緑谷出久(現在は爆豪勝己が中身である)の勤務する中学校に、文化祭の季節が迫りつつあった。
「じゃ、今日はここまで。あんま夜遅くまで残るなよ」
は~い、というあまり誠意の感じられない返事を教室中から受けつつ、放課を告げる勝己。普段なら下校したり部活動に行く生徒たちも皆、教室に残って作業を始めようとしている。
その様子を一瞥して教室から出ようとすると、「先生!」と追いかけてくる少年の声があった。
「ンだよ、引きこもり?」
「ちょっ……もう学校来てんじゃん!毎日!」
「たりめーだろ。俺にあそこまでさせといて来んかったら殺……ぶっ飛ばす」
「言い直してもあまり変わんないからね……それ」
呆れ顔で突っ込む少年の名は、宇佐見駿。"緑谷先生"の受け持つクラスの生徒だが、先日まで不登校だったのは間違いない。根本的な問題は解決していない──怪我なので勝己をもってしても解決しようがない──なかで、今ではすっかり快活に学校へ来ている。ライバルの求めに応じてか、時折は陸上部にも顔を出しているようだった。
「で、なんか用か?」
「あ……はい。──緑谷先生、活真さんの連絡先って知ってますか?」
「……活真の?」
それは勿論、知ってはいるが。
「あいつに礼でも言いてぇんか?」
「はい!あ、でもそれだけじゃなくてっ」
「文化祭、来てほしいな……って」
駿の頬に、ほのかな赤みが差す。彼を立ち直らせる、その最後のひと押しをしたのはまぎれもなく勝己だった。しかしファーストコンタクトで失敗を犯すという喜劇にもならない状況下、活真の存在が彼も心を解きほぐすうえで大きかったのは認めざるをえない。
「じゃあ、おまえがそう言っとったとは伝えとく。来るかは知らんけどな、あいつも忙しいし」
「あざっすっ」
嬉しそうにはにかみながら頭を下げる少年の姿は、なかなかにかわいいものだと勝己は思う。他人にああだこうだ教える、ましてそれを生業にするなんて奇特にも程があると思っていた勝己だったが、これがなかなかどうして面白いと感じるようになっていた。
教室に帰っていった駿を見送り、自らも職員室に戻る。既にホームルームを済ませた同僚たちが、それぞれのデスクで事務作業に勤しんでいる姿が目に入った。釈然としない話だが、教師がほんとうに忙しいのは授業が終わってからなのだ。
「お疲れ様です、緑谷先生」
自席に着くや、女性教諭の南が茶を淹れてくれる。もともと世話好きな性質なのだろうが、年下の出久に対してはそれがより熱烈に発揮されるらしい。中身は彼女が苦手と言った、ヒーロー爆心地なのだが。
「宇佐見くん、すっかり立ち直ったみたいじゃないですか。先生の努力、実りましたね!」
「……別に、大したことはしてないですよ」
「あはは、謙虚なのは変わらないですね」
謙虚──生まれてこのかた、これだけは言われたことのない褒め言葉だった。そんなの出来て当たり前、実際そうなのだからそのままを口にすれば、傲慢だと謗られる。それを憂えたことなどないが、あるがまま振る舞って受け入れられるのは悪い気分ではない。
「南先生のほうは、どうなんすか」
「え?」
南の表情に一瞬翳が差したのを、勝己は見逃さなかった。
「私は……楽しくやってるつもりですよ。ちょっとした問題児はいますけど、根っこから悪い子ってわけじゃないですし。……でも、」
そのときだった。──不意に、勝己の携帯電話が鳴ったのは。
「……失礼」
話が気にかかりはしたが、発信者の名を見て即座に席を立った。
職員室を出、人のあまり出入りしない職員用更衣室に滑り込んで受話する。
「──俺だ、どうした?」
『お疲れ様です、爆心地』相手は活真だった。『落ち着いて聞いてください。……死柄木弔が、脱走しました』
「……!?」
落ち着いてと前置きされても、その報告は一瞬頭の中が真っ白になるようなもので。
「……どっちの死柄木だ」
『はい?』
「身体か、
『……逆に訊きますけど、自分の姉がどっか行ったのを脱走って表現すると思いますか?』
尤もなことを言う。
「チッ……監視の女刑事は何やってンだ」
『それが……三人で家事を手分けしてる最中だったと』
「……アホかよ」
ヒーロー至上主義もいい加減に修正しないと、警察の陣容はお寒いものとなる一方だ。自身が英雄の象徴となりつつあることを棚に上げ、勝己は真剣に今後の社会の在り方を憂慮していた。
『僕と烈怒頼雄斗で迎えに行きますから、そこに居てください。もしかすると、今度こそあなたを狙ってくるかもしれない』
「ッ、……わぁった」
本来なら返り討ちにしてやると息巻くところだが、今はこの身体である。今は活真の言う通りにするしかなかった。
(死柄木の野郎……なに考えてやがる)
あの狂人の考えることなど、わからないしわかりたくもない。常々そう思っていたけれど、この入れ替わり事件を端緒に深く接した彼は以前とはまったく変わっていた。若い時分にある種の情熱をもって築き上げた組織も、それと引き替えに酷使したであろう肉体も衰え、すっかり現実に疲れ果てていた。人間である以上、緩やかな磨耗には堪えられない──自分も、彼も。それだけのこと。
そんな姿を見続け、彼に対する敵意も萎えつつある。今がどうであれ、過去にあの男が仕出かしたことは絶対に赦せないというのに。
「は、………」
詰めた息を吐き出しつつ、職員室に戻る。と、同僚の男性教師が歩み寄ってきた。
「緑谷先生、なんかお客さんが来てるよ」
「……お客?」
「ああ。……隅に置けないねえ」
「?」
いつも軽口を叩いている印象の強い教師だが、今日はやけにニヤついている。ふと南女史のほうを見ると、彼女は彼女でなんとも形容しがたい表情を浮かべていて。
怪訝な思いで隣接する応接間に入ると、そこには。
「……てめェ……!?」
「よう、──ミドリヤセンセイ?」
堂々たる座りぶりで片手を挙げる、島乃真幌……の姿をした死柄木弔がそこにはいた。
「これが中学校かぁ。同じ学校でも雄英と違って手狭だね、セキュリティもがっばがばだしさ」
彼の言葉など、勝己の耳には入っていなかった。ひとまずは部屋の扉を鍵ごと閉めてから、詰め寄る。
「てめェ、脱走してまで何しに来やがった……!」
「え~?カレシにぃ、会いに来ちゃダメなのぉ?」
「真幌はンなくねくねしねぇんだよ……!」
「いや知ってっけどさ」あっさり素に戻り、「大したことじゃないんだけど、ひとつお願いがあって」
「お願いだァ?」
警戒心を剥き出しにする勝己に対し、死柄木は恥ずかしそうに微笑みかけた。
「──また、呑み連れてってくんない?」
*
それはまったく不合理な"お願い"だったし、聞き届けることも勝己にとっては不合理の極みだった。何しろまったく旨味がない。罠の可能性だってあるし、万にひとつそうでなかったとしても監視を抜け出したヴィランと仲良く酒を呑んでいたなど大目玉を食らうに決まっている。だいたい、コイツは憎むべき仇敵であって──
なのになぜ自分は、わざわざ仕事を超速で片付け、その仇敵と大衆居酒屋で向き合っているのか。
「んじゃ、かんぱ~い」
「………」
封切りに注文した生ジョッキが目の前に差し出される。ここまで来ればもう是非もなしと、自身のジョッキを軽くあわせる。
「ぷは~っ!この身体で飲み食いすると、なんでも美味く感じんだよなァ」
「………」
「あれ、呑まないの?」
乾杯には付き合った勝己だが、ビールには口をつけていなかった。
「……俺を酔わせてどうこうする気かもしれねえからな」
「え~、まだンなこと言ってんのぉ?」お通しに箸をつけつつ、「……ま、しょうがないか。きみらにはそれだけのことしてきたもんな」
愁いを帯びた表情で、つぶやく。真幌の姿かたちとはいえ、こんな死柄木の表情と言葉を目の当たりにすることになるとは。
「信じてもらえないだろうけど、俺、この前きみとデートしてほんとうに楽しかったんだよ。特に酒呑みながら他愛もない話するのって、なんだろうね、自然に笑えるんだよ」
「……ンなの、自分のお仲間とやりゃあいいだろ」
「その仲間を捕まえたのは誰だよ?」
「捕まるようなことすんのが悪ィんだろが」
「他人様を傷つけたからって?ははっ、まあそうだよな。……でも俺らだって傷ついてるし傷つけられてる、お前ら正義振りかざしたヒーローにね。そんな俺らのことはさァ、誰が救ってくれるの?」
「………」
勝己は答えられなかった。以前なら「知るか」と突き放していただろう。しかしNo.1ヒーローとしての在り方を考えている今、この途方もなく不幸な男をただ拒むだけで良いのか。……こんな気持ちになるのは、初めてだった。
「……ま、今さら言っても詮無いことか。良いんだ、もう底は見えちゃってるし」
「……底?」
「若い頃さァ、最新機器使いこなせないおっさん見てバカにしたことない?」
「もう酔ってンのかよ……話に脈絡ねえぞ」
コイツは話が通じないようでいて、意外と理路整然としている……なんて、思ったこともあるのだが。
「いやさ、今の俺はまさしくそれなんだよ。ヴィランとしてもひとりの人間としても、もうすっかり時代に取り残されちまってんだ。身体も衰える一方だし、ここから昔のように大きなことを成し遂げるなんて夢のまた夢。一方できみには、まだ先がある。いやもっと歳とって先がなくなっても、それはそれで悠々自適なくらしが待ってるんだろうね」
「何が言いてぇんだよ、さっきから」
「はは……」
ビールをぐいと煽って、既に顔を赤らめはじめた死柄木は告げた。
「足、洗おうかと思ってんだ」
*
それは唐突なようであって、その実思うほどの衝撃を勝己にもたらすことはなかった。死柄木が現状に倦んでいることは、これまでの言動から明らかだったので。
「じゃあ、出頭すんのか?」
「ははっ、まさか」
案の定の反応だった。足を洗うとは言っても、罪を償うなどとはひと言も言っていない。
「でももう、ヴィランはやめだ。幸い資金はまだあるし、顔変えてどっかでのんびり暮らすのもいいかなーって」
「……そーかよ。歳とっちまったな、お互い」
深々ため息をつくと、勝己も意を決してビールを煽った。
「今のてめェ見てたら、なんかもう、憎むのもアホらしくなったわ」
「お~、じゃあ今日から俺らオトモダチだ!いや恋人かな?この身体だし」
「好きになったとは言っとらんわ、ボケナス!!」
「つれないコト言うなよなァ、二十年来の付き合いじゃんか」
「ろくな付き合いじゃねーだろが!」
減らず口を叩きあいながら、遠慮のなくなったふたりはぐいぐい酒を流し込んでいく。互いの身体は元々それなりに酒を嗜んでいたようだったが、ペースが速まれば酔いも回る。
そうして気分が盛り上がった頃合いに流れてきた店のBGMに、ふたりは反応した。
「!、あっ、この曲ガキのころによく聴いてたぁ~~」
「おー、ウチもオヤジがよく車ン中で聴いとったわ」
「まじィ?俺ら、案外趣味合ったりして!ははははー」
リズムに乗って身体を揺らしはじめる死柄木。その姿を見ていたらば、勝己も勝己で歌いたい気分になってきた。──と、店の片隅に立て掛けられたギターが目に入る。
「っし!親父ィ、ギター借りっぞ!」
カウンターから「喜んでぇ!」と快諾が返ってくる。チェーンの居酒屋だったらこうはいかない。
「爆豪くんギター弾けるのぉ?すごいすごーい!」
ホンモノの女子のようにきゃっきゃはしゃぐ死柄木に、勝己はギター片手にニヤリと笑いかけた。
「たりめーだ。おい死柄木ィ、歌え歌え!」
「お~~!」
歌い出す死柄木。うろ覚えなのか妙にふにゃふにゃしているが、勝己や周囲の中年客たちが続々と合唱に加わり、そんなことはあっという間に些末な問題となった。
さほど広くない店内が、夜の暗闇を吹き飛ばすような朗々とした空気に包まれる。
このときばかりは、彼らはワン・チームとなっていた。ヒーローもヴィランも一般人も、互いに互いの素性を知らないのだから関係ない。嵐のような一体感が、すべてを支配する。
理由のない熱狂がいよいよ最高潮に達した頃、新たな来訪者が暖簾をくぐった。
「バクゴー、いるか……うおっ!?」
「エキサイトしてますね」
素面どころか連絡の途絶えた勝己を必死になって捜して、目撃情報からやっとここを割り出した切島と活真は、目の前の光景に呆気にとられていた。
店内全部が一体となって盛り上がっているのもそうだが、何しろその渦の中心にいるのが仇敵同士であるはずのふたりなのだ。姿かたちは異なるとはいえ命のやりとりをしていたヒーローとヴィラン、彼らが楽しそうに同じ曲を歌っている姿。
「何がどうなってんだ……?」
「………」
輪の中にずんずん踏み込んでいくには胆力が足りず、立ち尽くすふたり。しかしJ-POPの一曲が終わるまでの時間など五分ほど、終わりは程なく訪れる。
歌声がやみ、遅れてギターの演奏がやむ。一瞬の静寂のあとで皆が惜しみない拍手を勝己に送り、彼は得意満面となっていた。その隣では死柄木がピースサインを振り撒いている。
と、ようやく彼らが切島たちの存在に気づいた。
「んおぉ、なんだてめェらぁ!ンなとこにボーっと突っ立ってんじゃねえよォ、なァ死柄木ィ?」
「オッスオラ略してしむら!」
「なに略したか言えや、ひゃはははは!!」
ダメだコイツら、すっかり出来上がってやがる──思わず天を仰ぐ切島。と、傍らの活真がゆっくりと彼らに歩み寄っていった。
「おら活真ァ、おまえも呑め呑めぇ!!」
「……失礼」
「あ?」
訊き返そうとした勝己が見たのは、ふたつの拳を振り上げる活真の姿で。
──刹那、居酒屋に鈍い音がふたつ、響き渡った。