場であるこの場所が、集合場所であることに思い至った。

 

うっ・・・・・!

 

 咄嗟に空を見上げるカイジ。ところどころに赤を残しながらも紺碧に染まり始めた空は宵の口を知らせていた。

 

まだ大丈夫かっ・・・・

あわせる顔がねえっ・・・・ましてや祭りなんて・・・・

出られない・・・・こんな気分で・・・・・

 

 聞いていた集合時間が迫っていることが分かると、カイジは一刻も早くここを離れようと群集をかき分けて進んでいく。すると、突然どこからか自分を呼んでいるような声が聞こえ、カイジは足を止めた。

 

いま確かに・・・・・

そういやさっきも・・・・

・・・いやそんなわけないだろ・・・・

集合時間にはまだ早い・・・・・

 

 人がひしめき、様々な音が交じり合っているこの場所で、自分の姿を認め、かつ声が届く範囲に知り合いが居るとはとうてい考えられなかった。

 

だったら・・・幻聴・・・・?

ぐっ・・・・

情けなさ過ぎるだろ・・・・

 

 こんな気分で誰かと顔をあわせるのは確かに嫌ではあった。しかし、心の奥底では膨れ上がった恐怖心を吐き出し、それを受け止めてくれる誰かを望んでいたのかもしれない――

 

縋るなよっ・・・・!

 

――そんな心の持ち様が、自分に幻聴として表れたではないかとカイジは考えた。

 

ぐぐっ・・・・

 

 余りの情けなさに涙がこぼれそうになるのを堪えながら、カイジは再び群集をかき分けてサン・マルコ広場の出口を目指した。そして人の波から開放されると、夜の帳が降りはじめた河岸沿いをふらふらと歩いていった――未だ答えを留保して。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

「あんだお前らっその格好は!」

「はひっ、すみません!」

「いいなーー可愛いなーー」

 

 カイジがサン・マルコ広場を出てしばらく経った後、集合時間になるとウンディーネたちは一堂に会した。ざわめく広場の隅で、灯里があつらえた浴衣を身にまとった後輩三人は、少し気恥ずかしそうにして先輩たちの前に立っていた。

 

「みんな良く似合っているわね」

「くそ~~、私も浴衣着たかったなぁ」

 

 羨ましそうに浴衣姿を見つめる晃。アテナはアリスの頭を撫でながら嬉しそうにしていた。

 灯里と藍華は周囲に目をやると、少し縮こまって顔を見合わせた。

 

「見られてます見られてます」

「はひっ、何せ三大妖精勢ぞろいですから」

 

 水先案内業界の一人前であるプリマの中でも頂点、いわゆる水の三大妖精が全員揃っているだけあって、賑やかな広場において灯里たちは衆目を集めていた。そんな状況でも、この二人以外は特に気にも留めていない風である。

 

「堂々たる佇まい、これが水先案内業界トップの振る舞いなのね」

「うん、流石だね~~」

「はぁ、アリシアさん今日も一段と麗しいわ……ってどうしたのかしら?」

「え?」

 

 腕時計を見遣りながら、アリシアはしきりに辺りを気にしていた。その様子を見た灯里はすぐにピンときて、声をかける。

 

「カイジさん、まだ来ませんね」

「……ええ、もう来てもおかしくない時間なんだけど」

 

 そういうと、アリシアは再度時計を確認した。ここに来たときから曇っていた顔色は、徐々に深刻さを増していた。

 

「会社のほうにはいなかったのよね?」

「はい、私が戻ったときにはいませんでした……それから藍華ちゃんたちと着付けで結構な時間会社にいたんですけど……」

「そう……」

「どうしましょうか……」

 

 そんな二人の様子に気付いた他のウンディーネたちが、意図せず余計に心配を煽るようなことを口にし始めた。それは、それぞれがこの日見かけたカイジの様子についてだった。

 

「そういえばあいつ、今朝、そこの彫像の下で頭を抱えていたな……話そうと思ったんだけど予約客がいて――」

「私と後輩ちゃんも見かけました。遠目だったからはっきりしないんですけど、何ていうか、おかしかったんです。ね?」

「はい。昼過ぎだったと思います」

 

 アリスが同意すると、アテナも夕方に見たものを語った。

 

「灯里ちゃんに会うちょっと前に私も見かけたの。何だか辛そうだったわ……すぐ隣を通る私にも気がつかないくらい、周りが見えていない感じだったの」

「それで……その直ぐあとにサン・マルコ広場でカイジさんを見つけたんです私……」

「……てことはもしかしてカイジ――」

 

 藍華の呟きをアリシアが引き取った。

 

「朝早くからずっと街を歩き回っていたのかしら……」

 

 皆、一様に黙ってその言葉を受け取った。各々が見たカイジの様子と周りが語ったもの、それらを足せば、今日一日カイジが平然とは違っていたということくらい誰の目にも明らかであった。

 

「カイジは今どこにいるんだ?」

 

 そんな中、晃が誰にともなく問いかける。だが、それに答えるものはいなかった。

 少し間が空いて、藍華が口を開いた。

 

「も、もう少し待ってみてはいかがでしょうか。ただ遅れてるだけかもしれないし……」

「うん、もしかしたらこの広場で迷ってるんじゃないかしら。これだけ人が多いんだもん」

 

 楽観的な藍華の言葉に同調して、暗い雰囲気を一蹴しようとするアテナ。

 

「そうだな。もう少しだけ待ってみて、それでも来なかったら探しに行こう」

「はい、それがいいと思います」

 

 晃とアリスがそういって賛成すると、四人の視線がアリシアと灯里に注がれた。彼女たちの目は最終決定を同僚である二人に任せる、そういっていた。

 

「アリシアさん……」

 

 灯里は困ったような顔でアリシアの顔を見つめる。

 

「……」

 

 アリシアは、皆の視線を受けながら考えていた。昨夜と今日の尋常ではないカイジの様子は、アリシアが感じていたある予感に蓋然(がいぜん)性を与え、今ここに来ないという事実がそれを大きくしていた。

 日中、大運河をゴンドラ協会員を乗せて漕いでいる際、アリシアが見かけたカイジは、こちらに気付いていながら、まるで逃げるように姿を隠していた。昨日の夜まで、カイジに変化を及ぼすような外的要因は自分の知る限りなかったようにおもう。では、なぜあんな行動に出たのか。考えられるのは花火の最中から浮き島を去るまでにカイジの中で何か大きな変化があったのだ。この祝祭の日に、誰とも会わないようにして街を彷徨うほどの何かが。

 

「うん、――」

 

 そして、アリシアには今、それに見当がついていた。

 

「やっぱり放っておけないわ」

 

 アリシアがそう答えると、灯里は安心したように大きく頷いた。

 

「はいっ! 探しましょう!」

「ふっ、そうだな。放っておけないよな」

 

 晃は二人の返事に微笑むと、アリシアに問いかける。

 

「あてはあるのか?」

「……」

 

 眉をひそめて小さく首を横に振るアリシア。

 

「そうか……それじゃあとりあえずこの辺を――」

 

 と、その時、少し離れたところでヒメ社長と戯れていたアリア社長が灯里の胸に飛び込んできた。

 

「ぷいっにゅうっ!!」

「わわっ、どうしたんですかアリア社長っ」

「にゅうっ!にゅっ!」

 

 アリア社長は飛びついた反動で地面に着地すると、灯里の浴衣を引っ張った。そうして、そのまま歩き始める。

 

「っ! アリシアさんっ、これって――」

「ええ、ついて来いってことかもしれないわ――晃ちゃんっ」

「ああ、分かった。よしっ、アリア社長の方は二人に任せて私たちはこの辺を探してみよう。もしかしたらあいつ、この広場でもたもたしているかもしれないからな」

「はいっ!」

 

 藍華とアリスが勢いよく返事をすると同時に、アリシアと灯里は、アリア社長に先導されて広場の外へ向かおうとする。

 

「頼んだぞ、二人とも」

「アリシアちゃん、灯里ちゃん、お願いね」

 

 二人の後姿に晃とアテナが声をかけた。その声に応じるように、アリシアと灯里は振り返って微笑む。そうして、人ごみの中へと消えていった。

 

「晃ちゃん……」

「大丈夫さ、あの二人ならきっと」

 

 あれほどに深刻そうなアリシアの表情は今までほとんど見たことがなかった。それだけカイジの現状が何か逼迫(ひっぱく)しているのだろうと晃は思う。そしてそれは、自分やアテナ、後輩二人にも、恐らくわからないだろう――共に働き、生活してきたARIAカンパニーの人間でなければ。

 

「それじゃあ広場を探そう。三十分後にまたここへ集合だ」

 

 ――ならば、自分たちは信じて待つしかないだろう。情けなくも心優しいあの男がやってくるのを。

 

 藍華とアリスは返事をすると、一緒に人ごみの中へ入ってゆく。それを見届けると、晃もまたアテナと共に、人ごみの中へ分け入っていった。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 数年に一度の祭りを楽しむ人々の声が微かに届く中、カイジはARIAカンパニー2階のソファに腰を深く埋め、頭を抱えて考え込んでいた。

 灯里たちが祭りへと出て行くまで、カイジはゴンドラを繋いで置くための彩色パリーナの前に座り込んでいた。そこは、ARIAカンパニーへ続く桟橋の脇、小さな階段を下りた先にあった。サン・マルコ広場を出て会社へ戻ったカイジは、薄暗い時間死角となるその場所で、集合時間まで遣り過ごそうとしていたのである。そして、もうずいぶん前に、浴衣に着替えた灯里たちが仲良く出かけてゆき、部屋の中はしんと静まり返っていた。

 支度をする賑やかなウンディーネ3人の声など耳に入らず、階段の下に座り込み宵闇の沖合いを見つめていたときからずっと、カイジの胸中を渦巻いていたものは本日の軌跡。その中でもカイジの胸に切に迫ったものは、純粋な一つの欲求であった。それは、いまや、ごまかしの利くような生半可なものではなかった。

 

 

くそっ・・・なんで今まで真面目に考えてこなかった・・・バカかオレは・・・・っ!

もっと・・・・もっと早く気付くべきことだった・・・それを今の今まで・・・

ううっ・・・・・・・

 

くそっ・・・本当は去るべきなんだっ・・・・それが順当・・・っ!

黙って・・・・書置きかなんかを残して・・・っ

戻るあてなんか無いが・・・・とにかく貯まった金で去るべきなんだ・・・・

ここはオレがいていい場所じゃないのだから・・・・っ

 

 先ほどから何度も緩む涙腺をそのままにしてカイジは独白する。

 

振り返ってみればオレはどうしようもない人間だっ・・・・

クズだっ・・・間違いなく・・・

いつの間にか借金を背負い・・・・どっぷりと裏の世界に浸かって・・・

陽の当たる表の世界で真っ当に働くわけでもなく賭博三昧・・・

どう考えても・・・・こんなに・・・こんなに明るくて優しい世界にいていい人間じゃねえ・・・

 

だがそれでもっ・・・・・

今日一日歩いて・・・・考えてみて・・・今やっとわかった・・・・・

たしかにどうしようもないクズだが・・・・それでもオレは・・・・

オレは・・・・・

いずれ訪れるそのときまで・・・・

留まっていたい・・っ! この場所に・・・・っ!

 

 

 ようやくカイジは答えを見つけたのだ。

 

 

――とどのつまりオレは・・・ここにいたいんだ・・・・

 

 

 軍手がはめられた両手で顔を拭くと、カイジは立ち上がった。そうして、幽かな月明かりの中、ぼおっと浮かび上がる部屋を見渡した――ゆっくりと吟味するように。

 そこには生活があった。あたたかで確かな生活があった。

 緩慢に続いていると思われた一年間は本当に僅かなひと時で、またひどく充実した日々であった。小うるさいアリア社長はとても愛くるしかった。いつもすれ違うような会話ばかりしていた灯里は素直で純粋だった。花のように可憐なアリシアは天使のように優しかった。さらにカイジはまざまざと思いをめぐらせる。ARIAカンパニーを飛び越えて、これまでネオ・ヴェネツィアで出会い、ともに暮らしてきた人々の顔が頭の中へ昨夜の花火のようにぱっと浮かび上がっては消えていった。頭の中を去来する人々は、皆一様に笑顔でカイジの胸に迫った。

 もはや疑いようがなかった――ネオ・ヴェネツィアはカイジにとってかけがえのないものであり必要不可欠なものであると。

 この街は、カイジにとって奇跡だったのだ。

 

 

 

 ふと、カイジは重いため息をついて再びソファに腰掛けた。

 

 

――じゃあオレは・・・・・?

 

この街にとって・・・いや、あの人たちにとって・・・

オレは・・・何なんだ・・・?

 

 

 

 自問する必要がないほど明白な答えが、カイジには瞬時に導き出せた。

 素性の知れない不気味な男で、いまだにゴンドラも乗りこなせず大して会社に貢献していない役立たずではないのか。右も左もわからない見知らぬ土地に放り出されたところを救ってもらっただけでなく、居場所と望外の生活を贈ってもらっておいて、いまだに恩を返せないでいる与太者ではないのか。そしてなにより、記憶喪失と謳ってはいるが実際は単に過去を隠している卑劣で姑息な詐欺師ではないのか。

 広場でみた白昼夢がふと脳裏をよぎり、カイジは苦悶の表情を浮かべる。

 

うっ・・・・その通りだっ・・・・

今さっき自分で考えたじゃねえか・・・・ここに居るべき人間じゃないって・・・・

蔑まれて当然っ・・・・疎まれて当然なんだっ・・・どう考えてもっ・・・・

 

・・・でもっ・・・・・・

 

 

 しかしながら、ウンディーネは軽蔑などしないだろう。脈絡なくこの地に放り出されたことをすっかり信じたうえで、カイジがこれまで何を成して来て何を成さなかったのかを打ち明けても、きっと今まで通り接してくれて、あの夢のようなことにはならないだろう――決して自惚れではなく、カイジにはそんな気がしていた。

 

うっ・・・ううっ・・・

・・くそっ・・・・・

・・・・ちくしょうっ・・・・だからこそっ・・・

だからこそっ・・・・!

 

 だからこそ、隠したままではいけない、欺いたままではいけないのだとカイジは感じた。そんな心優しい人々を偽ったまま平穏無事に暮らすことなど許されることではない。

 怖い。

 自分の味方でいてくれると分かっていてもやはり怖い。落魄の軌跡を告白するのも恐ろしいが、たとえほんの一瞬でも彼女たちの相貌が、軽蔑の様相を呈したとき――そのとき、カイジには堪えられる自信がなかった。このままここにはいられない気持ちになることは間違いなかった。

 猶予や処遇も、もちろん怖れていた。ただそれ以上に、自分という異質な存在を白日の下に晒した結果、その結果をいまや一番怖れていたのだ。

 

 カイジは全然自分のものだとは思われない震える両手で再び頭を抱えた。とめどなく流れる涙は、頬を伝って床へと滴り落ちていた。水を打ったように静まり返る部屋に、カイジの呻き声だけがこだまする。

 

ぐぐぐっ・・・・!

どうすりゃあいいっ・・・・話せばいいのか・・・・っ?

ダメだっ・・・・無理だっ・・・・できないそんなことっ・・・

くっ・・・・! こんなことならっ・・・・

こんなことなら気が付かなけりゃよかったっ・・・・!

 

ううっ・・・・うっ・・・・!

ここに・・・・居てえ・・・・・っ!

嫌だっ・・・去りたくないっ・・・!

離れたくないっ・・・・失いたくない・・・・!

 

 ネオ・ヴェネツィアの人々が優しいから、アクアという星が奇跡的だから、ここにいたいと切に願うから――カイジは胸が引き裂かれる思いだった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 ソファに座ってどれくらい経っただろうか。

 カイジは憔悴しきっていた。なにか形容しがたい感覚に押しつぶされそうで、もはや冷静な判断を下すのは難しい状態だった。ただ、過去や現在、地球やアクアでの様々な記憶や思いが頭の中で錯綜していて、それらは、よりカイジをこの地に留まりたいと強く願わせるようであった。

 突然、どこからか物音が聞こえた。カイジはおもむろに顔を上げる。それは誰かが桟橋をこちらへ向かってくる足音だった。

 足音が桟橋を過ぎ、階下のドアを開けたところまでカイジはただ茫然と座っていた。今、この時間に誰かがここへ来るという考えなど全く持っていなかったカイジは、その足音を自分とはなんら関係のないものだと感じていたのだ。しかし、階段を上ってくる気配がすると、カイジははっとした。

 

え・・・? 

 

「カイジさんっ!」

 

 そこには、息を切らせながらもカイジの名を呼ぶ灯里の姿があった。つづいて、アリア社長を抱えたアリシアが階段を上がってきた。

 

「カイジくん?」

 

 アリア社長をおろしたアリシアはそう問いかけながら部屋の電気をつけた。

 

「あっ! よかったっ! カイジさんここに……」

 

 灯里はそこで言葉を切り、息をのんだ。なぜならようやく見つけたカイジが、昨日までと同じ人間とは思えないほどにやつれていたからであった。充血した目とは対照的に、涙で濡れた顔は異常なまでに蒼白であった。

 

「・・・? なんでここに・・・?」

 

 カイジは放心したように消え入るような声で呟いた。

 

「あ、あの……カイジさんが集合場所に来ないから探してたんです。それよりカイジさん大丈夫ですか……?」

「え・・・・? あっ・・・いや・・これはっ・・・・」

 

 カイジは咄嗟に濡れそぼった顔をごしごしと両手で拭いた。

 

「顔色が真っ青ですよ……やっぱりどこか具合でも悪いんですかっ?」

「大丈夫っ大丈夫っ・・・ハハハっ・・・・・」

「カイジさん……」

 

 無理に繕った笑いは痛々しく乾いていて、カイジが深刻な状況に置かれているのは明らかであったが、灯里はそれ以上何も言えなかった。

 少し間をおいて、二人の足元を凝視しながらカイジは口を開いた。

 

「ていうか・・・・祭りは・・・? もう集合時間じゃ・・・・あっ・・・! オレのことはいいからっ・・・! ちょっと用事を思い出したっていうか・・・・探しに来てもらったところ悪いが祭りは行けないんだ・・・・・いやいやっ、別に体の調子が良くないとかそういうことじゃなくて・・・・・いや、ホント・・・申し訳ないんだが・・・・とにかく祭りには・・・・」

 

 抑えつけるように堪えるようにカイジは捲くし立てる。ほとんど自分で何を言っているのか把握できていなかった。

 

「ほらっ・・・! たしか今日の祭りはゴンドラのなんちゃらって・・・大事なイベントだったはずだっ・・・・・・だからほらっ・・・・気にせず行ってきてくれよ・・・・」

 

 そこで一度区切り、カイジは目の前に立つ二人の顔を見ようと怯えながら首を上げた。

 

うっ・・・・・!

 

 背筋がゾッとした。

 眉をそばだて悲哀の表情を浮かべた二人に、カイジは戦慄した。それはまるで白昼夢の再現であった。

 

ダメだっ・・・・やっぱりオレは・・・・・

 

「あっ・・・あぁっ・・・・あの・・・だからオレはこれで・・・・ちょっと用事が・・・」

 

 そう言って、視線を床に落としカイジは立ち上がろうと腰を浮かせた。これ以上彼女たちの前にいれば、すべて打ち明けて、泣いて許しを乞いてしまいそうだった。そうなれば、もはや取り返しの付かないことになってしまう。一刻もはやく立ち去るべきだった、独りになるべきだった。

 

しかし――。

 

 

「カイジくん」

 

 

 アリシアの優しくも力強い呼びかけで、カイジはその場から動けなくなってしまった。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

「灯里ちゃん、カイジくんがARIAカンパニーに入社した経緯って知ってる?」

 

 サン・マルコ広場を出て、先導するアリア社長を追いかけていたアリシアは、併走する灯里に問いかけた。

 

「はいっ。この間、カイジさんが話してくれました」

「じゃあ記憶のことも?」

「はい、ネオ・ヴェネツィアに来る前の記憶がないって」

「うん、それでね……もしかすると――」

「?」

 

 先導するアリア社長はスキアヴォーニ河岸を、もう直ぐ近くのARIAカンパニーに向けて走っているようであった。そこにカイジがいるのだと考えながら、灯里はアリシアの言葉を待った。

 

「カイジくん、記憶が戻っているんじゃないかしら……」

「えっ? どういうことですか?」

「かもしれないってだけよ。本当のところは分からないわ。なんとなくそう感じるの」

「そうですか……」

「それで悩んでいるんじゃないかなって思うのよ。昨日の花火がきっかけで……ううん、実はもっと前からかもしれない」

「……前?」

「ええ。以前からカイジくん――」

「ぷいにゅうっ!」

 

 ARIAカンパニーの前に到着したアリア社長は、一声鳴いて二人を振り返った。

 

「やっぱり戻ってたんだカイジさん……行きましょうっアリシアさん!」

 

 アリア社長を抱き上げたアリシアは、ふと目を伏せた。

 

「本当はね。カイジくんが居るってわかったら引き返そうと思ってたの」

「えっ?」

「……さっきは言わなかったけど、私も今日カイジくんを見たの。昼間、大運河をゴンドラ協会の会員さんたちを乗せているとき岸のほうでね。その時カイジくん、私に気がついたみたいなんだけど、避けるようにしてどこかへいっちゃったの……」

「え? カイジさんがアリシアさんを……?」

「そう……。だからね、広場に来なかったのも……私たちに会いたくなくて一人でいたいって思ったからかもしれない」

「……」

「……今は、そっとしておいてあげたほうがいいのかもしれない」

 

 そう言って、一度ARIAカンパニーの方を向いて、再び目を伏せた。

 

「そう、思ってたの。今も少し迷ってる。……でもね――」

 

 アリア社長が制服の襟をぎゅっと掴むと、アリシアはこちらを見つめるその目を覗き込んだ。月明かりに照らされたアリア社長の瞳は、アクアマリンのように澄んでいて幽かに輝いていた。

 

「うんっ。それでも、やっぱり声をかけなくちゃって思うの」

 

 アリア社長に優しく笑いかけてから、アリシアは力のこもった眼差しを灯里に向けた。

 

「本当は記憶のことなんかじゃなくてほんの些細な悩みかもしれない。こんなに慌てるようなことじゃないかもしれない……私たちに出来ることなんて何もないかもしれない――」

「……それでも、ですよね?」

 

 灯里の返事にアリシアは微笑む。灯里も笑い返して、二人は桟橋に足を乗せた。

 

「それじゃあ、行きましょうか」

「はいっ!」

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

「カイジくん」

 

 硬直したままのカイジに向けて、アリシアが再び呼びかけた。

 導かれるようにして恐る恐る視線を上げると、カイジは息をのんだ。

 そこには温かい微笑みがあった。

 

「っ・・・・!」

「……もう半年になるわね、カイジくんがここに来てから」

 

 憐憫や悲哀とは対照的なその優しい表情と言葉が、カイジにはずっと待ち望んでいたようにも怖れていたようにも思われた。

 

「あっという間だった。長いようで、なんていう言葉で補う必要がないくらいあっという間だったわ。……それはきっと充実していたから」

 

 アリシアは、井戸から水をくみ上げるように、心の奥底からゆっくりと言葉を引き上げ紡いでいるようであった。

 

「私ね、カイジくんがここに来てくれるまで長い間ひとりだったの。もちろんアリア社長は一緒だったけれどね。……グランマが引退してからは、慣れないことばかりで毎日が忙しかったわ。うふふ、ほとんど立ち止まらずに進み続けていたような気がする。そういう意味では充実していたのね」

 

 カイジの心の中では、ここから早く離れたいという衝動と、なぜ今こんな話をしているのか判然としないにもかかわらずとにかく耳を傾けていたいという欲求が、せめぎ合いながらも均衡していてやはりその場から動けなかった。心臓だけが早鐘のように喧しく鼓動を続けていた。

 

「その頃の私は、プリマである自分に自信がもてなくて、後輩を指導する立場にありながら、なんとか会社を守るために一人で必至だったの。ふと気付けばいくつも季節が過ぎていて、凄く驚いた。それで、少し淋しかったわ。……もっと自信がもてたら、時計の針がもうちょっとだけゆっくり進んでくれたらって随分思ったものだわ」

 

 アリシアはカイジだけでなく、灯里にも語りかけていた。

 

「そんな時にね、励ましてくれた人がいたの。今でも覚えているわ、大鐘楼の一番上で美しい街並みを見下ろしながら――その場所で大切なものを貰ったのよ。それは決して自分では得られないものだった」

 

 大鐘楼からの眺めが今も目に焼きついているかのように、アリシアの瞳はきらきらと輝いていた。

 

「ARIAカンパニーに新人を迎えようって考えたのもそのときから。そして、その少し後、カイジくんに出会ったの」

 

 アリシアは、初めてカイジと出会った日のことを思い出してクスッと笑みをこぼした。

 

「・・・・・どうして・・・オレなんかを・・・・」

 

 反射的にカイジが呟いた。言ってしまってから、苦い後悔を感じたが、それは本当に知りたかったことであった。

 アリシアは口に手を当て少し考えて、口を開いた。

 

「アリア社長が強く推したっていうのもあるけど、なんだか放っておけない人だなって思ったからかしら、ふふふ。……それに自分の直感を信じたの」

「直感・・・・・」

「ええ。覚えているかしら? 始めてあった日の翌朝のこと」

 

 忘れるはずがなかった。あらゆる意味で、その日、カイジは救われたのだ。

 

「カイジくん、朝食を食べながらボロボロ泣いてたわ。――美味しい、あったかいって」

「・・・・・・・」

「はじめは凄く驚いたんだけど……でもね、その時感じたの。この人は優しい人なんだな、心の暖かな人なんだなって、そう感じたのよ」

「・・・・・・っ」

 

 カイジは、目頭が熱くなって唇を噛みしめた。ただただ、自分が恥ずかしかった。

 

「そこからは私の中で早かったわ。ここで働いてもらおうってすぐに決めたの。きっと楽しくなる、賑やかになるなってワクワクしたわ。それまで自信がなかったのが嘘みたいに」

 

 ゆっくりと、カイジは再び視線を床に落とした。そして瞼を力いっぱい閉じる。ここで涙を見せるわけにはいかなかった。

 

ううっ・・・・・オレはっ・・・・

 

 アリシアはなおも続ける。

 

「少しも不安がなかったって言えば嘘になるかもしれない。でも、そんなの最初だけだったわ。私の直感は正しかったの」

 

・・・オレは・・・・そんなんじゃ・・・・

 

「カイジくんは何事にも一生懸命だった」

 

いやっ・・・・本当はっ・・・・オレはっ・・・・!

 

「誰に対しても気遣いの出来るとっても優しい人だった」

 

違うっ・・・・!

 

「それに正直で、誠実だったの。だから私は――」

 

「違うんだっ・・・・! オレはそんな人間じゃないっ・・・・!」

 

 つらかった。アリシアの楽しげな口調も、自分への無垢な評価も、そしてなによりも偽らざる語りが、カイジには堪えられないほどに痛かった。

 裏切り者の詐欺師だ。そう強く感じ、カイジは反射的に叫んでしまった。

 

「オレはアリシアさんにそんなことを言ってもらえるような・・・・そんな人間じゃないんです・・・・」

 

 堪えていた涙が溢れていく。

 

「本当はクズでっ・・・どうしようもないクソ野郎でっ・・・ううぅっ・・・・本当はこんな・・・」

 

 二人がどう思おうが、もう言わずにはいられなかった。自分はこの世界にいるべき人間ではない、あなたたちと共に歩んでいける者ではない、と。

 

「ぐぐっ・・・・だからオレはっ・・・・こんな幸せな場所に居ていい人間じゃないんです・・・・・っ! 居ない方がよっぽど――」

 

 

「そんなことない!」

「・・・っ!?」

 

 

 興奮に声をふるわせて灯里が叫んだ。

 

「そんなことないですっ。 私、カイジさんをよく知っているとは言えないけど……でも、素敵なところはいっぱい知ってます、それこそ数え切れないくらい! 一緒にここで働いてきたから、過ごしてきたからわかるんです!」

 

 灯里の面持ちは普段からは想像もつかないような真剣さを帯びていて、なんとか伝えようとする必死さが如実に表れていた。灯里は見ていられなかったのだ、苦痛に顔を歪めながら自身を痛めつけるカイジの姿を。

 伝えなければならないと、口をついて言葉が溢れた。

 

「思いやりがあって人が好くて、誰かのためなら自分は後回しでとっても優しいんです。練習だっていつも真剣に頑張っていて、でも、それでいてちょっと不器用で……みんな知っていますっ! 私だけじゃなくて藍華ちゃんやアリスちゃんだってみんな知ってるんですっ! ……だから、だからそんなこと言わないでくださいっ」

 

 胸に両手をあてて息を切らせながら灯里はそう言い終えた。

 カイジは唐突な灯里の叫びにほとんど虚をつかれて目をみはっていたが、聞いているうちに、その言葉のひとつひとつにおしつぶされそうになりながらも、胸にじんわりとした温かみを感じていた。

 

「えっ・・・・・いやっ・・・オレは・・・・」

 

 じっとこちらを見つめる灯里の目元に、うっすらと涙が滲んでいることに気が付いたカイジは、うまく言葉を継げずに口ごもった。

 

「ふふふ」

 

 そんな二人の様子に、アリシアは優しく微笑んだ。そして、ゆっくりと間を空けてから口を開いた。

 

「――私はね。カイジくん、灯里ちゃん。貴方たちを迎えて心の底から良かったって思ってる」

「・・・・・・・」

「二人が来てくれてから私の世界は一変したの。それまでは――生活や仕事に追われていた頃には気が付かないものね、こうやって頼りになる同僚と可愛い後輩ができて初めて……」

 

 そこで一度言葉を切って、アリシアは窓から入ってくる夜風を愛おしむように目を細めた。

 

「誰かがそばにいて、見守っていてくれる、力になってくれる、歩んでくれる。一人じゃなくて誰かと共有しながら暮らすことがこんなに素晴らしいんだって知ることが出来た。まるで魔法にかけられたように、あたりまえだった日常が、世界の表情が、素敵に輝いていった。……そしてそれはね、きっとこれからも続いていくわ」

 

 そうしてアリシアは、カイジと灯里に向けて「ありがとう」と告げて笑った。

 

「・・・・っ」

「カイジくんはどう? この街に、ARIAカンパニーに来てから」

「・・・・・・・・・・」

 

 

 

 

 ついにこの時がきた、カイジはそれだけを感じてか細い声で呟いた。

 

「――幸せでした・・・・・ただ、幸せでした・・・・・」

 

 強く握り締めた拳からは感覚がなくなった。立っているはずの床からふわふわと浮遊していく錯覚を感じ、得体の知れない強烈な圧迫感に目の前が白くぼやけていた。

 

「でもオレは・・・・・・」

 

 カイジはふるえる唇でなんとか声を出す。自分の声がまるで他人の声のように耳を打った。

 

「・・・・それに報いるだけの、救ってもらっただけの恩を返せなかった・・・・・いつまで経っても・・・・・・・そればかりかオレは・・・・・オレはっ・・・・!」

 

 今、この二人へ、そしてネオ・ヴェネツィアでカイジを取り巻くすべての人へ、言いたいこと、言わなければならないことがあった。

 

「うぐぐっ・・・・みんなにっ・・・・言わなきゃならないことがっ・・・・・・・」

 

 二人の気持ちに答え、すべてを告白しなければならない。

 カイジは言葉を継ごうと口を開いた。

 

「っ!・・・・・・・」

 

 しかし、それ以上言葉にならなかった。

 

 カイジは崩れ落ちるようにソファに腰を下ろした。

 もう少しだった。一言口に出せば、自ずからすべてをさらけ出せていた。しかし、一瞬のためらいに、カイジは臆してしまったのだ。そしてアリシアと灯里の言葉に、ゆっくりと氷解していった心が、再び刺すような怖れに凝り固まってしまった。カイジは頭を抱え、自分の不甲斐なさを呪った。

 

 カイジがなにか重大なことを打ち明けようとするも、それを言えずに苦しんでいるということにアリシアは気付いた。そして決然としながらもどこか憂いを帯びた表情でカイジの隣に腰を下ろした。

 

「……カイジくん」

 

 アリシアが隣に座ったなどと全然意識していなかったカイジはびくりと身体をふるわせた。しかし、顔を上げる気力はなかった。

 アリシアは(まなじり)を決して言った。

 

 

「言わなければならないことって、もしかして記憶のことかしら?」

 

 

 カイジには、一瞬アリシアが何を言っているのか理解できなかった。そしてもの凄い勢いで身体を起すと、驚きに目をみはりアリシアを見つめた。心臓が止まる思いだった。

 アリシアはこれを肯定と受け取り、話を続けた。

 

「ずいぶん前からなんとなく感じていたの。カイジくんが時折なにか深く考えているときだったり、思いつめたように両手を見ているときに、もしかしたらって」

 

 カイジは茫然自失としていた。それでもなんとか耳だけは傾けていた。

 

「それで昨日の花火をきっかけに、今日一日中悩んでいたんじゃないかと思ったの。……だから広場に来なかったとき心配だった、ううん、怖かった。このままカイジくんがどこかへ行っちゃうんじゃないかって。うふふ、ちゃんといてくれてよかったわ」

 

 そう微笑むと、アリシアは少し悲しそうな表情をした。

 

「本当はもっとはやく、気が付いたときに声をかければよかったのね。……ごめんなさい、こんなにカイジくんが苦しむと分かっていたら――」

「いやそれは違うっ・・・・・!」

 

 カイジは咄嗟に叫んだ。アリシアが責任を感じる必要などどこにもなかった。すべては自分が卑劣で臆病なのが悪いのだ。アリシアのあまりの優しさと己への怒りでカイジは再び涙を流しはじめた。

 

「アリシアさんが謝るようなことなんかじゃないんだ・・・・・本当はっ――」

 

 カイジは乱暴に涙を拭うと吐き出すように言った。

 

「嘘だったんだっ・・・・! 記憶喪失なんかじゃないんだっ・・・・・・」

「……」

「あの日からずっと・・・長い間騙していて・・・・・オレはっ・・・悪いなんて思っていなかったっ・・・・・・気にすらしていなかったんだっ・・・・それが今日気付いて・・・いかに卑怯で姑息で醜悪だったか・・・・・っ」

「……」

「だからっ・・・! だからっ・・・・謝るのはオレの方なんだっ・・・・ぐぐっ・・」

 

 カイジは繰り返し繰り返し謝った。俯きながら弁解などせずにただただ愚かな自分を責めて謝った。

 灯里はカイジの告白に驚いた様子であった。同じようにアリシアもはじめこそ驚いたものの、すぐに落ち着きを取り戻して、じっとカイジを見つめていた。その表情には困って茫然としているというよりは得心して慈しみを与えようとする心が表れているかのようであった。

 何度目かの謝罪をふと中断すると、カイジはか細い声で言った。

 

「・・・・それで・・・・」

 

 カイジが伝えなければならないと自らを呪縛のように苦しめていたのは、記憶喪失という嘘と他にもう一つあった。

 

「さっき喚き散らしたっ・・・・ううっ・・・・理由がっ・・・・」

 

 自分がこの世界に存在するという違和感、異質さ、ズレ。それらはすべて自身がこの時代の人間ではないという明白な事実と、過去の退廃的な落魄の軌跡によるカイジ自身の葛藤そのものであった。

 

「それはっ・・・・オレの過去がっ・・・・・・・・・」

 

 そしてそのすべてを偽り無くさらけ出さなければ、このネオ・ヴェネツィアで生きていくことは許されないと、カイジは盲目的に思い込んでいた。

 しかし――。

 

「ぐっ・・・・うぐぐぐっ・・・・・」

 

 それでもカイジは言えなかった。

 絶対に決定的にあますところなく白状しなければならないと心の底から思っていたにもかかわらず、喉から先が麻痺してしまったかのようにカイジの口からは呻き声しか出なかった。己の意思は間違いなく打ち明けようとしていたが、それ以上に意思とは関係ない、身体が拒否しているようであった。

 カイジは絶望的な気持ちで唸り続けた。情けなくて、悔しくて、そして怖かった。このままではこんなにまで優しい二人を、出会ってきた人々を、ネオ・ヴェネツィアを永遠に失ってしまう――しかし、カイジは言えなかったのだ。

 

「うううっ・・・・・ぐっ・・・」

 

 アリシアはそんなカイジをみかねてか、声をかけようとしたがはたと口をつぐんだ。そうして穏やかな視線をカイジの隣に送った。

 

 

 

「いいじゃないですか」

 

 

 

 ふと、いつの間にか隣に座った灯里がカイジの呻き声をかき消すように、はっきりとそう言った。

 カイジが心痛で歪んだ顔を向けると、灯里は先ほどの叫ぶような声色とは違った優しく力強い声で続けた。

 

「カイジさんの過去がどんなものであっても……カイジさんが歩んできた道がこうして今に繋がっている。――だからいいじゃないですかっ」

 

 カイジが何に苦しんでいたのかやっと分かった。だから、灯里はそう伝えた。

 

「たしかに人それぞれ生きてきた時間も場所も感じてきたことも全然違います。そんなの当たり前です。でも私たちは、そんな別々の道を歩んできたからこそ何かの縁で交わることができたと思うんです。……だから、いいじゃないですかっ! カイジさんの過去がカイジさんにとってどんなものであっても、私たちはこうして出逢うことが出来たんですから」

 

 灯里は涙で濡れるカイジの目を見つめる。

 

「そして、そんな過ぎ去った日々が導いてくれた、今この瞬間(とき)が――カイジさんやアリシアさん、みんなと一緒に歩んでいるこの今がなによりも大切だって、私思うんですっ」

 

 そうしてやわらいだ照れたような笑みを浮かべた。

 

 

「だから、いいじゃないですかっ!」

 

「・・・・・・・・・・」

 

 

 カイジは朗らか笑みを湛えた灯里の顔を放心したように見つめていた。

 

「・・・・・・・・・」

 

 

 精神的に極限まで追いつめられていた状況で、灯里の言葉は確かな響きをもってカイジの心に迫った。恐怖に締め付けられていた心が、潮が引いていくようにゆっくりと解かれていくのをカイジはぼんやりと感じていたが、ほとんど現実味がないように思われた。

 不思議な感覚だった。ぬるま湯に浸かったときのようなあのなんとも言えない感覚。

 ――なぜ? どうして?

 ただ、自分でも何に対しての問いかけなのか分からない疑問が湧き上がったが、それも一瞬で、あとは茫然としているだけであった。

 カイジは、灯里から視線を離すと軍手のはめられた両手に落とした。気が付けば、膝に置かれたわずかに震えるカイジの手の上に、アリシアのほっそりとした白い手が重ねられていた。

 カイジはその透き通るような白い手を見つめた。

 

 

「カイジくんが過去にどんな生活を送っていたかなんて私たちには分からないわ。けれどね、それがどんなものであろうと、私たちに気後れしたり気に病んだりする必要はまったくないの」

 

「・・・・・・・・」

 

 

 その手は陽だまりだった。

 

 

「カイジくんが今伝えようとしたことは大事なことなのかもしれない。でも言うのがつらくて苦しいのなら、言わなくたっていい」

 

「・・・・・・・」

 

 

 暗闇の中にさしこむ一条の光芒が形作った、あたたかさだった。

 

 

「私にとってのカイジくんはさっき話したとおりの人で、それがすべてだから。……灯里ちゃんとアリア社長――」

 

「・・・・・・」

 

 

 そのあたたかさは、もう片方の手にも広がった。

 

 

「そしてあなたと過ごした日々が、私にとってかけがえのないものだから」

 

「・・・・・」

 

 

 今、4つの陽だまりがカイジの両手を包み込み――

 

 

「・・・・」

 

 

 カイジは顔を上げた。

 目の前にはカイジの両手を握りしめたアリシアと灯里が立っていた。カイジはつられるように立ち上がると、いまだぼんやりとしたまま、二人の顔に視線を送った。

 そこには特別なことなんて何もない、いつもの二人が見せるあの笑顔があった。

 

 

「・・・」

 

 

 ふと、遠くで響く人々のざわめきが微かに耳朶に蘇ってきた。

 

ああ・・・・・今日は祭りだったな・・・・・

 

 そう心の中で呟くと、広場の中心で燃え盛る炎とそれを取り囲む人々がぱっと思い浮かんだ。夏の終わりを告げるように燃え上がる炎は、楽しそうに笑う人々を照らしていた。遠い記憶の中のようなその笑顔に、カイジは不思議な懐かしさと一抹の哀しみを感じた。  

 そして、次の瞬間、鋭い衝撃がカイジの心を揺さぶった。

 カイジははっとして、再び目の前の二人に焦点を合わせた。

 依然、アリシアと灯里はカイジの手を握りしめ、感じた懐かしさそのままの笑顔を浮かべていた。

 

 

「・・・っ!」

 

 

 唐突に胸がしめつけられ、喉元に突き上げてくる抑えがたい感情に襲われた。これまで一度もおぼえたことのないその感情に、カイジは胸をふるわせた。

 

「ぐっ・・・・・・・」

 

 今、ようやく、アリシアと灯里の言葉を、想いを、愛情を、カイジは受け取った。

 

「ううっ・・・・オレっ・・・・」

 

 二人の手を握りながら、ボロボロと涙を流す。この感動と幸福のあまりの鮮烈さに、喜びに打ちふるえながらも戸惑いを感じたカイジは、心にもないことを呟いた。それは今日散々苦しめられた恐怖の最後の抵抗であった。

 

「でもオレはっ・・・・まだ何も恩返しがっ・・・・・・」

 

 

 アリシアは穏やかに首を振った。

 

 

「ううん、今までの生活ですべて貰ったわ」

 

「・・・・・・・・・っ!」

 

 

 今日カイジを苦しめたすべての迷妄が一瞬で吹き飛んだ。

 

 嗚咽をもらしながらカイジは目を閉じた。

 優しく打ちつける波の音と遠くのざわめきが溶け合って耳朶をかすめた。

 漁火が点在する宵闇の沖合いから柔らかな涼風が吹いてきて頬を撫でる。

 軍手越しにでも伝わってくる二人の手のあたたかさにかけがえのないものを感じた。

 

 

どうしてオレがだとか・・・なぜここにいるだとか・・・

そんなことはどうだっていいっ・・・・!

今はっ・・・・とにかく・・・・ここで・・・・・っ

ここで・・・・・・っ!

 

 

 

 目を開けたカイジはにじむ視界越しに二人を見つめて、小さな声に伝えきれない万感の思いを込め、「ありがとう・・・ございますっ・・・」と呟いた。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 その後、三人の様子を部屋の片隅からじっと眺めていたアリア社長が、鳴き声とともにカイジの頭の上に飛び乗ったことをきっかけに、一同はサン・マルコ広場へと急ぐこととなった。見るも無残なひどい顔をしていたカイジは一度洗面所で顔を洗い、表で待っている二人のもとへ向かった。

 次第に大きくなる祭りのざわめきの中、サン・マルコ広場まで歩いていく。

 先頭を行く二人の後を、カイジは頭にアリア社長をのせてついていく。先ほど、スキアヴォーニ河岸のところどころにふんわりとした光を投げかけている街灯の下で、灯里が浴衣を纏っていることにはじめて気が付いたカイジがそれを伝えると、灯里は微笑ましく拗ね、アリシアは愉快そうに目元を緩ませた。そんな二人の様子にカイジも笑みを零した。そこで自分が今日はじめて笑ったことに思い至り、昨夜からの自分がいかに絶望的だったかを客観的に顧みた。

 それはつい先ほどまでの出来事であるのにもかかわらず、もう遠い過去のようにカイジには思われた。そして取って代わるように、今やカイジは、感謝と喜びに満たされ幸福であった。この劇的な心変わりを不思議に思ったが、答えはすぐに見つかった。

 

ここがネオ・ヴェネツィアだから・・・・・

いつだかこの街が奇跡だと思ったが・・・そうじゃない・・・

そこに暮らす人々が奇跡だから・・・・オレの目にそう映ったんだ・・・

 

 カイジはふと、鉄骨渡りのことを思い出した。文字通り一歩間違えれば死という極限の状況で、カイジは知ったのだ。人が人にとっての幸せであり、あたたかさであると。しかし、理解したのは今、この瞬間であった。

 再び涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。

 

「ぷいにゅう」

「・・・・・っ! ああ・・・・そうだな・・・・」

 

 先にサン・マルコ広場へ到着した二人に追いつくと、カイジはアリア社長にそう言葉を返した。アリア社長はその返事を聞くと満足そうに頷いて、カイジの到着を知らせるためにウンディーネたちのところへ向かおうとする灯里へ抱きついた。

 灯里が雑踏の中へ走り去ると、残されたカイジとアリシアは、互いに顔を見合わせて、ゆっくりと広場へ足を踏み入れる。

 

「よかった。まだ火送りは始まってないみたい」

「はい・・・」

 

 煌めく光で溢れかえった広場は人々の楽しげな喧噪で満ちていた。

 カイジは、広場の一角でこちらをみつめるウンディーネたちを確認すると、隣を歩くアリシアに顔を向けた。

 

「あの・・・アリシアさん・・・」

 

 

 穏やかに首をかしげたアリシアに、カイジはこう問いかけた。

 

 

「いつか・・・・いつかオレの過去を聞いてくれますか・・・?」

 

 

 アリシアは微笑んだ。

 

 

「ええ、もちろん」

 

 

 カイジは照れたように顔を背けると、ウンディーネたちの待つ眩い光の輪の中へと歩いていった。

 

 こうして、ネオ・ヴェネツィアの夏は終わりを告げたのだった・・・・。

 

 

 

 

 

 


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