目を覚ますと知らない天井が映り込んできた。シミだらけで手入れの行き届いていない拘置所みたいな天井だ。はっきりと自分の家の天井でないと断言できる。なにせ家の天井は真っ白の中にトマト汁のシミがついたお洒落なものだからだ。酔ってトマトキャッチゲームなんてしなければできない奇跡の天井模様だ。誰も真似できまいて。
上体を起こしてみる。どうやら床の上に直接転がされたみたいだ。贅沢を言うわけではないが、どうせ寝かせられるなら天蓋付きの高級ベッドの上が良かった。贅沢を言うわけではないけど。
今はベッド云々で落ち込んでいる場合ではない。知るべきことは私がどうしてこんな発光天井の下で眠っていたか、そしてここが一体どこなのかだ。
まずはこんな場所に来る前について考えてみよう。超社会的で模範的な私がこんな誘拐と思われるものに巻き込まれる理由はないだろうが、一応自分の行動を振り返ってみなければ。どこでどうヒントが見つかるか分かったものではないからな。
覚えている一番新しいことと言えば仕事が休みだったことだ。仕事が休みで、昼飯をどうするかを考えていた気がする。自炊が面倒で、じゃあみんなのアイドルコンビニエンスストアに行こうと思って外出をしたんだ。それで、道中の横断歩道でトラックが信号無視してきて……気がついたらここにいたんだ。
考えを統合してみれば、私は俗に言う転生トラック現象というものに巻き込まれたということか。そうであるならば、この天井が発光したところに居る理由も説明付けられる。神様が誤って私を死なせてしまった為に、こんな場所に連れてこられたんだ。
そして次に待っているのは美女もしくは美少女な神様がやってきてお詫びとして好きな世界に転生させてくれるというものだ。
なんということだ。私はありもしないような奇跡を体験している。これはこの手の話が大好きな親友に詳細を余さず伝えて自慢しなければならない。一種のステータスだ。
そうと分かれば天蓋付きベッドなんてどうでもいい。神様がやってくるのを正座して待っていなければならない。
その場に正座して待つこと十分。誰も何もきてくれはしない。
どうするべきか。こっちから乗り込んでみるべきか。乗り込むって言っても部屋に出口なんて見当たらない。
暫くどうすることもできずに待っていると、何もない空間がぐにゃりと歪んだ。マンガとかで言えば何か化け物が出てくるときに現れるようなものだ。
「気がつきましたか」
ぐにゃりとした空間の向こう側から声が聞こえてきた。声質からして男だった。ちょっとがっかりだ。
ぐにゃりとした空間が更にぐにゃぐにゃと歪む。超気持ち悪い。
歪んだ空間から人が現れた。昔ながらのぴっちりと体にフィットした宇宙服を着て、頭に鉢巻をしたよく分からない人だ。明らかに組み合わせと時代的センスがおかしいが、そこは黙っておこう。昨今の神様は地球文化を誤って認識しているのが理解できたが、ここで機嫌を損ねるのは愚行でしかない。
「いやぁ、申し訳ありません、地球の方」
うん、地球の方?
「ちょっとした手違いが起こってしまいまして。本当にどうお詫びをすればいいのか」
よしよし。相手は罪悪感を感じている。これなら大丈夫だ。
「言い訳をするわけじゃありませんが、まさか地球がいとも簡単に壊れてしまうとは思っていませんでした」
一瞬だけ思考が止まっていた気がする。目の前の人物は今なんて言った?
地球が壊れるって言ったのか。つまり、地球を壊したってことだよな。いや、まさか……冗談だよな。
できるだけ平静を装って神様の表情を確認するが、どこをどうみても嘘を言っている顔ではなかった。この表情を見てしまうと、本当に地球が壊れてしまったのだと受け入れなければならない。しかし、脳みそはその事実を認識したがらない。私の理性も地球滅亡という真実を飲み込むことはできずにいる。普段は何とも思っていなくとも、自分の母星なんだから辛くなる。
事実を偽りだと騒ぎ立てるのはみっともない。深呼吸と同時に真実を腑に落とす。
「どうして地球が壊れてしまったのですか?」
神様が手違いで壊したとして、その手違いがどのような現象として地球に降りかかったのか知っておきたい。知ることで完全に受け入れることができるだろうから。
「そうですね。どこから説明すればいいのか」
神様はとても言い辛そうに口をもごもごと動かしていたが、意を決してはっきりと言った。
「故意に隕石を地球にぶつけて破壊しちゃいました」
神様の言葉を理解するのには地球が滅亡したことを理解する以上の時間がかかった。真面目だった顔が急に悪戯っ子のような無邪気な表情になったことで、それが本当のことか判断できないことが原因だと思う。
神様は私の混乱を他所にペラペラと軽い口調で語りかけてくる。
「うん、いやぁ、予想外だったんだよ。超予想外だったんだよ地球の方。ちょっとしたお茶目だったんだよ。ほら、地球の映画ってさぁ、けっこう宇宙からの侵略が描かれてるじゃん。だからちょっとちょっかいだしたらどれほどの反応が返ってくるか気になったのさ。でねぇ、とりあえず地球の六倍ほどあるこの船に高性能の光学迷彩をつけて、表面にちょっとしたエネルギー・シールド張って地球にぶつけてみたんだけど。こう、想像力豊かなくせに何にも対策立ててなくて、誰も気がつかないまま衝突しちゃったってわけ」
失敗したなぁ、なんて先ほどまでの後悔の念はどこへやら。悪びれることなく笑っている。
「それにしてもやっぱり事前に情報を流しておくべきだったね。そうすれば奴らは私の地球寒冷化作戦を阻止しようと躍起になってド派手なことが起こっただろうに」
「地球に六倍も差のある船を撃墜する能力なんてない!」
「いやいや、知ってるぜ。地球の絶対防衛ラインに植民地レーザーがあることをな」
「ねぇよそんなの」
宇宙に進出して百年ほど経ってからの話をするな。
「じゃ、じゃあアレだ。月からのエネルギー供給を受けた凶悪兵器ムーンライト・キャノン!」
「もっとねぇよ!」
「そんなにものがなくて、じゃあ何があるんだよ下等人類!」
キレる神様。言葉遣いが一気に荒くなった。さっきは地球の方って言ってくれたのに、手のひら返しが速過ぎる。
身勝手に地球を滅ぼすなんて、きっと目の前の人物は神様じゃないな。
考えを改める必要がある。ひとまずこの極悪人を極悪人と呼ぶことにしよう。ネーミングセンスのなさを気にする必要はない。ただ定着させて、それを広めてやればいい。それが名付け主の特権だ。
「おい極悪人」
「何だいクソ人間」
子供の喧嘩だ。それにこっちのランクけっこう下がってる。
「おい、クソったれ人間」
更に下がった。これ以上どう下がるか気になるところだ。
「俺は極悪人じゃあなーい。俺は管理者だ」
神様と思わせてくれた極悪人は自らをそう名乗った。この船の管理責任者という意味での管理者だろうか。だけど船の管理責任者だからといって地球に船ぶつけるものなのか。
「管理者として君たちを地球の滅亡から救ったんだよ」
地球の滅亡を起こした張本人がどうして被害者の前で誇らしげな顔できるんだ。
「救世主だよ救世主。お前ら救ってあげたんだから崇め奉れつってんだよ。供物を寄こせ!」
お前ら? お前じゃなくてお前ら。アレ、この言い方ってもしかして……いる?
「私以外に誰かいるのか」
こんな奴が真面目に質問を返してくれるか分からないけど聞く。
心配を他所に極悪人は大きな動作で首を縦に振って答えた。
「いるよ。此処とは別の部屋に女の子が一人だけさ」
「本当か!? 会わせてくれ!」
変な空間に極悪人と二人っきりの状況は気づかないうちに精神を摩耗していたらしい。普段なら他人と会いたいと思わないんだけど、今はとても他人に会いたい。
「良いけど。今彼女は魔法少女触手凌辱プレイの真っ最中だから嫌がると思うよ」
「じゃあいいや」
こっちもそんな魔法少女衣装にに触手攻めを足した不健全な趣味の奴と会いたくない。プレイ中に目と目が合ってしまったら反応に困るから絶対に嫌だ。
「嘘だよぉ、マイフレーンド」
極悪人は本気で嫌がる俺を嘲笑いながら言ってのけた。棒読みの英語が腹立たしい。ただ、奴の言葉が嘘だってことは嬉しい。助かったもう一人が物凄い危険で見るに堪えないような思想の持ち主じゃなくてよかった。
別の部屋にいるという助かった女の子は、きっと私と同じようなふざけを受けて地球の消滅を聞いて力を落としていることだろう。女の子だと言うんだから、きっと成人を迎えていないまだ親の庇護にある年齢の子だ。可哀想に、気がつかない間に友人や両親、いるかどうかともかくとして恋人を失ってしまったんだ。慰めてあげたいのだが、極悪人がそれを許してくれるかどうか。
「その子はどうしている? 悲しんではいないか?」
「ああ、悲しんでいるよ。見ててこちらの胸が痛くなった」
じゃあ、なんで地球を破壊したんだ。そうツッコミたくなったが、それをすると今向かうべき会話の流れが止まりそうな気がする。
「あんなに食べることを楽しんでいる女の子からその楽しみを奪ってしまった。世界中の美味しい料理を食べ尽くしたい、とても貪欲で欲求に忠実な子だ」
何だその女。家族や友人よりも飯の楽しみが奪われたことを嘆くなんて。私の心配がとても無駄になってしまった。いや、心配しないで済むということはとても良いことだ。良いことなんだけど……何だろうな、このガッカリ感。
「ああ、心配しなくて良いよ。俺の方でできる限り地球の料理を再現しておいたから、今頃きっとパクパクやってると思うから。お前がそんなに心配する必はないから、そう気を張らないでほしい」
「張らないよ、そんな奴の為になんて」
飯食って幸せになれるならずっとそうしていろ。
女の子のことはもう忘れよう。彼女は食の世界へと旅立った。地球消滅という事実に唯一心を痛め、都合の良いだけの幻想世界に旅立たず残った我が身のことだけを考えよう。
これから先、生き残ってしまった唯一の地球人である私はどうすればいい。この極悪人の庇護の下でのうのうと生きていくのか? それともどこかで第二の地球を作り上げるか?
前者は土下座でもすれば何とかなるが、後者はほぼ不可能だな。極悪人が危険な生物のいない、人間に害のない環境の星を見つけてくれる可能性は低い。いや、例え適当な星を見つけられ、そこに移住できたとしても、男一人でどうやって人口を増やすんだ。唯一の女性は食欲の奈落に落ちて行って、もう会うこともできない。できたとしても、人間と同じ思考回路も価値観も失われているだろう。
「おい、極悪非道で血も涙もないゴミ虫地球人」
「その極悪非道で血の涙もないゴミ虫地球人をほとんど殺害したお前は何だよ?」
「言ったろ、管理栄養士だってな」
「一度も言ってねぇよ」
この極悪人……ぶっとばしてやりたい。
「さて、馬鹿地球人に一つだけ素敵なアフターケアをしてあげよう」
全部お前のせいなのにどうして高圧的な態度なんだ。それと急に貶し方がシンプルになったな。一番効いたよ。
「ふふふ、きいぃて驚くな。なんとアニメとかマンガの世界に転生させてやんよ」
転生。それはちょっとばかしアレな青少年にとって一種の憧れと言われているものだ。転生トラックだとか、神様の勘違いで殺しちゃいましたお詫びに転生させてあげますと言った、非現実的な事象を経て起こる架空のイベントだ。私の場合は天転生トラックならぬ転生隕石と、神様勘違いならぬ管理者の浅はかさで人類滅亡させちゃいました、うるせぇから転生させてやんよになる。個人的に転生できるのは嬉しいが、その転生したことを友達に自慢でいないことは悲しい。
しかしまぁ、極悪人の言ってることだから嘘だな。
「今嘘だと思ったな。俺がそんな管理者に見えるか?」
「それ以外には見えない。見ることができない」
「そっか、認識の違いだな。でだ、転生させてやる。喜べ馬鹿。これでお前は好きなキャラが居る世界で暮らしていけるぞ。もうウホウホだな」
「ウハウハだろ」
ウホウホだと何か嫌だ。不健全な香りがする。
「はいはい、ウハウハね。うるせぇんだよな、日本人って奴は」
「お前絶対地球人だろ」
「はいじゃあ転生させるよ。自分で選んだ道なんだから文句言うなよ」
極悪人は手を叩いて何か唱え出す。転生の呪文っぽく言葉を紡ぎ出しているが、よくよく聞いてみると私に対する文句を小さな声で呟いているだけだった。
よし、殴ろう。はい、殴ろう。今すぐ殴る。
一歩足を前に出す。右腕を伸ばして管理者の首根っこを掴んで引き寄せて殴る――
「危ない!」
「ごふぇ!?」
殴ろうとして、逆に鳩尾を殴られて吹き飛んだ。瞬間的に意識が途切れる。気がついた時には地面にうつ伏せに横たわっていた。壁に打ちつけたのか背中が痛い。
殴られた腹を押さえながら、殴った極悪人を睨み付ける。加害者がやけに遠くに見える。
「危ないだろう。もう少しで殴られるところだった」
一発くらい殴らせろ。成人男性の身体をパンチ一発で五メートル以上離れた壁に吹き飛ばせる力があるんだから、一発くらい平気なはずだ。
極悪人はやれやれと溜息を吐き出すと、養豚所の豚を見るような目で見下ろしてきた。
「呪文の詠唱中に邪魔をするなんて常識のない奴だ。乗り手マスクの変身を邪魔するのと同じくらい駄目。もうお前みたいな非常識人には通過儀礼なんて必要ない。もう転生しろ!」
理不尽な怒りと共に、こちらへと駆けてきた極悪人の全力のつま先が私の顔面を捉え意識を刈り取った。
気がついたら生まれていた。自分の意思とかはまったくなかった。
ふと目を開けたら母親がいた。物心がついたと同時に過去を思い出して、ああこれが転生なのかとすんなり納得して幼少期を過ごした。あっと言う間に小学生になって童心を胸に馬鹿騒ぎしたら、次はもう中学生だった。
周りも小学生から卒業して中学校と名乗る病院に入院した。中学生全員が中二病感染の疑いがあるからであり、病名の通りに中二で発症してしまった。私は元中二病感染者だったが心に抗体ができているから、みんなのようにカッコイイ必殺技を叫んだり、自殺してぇーとベランダから下をのぞき込んだり、だりーのなんのとやる気ない姿勢で生きたりはしなかった。私の頭の中はひたすら現実だけだった。たとえ非現実的な体験をした身であってもだ。みんなが戦々恐々とする高校受験が足音を響かせてやってくると、全員がゆっくりとだが回復して現実と対峙していった。中にはより重度の病にかかる者もいたが、私には何も関係のない話でせっせと受験勉強に明け暮れていた。
高校生としての生活は過去の高校時代を思い出すものだった。懐かしくて、三年という短い期間を有意義に過ごした。友達と馬鹿をやったり人並に二度目の初恋をしたり、とにかく思いつく限りに感情の赴くまま楽しんだ。二年の後半には進路という人生の選択に頭を悩ます友達の相談相手になりつつ、自身の進路についても考えていた。三年になると全員がそれぞれ進路に向けて動き出している中で、私も進学を目指して勉強を始めた。過去の学力と合わさった私の頭脳なら良い大学に入れる。前世の時よりもレベルの高い大学を受験した。
大学生になると高校以上に日々を楽しんだ。かと言って羽目を外し過ぎないように注意はした。部活動に精を出し、アルバイトで生活費を稼いでいった。三年になると、中学高校と同じく進路の決めの時期になってどんな職種を希望するか、その中でどの会社に就職するかに頭を悩ました。こういう時に馬鹿みたいに明るく過ごせれば良いのだけど、就職を考えるとどうしても気持ちが重くなる。特に就職氷河期と呼ばれているほどに就職の難しい時代だ。前世パワーなんてほとんど通じない。唯一前世から持ってこれたのは面接への耐性くらいだ。四年の後半になっても就職は決まらない。同じ四年の女子たちは次々と内定を獲得して気ままに過ごしているというのに、男子はいまだに内定を得るために奔走中。何十もの企業に応募して面接しては落とされる。場合によっては書類審査の段階で突っぱねられる。
どうして女子ばかりが内定を手に入れることができるのかと言えば、昨今の社会の在り方に問題があるからだと言わざるを得ない。女尊男卑が横行しているのだ。
前世においても多少女尊男卑の風潮はあったが、この世界の場合は前世と比べられないほど酷い。道を歩いていると女性にパシリに使われる男性を見てしまうし、何もしていないのに女性が痴漢だなんだと騒ぎ立てれば、対象の男性は事実関係を調べることなく逮捕されてしまう。これは行き過ぎた例であって全員が全員そうであるわけではない。だけど、男性が肩身の狭い思いをしているのだ。
そんな社会に嫌気が差しながらも就活を続け、気がつけば大学を卒業したという実績の生かすことのできない職に着いた。大学の講義のほとんどが使えず、また大学生活の間に取った資格もほぼ役に立たない。必要なものはちょっとした技能と体力と忍耐力の三つだけだ。その中で特に必要なのは忍耐だ。社会人と忍耐は切っても離すことのできない関係だ。離したら倫理も道徳も崩壊してしまう。
就職できたということで私は安心感を得ていた。自分は社会に必要とされている人間だ、定職についてないことで周囲や親に対しての負い目はもうない。後は仕事のコツを掴んで定年まで生きていくだけだ。もちろん前提条件は辞めないことである。辞めなければまずは三年頑張れる。
「よむー!」
背後から声をかけられた。
呼び声に振り返ってみると思いのほか遠くに人がいた。こちらへと駆けてくる。両の手足を元気よく動かして全力疾走する女子生徒だ。白色を基調とした独特の制服がパタパタとはためいている。
「よむーって言うんじゃない、デボラ」
手の届く距離までやってきたデボラに注意する。もう既に十回以上注意しているにも関わらず改善の兆しが全く見られていない。それでも諦めずに言い続けるのには、よむーというあだ名を認めたくないのと、自分よりも十も下の子供に敗北したと思われたくないからだ。たとえ全生徒にこのあだ名が認識されていようともだ。
子供の居る職場。私ががむしゃらに動き回って獲得した就職先だ。子供と言っても幼少期の幼い子供を相手にするようなものではない。また、学校と呼ばれる小社会に初めて足を踏み入れたコントロールの効かない暴走車を受け止める仕事でもない。病気にかかって理解しがたい痛々しい思考に支配されてしまった思春期に現実を叩きつける現実主義者とも違う。
高等学校。通称高校と言われる、初めて強制されることなく入ることのできる教育機関。人生の最初の壁である高校受験を勝ち抜いた者だけが希望の学校へと進学して勉強をすることができる例のアレのことだ。その高校とやらが私の就職先だ。一応言っておくのだが、私は教育者の必須アイテムである教員免許を持っていない。教育実習を経験したこともなければ、そもそも教職の勉強をしたことすらない。
何が言いたいかというと、私は教師として学び舎に足を踏み入れたのではないのである。もちろん生徒として入ったわけでもない。
学校生活の裏方、用務員として高校に就職したのである。学歴なんてそこまで重視されないし、技術系の資格以外は求められない。求められるのは体力と忍耐力とちょっとした技能。一番必要なのは忍耐だ。しかし、私の就職した高校には忍耐以上に必要なものが存在する。これがないと両手がガシャンとなってニュースで報じられる。
ずばり必要なのは清らかな心だ。嘘だ、本当に必要なのは犯罪に傾倒しない強い心だ。
「よむー。今日も盗撮盗聴はしていないだろうな」
「してねえよ」
何故ならこの高校には男子生徒など存在しない女子高だからだ。廊下を歩いても、学食で飯を食べていても、校舎周辺を竹箒で掃いていても、どんな時でも目にするのは制服姿の女の子ばかりである。人はそれをパラダイスと呼ぶだろう。おめでたい奴らだ。この高校はうら若い女子がきゃっきゃうふふしている女子なんてあんまりいない。何故ならこの高校は銃火器や爆発物についての知識を学び、多種多様な格闘術を体得して、ブラックボックスを積み込んだパワード・スーツでぶつかりあうようなことをする場所だからだ。
IS学園。インフィニット・ストラトスと呼ばれるパワード・スーツの運用について学ぶ教育機関の名称だ。
インフィニット・ストラトス。九年前、一人の天才によって生み出された最強の兵器。よく分からない理論で空を飛び、よく分からない原理の不可視のシールドを身に纏い、よく分からない技術の量子変換で何もないところから武器を取り出す。既存の技術を数段進んだ未来技術で編み込まれた未知の存在だ。それも装着者から学び、進化していくとも聞いたことがある。まさしく化け物だ。
その化け物スーツを着込んで戦う戦闘狂達を閉じ込め管理しているのがIS学園という訳だ。場所柄、積極的で手が速くて短慮な生徒が多い。偏差値が凄い高いにも関わらず。
「そうかー、していないのか」
「なんで残念がってんだよ」
「えへへ。よむーが逮捕されて出所した後に、ボクが養ってあげようかなーなんてね。ほら、そうすれば男の尊厳ズタボロでしょ」
「悪魔かお前は」
「おっきい声だすよ」
「有名人になった覚えはないぞ」
「セクハラされたということで叫ぶよ」
「本気でやめろ。冗談で終わってくれないだろうが」
冗談だと分かっているから私はデボラの額を小突いて歩き出す。行き先は用務員室、私の砦だ。
校舎の一階にある職員室の隣の隣の部屋が用務員室だ。部屋の中は教室並に広く偉く待遇が良いように感じられるのだが、如何せん物が多くて実際は狭くて圧迫感がある。チョークやマジックペン、掃除用具、印刷用紙、脚立、段ボール、達磨など、とにかく色々詰め込まれていて困ってしまう。私ともう一人いる用務員はここを拠点に労働に従事しているのだ。
用務員室の入口には掲示板が設けられており、生徒たちからの要請が書かれた紙が張り出されている。電球が切れたとか、椅子が壊れたとか、死んでください(笑)とかだ。用務員はこの要請を受けて行動する。
今日は要請が一つだけ。内容は生徒会室の電球が切れたから取り替えに来てほしいというものだ。
「うわぁ、生徒会からだ。行かなくていんじゃない?」
今日は暇なのかヒョコヒョコと引っ付いてきたデボラ。掲示板を覗き込むと嫌な顔をする。
「仕事だから行くに決まっているだろう」
「いやいや、だって生徒会だよ。あの完璧超人が居座ってるんだから行かなくてもいいでしょ。放っておけば自ずと何とかするって。だから甘やかしちゃ駄目」
「甘やかすとか甘やかさないとかじゃあなくてだな。行かなきゃ職務怠慢だと言われるから行くんだよ。就職するってことは好きな事だけじゃ生きていけないってことなんだよ」
「大人は自分を殺して生きる。なぁーんて惨めな生き物なんだ」
デボラは掲示板に張り出された紙を乱暴に引きはがすとビリビリに破いて自分の口の中に放り込んでしまった。
「おぼろろろぼろぉぉろー」
そしてすぐさま吐き出してしまった。美味しくなかったんだろう。吐き出すのは一向に構わないのだけれども、仮にも女子なんだから幻滅するような音を出さないでほしい。
「掃除しておけよ」
用務員室から箒と塵取り、様々な経験を積んで味の出た雑巾を手渡して生徒会室へと向かった。
「やっほー。ご苦労、よむーさん」
脚立と替えの蛍光灯を担いで生徒会室の扉を開けると、まず視界に映り込んでたのは何かを企んでいそうな胡散臭い笑顔を浮かべた女子生徒だった。
「更識ー、退け」
更識楯無。生徒会長という役割を背負っている一年生だ。どこかの名のある道場の娘さんで武道の心得がある。現生徒会長と生徒会長立候補者とで行われた、生徒会長争奪戦で一年でただ一人立候補して勝利を勝ち取ったほどの実力を持っている。今も生徒会長の座を求める二年生の襲撃を受ける毎日だとか。
性格は明るくて……トラブルメーカーだ。他人を巻き込んで何かと騒がしくする。けっこうやりたい放題して周りを困らせるんだけど、絶対的なカリスマがあるのか誰からも嫌われることはない。得な生き物である。
「で、どこの電気が切れた」
この手の生物には必要以上に関わるべきではないと今までの経験が言っているので、淡々と用件を済ませることにする。
天井を見上げて蛍光灯を見る。どれも元気に光り輝いている。死んでいるものどころか、点滅しているものすらない。
「そうそう。電球が切れてるのは見間違いでした」
更識がテヘペロとしてきた。また騙されたと分かって、そのくだらない表情を泣きっ面に変えてやりたくなった。
「帰る。替えの蛍光灯と脚立は後で用務員室に持ってきてくれ」
「えー、来たばかりで帰るなんて、よむーのいけずー」
「こっちは遊びで仕事してんじゃないんだよ」
「私は遊びで呼びつけました」
「最低だな、お前は!」
いいじゃないですかちょっとくらい、と身体をくねくねさせる更識。とてもキモい。
「実は今日呼んだのはほかでもないんですよ」
「何がどうほかでもないんだ」
「さぁ? 私には何も分かりません」
「お前が言ったことだろ」
「そんなことより大事な話があるんですよ」
大事な話って生徒会長が用務員にか。今までに何度か更識に呼び出されることはあったが大抵は嫌がらせだ。二割の確率で真面な用事ではあったが、大事な話と言われたのは初めてだ。これでまた遊びだったとしたら、二度と生徒会の要望には応えないようにしよう。
「よむーさん」
「うん?」
「貴方に窃盗の容疑がかかっています」
「……うん!?」
更識の言葉に私は耳を疑って、思わず聞き返してしまった。
自分で言うのもなんだが、私はこう見えても真面目に仕事に取り組んでいる。女子高という男が異物とされるような職場で色香に惑わされず、性犯罪やそれに近しい罪を犯すことなくやってきた自負している。ここが私の職場でたとえ見劣りするような仕事内容であっても誇りを持って行う。その決意を以てして生きている中で、私が窃盗なんて犯罪を犯すはずがない。
しかしながら、更識の言葉が真実であるならば何かしらの濡れ衣を着させられたか。だが、私は濡れ衣を被せられるほど誰かに恨まれるようなことはしていない。いや、どんな聖人君子も自分では気がつかないだけで恨まれるようなことはある。同じように知らないところで私が誰かの恨みを買っていることだってあるだろう。
だとしても恨まれるほどの有能な人間ではない。私がそんな才能溢れるような人種ならば、こんなところでくすぶってなどいないで、どこかの名のある会社でバリバリ働いている。ああ、誤解してほしくないが、私は今の職場でもバリバリ働いている。手を抜いてなどはいない。
犯人ではない。自分でそう断言できる。だから、私が今やらなければならないことは然るべき場所で無罪を訴えることくらいか。無罪証明の為に犯人捜しをするべきなのだろうが、私にそんな捜査力も推理力もない。だからその手のことはその道のプロにお願いしたい。
いやいや、待てよ。下手に警察沙汰になると、新聞やニュースで名前が挙げられてしまい、たとえ無実であっても社会的に殺されてしまう。私の尊厳が傷つけられる。無実かどうかは問題じゃない。容疑がかかってしまうだけで、社会は個人を淘汰してしまうものなのだ。
よって警察の介入は全てが明らかになった後にしてほしい。今は内部で事件を解決すべきだ。
とにかく、やるべきことは私が無実であると証明することだ。なに、そこまで気負う必要はない。彼らはこのとても高い偏差値を誇る名門高校で教鞭を振るう教師たちだ。何処から出たのかも分からないような情報にむやみに騒ぎ立てるなんてことはない。私の無実はすぐに証明される。
私は更識に別れを告げて出番のなかった脚立と替えの蛍光灯を片付けに用務員室へと戻った。それから行き先を教員室へと向けた。
広い教員室には各教科先生方が顔を揃えていた。ほとんどが女性でその中に男性教師は一人しかいない。それも美形。
私が部屋に入るとガタンという席を立つ音と共に全員がこちらを振り向く。一斉に振り返られるとビックリしてしまう。
「ようこそ、犯罪者」
教員の中で古株と呼ばれるような女性が両手を広げて歓迎する。すろと私の背後で扉がぴしゃりと閉まる。
これはもしかして弁解の余地も与えてもらえないかもしれない。
「最低ですよ」
比較的若い教師が指をさしてくる。それを皮切りに次々と飛んでくる誹謗中傷。どれも容赦がない。
「ちょっと待ってください!」
「待たない!」
私の言葉は一蹴されてしまった。
このままでは心を破壊された挙句に社会的に破滅させられてしまう。
考えてみれば自分に被せられた濡れ衣がどういうことかを知らない。更識からは窃盗としか聞いていない。何を盗んだのかを知らないまま私は敵地に乗り込んでしまったのだ。
「静かに!」
罵詈雑言に心をズタズタにされ続けていると、どんな罵りよりも大きく有無を言わせない声が場を支配した。救世主の登場だ。救われた思いで声の主を見ると、こちらを犯罪者呼ばわりした古株教師だった。そこに救いはなかった。
「そう一方的ではいけませんよ。彼の言い訳にも一応耳を傾けなければ」
一応って、それは弁解とは取ってもらえないってことですよね。ただの悪あがきとしか認識してもらえないってことですよね。ふざけるんじゃない。
「では、弁解をどうぞ」
ニッコリと笑う古株教師。目は一切笑っていない。
「えぇ……私は何の罪でこうも罵られたんですか?」
「女子生徒のブルマを盗んだ最低の罪ですよ」
最悪な濡れ衣だ。女子校においては特に不味い濡れ衣だ。
「聞いてもらえるか分かりませんが、私はそのようなことはしていません」
きっと聞き入れてはもらえまい。これは痴漢をしてないと無実を証明するのと同じくらい難しい。いや、物的証拠さえ見つからなければまだ勝機はある。無実だと証明できる。
「犯罪者はみんなそう言いますよ」
「ごもっともです。しかし、やっていない以上こう言う他ありませんよ」
「そうね。でも可能性的には用務員さん、貴方が一番怪しいんですよ」
古株の教師が諭すように言う。しかし私は諭されはしない。なぜなら、納得できない言葉を聞いてしまったからだ。これは見逃すことはできない活路だ。
「確実ではなく、可能性だけで犯罪者扱いですか。それはちょっとおかしいですよ」
「わたしも根も葉もないようなことで疑ったりはしません。他の男性職員を調べて疑う必要がないと判断していきました」
「そうだ。よって残ったお前が怪しいという訳だ」
古株の教師の言葉を引き継いで織斑が言う。
織斑千冬。ISの世界大会優勝者にして世界最強の称号を持つ教師。新入生にとても人気がある。
鋭い視線は刀のようで、睨まれただけで首に刃を押し当てられた錯覚をしてしまう。ここで視線を逸らせば切り殺されるんじゃないだろうか。
「つまり、轡木さんも多岐先生も日野畑先生も無実がきちんと証明されたってことですか?」
うっ、と苦しそうな音を漏らす織斑。この反応からすると完全無欠な無罪証明はしていないのだろう。
「そうですねー。轡木さんはもう枯れているでしょうから、今更小娘のブルマに反応しないでしょうから除外ですぅ」
中堅どころのぶりっこ教師がフォロー……フォローで良いのか分からないけど割って入ってきた。そして、これでもかと轡木さんを馬鹿にした。
ちなみに轡木さんは私と同じ用務員だ。年齢については詳しく聞いていないが、私よりも二回り以上は年上だと思われる。そんな人生の先輩をぶりっこ先生は容赦なく叩いた。本人がこの場にいないのをいいことに。
「多岐先生はイケメンだからー、そんなことはしないとおもうんですよぉ」
多岐先生はこの学園に二人しかいない男性教師の一人で超がつくほどのイケメン教師だ。私よりも二つほど年上でありながら、教育者として良くできた人で生徒たちからはとても好かれている。
うん……イケメンって何においても疑われないのか。こんなことならイケメンに生まれたかった。
「日野畑先生はキモオタっぽいしー、ああいうのはアニメしか興味ないでしょー」
日野畑先生は四十代前半の男性教師だ。少々たるんだ身体とカエルを思わせるような顔から、女生徒にキモメン先生と呼ばれている。生徒たちから好かれるような人ではない。でも、疑われていない。いいな、イケメンじゃないのにいいなー。
「って、どれもこれも可能性が残ってるじゃないか!」
「あ、バレましたぁ?」
「うぉおい!」
ぶりっこ教師の衝撃発言に思わず手近のデスクを蹴ってしまった。それほどまでに理不尽に晒されて怒りをため込んでいたのだ。詰め寄って色々と聞きたいことができたが、世間は女尊男卑の風潮が多少強くあるので下手に動くことができない。手を出せば一発でお縄だ。
「じゃあ警察呼びますね」
ぶりっこ教師の隣で綺麗所の榊原先生が携帯を取り出した。まだ何も納得も解決もしていないというのに。
「まて!? 早まるな!」
三つのボタンを押せば警察なんて簡単に呼べてしまう。社会的危機に黙ってはいられない。
「ふん。往生際が悪いぞ」
やれやれと溜息を吐き出して織斑がゆっくりと近づいてくる。
やられる。直感的にそう理解して私は背後の扉を全身全霊の体当たりで破壊した。
「なっ!?」
扉と共に廊下に転がる。扉にぶつけた部分に激痛が走るが今は気にしてられない。追手を差し向けられる前にこの場を離脱した。
廊下を走る。逃走ではない。この状況を打破できる力を持った人間に会いに行くために走っているのだ。何を言われようと決して逃走ではない。
向かう先は二年二組の教室。そこに俺を助けてくれるであろう人物がいる。
二年二組の教室にたどり着くと、配慮とか考えずに力一杯扉を開け放つ。
「
教室内を見渡しながら名前を叫ぶ。中にいた数名の生徒がきょとんとした表情をしている。どうやら広場はここにいないようだ。これでは教師の追跡を逃れながら探すというとてもリスクのあることをしなければならない。アイツが行きそうな場所に当たりをつけて、パッと見つけなければならない。
できるか、そんな都合よく。いや、できるかどうかの問題じゃない。やらなければ私の社会的地位は崩壊してしまう。刑務所行きだ。刑期を終えても犯罪者のレッテルを貼られて生き辛い人生になってしまう。
こうなったら一か八かの賭けだ。広場の名前を連呼しながら走り回ろう。そうすれば広場の方から来てくれるかもしれない。この際恥も外聞も捨てる。醜聞を垂れ流されても構わない。
深く深呼吸をする。これから雄叫びをあげながら全力疾走するのだ。何度も深く深呼吸を繰り返して決意を固めていく。
いざ、第一声を上げようと息を吸い込む。後は言葉と共に吐き出すだけという時に肩を叩かれた。この決意のスタート・ランを邪魔するのは誰だ、と背後を振り返る。
「…………」
不敵な笑みを浮かべた女子生徒がいた。
私は危機的状況が見せた幻覚だと思ってぎゅっと目を閉じた。暫くしてから目を開けてみても、目の前から女子生徒は消えていない。
私は自分の決意が空気を伝わって想い人に届いたのだと思った。神は私を見捨ててはいなかったのだ。こんなに神に感謝をしていいかな、と思ったことはない。
「広場!」
「ハロハロォー」
広場は肩を叩いて応じてくれた。
そして今、私も広場の情報を頼って泣きついているというわけだ。
「よむー。貴方も大変なことになっているね。いわれもない窃盗の罪で責められるなんて。だからと言って大声でオレの名前を連呼しながら走り回ろうとするのはやめてもらいたい」
広場は口元だけニタリと笑った。
「ああ、大丈夫だよ。オレに分からないことなんてないからね。この窃盗事件の犯人をしっているし、被害者の名前も知っている。さらに言えば被害者のブルマがどう使用されたのかも知っているし、犯人が気持ち悪いくらい興奮していたことも知っている。そう、オレに分からないことなんてないんだよ」
「よし、じゃあ犯人を教えてくれ。もしくは俺の冤罪なんとかしてくれ」
「どちらも構わない。ではとりあえず冤罪を生み出している聖職者の巣窟に向かうとしよう。後少ししたら、警察に連絡するようだからね」
警察に連絡するとは穏やかな話じゃない。すぐに職員室に戻る必要がある。だけどもう焦らなくていい。こちらには教師の敵である広場点子がいるのだから。
「点子、頼む」
「ああ。任せてくれよ、よむー」
広場は自信満々にサムズアップしてくれた。これほど頼りになることはないと思った。
「ハロハロォー、先生方」
破壊されて風通しのよくなった職員室に入るなり、点子はニタリと笑って挨拶をした。
「広場点子!?」
広場を見るなり古株の教師が驚愕の表情を浮かべる。学園一の問題児にして校内一の成績を誇る生徒の登場に周りがざわつく。この反応からして広場は教師たちからはまったく歓迎されない人間なのだと改めて思った。
歓迎されていない張本人である広場は意に介さない。一番近くにあるデスクへと向かい、上に乗っかった様々な書類やコーヒーが入ったままのマグカップを払い除けてそこに座った。マグカップは床に接触してガシャンと割れて破片とコーヒーが飛び散った。誰かの悲しそうに喘ぐ声が聞こえてきた。広場は引き出しを外して中身をコーヒー塗れの床にぶちまけた。蚊の泣くような喘ぎ声が聞こえた気がした。
「ふう。いい汗かいた」
「最低だな、お前」
「そうか、オレは最低か。じゃあ、帰ろう」
「申し訳ございません。さきほどの行動はとても素晴らしいものでした」
土下座して謝ると、頭上から苦しゅうない、と言葉を投げられた。人の足元見やがって。
「話は聞かせてもらったよ」
「まだ何にも話していないのだけれども」
古株の教師の言う通りだ。まだ何も中身のある話をしていない。
「ブルマ窃盗事件。卑劣な犯行と、こんなみすぼらしい用務員に罪を擦り付ける卑怯な行い、お天道様が許しても警視庁捜査一課は許さない」
日本の社会なんてそんなものだろ。お天道様なんてそんな不確かなものが罰してくれるわけない。ていうか、真面目に話してくれないか、広場。私の人生がかかっているんだ。あと私はみすぼらしくない。
「今回の事件。馬鹿で愚かな先生方は誤認逮捕をしようとしている」
「馬鹿ではありません。言葉が過ぎますよ、広場点子」
大人の対応をする古株の教師。愚かを否定してないけど、もしかして自覚があるのだろうか。
「いいや、過ぎてない。何故なら犯人は織斑先生だからですよ」
はい?
思わず顔を織斑の方へと向ける。織斑は突然のことにいつもクールさを失ってポカンとしている。周囲も驚きの表情で織斑を見ている。
「何を馬鹿なことを」
「馬鹿ではない。確固たる証拠があるんだよ」
「証拠だと?」
「はい。風のうわさで織斑先生が女性が好きだって聞いたもので」
「え!? そうなんですか、織斑先生!」
新人の教師が声をあげる。確か山田先生だったか。
「ち、違う」
「おんやぁー、何か切羽詰まってますねぇ、織斑先生」
「まさか、織斑さん。貴女、本当に女子生徒のブルマを」
「えぇ!? 千冬ちゃん駄目だよぉ。教師としてそれはやっちゃいけないよぉ」
「違う! 違うだ!これは広場の嘘だ!」
年上の教師に敬語を使うのも忘れるくらい切羽詰まる織斑。必死に弁解をしているが、大勢の非難の声にかき消されて意味をなしていない。さっきまでの私と同じような状況だ。
ふと、広場の方を見ると愉快そうなに笑っていた。悪魔だ。