水先案内録カイジ:ARIA×賭博黙示録カイジ   作:ゼリー

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敬愛する夏目漱石氏の『吾輩は猫である』のオマージュを意識して書いてみました。エピゴーネンですがよろしくお願いします。


閑話 アリア社長の追憶

 吾輩は火星猫である。名前はアリア・ポコテン。

 一介の火星猫でありながら一城の主まで登りつめた傑物とは吾輩の事である。

吾輩は今、その居城の執務室において、愛すべき臣下の女史であるところのアリシアの前で泰然とひっくり返っている。ともすればふにゃけているとも見られかねないこのアティチュードは実は吾輩が臣下を労っているだけに過ぎない。日毎夜毎、激務に追われた臣下が吾輩の愛らしい所作から力を得て、抜山蓋世、また勤務に精をあげるというならば吾輩はある程度の辱めを受けることになんら不平を鳴らすことはない。これこそ頂点に立つ者の義務であろう。

 

 臣下たちは吾輩の事を社長、社長と呼ぶ。その通りで全く相違はないのだが、その縋る声に少しでも応えて遣らなければ、その声に次第に謀反の色が混じり始め、遂には反駁する。謀反を被って背中からバサリなどは吾輩の望むところではない。

 以前、臣下の一人が出し抜けに、吾輩の腹部めがけて拳をずしりと放り込んだことがあった。吾輩の鋭敏な耳鼻は、臣下がえいやと拳を握った時点ですでに警告を発しており、自然と腹に力を入れて難を逃れたが、あれはまさしく謀反の前兆ではあるまいか。

 謀反の容疑者は伊藤開司なる大馬鹿者である。しかしながらこの男、中々に見所のある漢でもある。が、伊藤君についてはまた折を見て、である。乞うご期待。

 逸れてしまったが、要は部下の機嫌を取り危うきを予てから退けることも大事な勤めであるということだ。兵法とは平法である。男子たるもの平法を知らずして在るべからず。昔の偉い兵法家はそう言ったものだ。

 

 それにしてもこの猫じゃらしなるものは非常に興味深い。眼前に垂らされれば電光石火、不覚にも我が前足が伸びてしまう。平生から狷介孤高、不惑を以てして自任している吾輩ではあるが、どうにもきゃつには敵わない。

 しかし諸君、笑ってくれるな。諸君であっても目の前に紙幣をちらつかされたならば、目で追う、或いは腕をぶんと振って掴みにかかるであろう。人間の業というやつだ。それとこれとは同質の問題なのである。吾輩は金銭などには端から頓着などはせぬが、この猫じゃらしと甘味には前足をあげて白旗を振らざるを得ないのだ。

 ともあれ吾輩はこうして己の勤めをしっかりと果たしている。

 

 吾輩は元からこの城の主であったかというと、そうではない。元は高等遊民であったのだ。窓から見える大海原を見つめながら吾輩は想いを馳せる。そして遼々たる時間を遡ればその日に辿り着く。

 

 

・・・・・・・

・・・・・

・・・

 

 

 その日は、大いに気焔を吐いていた馬鹿猫と一悶着、事を構えたせいで、吾輩の真綿のような白い毛が黒斑を帯びてしまい台無しになったのを記憶している。

 吾輩は一匹、ぽつねんと河岸で瞑想に耽っていた。縹緲とした水平線を望むるこの場所は、吾輩の特にお気に入りの思惟場所なのだ。我が視界を遮るものは塵芥すらも見えない。

 そしてその河岸で吾輩は、何故あのような小物と悶着してしまったのかについて吟味していた。

 初めは侃侃諤々、丁々発止と人間の浅ましさを語り合っていたのだが、そのうち吾輩の意見が気に食わなくなったその馬鹿猫は、恐れ多くも吾輩の尻尾大明神に噛み付いたのだ。平生から守護霊と崇め奉っていた吾輩の尻尾大明神に斯様な暴挙、到底許すまじと吾輩は前右足でぴしゃり馬鹿猫の額を叩いてやった。するとその馬鹿猫は、背を丸くして気が触れたように凄まじい声で威嚇を申し出た。先程までその口で知性溢れるフィロソフィーを奏でていたとは全然思えない金切り声を上げたのだ。これには流石の吾輩と雖も虚を突かれた。

 それからは泥仕合。見るも語るも阿呆らしい巫山戯切った引っ掻き合いだ。いつまで経っても諦めない馬鹿猫に少々嫌気が差してきた吾輩であったが、ここで臆しては体面に拘わると一歩も引かなかった。そうすると馬鹿猫はやっとこさ吾輩の威光に恐れをなしたのか「三十六計逃げるに如かず」などと呟きながら逃げていった。きゃつに唯一点、評価を与えるとすれば文字通り尻尾を巻くことを忘れなかった点においてである。調和を忘れないその心、天晴れである。

 そんなこんなで公平を好み中庸を心から愛する吾輩は、自らの斯様な愚行を一匹恥じ、瞑想をすることで心の泰平を築こうとしていたのであった。

 

 吾輩が海原に向かって思惟に没頭していると水面から声が聞こえた。

 

「こんにちは猫さん」

 

 天に貴様唯一匹と遣わされた吾輩は遂に水の声すらも感知することが可能になったのかと訝っていたが、どうやら声の主は水の精ではなく人間の女性である。吾輩が黙然としているとその女性が続ける。

 

「最近いつもここにいるのね」

 

 吾輩の特等席だからである。此処を使用したくば吾輩に手土産をたらふく用意して機嫌を取る他無いのは明白である。それが分からないのであれば一度猫と生活してみたらよろしい。しかしながら、吾輩はその辺の愚猫とは成りを異にしているから甚だ理解することは難しいと言えるだろう。

 以上のように黙って独白していると、その女性はまだ続けた。

 

「どこから来たのかな」

 

 知らん。吾輩が気づいたときにはリアルト市場の頑固親父の店の軒下でにゅうにゅう鳴いていたことだけは記憶している。

 

「ここで毎日なにしているの」

 

 無論、考察である。

 後も続けざまに質問をするが吾輩がうんともすんとも言わないで超然と座っていると、その女性が横に座り吾輩の頭を撫でつけた。

 

「ごめんね……いきなりいっぱい質問されても困るわよね」

 

 そう判然としているのなら静かにしているがよろしい。大体において、この女史は吾輩の口から出た言葉を理解することが不可能である。畢竟、吾輩が喋ったところで「ぷいにゅう」などという間抜けた音にしか成り得ない。悲しい哉、吾輩の頭脳はあえてアクアに住む成人にも劣らざるつもりであるが、発音に関しては以上の通り間抜けも間抜けなのだ。

 しかし頭を撫でる行為に関しては容認することも吝かではない。

 吾輩は、今一度頭を撫でつけてもらおうと首を竦めて待っていたが、その女史は自分に酔ったように喋り続けた。酔うのは酒場か自宅のどちらかにして欲しいものである。

 

「こんなにのんびりした気分は久しぶり。私には猫さんのペースがちょうどいいのかも」

 

 失笑を禁じ得ない。笑わせる。自らを型にはめ込んで社会の枠組みの中、必死に居場所を確保しようとする行為自体が浅ましいというのだ。悠々自適を求めるのであれば掴めばいい。貴女が望むのであればそうすればいいのである。誰に問うのでもない、自らに問うて決断すればいい。吾輩は常にそうしている。

 

「最近ね……時間の流れが速すぎてもったいないと思っちゃうの。もっともっと素敵なこと大切なことをゆっくり育んでいきたいのに……」

 

 しかしながら、吾輩は考える。焦燥や飽くなき欲求、そういったものは人間に与えられた特権ではないのかと。そういったものが人類をしてこの火星まで辿らしめたのではないかと。己の表裏から目を背けてはいけない。吾輩には人間のそういった部分について閉口する面もあるが羨望する面もあると認めている。

 吾輩がなおも黙って水平線の消失点を睨めつけていると女史はしっかりとした言葉で吾輩に問いかけた。

 

「ねえ、猫さん……いつもここで何をみつめているの?大切な何かを待っているの?」

 

 なにも見ていない。それすなわち何かを見ている、である。古くからある言葉に色即是空・空即是色というものがある。吾輩は耶蘇教よりも仏教を好んでいるのだ。その哲学的側面は吾輩を世俗の鎖から解き放つのに大きく功を成した。

 それよりも吾輩が敢えて待っているとすれば、吾輩の思慮を貴女に伝える事の出来る人間であろう。吾輩の意志と言葉を汲み取り、その人間を通じて吾輩は貴女にこう伝えたいのだ、「自由に活きよ。自然と共にありながら万物を愛し、公平に矛盾なく活きよ」と。

 

 吾輩が思念を込めて女史に顔を向けると、彼女もまたこちらを驚いたように見つめていた。

 

 

 その日を境に、吾輩と彼女は近づいた。

 女史は私の横に座るとのべつ幕無く話しかけてきたが、吾輩は平生と同じように黙然と思考の大海に身を投じていた。

 

 ある日、雨が降った。リアルト市場では頑固親父に降り、サン・マルコ広場では彫像に降り、ムラーノ島にはガラスに降り、この河岸では吾輩に降った。

 深い深いアルケーの海溝へと潜っていた吾輩は雨を物ともせず欣然と海底にひそむ真理に誘われていた。しかしながら物心共々、吾輩は泳げないのであった。物質面では海水に浸かるとすぐさま物憂げになり足を掻くのも心もとない。精神面では、一度深く思慮に耽ると何かしらの機が無い限り容易に帰還し得ないのだ。

 それでも吾輩は思考する。天はなにゆえこの大乾坤の間隙に吾輩を遣わしたのかを真剣に考えた。吾輩が子猫の時代は日々貧しく糧を得るのにも非常な困難が付きまとい、これは余程の宿悪を背負わされたなと大閉口であった。にゅうと鳴けば頑固親父に投げ出され、またにゅうと鳴けば烏に突かれた。そんな位に身を窶していた吾輩であったが、今はこうして心も体も丈夫に育って生活している。真を貫けば、吾輩のような偉猫になれるという良い例だ。猫も杓子も真似るがよろしい。

 なーる、そういうことであったか。詰まるところ吾輩の生き様を衆生に拝観させろとの天の思し召しということである。

 快論に至り一匹ほくそ笑む吾輩であったが、その時ふと、雨が止んだ。否、吾輩を含む狭い円形が止んだだけであった。吾輩は、これはあれかしらんと推測した。

 

「猫さん!びしょ濡れじゃない、風邪ひいちゃうわっ」

 

 果たして女史であった。傘を掲げている。

 

「少しくらい雨宿りしたっていいじゃないっ……そんなにまでして何を待ってるっていうの?」

 

 吾輩は彼女の言葉も意に介さず、唯々快論に至れた全能感にたゆたっていた。そんな吾輩の様子をみた女史は、傘を吾輩に立て掛けると走って何処かへ行ってしまった。束の間の後、戻ってきた女史は吾輩に雨合羽を着せた。そうしていて自分も雨合羽を着ていた。我々はそのまま黙って、陽が昇るまでそこにいた。

 黎明時に彼女の横顔をちらと拝見したが、その顔は憑き物が落ちたと言わんばかりの晴れやかな顔であり、吾輩は又一人迷える子羊を救ってしまったなと得心した。そして、これもどれも吾輩の生き様が成せる啓蒙なのだと悦に入った。

 すると女史が口をひらいた。彼女にしては余りにも喋らないので失語してしまったのかと少々恐れていたがいらぬ心配であったようだ。

 

「……朝になっちゃったね」

 

 当然である。陽が落ちれば月が昇り、月が隠れれば陽は昇るのだ。

 

「おかしいね」

 

 何も可笑しなものがあるものかと考えたが、彼女の相好を見るに次の文句を聞いた方がよさそうだ。吾輩は拝聴することにした。

 

「一晩中雨にうたれていたのに、何だか……とってもすがすがしい」

 

……ふむ。

 

「やっぱり、私には猫さんのペースがちょうどいいんだわ」

 

 以前、同じような文句を吐いた時とは表情が一変していた。吾輩は次の言葉を待った。

 

「私もここで一緒に待っていいかな……その綺麗な青い瞳に映る世界を私も見てみたいの」

 

 女史は愛らしい微笑みを携えて吾輩をみつめる。

 

 ふむ。吾輩が伝えなくとも悟ったか。それでいいのだ。貴女は美しい、天衣無縫に活きる吾輩と比肩し得る程に。

 吾輩は「にゅっ」と鳴いた。

 

 

 

 

 彼女の名前は天地秋乃。ARIAカンパニーの創設者である。そして吾輩は彼女から名前を貰ったのだ。

 

 

 

・・・・・・・・

・・・・・・

・・・

 

 

 それからというもの、吾輩はこのARIAカンパニーで敏腕、否、敏足を奮っている、変わらぬこの地で。

 この会社を創設したその時から吾輩は、彼女の事を御母堂と呼び、敬うことを片時も忘れたことはない。御母堂もすでに今は役を退き、何処かの田舎で隠居しているそうだ。吾輩は今度会った時こう聞いてみようと考えている。

「吾輩のペースで活きる心地はどうかね?」と。

 

 一人の臣下がだらしない顔つきで1階から上がってきた。吾輩は彼のお頭の上に飛び乗る。

 

 そう、この伊藤開司君を通して、ではあるが……。

 

閑話 終・・・・・・・・・・・・・・・・

 


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