おじさんとワニノコ
昨日、妻に先立たれました。
妻は幼馴染で、生まれた時から病弱で、それでも体調の悪さを微塵も感じさせない程、チャームポイントの大きな口で笑う、笑顔がとても素敵な女性でした。
僕は安月給のサラリーマンで、毎日毎日、渡される書類のデータを入力するだけの仕事をしている冴えない男でした。
昨日、そんな僕の唯一の自慢の妻が亡くなったのです。
*
一人暮らしには広い家のリビングで何をするでもなく、ソファに座って俯いていたソラ。
小さく溜息を吐いた所でピポピポピポピーンポーン!と激しいチャイム音。玄関に向かうまでもなく、チャイムを鳴らした男は勝手に玄関の扉を開けて中に入って来た。
「ソラ!お前、しっかりしろ!」
「イツキ…」
妻と同じく、彼もまた幼馴染の一人だった。
ポケモンの研究の為、日々探索に出るイツキの体は逞しく、デスクワーク勤めのソラとは正反対だった。
「そんなんじゃ、ハツコちゃんが悲しむぞ!」
「……」
ハツコ。
唯一の自慢だった妻の名前だ。
確かに、今の自分の姿を見たハツコはそれはもう憤慨するだろうとソラは思った。
でも、喪失感ばかりで何もやる気が起らないのだ。
「俺を頼れ!」
「イツキ…、ありがとう」
バシンバシン、とソラの背を叩いたイツキ。
その痛みにソラは思わず苦笑いが零れる。
「でも、何を頼って良いのかも分からないんだよ。僕には妻の幸せ以外に望む事もなかったし、妻が居なければお金を稼ぐ理由だって無い。もう…何も無いんだ」
「何も無ければ作れば良い!」
「再婚でもしろっていうのかい?」
「そんな無茶は言わん。再婚なんて器用な真似はお前には出来ん。でも、新しいことを始めることは簡単だ」
「新しいこと…」
「ポケモントレーナーになれ!!」
「……」
イツキの言葉にソラは言葉を失った。
人生で一度もモンスターボールという物を手にした事がないソラにとってポケモントレーナーなんて物は未知のもの過ぎた。
「子供も居ないお前に必要なのは相棒だ!」
「そんなこと言われても…」
「別にトレーナーになってバッチを集めろなんて無茶は言わない、お前には相棒と一緒に成長していく楽しさを感じて欲しいんだ」
「でも…」
「お前の相棒となるポケモンは知り合いの博士に言ってどうにかしてもらうから!」
「…いや…でもね?」
「俺に全て任せておけ!」
ぐっ!と親指を立てたイツキは勢いよく玄関の扉を開けて出て行ってしまった。
取り残されたソラはイツキを追うようにあげた手を膝の上へと静かに下ろす。
「……」
45歳でポケモントレーナーって有りなの?
勿論、ポケモンは身近に居たし、見掛けることも知り合いのポケモンに触れることもあった。
でも、自分で面倒を見る自信が無くて一度も手元に置こうなんて思いもしなかった。
本当に自信が無い。
10代、20代の若い頃ならまだ腹は括れたかもしれないが。45歳なのだ。
「おじさんに初めてのポケモンはキツイよぉ…」
*
翌日、朝早くからイツキが迎えに来た。
強引に起こされて車に放り込まれたソラはあっという間に着いた研究所をポカンと見上げた。
「ソラ、こっちだ」
「あ、うん」
ポケモン研究所なんて場所に入るのも当然初めてなソラはキョロキョロと辺りを見渡す。
「おっはようございまーす」と元気な声に慌てて視線を前に戻した。
にこにこと笑うまだ幼さも残る少女だった。
「ツバキ博士だ」
「え!?」
「ツバキちゃんです、よろしくー」
「よ、よろしくお願いします…」
随分と若く見えるね、とイツキにこそっと話し掛けたソラ。
イツキはハハハと笑い飛ばす。
「ツバキちゃんはうちの双子と同い年だ」
「えぇ!?」
「幼馴染でぇす!」
確か、イツキの所は双子の子が20歳になってないくらいで、上の子は25歳くらいだったかな…。
上の子がもの凄く優秀でトレーナーだったりコーディネーターだったり色々な事やってるのだけは聞いた気がする。
うんうん、と呻りながら首を傾げたソラを見てイツキがまたハハハと笑った。
「イツキの所の子供達は今何してるの?」
「んー?上の子はポケモンドクターで、双子の兄の方が最近ブリーダーになって、妹の方はコーディネーターだな」
「ポケモンドクターってなに?」
「そのままポケモン専門医だが、うちの子は野生ポケモンの治療を主にしてる」
「???」
野生のポケモンを治療するなんて事もあるんだ、とソラにとっては目から鱗だった。
「はいよー」
ぐるぐると思考を巡らせていたソラの前のテーブルにトレーが運ばれて来た。トレーの上にはモンスターボールが三つ。
「……」
「残念ながらうちの研究所の子達はもう新人トレーナーの子達に貰われて行っちゃってて、他の地方から送ってもらった子なんだけど」
「へー、何処の地方から?」
「ジョウト地方です」
「ウツギ博士の所か。まあ、何処の地方のポケモンでもソラには関係無いだろ。さ!選べ!」
「選べって言われても…!」
ボールが三つ並んでるだけだし!とソラはどうしたものかと困惑した。
「ボールから出して、一匹ずつ確認して良いですよ?」
「ボールから出すって…どうすれば良いのかな?」
「え、そんなこと言う人居るんだ…」
「ボールの真ん中のボタンを押して軽く投げるだけだ」
ボールの、真ん中の、この白いの?を押して?軽く投げる。
ぽい、と投げられた先でボールの中からポケモンが飛び出して来る。
「うわー…」
「ワニー!」
青い体、大きな目に大きな口、鋭い牙。
このポケモンは見たことが無い!という衝撃がソラに走る。
「その子はワニノコだよー」
「ワニャー」
「可愛いねぇ」
「ワニワニー!」
嬉しそうに飛び跳ねるワニノコ。
小さく息を吐いたソラの口から思わず言葉が漏れる。
「ハツコに似てるなぁ」
「……え!?似てるか!?」
「え?に、似てない?」
「いやぁ…俺の口からは何とも言い難い…。ワニノコは可愛いけど、な…」
二人の会話にツバキが首を傾げた。
「ハツコって?」
「あ、僕の妻の名前だよ」
「え゙!?……へ、へー、そうなんだー…」
ワニノコ似の奥さんってどんなだよ、とツバキは心の中で思った。
「とりあえず、他の子も見ます?」
「いや、いいよ、この子にする」
「あ、ワニノコにします?」
「うん、大きな口が可愛いからね」
ワニワニと鳴くこの子は大きな口で笑う妻に似ているような気がした。
自分のポケモン、という漠然とした不安感はワニノコを見た瞬間に、この子となら大丈夫かもしれない、という気持ちでいっぱいになった。
大丈夫かもしれない、心がほんのり温かくなった気がした。
*
イツキに持たされたポケモンの育成本をテーブルに置いたソラは小さく息を吐きながらソファに座った。
45歳にして初めてのポケモンをゲットしてしまった。
ボールの中からワニノコを出して、ソラは笑みを浮かべる。
「ここがお家ですよ」
「ワニ」
ワニノコがソラを見上げた。
ワニノコもまた初めての経験をしている。初めてトレーナーに貰われて、初めての家に来た。
じーっと自分を見つめるワニノコにソラは少し照れて笑みを浮かべた。
「あ、そうだ。名前を付けた方が良いって言われたんだった」
「ワニー」
「なんて呼んだら良いかな?」
「ワニワニ」
うーん、と考えたソラは拳と手の平をぽんと合わせて笑った。
「よし、ワニコさんだ!」
「……」
「よろしくね、ワニコさん」
はい、と握手をしようと出したソラの手はワニノコの大きな口にがぶりと噛まれてしまった。
甘噛みで痛くはないものの、何故、噛まれているのか分からないソラは少し考える……。
「あ!ワニコさんの握手は口かぁ~、なるほど~」
「……」
あぐあぐ、と噛まれている事など気にせずにソラはニコニコと笑った。
*
次の日、初めてのポケモンを育てるアドバイスをしてもらおう、とイツキに連れられて育て屋へとやって来たソラ。
育て屋で出迎えたのはイツキの息子であるカズキだった。
「わー、ソラおじさん久しぶり~」
「カズキくん、大きくなったねぇ」
「カズキ、新人トレーナーのソラにポケモンの育て方を教えてやってくれ。父さん、ちょっと仕事で呼ばれてるから!」
「え!?」
「すまん、呼ばれてるから!」
じゃ!と連れて来るだけ連れて来ておいて、後は息子任せらしいイツキが出掛けて行ってしまった。
あの男は相変わらず行動が思い立ったら過ぎるな、とソラは思った。
「とりあえず、ソラおじさんのポケモン見せてよ」
「あ、うん、この子だよ」
ボールから出て来たワニノコ。
口を閉じてツーンとした様子でカズキへと視線を向けた。
「なんかちょっと機嫌悪いみたいだね」
「え?そうなの?」
「朝ご飯が足りなかったとか?」
「ご飯はおかわりして食べたよ」
「んー、なんだろ…」
さすがに分からん、とカズキが頭をかいた。
「バトルの練習とかしようと思ってたけど、まずはワニノコの機嫌取りから始めよっか」
「機嫌悪いの?」
「……」
口を閉ざすワニノコ。
ん?と首を傾げたソラをチラリと見てから視線を逸らした。
「うーん、やっぱなんか機嫌悪いっぽいね」
「そっか…、やっぱりおじさんの所になんか来たくなかったって事かな…」
「そんなことは無いと思うけど」
ワニノコの体をチェックしたカズキはうんと頷いた。
「健康面は問題無さそう、怪我もしてないし」
「良かった」
「もうすぐユキコが買い物から帰って来るから、帰って来たら確認してみよう」
「ユキコさん?」
「あ、近々オレの奥さんになる予定の子」
「えー!カズキくん、結婚するんだ!」
「若輩者ながら嫁さん貰います~」
「そっかそっか~、もうそんな年なんだねぇ。おめでとう~」
「あざっす」
暫く、カズキがトレーナーをしてた頃の話や、ノリコがコーディネーターとして頑張っている事などの会話をしていたカズキとソラ。
話が盛り上がって来た時にユキコが帰って来た。
*
「ただいま戻りました」
「おかえりー」
「うわぁ、美人さんだねぇ」
「え?あ、お客様!いらっしゃいませ」
「父さんの幼馴染のソラおじさんだよ。で、ソラおじさん、妻になる予定のユキコです」
「ユキコさん、よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
ふかぶか~とお互いにお辞儀をするソラとユキコ。
さてと、とカズキが手を叩いた。
「ユキコが帰って来たし、ワニノコのご機嫌聞いちゃう?」
「聞けるの?」
「うちのユキコは聞けるんですよ~、うちの兄貴も聞けるけど~」
「へー!ポケモンの言葉が分かるって事だよね?そんな人も居るんだねぇ」
そういう才能があれば自分も幼い頃からポケモンと触れ合う機会があったかもしれないとソラは思った。
その横でユキコがワニノコに話を聞く。
「ワニワニ、ワニ!ワニワニ!」
うんうん、と頷くユキコ。
「ワニワニ!ワニワニワニャー!!」
相当、何か言いたかったらしいワニノコ。
うんうん、と頷いて聞いていたユキコがソラへと視線を向けた。
「ワニノコさんが仰るには…」
「うん」
「自分はオスだから、ワニコさんというメスに付けるような名前はあまり好きではない。そうです」
「ワニコさん……」
「名前が気に入らなかったのかい!?」
「ワニ!」
そんな…、ごめんよ…と落ち込んだソラを見てワニノコが焦る。
「オスだって知らなかったの?」
「いや、知ってたよ」
「じゃあ、なんでワニコ!?」
「ワニノコがね、僕の妻のハツコに似てると思ったんだよ。だから、男の子なのは知ってたけど、響きだけ似せたくてワニコさんって呼ぶことにしたんだ」
「奥さんの名前の響きに似せなくても…」
「妻は先日、亡くなったんだ」
「「……」」
おっっもっ!!重い!重過ぎる!名前へ込める理由が重過ぎる!!
そんなん言われたらもう何も言えねぇじゃん!とカズキは心の中で叫んだ。
「ハツコさんにワニコさんに、私はユキコでお揃いですね~」
「ワニ…」
ユキコが笑顔で語る反面、ワニノコも複雑らしく返事は鈍い。
そんなワニノコを見てソラは苦笑いを浮かべた。
「ごめんね、キミは男の子だもんね。勝手に好きな名前で呼ぶのは良くなかったね」
「……」
「何か別の名前を考える?それともワニノコくんって呼ぶ方が良いのかな?」
「ワニ!ワニワニ!!」
べしべし、とソラの足をワニノコが叩いた。
ユキコがくす、と笑う。
「しょうがないから、ワニコって呼ばれてやるよ、って言ってます」
「…!ワ、ワニコさん…!!ありがとう!」
ソラがぎゅっとワニノコを抱きしめるとワニノコは大きな口を開けて笑った。
「じゃあ、ワニノコの機嫌も治ったことだし。バトルの練習でもするかー」
「僕、バトルしたことは勿論無いけど、見たこともあんまり無いよ」
えぇー…?見たことすらぁ?と思いながらも言葉に出さずカズキは頷いた。
「じゃあ、技の確認からしよう。今のワニノコが使える技は、にらみつけるとひっかく」
「それは、僕に試してもらっても良いのかな?」
「え!?自分で試したい感じ!?」
「技もあんまり見たことないから目の前で見たくて」
「じゃあ、まあ…、威力はそんなに高くないし、どうぞ」
ワクワクとした様子でワニノコの前に座ったソラ。
「……うん、ソラおじさんが指示出さないとだからな?」
「あ!僕が言うの?じゃあ、にらみつける!」
「ワニー!」
ギロリとワニノコに睨まれてソラはビクッとした。
「結構、こわいね!」
「うん、まあ…、防御力下げてくるからね」
「じゃあ、次はひっかく!」
はい、どうぞ!とソラが手の平をワニノコに出す。
ここにひっかいて下さいという意味だと当然理解したワニノコが勢いよく技を食らわせる。
「ワニャー!!」
「ぎゃあー!」
【 おじさんとワニノコ 】
45歳で初めてポケモンをゲットした僕は、
数十年ぶりくらいに、もの凄く流血しました。
この年になると怪我が治り難いとか色々思ってしまうけど。
僕の手をさすってくれるワニコさんが可愛くて、幸せ過ぎて、困っちゃうなぁ。
「ワニャ…ワニャ…」
「大丈夫だよ~」
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